『文学街』…文学賞ごときで、反逆児の文学熱は動揺しない……ものなのかどうなのか。
『文学街』
●刊行期間:昭和32年/1957年6月~昭和42年/1967年(10年)、平成10年/1998年8月~
●直木賞との主な関わり:
- 古川洋三(候補1回 第54回:昭和40年/1965年下半期)
●参考リンク:『文學界』同人雑誌評で取り上げられた『文学街』掲載作一覧
直木賞はともかく、芥川賞の世界では、受賞作でしか知られていないような一発屋が多い、いや、べつに芥川賞イコール、レベルが高かったり何十万部も売れたりするわけじゃないのだから、じつは一発も当てていないうちに消えていっちゃった受賞者がゴロゴロいる……などと言われます。
たしかにそうなんでしょう。わざわざ「じつは」などと、大げさに言うほどの事実じゃない気もしますが、一発も当てていないうちに消えた人といって、まず外せないのが、川村晃さんです。おそらく。
芥川賞のハナシなんで、駆け足で振り返ります。
美馬志朗さんを中心にして、昭和32年/1957年に創刊した同人誌『文学街』。あまりに文学への情熱が大きすぎて、月刊で出す! と決めたのがよかったのか悪かったのか、とにかくその、無益だ何だとまわりから冷たい目で見られる時期を過ごすこと5年。さすがに毎月ですから、載せる原稿も底をつきはじめ、同人だった川村さんも仕方なしに、10日ほどかけて新作を書き上げます。するとこれが、『文學界』の「同人雑誌評」で高評価を得て、同誌に転載、まもなく行われた第47回(昭和37年/1962年・上半期)芥川賞でも、文壇ズレしていない素人くさいところが逆にウケてしまい、さらっと受賞に決まります。
いまから60年も前のことですけど、受賞と決まるとそこにワッと群がるマスコミの狂乱、というステレオタイプな受賞光景が、当時も相当ゲスな感じで展開されたらしく、わいわい持ち上げられる受賞者、それを祝いながらしかし嫉妬を隠せない同人誌仲間、みたいなかなり楽しい(楽しくはないか)状況が生み出されたそうです。
自身、同人誌『藝文』を運営していた森下節さんは言います。
「「文学街」を主宰した美馬志朗は、下町の印刷所の社長で、自らも文学を目指し同人誌を出しつづけた。
しかし、同人の中から芥川賞作家が出て以来、妙に同人会のムードがぎくしゃくするようになり、川村晃との仲も次第に冷えたものとなった。」(昭和55年/1980年9月・皓星社発売 森下節・著『新・同人雑誌入門』「第一章 同人雑誌作法」より)
芥川賞がもたらすひとつの打撃は、受賞者本人だけにおさまるものじゃなく、とくに同人誌に所属している人が受賞することの自然だった時代には、同じ同人、もしくは同人誌の主宰者にも、かなりの衝撃を与えたとは、たしかによく聞くところです。
ここで、周囲の彼らがどんな反応を示すか。公にどんな文章を残すか。芥川賞と関わった同人誌を見るときの、大きな注目どころでしょう。
ちなみに美馬さんは、川村さんの受賞のすぐあとで、『文学街』に「川村晃の芥川賞受賞を祝す」という一文を書きました。マスコミが食い散らかす「芥川賞」報道の軽薄さと、それへの嫌悪感、というのは当然のようにコンコンと綴られているんですが、いっぽうでは、自分の心にある嫉妬かもしれない感情を素通りせずに、さすがそこにも分け入ろうと努力しています。
「一昨日ぼくのうちにやつてきた週間文春(原文ママ)の若い記者から、名刺を貰うなり、「同人の方が受賞されると本当にうれしいものですか」と聞かれたとき、ふと頬のこわばるのを意識したのがどうにも苦がくて忘れきれないでいる(引用者中略)「本当にうれしいものですか?」これ程他人の心をのぞきこもうとする無礼な言葉もないが、反面、これほど真実を問うという意味できびしい言葉もないようだ。「本当に」という言葉ほど、ぼく等の世界に生きる人間にとつて恐ろしく苦しい道はない。それをかきわけて生きねばならぬ文学青年のはしくれとして、ぼくはいまなお自分に問うているのである。「おまえは果たして川村さんの受賞を本当によろこんでいるのか」と。」(『文学街』昭和37年/1962年8月号 美馬志朗「川村晃の芥川賞受賞を祝す」より)
みんなべつに賞が欲しくて文学を志しているわけじゃない、だから賞をとろうがどうだろうが、その作品の本質には何ひとつ関係がない。というのは、まず当たり前です。当たり前すぎて、言葉としても、ものの考え方としても、かなり薄いです。
自分でも小説を書いているのに、他の同人が賞をとって、ほんとにうれしいものなのか。と聞かれて反射的にムッとした心根の底に何があるのか、そこを考え抜かなくては、どうにも目覚めが悪い。というところから書かれた美馬さんの文章は、やはり面白く、そう考えても美馬さんのような方も、明らかに芥川賞劇場の登場人物のひとりとして数えてもいいものと思います。
○
駆け足で振り返る、などと言っておきながら、まあ、なかなか先に進みませんね。川村晃衝撃の芥川賞受賞から3年半、今度は『文学街』に直木賞が接近します。
第54回(昭和40年/1965年・下半期)の直木賞に、この雑誌に発表した小説で候補になったのが、古川洋三さん。戦中には、文春が企画した懸賞小説に応募、見事入選するなど、けっこう古い書き手です。
しかし、芥川賞じゃなく直木賞。受賞じゃなく候補どまり。といいますか、古川さんはそもそも『文学街』の同人じゃない。……ということで、さすがに古川さんの一件で、同誌に嵐が吹き荒れた形跡はないんですが、やはりここにも出てくるのが、ミスター・文学街こと、美馬さんです。
昭和42年/1967年、美馬さんは42歳という若さで病死します。美馬さんより10歳以上年上の古川さんは、その死と美馬さんの人となりを惜しんで、「反逆児急逝」と題する追悼文のようなものを書きました。
古川さんの「大佐日記」が同誌に掲載されたのは、ほとんど二人の個人的交友によるものだったそうです。
「私は元来がこの誌(引用者注:『文学街』)の同人ではないが、ある意味でのおかげをこうむつた。いまでも他人とは思つていない。しかし私と美馬との交友は、ほとんどが余人を交えぬ二人だけの感情交流が主で、私の作品を美馬がこの誌に掲載した時、美馬はこの誌の継続をややもて余し気味の頃で、同人制を廃止して、完全な美馬の個人誌だつた。」(『新潮』昭和43年/1968年3月号 古川洋三「反逆児急逝」より)
印刷所の社長、という同人誌発行のためにはけっこう有利な立場にあったとはいえ、損をするとわかっているものを10年間、毎月出しつづけ、入院した折りにはベッドのまわりで同人会を開かせた、というほどに、とにかく美馬さんの執着は、かなりのレベルに達していました。
古川さんいわく、美馬さんといえば「反逆児」だそうで、一途で熱い文学への向き合い方が、その呼称からも伝わってきますけど、彼が思いを残したまま若死にしたことを、悲しむ仲間も多く、『文学街』の休刊後は、『十四人』という後継誌が生まれ、平成10年/1998年には森啓夫さんによって『文学街』復刊と、おそらく反逆心旺盛なブンガクガイ・魂が引き継がれていった模様です。
あんまり直木賞との絡みが薄いところに落ち着いちゃいました。それもまた、『文学街』らしさ、ってことで、ひとまず締めておきたいと思います。
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