『北方文芸』…同人誌とも商業誌ともちがう茨の道を歩んだ志、あるいは執心。
『北方文芸』
●刊行期間:昭和43年/1968年1月~平成9年/1997年3月(29年)
●直木賞との主な関わり:
- 澤田誠一(候補1回 第60回:昭和43年/1968年下半期)
- 木野工(候補2回 第47回:昭和37年/1962年上半期~第66回:昭和46年/1971年下半期)
※ただし第47回は別の雑誌に発表した作品
いったい「同人誌」って、どういう雑誌のことを指すんでしょうか。人によって定義は違うみたいです。
「大衆文芸」にしろ「純文芸」にしろ、いや「ミステリー」「ホラー」「SF」をはじめ、その他多くの、直木賞まわりの用語は、けっきょく、どこに境目があるのかはっきり示せない類いの概念ばかりで、そういうなかで80何年もやっていれば、そりゃ、どこかムチャクチャな賞になるよなあ、と納得できないこともありません。
いまや、主催者・日本文学振興会のサイト上での直木賞の説明が、「大衆文芸」ではなく「エンターテインメント作品」となり、また「単行本(長編小説もしくは短編集)のなかから」選ばれる、と変更されたことを見ても、まあ、定義のしづらい文学賞です。
それで、同人誌のことですが、うちのブログは「同人誌のことを取り上げる」というより、「直木賞のなかでの同人誌を取り上げる」ことしかできません。直木賞が一時期まで担っていた、東京の文芸出版にとって新しい作家を見出して紹介する、という役割を考えたとき、ここでいう同人誌の性質も、おのずといくつかの条件に絞られていきます。
取次を介した全国的な流通に載っていない。ということに加えて、日本文学振興会(あるいは『文學界』同人雑誌評コーナー)に定期的に寄贈を続けている。そういう雑誌です。
前置きが長くなりました。今週の『北方文芸』は、札幌を中心とした書店で売られ、また原稿が載ればギャラもいくばくか支払われたと言い、同人以外の寄稿はお断りということもなく、要するに「地方(文芸)誌」のひとつなんですが、しかし商業誌とも言い切れないところが、大きな特徴のひとつだったようです。
「いわゆる同人雑誌とは一味違い、投稿や原稿依頼、地元同人雑誌からの再録など“開かれた同人雑誌”的性格を持っている。毎月の発行に必要な六十万円の経費は広告と販売収入、維持会員の会費などでまかない、「商業雑誌並みにはいかないが、安い原稿料と事務局のお嬢さんたちの犠牲で何とかやっている」という。」(『朝日新聞』昭和51年/1976年5月31日「百号を迎えた「北方文芸」」より)
カネはない。しかし志はある。……というところで、約50年まえの昭和43年/1968年、小笠原克さんやその仲間たちが集まって、雑誌づくりの機運が盛り上がり、「たまには損する商売もやってみよう!!」(『北方文芸』昭和44年/1969年4月号「“汗顔”の辞」)とその刊行を引き受けたなにわ書房店主の浪花剛さんの英断で創刊されたそうですが、1年4か月、月刊で16冊出すまでのあいだに、赤字ばかりがどんどん膨れ上がり、志はあってもカネがない、という状況に陥って休刊を発表。
すると、終わるとなったら、惜しむ声が沸き出してきて急に注目されはじめる、例の展開が待ち受けていたのは、『北方文芸』創設グループメンバーの、日頃からの人徳のたまものでしょう、即座に再建に向けていろいろと声もあがり、ほぼ1か月分のブランクを経て、巻号を継続して〈第二次〉『北方文芸』は再出発を切ることになります。
その後は着々と、脈々と刊行をつづけ、カネがない、赤字つづきだ、とえんえんと言い続けながら30年弱。この夏には、北海道立文学館で特別展「「北方文芸」と道内文学同人誌の光芒」(会期:平成29年/2017年7月1日~8月27日)が開かれるほどに、地域でも(あるいは全国的にも)温かく愛される存在となりまして、平成9年/1997年に幕を閉じるまで、月刊の体制を維持しました。
その紆余曲折のなかでも、この雑誌に載った作品を、早い段階で候補に選んだ文学賞が、直木賞です。芥川賞ではありません。
○
もちろん、直木賞でも芥川賞でも、どっちでもいいんでしょうが、しかし澤田誠一さんの「斧と楡のひつぎ」(昭和43年/1968年9月号)などという、面白みにたどり着くまでに長い道のりが必要な、けっこうぶ厚い「文学防御壁」に囲まれた風体の小説を、堂々と候補に残してしまうところが、直木賞のやさしさなのか、いやがらせなのか、よくわからないところです。
さすがに「斧と~」を、「おもしろかった」と評したのは、地に足のついたものの好きな海音寺潮五郎さんぐらいで、まったく受賞には近づけなかったんですけど、それから3年後、昭和45年/1970年7月号と昭和46年/1971年7月号に2部にわけて発表された木野工さんの長篇小説「襤褸(らんる)」については、少し様子がちがいました。
木野さんもまた、澤田さんと同様、かなり古くからの書き手で、『北方文芸』が見出したというよりは、たまたま札幌近辺を拠点に文学活動をしていたところに発表の場が与えられた、という感じの方です。北海タイムスでずっと記者を勤めてきたという、その経験があるからか、いまさら文学賞などで浮かれたりする能天気さは持ち合わせていませんよ、といわんばかりの冷静な文章を書いたりもしています。
木野さんにいま一歩の、サービス精神と言いますか、通俗を嫌わない心があれば、結果は違っていたはずです。
田中小実昌さんの『自動巻時計の一日』と争って、最終の二作にまで残り、ド派手なウソっぱち小説の大好きな柴田錬三郎さんまでが、作者の努力に心を打たれて支持を表明。はっきりいって、地味で暗くて、どんよりした世界観がよく伝わってくる、という意味では作者の勝利なんでしょうけども、魅力があるかと問い詰められれば口ごもるしかない作品で、直木賞が「文学」だけを評価基準にする賞だったらよかったんですが、残念ながら、そういう賞ではありません。
通俗性に安易に頼る気はない、という志も、あるいはひとつの魅力でしょうから、結果、候補作にはなり得ても受賞作にはなり得なかった『北方文芸』発の二作品は、それだけでも、なにがしかの価値がある、とは言えると思います。
通巻350号で休刊(終刊)することになったさい、最終号の「あとがき」に、最後の編集人を引き受けた工藤正広さんが、その終刊へのいきさつを記していますが、そこに出てくるのが、創刊当時から関わり、赤字が出れば自前で補ったりしながら発行を続けてきた澤田誠一さんの、同誌に対する強いこだわりです。
カネがない、カネがない、がシャレでは済まなくなってきて、どうにか同誌を立て直そうと、有志のあいだで話し合いがもたれたと言います。そこで出たのが、76歳澤田さんに外れてもらう案でした。
「発行人澤田さんに勇退して貰う。これが澤田さんに伝えられたところ、澤田さんとしては感情的に認め得なかった。「北方文芸」の赤字を引き受けるので、川辺(引用者注:川辺為三)、森山(引用者注:森山軍治郎)氏には退いてもらう。というのが回答であった。(引用者中略)財政的根拠も編集の構想もない。ただ澤田さんの熱意執心だけでは進めない。話し合いの結果やっとキリのいい本三五〇号で休刊する結論へと落ち着いた。」(『北方文芸』平成9年/1997年3月号 工藤正広「あとがき」より)
「同人誌とも商業誌ともつかないバランスをとらなければならない。」との文章も見えます。同人誌として生き延びるのではなく、商業誌として継続を模索するのでもない。まさしく、(澤田さんにとっての)『北方文芸』は、熱意と執心の雑誌だったんでしょう。
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コメント
Wikipediaの澤田さんの項目、出典として「直木賞のすべて」の候補ページにリンクが張られているのですが、なぜか「芥川賞のすべて」と書かれているあたりがなんとも直木賞です
投稿: D | 2017年7月11日 (火) 03時13分
Dさん、
わ、ほんとだ! ご教示ありがとうございます。
たしかに澤田さんは芥川賞(候補)のほうが似合いそうな気がしますが、
それにしても、なんとも直木賞、ですね……。
投稿: P.L.B. | 2017年7月12日 (水) 02時30分