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2017年8月13日 (日)

『日本文学者』…戦時下だからこそ直木賞の候補作にも選ばれた、一種の盲点。

『日本文学者』

●刊行期間:昭和19年/1944年4月~昭和21年/1946年3月(2年)

●直木賞との主な関わり

  • 中井正文(候補1回 第20回:昭和19年/1944年下半期)

 8月なかば、夏まっさかりの日本です。となれば、やはり戦争にからんだハナシでもしないと、収まりがつきません。

 ……ということで、今週の同人誌は『日本文学者』です。

 仲がいいのか悪いのか、まるで違う志向性をもった数多くの文学青年(と、少しの文学女子)たちが、無理やりのように集められ、みんなで団結すれば絶対に勝てるんだ!と、ほんとに信じていた人もいるでしょうけど、懐疑的な人だっていたにちがいなく、それより何より、「へこへこと体制に追従しなきゃいけない、そんなことまでして文学やりたいのか?」と、きっと自問自答で苦しんだはずのところ、それでもいいから小説書いたり、批評したりしたいんだよお、と同人誌活動をやめることのできなかった人たちの、悲しみの詰まった非営利な雑誌。『日本文学者』です。

 ものの本によりますと、昭和15年/1940年12月、主に同人誌で書いていた人たちが〈日本青年文学者会〉という名前の組織に集められ、その流れから、昭和17年/1942年1月、東京周辺で刊行されていた同人誌のうち、55誌が統合したり、学内雑誌に吸収されたり、廃刊になったりして、結果8つの雑誌に減らされます。『文芸主潮』『辛巳』『正統』『文芸復興』『新文学』『新作家』『昭和文学』『青年作家』(のち『小説文化』)です。じっさいのところ、日本青年文学者会の自発的な措置、ということになっていますが、もちろんそんなことはなく、大政翼賛会文化部、情報局、警視庁という3つの組織からの圧で、仕方なしにまとめさせられたものです。

 そのうち『文芸復興』の切り盛り役を担った妻木新平さんは、戦後になって「日本青年文学者会――戦時下若い作家たちの生態――」を『碑』に連載しました。数々の資料、メモ、内部にいた人からの実感などで構成された、妻木さん最後の大仕事、ともいうべき回想録ですけど、たとえば『碑』13集掲載の第7回には、妻木メモによる、これら8誌の発行部数が記録されています。

 『文芸主潮』1500部、『辛巳』1000部、『正統』700部、『文芸復興』1400部、『新文学』2000部、『新作家』1000部、『昭和文学』1200部、『青年作家』1200部。

「創刊号からその配給会社(引用者注:配給元の日本出版配給株式会社)を通じて、一般書店の店頭にもわれわれの雑誌はならべられたのである。爾来、昭和十九年二月までの二ヶ年間、これら内容外観共同じ八つの文芸同人雑誌が、時を定め、毎月一つせいに発刊され店頭にすがたを見せつづけたのである。八誌とも三種郵便の認可をとり、有料広告原稿をとって……。売上げも相当の成績があがつた。はげしい戦時下によくも……と思う反面、戦時下なればこそ又それが可能であったのかもしれない、この逆説も成りたつかもしれない。一種の盲点だつたようにも思われる。」(『碑』13集 妻木新平「日本青年文学者会(七)――戦時下若い作家たちの生態――」より)

 へえ、けっこうよく売れたんですね。さすが「国家公認」の威力なのか、何でもいいから活字を読みたい人たちの、読書熱のなせるわざなのか、詳細はわかりませんけど、妻木さんが「一種の盲点だった」と感想を抱いているので、そういう面もあったんでしょう。

 上記の8誌体制は、芥川賞のほうでも第15回(昭和17年/1942年・上半期)以降の、候補作の並びに影を落とすことになって、倉光俊夫さんの「連絡員」という受賞作も誕生。同人誌といえば、たいがいは純な文芸を目指すものらしいので、まあ芥川賞に影響が出るのは自然だろうな、と対岸から見物するしかありません。直木賞のほうでは、かつて第12回(昭和15年/1940年・下半期)の候補になった『麦』の古澤元さんが『正統』の中心人物となったことが、めぼしい活躍といえるぐらいで、ほかに直木賞の付け入る隙は見られませんでした。

 ところが、このままで終わらないのが、平時じゃない時代の奇怪なところ。……といいますか、文学賞っていうのは、平時であろうが、およそ奇怪なイベントかもしれませんが、しかしその後の展開は、やはり「奇怪」というしかありません。

 奇怪さを演出することになったのが、8誌体制の崩壊です。昭和19年/1944年4月にいたって、『日本文学者』という、たった1誌に統合させられてしまいます。

           ○

 8誌が1誌になろうが、どうであろうが、日本青年文学者会というのはやはり、純文芸を狙った人たちの営為ですので、『日本文学者』についてもまた、語られるのはだいたい芥川賞との関連性です。

「芥川賞受賞者一覧を通覧して見ると、「該当作なし」の項を除いては、昭和二十年から昭和二十三年まで空白になっているのに気付くであろう。この空白が始る最後、すなわち昭和十九年下半期の受賞者は、清水基吉の「雁立」であった。この作品は、『日本文学者』第一巻第七号に掲載されたものである。また、この年度の上半期には二人の受賞者がいた。八木義徳小尾十三であった。作品はそれぞれ「劉広福」と「登攀」だ。「劉広福」は『日本文学者』創刊号に掲載されたものであった。こうした実態から見ても、本誌は戦中文学の研究対象として逸することのできないものであることが容易に知られよう。」(昭和55年/1980年7月・荒竹出版刊 武田勝彦・著『戦中・戦後の文学と文壇』「第二章 戦中文学論 ――『日本文学者』を中心として」より)

 と、ここに載ったものから二期連続で芥川賞に選ばれた、ということが、なぜ「戦中文学の研究対象として逸することのできない」につながるのか、いまいち理解に苦しみますが、当時の『日本文学者』本誌を覗いてみると、やはり「芥川賞」の文字が、自然なかたちで出てきます。

 北方の戦場にあったらしい小西猛さんから、対馬正さんに宛てて送られてきた「戦線通信」の一節です。

「「日本文学者」の活動を希つてをります。芥川賞や一葉賞、新潮賞なども「日本文学者」から出ることでせう。ではこれで。」(『日本文学者』昭和19年/1944年11月号 小西猛「戦線通信」より)

 戦場に行った人が、現地でみずからの文学への関わり合い方を思い出したり、懐かしがったりするのは、「文学」の力かもしれませんが、そこに文学賞のことまで書かせてしまうのは、果たして文学の力と言えるのか。じっさい戦時下にあっても、ある一部の人たちの心に巣食って絶えることのなかった「文学賞」の、しぶとい魅力が、こういうところにも現われていて、もしかして、それだけで『日本文学者』が刊行されつづけたことの意義があったかもしれません(……ってそんなわけないか)。

 でまあ、当然といおうか、こういう人たちの目線の先にある文学賞は、芥川賞、新潮社文芸賞(の第一部)あたりに限られます。昭和19年/1944年11月号に「寒菊抄」を投稿した中井正文さんも、まさか自分の小説が、直木賞の候補になるなんて、想像もしていなかったでしょう。

 ものの本によると(ってコレばっかりですが)、中井さんは東大に在学していた頃、五高の後輩、梅崎春生さんをはじめ、檀一雄さん、織田作之助さん、太宰治さんなどと交友関係があり、昭和13年/1938年に『中央公論』の「知識階級総動員懸賞原稿」募集に投じた「神話」が入選第二席に選ばれたり、また同人誌『風土』に参加するなど、純文芸寄りの道を歩いていました。それがうっかり、全土で発行されている雑誌の種類が少なくなり、「直木賞が相手にする大衆文芸」の枠がほぼ壊滅状態になった昭和19年/1944年、『日本文学者』に、ちょっとわかりやすくて、微妙に文学的に凝った文章で綴った小説を発表したもんですから、梅崎さんや檀さんより先に、直木賞の候補に選ばれる、という奇怪な事態の主人公になってしまいます。

 「寒菊抄」というのは、昭和18年/1943年から翌年にかけての、広島の女学校を舞台に、飛行機建設の資金を自分たちの手で集めようと決意して、募金のために街角に立つ女学生たちの純真な思いと、それに感銘を受ける教師の姿が描かれるという、右傾エンタメ(とは誰も呼びそうもない)で、内容的には明らかに、中井正文さんの黒歴史と言ってもよさそうな、戦争協力に共感の意を示した一作です。

 えっ、なんでこれが直木賞の候補作なの? と正直思います。直木賞候補に挙がったことは誇れるかもしれないけど、コレが候補作になったことは、さすがに誇れないんじゃないか、と思うしかなく、あまりに候補作選びに難航するほど、雑誌の数が少なくなった状況下、こんなところに目をつけてきやがった直木賞の、その雑食な精神を怨むしかありませんが、しかし中井さんの「寒菊抄」は、歴代直木賞候補一覧に、はっきりと刻印されてしまいました。

 妻木さんのいう「一種の盲点」が、ああ、こんなところにも……ってことかもしれません。

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