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2017年2月19日 (日)

第85回直木賞『人間万事塞翁が丙午』の受賞作単行本部数

第85回(昭和56年/1981年・上半期)直木賞

受賞作●青島幸男『人間万事塞翁が丙午』(新潮社刊)
受賞前1万7,000部→103万2,000(受賞約半年で)117万

※ちなみに……

第85回(昭和56年/1981年・上半期)芥川賞

受賞作●吉行理恵「小さな貴婦人」収録『小さな貴婦人』(新潮社刊)
22万2,000

 テレビから映画から歌の作詞から、活躍のフィールドは幅広く、とにかくあまりに有名人すぎて、軽く国会議員にまでなってしまった、いわば平成27年/2015年夏当時の又吉直樹とは比べもんにならないぐらいの人気を誇っていた芸能人が、はじめて小説を発表、それがいきなり直木賞受賞だぜ! ……というのに、けっきょく100万部程度しか売れなかった、悲しき受賞作、『人間万事塞翁が丙午』です。

 と、こういうことを言うと、またオカシなことほざいてやがる、と引かれるんでしょうが、でも、あれほど知名度のある人が、これほど知名度のある直木賞をとった、と考えれば、あと2倍は売れていても不思議じゃありません。

 今週もどうせ言いたくなるはずなので、先に言っておきます。やはりここは、直木賞というものが持つ悲しさに、胸が痛くなります。

 100万部を突破すれば、そりゃあ、まわりが盛り上がるのは道理でしょう。これが芥川賞なら、確実に「時代を画した」「賞の歴史を動かした」と絶叫する人が現われ、歴代の売上げでは何位だの、何年ぶりに記録を更新しただの、芥川賞と聞くだけで目をランランとさせる、そのくせ自分が芥川賞偏愛者であることに無自覚な人びとが、懲りもせず、熱ーく後世まで語り継いでいきます。

 それに比べて直木賞は……、と愚痴しか出てきませんから、ここらでやめておきますけど、とにかく直木賞の受賞作が単行本で100万部を超える、なんて前代未聞の大事件。その後、浅田次郎さんの『鉄道員』に抜かれるまで、ただ一作のミリオン達成作品、だったんですが、いったい『人間万事~』が直木賞の歴史を変えるような受賞だと伝承されているか、といえば疑問です。

 青島幸男さんのことは、何度かうちのブログでも取り上げてしまったので、新しいハナシをするつもりもありません。やはり、「芸能人が小説を書き、それに文学賞を与えて、たくさん本が売れる」、それが成功した事例、として知られています。

 ワタクシも、青島さんへの授賞が直木賞の歴史とか日本の小説界を変えた! とはまったく思いませんけど、しかし、ここには明らかに、当時の直木賞らしさが見えています。うん、これこそが直木賞だよね、と思わせるものが、この特異なはずの授賞にも、はっきり現われています。

 たとえば芸能人の小説、のなかには、〈芸能人の小説〉ということが読者の購買意欲をそそる類いのものがあります。以前、「芸能人と直木賞」のテーマで取り上げた何人かの作品は、それ系統と言っていいでしょうし、そこに「その人の露出度の高さ」とか「内容が刺激的」とか「読者の評判」とかが加わって、何万部、何十万部の売り上げにつながり、ベストセラーリストに登場するものが、(全部ではなく)一部にある。これはよくわかります。

 青島さんの『人間万事~』は、歴然たる芸能人の小説です。だけど残念ながら、それだけでベストセラーになるほどの評判作ではありませんでした。

 部数の推移を追ってみます。「四月単行本として刊行されたが、今一歩売れ行きが伸びず、直木賞決定時の七月までに再版分合わせて一万七千部だったという」(『創』昭和57年/1982年11月号 真下利夫「ベストセラー商法の道具と化した文学賞」)。しかしここから、直木賞でドカーンと売れ行きが伸び、ひと月足らずで10万部突破(『出版月報』8月号)、翌月には40万部(同9月号)、さらに翌月には倍増の80万部(同10月号)と、ベストセラー街道の波に乗ります。

 昭和56年/1981年、上半期の文芸書で圧倒的に売れた田中康夫『なんとなく、クリスタル』100万部を、年内のうちに抜いて103万2,000部(『新文化』昭和56年/1981年12月31日号)。

 翌昭和57年/1982年、まだまだ売れ行きの足がつづき、その年だけの部数でいっても19万3,000部。と、新潮社の単行本ベスト5にランクインし(『創』昭和62年/1987年10月号「新潮社VS文藝春秋 出版社の比較研究」)、受賞から約1年、その効果も落ち着いた昭和57年/1982年9月までに117万部、という記録を残しました(『新潮社一〇〇年』平成17年/2005年11月)。

 受賞前には1万部~2万部程度。何もなければそれで終わっていたような小説です(ちなみに最近でいえば、『蜜蜂と遠雷』の受賞前は7万部だったといいます)。こういうものを、賞の力で、もっと大勢の人の目の届くところに押し出してあげる。……っていうのが、だいたい直木賞が果たしてきた役割のひとつです。

 その意味では、芸能人の小説だったとしても、他の回とあまり変わるところはありませんでした。

           ○

 まあ、テレビでなじみのタレントが文学賞をとる、というのは、直木賞にとって異常なことだったのはたしかです。結果は、直木賞初のミリオン突破をもたらしました。そのことは別に、悲しくはありません。

 いつも直木賞の悲しさをもたらすのは芥川賞。っていうことわざがあるとおり(?)、この回は、芥川賞もまた、異常な(というか、それまでに例がないかたちでの)受賞者を生み出します。これがまた、けっこう売れてしまって大にぎわい。直木賞だけを華々しい状況にさせておかない、芥川賞のイヤなヤツ感が、またいっそう高まることにもなりました。

 まさかと言いますか、吉行理恵さんの『小さな貴婦人』が、売れてしまうのです。

(引用者注:『小さな貴婦人』は)猫にまつわる詩的イメージ豊かな作品で、ユーモアを秘めた地味な作品といえるが、猫ファンもふくめて、二十万部を突破した。しかし、受賞の四カ月ほど前に刊行された吉行理恵の短篇集『井戸の星』(講談社)は初版四千部のままだったという。受賞後増刷したが売れ行きはあまりかんばしくない。芥川賞を受けた作品は二十万部。このギャップが芥川賞の値打ちであろう。」(『創』昭和57年/1982年11月号 真下利夫「ベストセラー商法の道具と化した文学賞」より)

 と、この記事ではいかにも芥川賞で20万部いくのは当たり前、みたいな書き方をしてありますが、選考委員をも務める有名作家の実妹、あるいは著名な女優の実妹。……というぐらいのことがなければ、さしもの、人びとに本を買わせる芥川賞の魅力にも限界があります。

 20万部以上の芥川賞受賞作というのは、これまで、全体の15%ぐらいしかありません。『小さな貴婦人』の売れ行きは、15%の珍しい分類に入っています。そして、その珍しいことが、直木賞のなかでは稀にベストセラーを生むことになった回とカブッてしまう、というのが、ああ、直木賞ってほんとモッてないなあ。と言いますか。

 これで、「話題性のある人に、文学賞をとらせて、本を売って、カネもうけして、文学を堕落させる、芥川賞と直木賞」みたいな、粗雑以外の何ものでもない取り上げられ方の、一エピソードとして、青島さんへの授賞が位置づけられてしまったのは否めません。やはり悲しいことです。

 賞をとるまえから〈芸能人の小説〉ということで50万部も60万部も売れている作品に、さらに授賞させる、みたいなやり口の文学賞よりは、『人間万事~』に与えた直木賞のほうが、よっぽどましな授賞姿勢だと思います。

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