第16回直木賞「強情いちご」「寛容」の受賞作単行本部数
第16回(昭和17年/1942年・下半期)直木賞
※ちなみに……
第3回(昭和11年/1936年・上半期)芥川賞
第9回(昭和14年/1939年・上半期)芥川賞
第14回(昭和16年/1941年・下半期)芥川賞
第19回(昭和19年/1944年・上半期)芥川賞
第20回(昭和19年/1944年・下半期)芥川賞
第29回(昭和28年/1953年・上半期)芥川賞
戦前、第20回までの直木賞は、久米正雄さんによれば「道楽的に」決められていた、とのことです。言うよねー、って感じではありますが、道楽で文学賞を決めちゃいけない理由なんて何もありません。むしろ、直木賞は道楽的ぐらいなのが、ちょうどいいのかもしれません。
で、戦前の受賞作は、ほとんど部数がわからない、とさんざん愚痴ってきたとおりです。ただ、まったくわからないのもナンなので、おおよその見当をつけるために、芥川賞のほうを少し見てみることにします。
『改造社出版関係資料』(平成22年/2010年2月・慶応義塾図書館改造社資料刊行委員会・編、雄松堂出版刊)というものがあります。このなかに、新刊を各取次に何部ずつ配本したのか記された資料があり、当時の部数水準を知るためには、かなり有益なものです。
改造社から出た芥川賞受賞作の単行本は、戦前、3冊ありました。上記の資料「4.改造社の経営にかかわる内部資料」-「新刊配本帳」を見てみますと、初版の配本総数は、次のようになっています。
- 第1回受賞 石川達三『蒼氓』(昭和10年/1935年10月19日) 2,440部
- 第3回受賞 鶴田知也『コシャマイン記』(昭和11年/1936年10月20日) 1,890部
- 第9回受賞 長谷健『あさくさの子供』(昭和15年/1940年1月19日) 2,900部
ちなみに、新小説社から出した第1回直木賞受賞作本(のひとつ)川口松太郎『明治一代女』(昭和11年/1936年3月)は、初版2,000部を刷ったそうです。改造社の資料を見ると、他の、とくに文学賞とは関係ない文芸書でも、1,500部~3,000部ぐらいのものをよく見かけます。まず2,000部前後というのが、だいたいスタンダードだったんでしょう。
当時の芥川賞では、受賞してはじめて本になる、というケースがほとんどでしたが、そのなかで異例中の異例、単行本が受賞対象になってしまった尾崎一雄さんの『暢気眼鏡』も、受賞後あわててつくった再版普及版は、だいたい3,000部から始めたようです(受賞対象となった昭和12年/1937年4月の初版は500部だった、とのこと)。
戦前、21冊刊行された芥川賞受賞作本のうち、文藝春秋社4冊を上まわって、5冊の版元となったのが小山書店です。その社長、小山久二郎さんの回想に、こうあります。
「その後(引用者注:『糞尿譚』と『あらがね』の好調な売れ行き後)、同人雑誌などにも注意を向けるようになり、芥川賞の候補作なども注意ぶかく観察し、宇野浩二の力なども借りて、その後に芥川賞になったほとんどの作品は、小山書店から出たもののうちからという様になった。この為、新人作家たちは小山書店を熱心に注目するようになった。私が注目した新人の作品は、処女出版であっても、少なくとも三千部は必ず売れるような出版社にのし上った。」(昭和57年/1982年12月・六興出版刊 小山久二郎・著『ひとつの時代――小山書店私史――』より)
受賞作がどれくらい売れたかは書いてありませんが、3,000部というのが、けっこう誇れる数字だったことは読み取れます。そういえば、こないだ引用した江崎誠致さんの「小説芥川賞」にも、『糞尿譚』(昭和13年/1938年3月・小山書店刊)の初版は3,000部だった、って書いてありましたね。
第12回(昭和15年/1940年・下半期)の櫻田常久さん以降、勧進元の文藝春秋社が、いよいよ受賞作の単行本化に乗り出し、芥川賞の世界における小山書店の天下(?)は早くも終わってしまうのですが、そのころの部数について証言しているのが、第14回「青果の市」で受賞した芝木好子さんです。当時としては多い部数だろう、と断りながらも、初版は5,000部だったはず、と書いています(『週刊読書人』昭和39年/1964年3月9日号「はじめての本」)。
3,000部から5,000部に若干アップした、と言えるのか。実数はけっきょく不明なので、やっぱり3,000部前後で推移した、と見るべきか。細かいハナシすぎて、どうでもいいような気もするんですが、とりあえずこの段階で、芥川賞の初版は5,000部、というのが現実的な線になった、と言っておいてもいいと思います。
○
アメリカとの交戦状態に入りまして、このころ、直木賞のほうでは、単行本の奥付に初版部数が明記されたものが、2冊生まれました。
第16回(昭和17年/1942年・下半期)をそろって受賞した田岡典夫さんと神崎武雄さん、それぞれの受賞作を収録した本です。
2冊の刊行事情は、けっこう違っています。田岡さんの『小説 武辺土佐物語』は、直木賞を受賞するまえに、田岡さんの『講談倶楽部』などでの活躍をまとめたもの。神崎さんの『寛容』は、受賞してから1年以上たってようやく、大川屋書店から出た作品集です。
しかし、奥付に書かれた初版部数は、ともに「一万部」……。
と、出版界テキトーだったんじゃないのか、と疑いの目を向けたくなるキリのいい数字で、公称部数というのは、いまだってそういうものかもしれませんが、直木賞の受賞前でも後でも、大して変わらない部数、というところに、直木賞の威力の大したことない感がよく出ています(たぶん)。
なにしろ直木賞は、この前後の部数推移が定かじゃないので、何とも言いようがありません。なので、もうちょっと芥川賞のほうを追ってみます。
第19回(昭和19年/1944年・上半期)を受賞し、単行本の刊行は昭和20年/1945年2月と、戦時中最後の一冊となった小尾十三さんの「登攀」は、これを収録した『雑巾先生』が、あまりに伝説中の伝説となったために、かえっていろんな人が書きのこす結果となりましたが、奥付には、初版が5,000部、また再版本はプラスで5,000部と記述されたそうです。
日本の降伏をはさんで、第20回(昭和19年/1944年・下半期)「雁立」が、昭和21年/1946年9月に鎌倉文庫から単行本化されましたが、
「終戦後「雁立」は同名の単行本になつて鎌倉文庫から出版された。一万部印刷されて売行は良かつた。」(昭和24年/1949年11月・小山書店刊『芥川賞全集 第六巻』所収 清水基吉「あとがき」より)
とのこと。戦後の出版バブルってやつなんでしょうか、『雁立』にそれまでの受賞作と比べてとくに売れる要素があるとは思えませんけど、そんなものでも「万」の領域に。
バブルがはじけて、出版不況に落ち込んで、といった苦難をかいくぐり、第29回(昭和28年/1953年・上半期)を受賞した安岡章太郎さんの時代には、こんな感じになっていました。
「受賞と同時に、いろいろの社から短篇集出版の申し込みがあったが、芥川賞作品は文春から出すのがシキタリみたいになっていたので、暑いさかりに何度も大森の奥の下宿へ足を運んでくれた編集の方には気の毒だったが、文春以外のところは断った。なかには一万部出すとか、二万部出すとか言ってくれるところもあったが、そのころの私は「印税」とはどういうものか――まさか税金の一種ではなかろうとは思ったが――よくわからなかったので、少しも魅力を感じなかった。
(引用者中略)
初版三千部で再版はなかった。いま想うと少ないようだが、「ウチなら二万部は出す」と言っていた某社は、その後間もなくツブれたので、欲をかかずに良かったと思った。」(『週刊読書人』昭和39年/1964年1月20日号「はじめての本」より)
何だかんだで、けっきょくまだ3,000部かよ……。という感はありますが、とりあえず30回もやっていくうちに、初版1万、2万の声が上がるぐらいには成長していた、と見るのが自然なのかもしれません。
しかし、直木賞の受賞作はどうだったんでしょうか。芥川賞とそれほど大きな開きはなかったとは思うんですけど、それでも芥川賞みたいに、当時の受賞者の回想が、なかなか見当たらないのが悲しいです。誰か教えてください。
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