第83回直木賞『思い出トランプ』『黄色い牙』の受賞作単行本部数
第83回(昭和55年/1980年・上半期)直木賞
※ちなみに……
第82回(昭和54年/1979年・下半期)芥川賞
第85回(昭和56年/1981年・上半期)の直木賞授賞式に足をはこんだ向田邦子さんは、「私の一周忌だから、見にいってみた」云々と言ったそうですが、第85回で青島幸男さんが登場するまえ、とにかく直木賞史上でも類のないほど売れたのが、一年前の第83回に受賞した、向田邦子さんの『思い出トランプ』です。
混迷ふかまる世界情勢、そのまっただなかに生きる近未来の、世界各国の政治家、企業家、セレブたちが、21世紀のはじめにアメリカの大統領になった一人の男のことを回想する、というグローバルな視点のSF小説……とかじゃありません。市井の人々の営みのなかから、心の傷み、不穏、翳の部分を、なにげなくすくい取る、「これぞ短篇小説だ」みたいなものが、毎月『小説新潮』に発表されたところ、そのうちの3編が受賞。13編で、とりあえず区切りがついたところで刊行されたのが、『思い出トランプ』です。
なにしろ直後に、青島さんのが売れすぎました。その点、売れ行きでは多少、霞んだかたちになりましたけど、しかし第83回と第85回、わずかな短期間で、ドン、ドーンとベストセラーが二発も出たことは、それまで爆発的に売れるような文学賞ではなかった直木賞の、販促面でのイメージを大きく変えた、というのは確実です。
向田さんの没後すぐに、山口瞳さんが書いているところでは、こんな感じでした。
「向田邦子は、極めて短い期間に、頂上まで天辺まで登りつめてしまった。
濃のある短篇小説を発表し続けた。相当な手足れでも、いまの中間小説雑誌に読切短篇の連載を書ける作家は稀だろう。それが良い作品であるばかりではなく、大いに売れたのである。『思い出トランプ』は四十万部に迫ったと聞いているが、短篇小説集の発行部数としては空前絶後ではあるまいか。」(『週刊新潮』昭和56年/1981年8月29日号 山口瞳「男性自身 木槿の花(八)」より ―引用原文『山口瞳大全 第十巻』平成5年/1993年8月・新潮社刊)
『思い出トランプ』は、受賞したころにはまだ本になっておらず、受賞して半年弱も経った昭和55年/1980年12月に刊行。いわゆる「受賞さわぎ」の恩恵をあまり受けていない、珍しい受賞本なんですが、それから8か月ほどで30数万部まで行ったわけですから、さすがといいますか、まあ、直木賞の枠を超えています。
昭和56年/1981年度の文芸書全体では、『人間万事塞翁が丙午』がトップをぶっちぎり、『思い出トランプ』はトップ10入り、ぐらいのところ。夏ごろまでに、30万部超えだったものが、またも「時のひと」となってしまったことから、部数を伸ばしたようで、約5年で46万2千部を記録しました(『新潮社一〇〇年』平成17年/2005年11月、昭和60年/1985年11月までの部数)。
ただ、単行本よりも、あとに出た文庫のほうが大量に売れている。ということでいえば、「直木賞」の売れ行き面では、『思い出~』は『人間万事~』よりも明らかに、エポックメイキングな受賞作です。文庫は昭和58年/1983年5月の発刊から、平成23年/2011年7月の段階で、累計145万部(『朝日新聞』大阪版夕刊 平成23年/2013年7月11日「向田邦子の伝言3」)も出ているといいます。
新潮社だけでなく、競って向田さんに小説・エッセイを書いてもらっていた文藝春秋も、出す本出す本が売れる、という好景気(?)。直木賞をおくっておかなければ、そこまで売れたとは思えず、直木賞大成功の例として、いまも語り継がれています。いや、だれかが語り継いでいってくれると思います。
それと同時に受賞したのが、もう一作あって、そちらは成功だったのか失敗だったのか、もはやよくわからないんですけど、すくなくとも志茂田景樹さんの『黄色い牙』は、まず「よく売れた本」の話題に上がることはありません。
「直木賞の「黄色い牙」は今一つ動きが鈍いですね。」(『出版月報』昭和55年/1980年8月号付録「出版傾向Q&A」より)
それで、部数がどうだったのかといえば、志茂田さんが小説現代新人賞をとり、はじめて書下ろしで祥伝社から出した『異端のファイル』(NON・NOVEL)は、初版が2万5000部だったというのですが、『黄色い牙』のほうは、じっさいよくわかりません。
わかりませんけど、志茂田さんのことは作家デビューの前から知っていた、という恐ろしい人脈の持ち主、山本容朗さんが、とりあえず、こんなふうに明かしてくれています。
「『黄色い牙』は、初版七千部で、直木賞受賞が決まると、五万部増刷したそうである。」(昭和55年/1980年11月・潮出版社刊、山本容朗・著『新宿交遊学』所収「芥川賞・直木賞受賞作家点描」より ―初出『週刊小説』昭和55年/1980年9月5日号)
その後、この単行本が刷数を増やしたとは、とうてい考えられず、およそ6~7万部の受賞作だった、と見るのが妥当でしょう。
ベストセラーとなった受賞作の大山脈のかげに隠れて、そっと咲く花、って感じでしょうか。
○
第83回は直木賞二人で芥川賞はなし、でした。半年前の第82回は、芥川賞が一人に直木賞なし、の回です。
人前に出るのがイヤなのに、たったひとりの受賞者だったから注目を一身に浴びて、ああ疲れた。と森禮子さん、ボヤいています。
「(引用者注:受賞が決まってからは)電話は鳴りっぱなしですし郵便物はどっときますし。私、人なかに出るのはあんまり好きじゃないものですから、たいてい家でひそやかに仕事してましたから。特にこの頃はインタビューずくめでくたびれはてました。
今年は、運が悪くて私が一人でございましょう。ですから何か集中されてるっていう感じで。直木賞、中山千夏かなんかが取っててくれたら、そっちの方が面白いから、みんな向うにいってくれたのにって言ってくれますけれども(笑い)。」(昭和57年/1982年10月・ヨルダン社刊『もうひとりのあなたへ 森禮子対談集』所収「芥川賞まで――文学の道程」より ―対談相手:島村亀鶴、初出:『教会新報』昭和55年/1980年3月1日号)
そうなんですよ、中山千夏さんがとっていたら、いったいどれだけ受賞作が売れたんだろう。と、大変悔しいところなんですが、とってないものは仕方ありません。
さて、森さんの『モッキングバードのいる町』ですが、けっこう売れ足は好調だったらしいです。ほとんどこれは、ちょっと読んでみてもいいかなと軽く手を伸ばしてもらえる、タイトルの勝利、っていう気もしますが、初版は3万部だったとのこと(『新文化』昭和55年/1980年2月21日号)。
ただ、ベストセラーという観点では、ほかのランクイン作品との比較でも、10万部の大台にまでは到達しなかった様子です。おおむね、半年後の志茂田さんの『黄色い牙』と同じくらい、行っても7万部見当だっただろうと思われます。
その後の芥川賞を考えても、特段、売れたわけでも、また売れなかったわけでもありません。いまと大して変わらない、37年前での平均水準です。
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