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2017年3月の4件の記事

2017年3月26日 (日)

第76回直木賞『子育てごっこ』の受賞作単行本部数

第76回(昭和51年/1976年・下半期)直木賞

受賞作●三好京三『子育てごっこ』(文藝春秋刊)
初版5,000部→5万(受賞直後)25万5,000(受賞約1年半で)→?

※ちなみに……

第75回(昭和51年/1976年・上半期)芥川賞

受賞作●村上龍『限りなく透明に近いブルー』(講談社刊)
初版2万(初回配本5万部)30万(受賞約3週間で)100万(受賞約4か月で)130万(受賞約半年で)131万6,000

第77回(昭和52年/1977年・上半期)芥川賞

受賞作●三田誠広『僕って何』(河出書房新社刊)
33万
受賞作●池田満寿夫「エーゲ海に捧ぐ」収録『エーゲ海に捧ぐ』(角川書店刊)
初版7,000部→20万(受賞前まで)47万5,000

 けっきょく、売上部数のテーマでも、その転換点は昭和51年/1976年にたどりつくっぽいです。

 第74回(昭和50年/1975年・下半期)の『復讐するは我にあり』が、それまでの直木賞史上、話題性も売上でも、まず体験したことのないほどにスパークして、昭和51年/1976年に入って10万部を軽く突破、おそらく20万部にせまるほどに売れてしまった。

 ……というのが、直木賞のほうで起きた大ニュースだったんですが、世間一般の人びとがゆさぶられるのは、直木賞によってではなく、いつも芥川賞です。この場面でも、当然その格言は生きていて、昭和51年/1976年に「直木賞・芥川賞は売れるものだ!」のインパクトを、世に広めたのは、直木賞ではなく、あきらかに芥川賞のほうでした。

「近頃の芥川賞の狂騒ぶりは、「文藝春秋」としては一億円の宣伝にも該当する。その時の作品の内容によるが、受賞作品は十万部以上五、六十万部までは売れ、村上龍氏の「限りなく透明に近いブルー」の如きは、百数万部売りつくした。」(『季刊藝術』昭和54年/1979年冬号 丸山泰司「昭和の作家3 ―編集者からの素描として―」より)

 と、高城修三『榧の木祭り』やら高橋揆一郎『伸予』がほんとに10万部以上売れたのか? という疑問など蹴散らされてしまう、「芥川賞=売れる」という風聞が見事、誕生します。

 それまでの直木賞・芥川賞に、けっして売れないイメージがあったわけじゃないと思うんですが、なにしろ『限りなく~』の登場は、両賞の売上にたいする見方を大きく変えたのは、たしかです。

「特色として言えることは ここ2~3ヵ月のベストセラー等の動きの良いものは小説の分野に戻って来ていることです。それと各種の文学賞受賞作品が全部活況を呈していることです。今迄受賞作品は余り振わなかったと言われて来ましたが 最近の受賞作品は5万10万20万部と伸び 時には百万部を越えるように 受賞ものが強気になって来ています。」(『出版月報』昭和51年/1976年11月号付録「出版月報11月号Q&A」より ―太字下線は引用者によるもの)

(引用者注:今年の特徴として)従来販売力としては強くなかった文学賞受賞作品群の売れ行き増加が目立ちました。」(『出版月報』昭和51年/1976年12月号付録「出版月報12月号Q&A」より ―太字下線は引用者によるもの)

 まあ、ミリオンセラーですからね。人の意識を変えるこのくらいの影響力は、あって当然かもしれません。

 芥川賞は第75回の『限りなく~』以降、たしかにその注目度が本の売り上げに結びつく例がつづきました。第77回は『エーゲ海に捧ぐ』『僕って何』ともに、正真正銘のベストセラーに(『エーゲ海~』は受賞前からずいぶん売れていた、とも言われますけど)。第78回は『螢川』、第79回は『九月の空』と、いずれも20万部超を達成します。

 その後、「芥川賞だっていうのに、たいして売れなくなった」と発言する人たちの比較対象は、ほぼその数年の芥川賞好調期にある、と見てもあながち間違っていないと思います。あるいは、「芥川賞といえば軒並み売れていた時代があった」みたいな、みずからの脳内でつくりだした幻想をもとにしているかの、どちらかです。

 しかし、受賞作が飛ぶように売れる先鞭をつけたのは、昭和51年/1976年前半に、大衆文芸の砦・直木賞だっつうのに〈ノンフィクション〉ノベルが受賞したんだってさ、文芸の世界もいろいろ煮詰まってきちゃって大変だよね、という素晴らしい反応を生み出した『復讐するは我にあり』でした。……とか言うと、どうせ直木賞のほうが好きだからそっちの肩をもっているだけだろ、とスカされるので、やめときます。

 ともかく、まれにみる受賞作好調時代だったんですけど、直木賞のほうは、第75回該当なし、第77回と第78回も連続該当なし。煮詰まりのドン詰まりぶりは相当なもんでした。

 そのなかで、絞り出すがごとくに生まれた受賞作が、第76回(昭和51年/1976年・下半期)三好京三さんの『子育てごっこ』です。

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2017年3月19日 (日)

第78回芥川賞「螢川」「榧の木祭り」、第79回「九月の空」の受賞作単行本部数

第78回(昭和52年/1977年・下半期)芥川賞

受賞作●宮本輝「螢川」収録『螢川』(筑摩書房刊)
初版(受賞後)10万部→23万4,500
受賞作●高城修三「榧の木祭り」収録『榧の木祭り』(新潮社刊)
6万(受賞1か月で)8万

第79回(昭和53年/1978年・上半期)芥川賞

受賞作●高橋三千綱「九月の空」収録『九月の空』(河出書房新社刊)
24万

 昭和50年代と今とで、おそらく文芸出版もいろいろ変わりました。変わらないことがあるとしたら、文芸書に対する悲観論が、わんさか書かれている、ってことかもしれません。

 直木賞(と芥川賞)と出版概況、みたいな文章ばかり見ていると、とにかくまず「最近の文芸は不振だ!」という認識(思い込み?)が前提になっています。うんざりします。

 ということで、不振だ不振だ言われていた昭和50年代ですけど、前週からのつづきで、時間を巻き戻していきます。第80回(昭和53年/1978年・下半期)、直木賞は2作の受賞作が出ましたが、芥川賞はなし、です。

 そのうち、宮尾登美子さん『一絃の琴』が最終的に32万部と、それまでの直木賞の水準から考えれば大ベストセラーとなったことは、以前に取り上げました。同時に受賞した有明夏夫さんの『大浪花諸人往来』のほうは、角川書店のイメージに似合わず(?)衝撃度のうすい小説だったので、売り上げ面では、ほぼ話題にならず。部数はよくわかりません。

 では、ほかの文芸書を含めて、この頃の一般的な部数水準はどのくらいと見られていたのか。ということだけでも確認しておこうと、『朝日新聞』学芸部のじゃじゃ馬こと、百目鬼恭三郎さんの見解を引いておきたいと思います。

「普通でしたら、本というのは三万部も出れば上出来だというのが以前までの常識です。十万以上となれば、みんなが読んでいるからとか、評判だからという要素がほとんどではないでしょうか。」(『日販通信』昭和53年/1978年1月号 昭和52年/1977年出版回顧の座談会より)

 それと、それよりちょっとあとの文献ですが、『週刊読書人』の植田康夫さんによる概説も、ついでに。

(引用者注:ノンフィクションの)刺激剤として大きな役割を果たしたのは、昭和四十五年に設定された大宅壮一ノンフィクション賞である。この賞は、芥川・直木賞が以前と比べて、本の売れ行きという点では力を弱めているのに対し、大きな力を持ってきている。」(昭和57年/1982年9月・東京書店刊 植田康夫・著『出版界コンフィデンシャルPARTI』「第II章 現代出版の諸相 [1]ベストセラー&ロングセラー」より)

 これが昭和55年/1980年(第82回~第83回ごろ)に書かれた文章です。「芥川・直木賞が以前と比べて、本の売れ行きという点では力を弱めている」という、もう現在のわれわれにとってはおなじみの、とにかく感覚値オンリーによる直木賞・芥川賞観が、すでに堂々と開陳されていて、つい微笑みを誘います。

 「以前」というのがいつの時代を指しているのかを明確にしない、……っつうところも、またおなじみのアレすぎてアレなんですけど、ほんとうに両賞(とくに直木賞)が、売れ行きの点で力を弱めていたとは、とうてい考えられません。

 全史を見渡したとき、昭和55年/1980年より「以前」に、これらの賞の受賞作の売り上げが、おしなべて好調だったピークは、どう見たって、昭和51年/1976年~昭和53年/1978年にありました。

 さすがに、それから1~2年しかたっていない段階で、「以前と比べて力を弱めている」と言うのは、大げさ以外の何モノでもありません。また、じっさい、その後に受賞作の部数が落ち込んだかというと、そんな気配もないんですよね。直&芥が大っキライで、これらを馬鹿にしたい人たちにとっては、残念な事実でしょうが。

 要するに、昭和40年代まで、微妙に上下しながら、徐々に部数が増えてきていたのが(もちろんこれは、両賞の受賞作に特有のことではなく、文芸出版全体の動きに乗ったもの)、昭和50年代に入って、いきなりドーンと力を増して以降、そのラインがいまのいままで、ずーっと続いてきている。と見るのが、もっとも適切なんだと思います。

 昭和56年/1981年には『人間万事塞翁が丙午』『思い出トランプ』(ともに直木賞)『小さな貴婦人』(芥川賞)が大当たり、昭和55年/1980年は一年飛ばして、昭和54年/1979年は『一絃の琴』(直木賞)のヒット。そして昭和53年/1978年は、第78回と第79回、計6つある受賞作のうち、2つが「よく売れる文学賞」の波を引き継ぎました。

 それらが直木賞でないのは、つらいところなんですけど、「売れ線」の牙城を守った2つ、芥川賞の『螢川』(第78回)と『九月の空』(第79回)です。

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2017年3月12日 (日)

第81回直木賞『ナポレオン狂』の受賞作単行本部数

第81回(昭和54年/1979年・上半期)直木賞

受賞作●阿刀田高『ナポレオン狂』(講談社刊)
10万9,000

※ちなみに……

第81回(昭和54年/1979年・上半期)芥川賞

受賞作●重兼芳子「やまあいの煙」収録『やまあいの煙』(文藝春秋刊)
約5万部→?
受賞作●青野聰「愚者の夜」収録『愚者の夜』(文藝春秋刊)
約5万部→?

 直木賞とか芥川賞に「売れ筋のベストセラー!」っていうイメージが染みついたのは、いったいいつからなんでしょう。少なくとも、これは最近のことではなく、昭和50年代にはすでに一般的な認識だった、と伝えられています。

 そして、直木賞・芥川賞といえば、「まわりの期待はいつも過剰。実態は、そうでもない」っていう、あるあるがあります。これも当時から健在だったようで、じっさいのところは、一般に思われているほどベストセラーが連発していたわけじゃありません。

 ここでいつもどおり、当時の人の発言に耳を傾けてみます。第81回(昭和54年/1979年・上半期)の直後に、芥川賞受賞作を二冊、抱えることになった文藝春秋の営業部長が、さらりと言いのけたコメントです。

「「(引用者注:受賞作の『やまあいの煙』『愚者の夜』の動きは)両方とも地味なもんですよ。第一、芥川賞受賞作だからといって爆発的な売れ方をすると思ったら大間違い。今は各点約五万部発行」と言うのは文芸春秋住営業部長。同氏は続けて、「(引用者中略)芥川賞といっても、もう文学的内容よりも話題性など商品的な力で売れるのだから、そこをシビアにみた売り方をしていかなければならない。その意味では、普通の文芸書の販売方法と大差ないのではないか」と冷静な受けとめ方。」(『新文化』昭和54年/1979年9月13日号「芥川受賞の二作品 店頭の“戦略商品”にも 理想と現実のギャップ」より)

 そりゃそうだろうな、と言うしかありません。

 記事のタイトルに「理想と現実のギャップ」とあります。「理想」って何なのか、だれにとって何を根拠にした「理想」のことを想定しているのか、よくわかりませんが、文意から解釈すれば、「芥川賞の販売力に関して、おおかたの人が持っているイメージ」と、現実とにギャップがある、っていうことです。

 先の『しんせかい』の部数も、とりあえずは5万部余。と考えれば、芥川賞作品のなかでも、地味に動く部類の発行ボリュームは、そんなに変わっていないんだなあ、と思うんですが、38年前だっていまだって、地味な文芸書が5万部も出たなら大したもんであることに違いはなく、そこにとくに文句はありません。

 文句があるとすれば、やはりこの『新文化』の記事が、芥川賞のことしか取材していないところです。

 直木賞はどうなのか、賞の名で売る「戦略商品」じゃなかったのか、まるでわからず、ほんとに困ってしまいます。都合のいいときだけ直木賞を、芥川賞の仲間に含めるくせに、こういうときにはガン無視しやがって、ブツブツ……。

 この年は、田中小実昌という、直木賞を受賞してわずか2か月足らずで今度は谷崎潤一郎賞を受賞してしまう、前代未聞、空前絶後の離れ業をやってのけた人物が登場。谷崎賞の『ポロポロ』はこの年の、文芸界の収穫に挙げるような人も続出し、文芸書としてはけっこう売れた、とも言われます。

 たとえば、中島梓さんなどは、昭和50年代前半の、十代・二十代作家たちによるベストセラーのリストを挙げた段で、小実昌さんのことにも触れながら、こう解説していたりします。

「ともかく、このリストの異常さは、そんなわけで、この人びとの「若さ」や「ベストセラー」の部数にある、というよりは、むしろ、たとえこれが××賞、××新人賞、というかたちであるていどプロデュースされたものであるにせよ、それを真正直につぎつぎミリオンセラーの軌道にのせたわれわれ読者の「意識」にあるのだ、と云えるであろう。この間にも、むろん、もっと年長の芥川賞受賞者、直木賞、賞とはかかわりのないミリオンセラー(たとえば「天中殺入門」や「かもめのジョナサン」や、「にんにく健康法」(!)といったような)が次々とたゆみなく生まれてはいるのだが、それは、じっさい、この「現象」とはあまりかかわりのないところで出版状況の一方に存在しているかにみえる。(引用者中略)五十代の受賞者田中小実昌の「ポロポロ」が三万部売ったという事実もある。」(昭和58年/1983年12月・講談社刊 中島梓・著『ベストセラーの構造』「第五章 下部構造の成立」より)

 どうですか。芥川賞だ直木賞だ、と賞の名前を挙げながら、その受賞者の田中小実昌さんの、売れた本が紹介されるときに、『香具師の旅』ではなく『ポロポロ』が選択されている、この不自然さ。よっぽど『香具師~』のほうは売れなかったのかもしれない、と想像させます。

 泰流社で『香具師~』を担当したのが高橋徹さんです。いわく、自身の編集経験については「たかだか二千から五千部ぐらいの初版部数の本がほとんどで、文芸出版も地味なものしか扱ったことがない」(『早稲田文学』昭和57年/1982年10月号「文芸出版というコンセプトの揚葉」)と表現していて、むろん、これだけじゃ小実昌さんの受賞作がどれほどの部数に行ったかはわかりません。

 ただ、『香具師~』は当時もほとんど、ベストセラーリストに顔を出しませんでした。初版数千から、多少の増刷があって、『ポロポロ』の3万部と同程度ないし5万部前後、ぐらいではなかったか、と推測できます。

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2017年3月 5日 (日)

第83回直木賞『思い出トランプ』『黄色い牙』の受賞作単行本部数

第83回(昭和55年/1980年・上半期)直木賞

受賞作●向田邦子「花の名前」「かわうそ」「犬小屋」収録『思い出トランプ』(新潮社刊)
40万部弱(受賞約1年・発売8か月で)46万2,000
受賞作●志茂田景樹『黄色い牙』(講談社刊)
初版7,000部→受賞後+5万部→?

※ちなみに……

第82回(昭和54年/1979年・下半期)芥川賞

受賞作●森禮子「モッキングバードのいる町」収録『モッキングバードのいる町』(新潮社刊)
初版(受賞後)3万部→?

 第85回(昭和56年/1981年・上半期)の直木賞授賞式に足をはこんだ向田邦子さんは、「私の一周忌だから、見にいってみた」云々と言ったそうですが、第85回で青島幸男さんが登場するまえ、とにかく直木賞史上でも類のないほど売れたのが、一年前の第83回に受賞した、向田邦子さんの『思い出トランプ』です。

 混迷ふかまる世界情勢、そのまっただなかに生きる近未来の、世界各国の政治家、企業家、セレブたちが、21世紀のはじめにアメリカの大統領になった一人の男のことを回想する、というグローバルな視点のSF小説……とかじゃありません。市井の人々の営みのなかから、心の傷み、不穏、翳の部分を、なにげなくすくい取る、「これぞ短篇小説だ」みたいなものが、毎月『小説新潮』に発表されたところ、そのうちの3編が受賞。13編で、とりあえず区切りがついたところで刊行されたのが、『思い出トランプ』です。

 なにしろ直後に、青島さんのが売れすぎました。その点、売れ行きでは多少、霞んだかたちになりましたけど、しかし第83回と第85回、わずかな短期間で、ドン、ドーンとベストセラーが二発も出たことは、それまで爆発的に売れるような文学賞ではなかった直木賞の、販促面でのイメージを大きく変えた、というのは確実です。

 向田さんの没後すぐに、山口瞳さんが書いているところでは、こんな感じでした。

「向田邦子は、極めて短い期間に、頂上まで天辺まで登りつめてしまった。

濃のある短篇小説を発表し続けた。相当な手足れでも、いまの中間小説雑誌に読切短篇の連載を書ける作家は稀だろう。それが良い作品であるばかりではなく、大いに売れたのである。『思い出トランプ』は四十万部に迫ったと聞いているが、短篇小説集の発行部数としては空前絶後ではあるまいか。」(『週刊新潮』昭和56年/1981年8月29日号 山口瞳「男性自身 木槿の花(八)」より ―引用原文『山口瞳大全 第十巻』平成5年/1993年8月・新潮社刊)

 『思い出トランプ』は、受賞したころにはまだ本になっておらず、受賞して半年弱も経った昭和55年/1980年12月に刊行。いわゆる「受賞さわぎ」の恩恵をあまり受けていない、珍しい受賞本なんですが、それから8か月ほどで30数万部まで行ったわけですから、さすがといいますか、まあ、直木賞の枠を超えています。

 昭和56年/1981年度の文芸書全体では、『人間万事塞翁が丙午』がトップをぶっちぎり、『思い出トランプ』はトップ10入り、ぐらいのところ。夏ごろまでに、30万部超えだったものが、またも「時のひと」となってしまったことから、部数を伸ばしたようで、約5年で46万2千部を記録しました(『新潮社一〇〇年』平成17年/2005年11月、昭和60年/1985年11月までの部数)。

 ただ、単行本よりも、あとに出た文庫のほうが大量に売れている。ということでいえば、「直木賞」の売れ行き面では、『思い出~』は『人間万事~』よりも明らかに、エポックメイキングな受賞作です。文庫は昭和58年/1983年5月の発刊から、平成23年/2011年7月の段階で、累計145万部(『朝日新聞』大阪版夕刊 平成23年/2013年7月11日「向田邦子の伝言3」)も出ているといいます。

 新潮社だけでなく、競って向田さんに小説・エッセイを書いてもらっていた文藝春秋も、出す本出す本が売れる、という好景気(?)。直木賞をおくっておかなければ、そこまで売れたとは思えず、直木賞大成功の例として、いまも語り継がれています。いや、だれかが語り継いでいってくれると思います。

 それと同時に受賞したのが、もう一作あって、そちらは成功だったのか失敗だったのか、もはやよくわからないんですけど、すくなくとも志茂田景樹さんの『黄色い牙』は、まず「よく売れた本」の話題に上がることはありません。

「直木賞の「黄色い牙」は今一つ動きが鈍いですね。」(『出版月報』昭和55年/1980年8月号付録「出版傾向Q&A」より)

 それで、部数がどうだったのかといえば、志茂田さんが小説現代新人賞をとり、はじめて書下ろしで祥伝社から出した『異端のファイル』(NON・NOVEL)は、初版が2万5000部だったというのですが、『黄色い牙』のほうは、じっさいよくわかりません。

 わかりませんけど、志茂田さんのことは作家デビューの前から知っていた、という恐ろしい人脈の持ち主、山本容朗さんが、とりあえず、こんなふうに明かしてくれています。

「『黄色い牙』は、初版七千部で、直木賞受賞が決まると、五万部増刷したそうである。」(昭和55年/1980年11月・潮出版社刊、山本容朗・著『新宿交遊学』所収「芥川賞・直木賞受賞作家点描」より ―初出『週刊小説』昭和55年/1980年9月5日号)

 その後、この単行本が刷数を増やしたとは、とうてい考えられず、およそ6~7万部の受賞作だった、と見るのが妥当でしょう。

 ベストセラーとなった受賞作の大山脈のかげに隠れて、そっと咲く花、って感じでしょうか。

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