第76回直木賞『子育てごっこ』の受賞作単行本部数
第76回(昭和51年/1976年・下半期)直木賞
※ちなみに……
第75回(昭和51年/1976年・上半期)芥川賞
第77回(昭和52年/1977年・上半期)芥川賞
けっきょく、売上部数のテーマでも、その転換点は昭和51年/1976年にたどりつくっぽいです。
第74回(昭和50年/1975年・下半期)の『復讐するは我にあり』が、それまでの直木賞史上、話題性も売上でも、まず体験したことのないほどにスパークして、昭和51年/1976年に入って10万部を軽く突破、おそらく20万部にせまるほどに売れてしまった。
……というのが、直木賞のほうで起きた大ニュースだったんですが、世間一般の人びとがゆさぶられるのは、直木賞によってではなく、いつも芥川賞です。この場面でも、当然その格言は生きていて、昭和51年/1976年に「直木賞・芥川賞は売れるものだ!」のインパクトを、世に広めたのは、直木賞ではなく、あきらかに芥川賞のほうでした。
「近頃の芥川賞の狂騒ぶりは、「文藝春秋」としては一億円の宣伝にも該当する。その時の作品の内容によるが、受賞作品は十万部以上五、六十万部までは売れ、村上龍氏の「限りなく透明に近いブルー」の如きは、百数万部売りつくした。」(『季刊藝術』昭和54年/1979年冬号 丸山泰司「昭和の作家3 ―編集者からの素描として―」より)
と、高城修三『榧の木祭り』やら高橋揆一郎『伸予』がほんとに10万部以上売れたのか? という疑問など蹴散らされてしまう、「芥川賞=売れる」という風聞が見事、誕生します。
それまでの直木賞・芥川賞に、けっして売れないイメージがあったわけじゃないと思うんですが、なにしろ『限りなく~』の登場は、両賞の売上にたいする見方を大きく変えたのは、たしかです。
「特色として言えることは ここ2~3ヵ月のベストセラー等の動きの良いものは小説の分野に戻って来ていることです。それと各種の文学賞受賞作品が全部活況を呈していることです。今迄受賞作品は余り振わなかったと言われて来ましたが 最近の受賞作品は5万10万20万部と伸び 時には百万部を越えるように 受賞ものが強気になって来ています。」(『出版月報』昭和51年/1976年11月号付録「出版月報11月号Q&A」より ―太字下線は引用者によるもの)
「(引用者注:今年の特徴として)従来販売力としては強くなかった文学賞受賞作品群の売れ行き増加が目立ちました。」(『出版月報』昭和51年/1976年12月号付録「出版月報12月号Q&A」より ―太字下線は引用者によるもの)
まあ、ミリオンセラーですからね。人の意識を変えるこのくらいの影響力は、あって当然かもしれません。
芥川賞は第75回の『限りなく~』以降、たしかにその注目度が本の売り上げに結びつく例がつづきました。第77回は『エーゲ海に捧ぐ』『僕って何』ともに、正真正銘のベストセラーに(『エーゲ海~』は受賞前からずいぶん売れていた、とも言われますけど)。第78回は『螢川』、第79回は『九月の空』と、いずれも20万部超を達成します。
その後、「芥川賞だっていうのに、たいして売れなくなった」と発言する人たちの比較対象は、ほぼその数年の芥川賞好調期にある、と見てもあながち間違っていないと思います。あるいは、「芥川賞といえば軒並み売れていた時代があった」みたいな、みずからの脳内でつくりだした幻想をもとにしているかの、どちらかです。
しかし、受賞作が飛ぶように売れる先鞭をつけたのは、昭和51年/1976年前半に、大衆文芸の砦・直木賞だっつうのに〈ノンフィクション〉ノベルが受賞したんだってさ、文芸の世界もいろいろ煮詰まってきちゃって大変だよね、という素晴らしい反応を生み出した『復讐するは我にあり』でした。……とか言うと、どうせ直木賞のほうが好きだからそっちの肩をもっているだけだろ、とスカされるので、やめときます。
ともかく、まれにみる受賞作好調時代だったんですけど、直木賞のほうは、第75回該当なし、第77回と第78回も連続該当なし。煮詰まりのドン詰まりぶりは相当なもんでした。
そのなかで、絞り出すがごとくに生まれた受賞作が、第76回(昭和51年/1976年・下半期)三好京三さんの『子育てごっこ』です。
○
20万部以上の受賞作が続出した昭和50年代前半の直&芥。出版社名でいうと、講談社(復讐するは我にあり)、講談社(限りなく透明に近いブルー)、河出書房新社(僕って何)、角川書店(エーゲ海に捧ぐ)、筑摩書房(螢川)、河出書房新社(九月の空)、講談社(一絃の琴)……となります。
文藝春秋のためにやっていると、その当時ですら直&芥は揶揄されていましたが、偶然か必然か、文藝春秋からの受賞本は、ベストセラーリストの下位に沈みっぱなしでした。
で、そこにあらわれた救世主。なのか何なのか、直木賞が手を出したのが、売れ線の〈ノベルス〉〈冒険モノ〉じゃなくて、旧来型の純文芸誌あがりの作品、『子育てごっこ』。ほとんど、好調な芥川賞の風に乗ったようなかっこうで、直木賞のこちらも意外に売れてしまい、文藝春秋からの受賞本が、珍しく売れ行きでも上位におどり出たのですから、ここでもまた、芥川賞サマサマです。
では『子育て~』がどのくらい売れたのか。この作品を担当し、また直&芥の語り部ともなった高橋一清さんが、明かしてくれています。
「直木賞の受賞によって、岩手の分校の先生から流行作家へと三好京三さんの身の上は一変した。昭和五十一(一九七六)年度下半期、第七十六回直木賞の『子育てごっこ』は、文學界新人賞の作品をもとに続篇を書き足したものである。私はこの一連の作品の担当をつとめた。そして、一冊の単行本にまとまったところで、直木賞の候補となり、受賞した。初版五千部の本がまたたく間に六十万部も売れた。」(平成20年/2008年12月・青志社刊 高橋一清・著『編集者魂』所収「「芥川賞・直木賞」物語」より)
信頼のタカハシこと、高橋さんのことですから、テキトーな部数をこんなところで書くはずがありません。60万部売れたんでしょう。
ただ、「またたく間に」はさすがに盛りすぎじゃないでしょうか、高橋さん。
文庫版も含めて累計60万、ならまだわかりますけど、単行本が短期間にいったいどこまで売れたのやら。昭和52年/1977年1月の受賞からだいたい1年弱、その年の売れ行き良好リストでは(日販調べのフィクション部門)20位以内に入れず。『エーゲ海に捧ぐ』(第2位)、『僕って何』(第5位)といったところに比べて、差は歴然です。
この時期、文庫版も含めて累計60万、ならまだわかりますけど、単行本が短期間にいったいどこまで売れたのやら。昭和52年/1977年1月の受賞からだいたい1年弱、その年の売れ行き良好リストでは、東販調べのフィクション部門で第12位、日販調べのフィクション部門では20位以内にも入れず。『エーゲ海に捧ぐ』(東販3位、日販2位)、『僕って何』(東販7位、日販5位)といったところに比べて、差は歴然です。
ちなみに単行本での売り上げ部数は、最終的に『エーゲ海~』が47万5000部、『僕って何』が33万部と言われています。
『子育て~』がどんなもんだったかは、当時、こう報道されていました。
「三好京三氏の直木賞受賞作『子育てごっこ』が、今井正監督のメガホンで撮影たけなわ。(引用者中略)
原作は現在、二十五万五千部売れ、「映画のヒットでまた売れたら、小巻ちゃん(女先生役の栗原)にも、お礼しなくちゃ」と、三好さんはえびす顔。」(『週刊読売』昭和53年/1978年8月20・27日合併号「「子育てごっこ」千尋ちゃんは心配顔」より)
これが受賞後1年半ごろのこと。『エーゲ海~』や『僕って何』と比べてみて、25万5000部、そこら辺が妥当な情報だと思います。
しかし、25万超というだけでも、直木賞にとっては、驚異的な数字です。受賞作なしが繰り返されたことと、ドカッと売れる受賞作が頻発した時期が、昭和50年代前半にちょうど重なり、直木賞の大きな転換点になったのは疑いありません。この時代を「ああ、あのころはよかったなあ」と回顧したがる気持ち、わからないでもない気がします。
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