« 2016年8月 | トップページ | 2016年10月 »

2016年9月の4件の記事

2016年9月25日 (日)

第105回直木賞『青春デンデケデケデケ』、第106回直木賞「狼奉行」『緋い記憶』の単行本部数

第105回(平成3年/1991年・上半期)直木賞

受賞作●芦原すなお『青春デンデケデケデケ』(河出書房新社刊)
18万(受賞1か月半で)23万(受賞半年で)

第106回(平成3年/1991年・下半期)直木賞

受賞作●高橋義夫「狼奉行」収録『狼奉行』(文藝春秋刊)
初版(受賞後)6万部→7万
受賞作●高橋克彦『緋い記憶』(文藝春秋刊)
受賞前2万部→11万

※ちなみに……

第105回(平成3年/1991年・上半期)芥川賞

受賞作●辺見庸「自動起床装置」収録『自動起床装置』(文藝春秋刊)
初版(受賞後)5万部→7万
受賞作●荻野アンナ「背負い水」収録『背負い水』(文藝春秋刊)
初版(受賞後)8万部→18万

第106回(平成3年/1991年・下半期)芥川賞

受賞作●松村栄子「至高聖所」収録『至高聖所』(福武書店刊)
初版(受賞後)7万

 平成3年/1991年、『妊娠カレンダー』が意外にヒットしたことで、「文学賞は売れ行きをもとに語れ!」という風潮に火がついたことは、否定できません。いや、否定できるかもしれません。ともかくも、そこから先しばらくは、「あれれ、今度の芥川賞も売れないなあ」と、10万部以下受賞が何度も繰り返されるうちに、昔からおなじみの「どうにかして芥川賞を批判したいぜ」欲求の新形態として、純文学といえども売れなきゃ駄目だ、みたいなことがギャンギャン言われるようになり、やがて笙野頼子さんブチ切れる……という展開をみせる1990年代です。

 売れない、と言ったって受賞作は5万も7万も刷られます。芥川賞やらが文句を言われる筋合いはありません。その面で直木賞のほうは、まあ、基本的にコイツをネタにしても盛り上がらないと知れ渡っていたらしく、売り上げが好調だとか低調だとか、特別に指摘されることは多くありませんでしたが、およそ芥川賞の2倍から3倍の売れ行き、というところで推移します。

 そのなかで、第105回(平成3年/1991年・上半期)は、芥川賞が「自動起床装置」「背負い水」の文春2作に対して、直木賞『夏姫春秋』『青春デンデケデケデケ』と、直木賞では珍しい版元の作品に賞が与えられました。『夏姫春秋』のほうはすでにちょっと触れましたが、『青春デンデケ~』もかなりの結果を残します。

 そもそもが、「文藝賞」の受賞作でもあり、この賞は以前からときどきベストセラー入りすることがある稀有な文学賞のひとつでもあって、直木賞までに10万部近く(!)は行っていたらしいんですが、受賞から1か月で18万部、2か月で20万部を超え、発売約1年で23万部。……と『出版月報』&『出版指標年報』の記録から読み取れます。

 受賞翌年には映画も公開され、それが本の宣伝の役割も果たしたので、もう少し部数は伸びたはずですが、それがなかったにしても、これは、1年後にやってくる伊集院静『受け月』と同じくらいの売れ行きです。芸能ニュースの底力のおかげで一定期間ベストセラーの座をキープしたといわれる、アノ『受け月』に匹敵するわけですから、十分すぎる結果でしょう。

 20万部超えがコンスタントに出るようになった、というのは、昭和のおわりごろから発生した直木賞の特徴です。それが転じて「売れない芥川賞は駄目だ」とまず言われだし、そのうちに「売れない直木賞なんてクソだ」とオチョくられるようになる、トンデモ文学賞観が跋扈する土壌を築くことになりました。

 受賞作が順調に売れるのも痛しかゆし、といったところですが、まあ直木賞と芥川賞の場合、「受賞作の売れ行き」は、後追いで生まれたネタなので、そこがどう叩かれようが、痛手はあんまりありません。

 『青春デンデケ~』の、三島賞落ち&直木賞受賞後には、

「地方ではふるさと創生の旗印の下に、中央では文芸出版の生き残りのために、「石を投げれば賞に当たる」といわれる文学賞インフレ時代。それは新しい才能を生み出す土壌なのか、“文芸バブル時代”の象徴なのか。いずれにしても、出版社でも、作家でも、選考委員でもなく、読者が主体性をもって作品を選択する時代となってきたことだけは、確かなようだ。」(『読売新聞』平成3年/1991年8月9日夕刊「評価二分の直木賞「青春デンデケデケデケ」 現代文学の多様性反映」より ―署名:(鵜))

 という、何のコッチャよくわからない記事も書かれましたが、こういうことが言われるのも当然、文学賞があればこそです。「芥川賞が売れない、直木賞はちょっと売れる、だけどもっと売れる(読者に支持される)小説最強だ」みたいな、文学賞のほんの一側面だけを利用した、「何のコッチャ」なおもしろ記事が、次々に出てくることになります。

続きを読む "第105回直木賞『青春デンデケデケデケ』、第106回直木賞「狼奉行」『緋い記憶』の単行本部数"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年9月18日 (日)

第103回直木賞『蔭桔梗』、第104回直木賞『漂泊者のアリア』の単行本部数

第103回(平成2年/1990年・上半期)直木賞

受賞作●泡坂妻夫『蔭桔梗』(新潮社刊)
受賞後+5万部→7万(受賞半年で)

第104回(平成2年/1990年・下半期)直木賞

受賞作●古川薫『漂泊者のアリア』(文藝春秋刊)
受賞後+5万部→9万(受賞1年で)

※ちなみに……

第103回(平成2年/1990年・上半期)芥川賞

受賞作●辻原登「村の名前」収録『村の名前』(文藝春秋刊)
7万(受賞半年で)

第104回(平成2年/1990年・下半期)芥川賞

受賞作●小川洋子「妊娠カレンダー」収録『妊娠カレンダー』(文藝春秋刊)
初版(受賞後)5万部→31万

 たとえば、直木賞・芥川賞が決まるたびに、その受賞作が、洩れなく30万部も40万部も売れる。……なんていうのは、多くの日本人の気が狂わないかぎり実現しない数字なので、まともな人なら、そんな状況、絶対に望まないと思います。ワタクシも望みません。

 先週触れた平成1年/1989年、平成2年/1990年ごろというのは、気の狂いはじめた人が増えたのか、だんだんと「直木賞・芥川賞は以前に比べて売れない(とくに芥川賞)」といった指摘が、何かに対する警告のように唱えられだした時代です。今週は、さらにその続きの回の、本の売れ行きについて、見てみたいと思います。

 第102回直木賞の原尞『私が殺した少女』は、直木賞の歴史のなかでも、かなり上位の売れ行きだったなんですが、出版科学研究所の林正則さんにすれば、ちょっと物足りなかったようです。

「出版科学研究所の林正則さんは、「文芸書の売れ方が低調だった要因の一つは、文学賞の受賞作品が弱かったこと。芥川・直木賞では、『私が殺した少女』『ネコババのいる町で』はそこそこ部数を伸ばしたが、大岡玲の『表層生活』などは全く動きが悪い。山本周五郎賞や三島由紀夫賞に至っては惨敗」という。」(『産経新聞』平成2年/1990年7月27日夕刊「今年上半期のベストセラー 目立った話題先行型」より ―署名:大澤洋一)

 この記事を書いた産経新聞の大澤さんは、翌年8月、同じく年間の上半期ベストセラーを総括する記事で、こんな表現を使用するに至っています。

「文芸書の分野では、たとえ芥川賞や直木賞を受賞しても、それだけではベストセラー入りできない傾向が今やはっきりしてきた。」(『産経新聞』平成3年/1991年8月2日夕刊「今年上半期ベストセラー 条件は女性に受けること!? 恋愛ものが部数伸ばす」より ―署名:大沢洋一)

 いや、そんなこと言っていないで、どうか、お願いします。「芥川賞や直木賞を受賞すれば、それだけでベストセラー入りできる傾向にあった時代」とは、いったいいつなのか。本気で教えてもらいたいんです。そうであった時代にたどりつきたくて、いろいろ探しているんですけど、いまのところ、見つかっていません。

 それで、この2つの記事が書かれた期間中、直木賞は、平成2年/1990年7月決定の第103回と、平成3年/1991年1月決定の第104回の分がありました。受賞作は、泡坂妻夫さんの『蔭桔梗』と、古川薫さんの『漂泊者のアリア』です。

 前者の第103回では、芥川賞のほうが辻原登さんの「村の名前」。ということで、どうですか。いやー、地味なオジさんコンビだし、作品の内容も、何だかパッとした華やかさがない。タイトルからしてもう、好事家しか買わないことが目に見えている。駄目だね、こりゃ……と、だれでも予想すると思います。そして、やっぱり予想どおりの売れ足だったらしく、どちらも10万部ラインまで達しなかったらしいです。

 とはいえ、べつにこの2作が、受賞決定後の8月や9月に、まったく振るわなかった、というわけじゃありません。それぞれ売れた本屋では売れて、ベストセラーリストに顔を覗かせています。

 1回1回の受賞と、その時代背景や他の本の動きを加味して、読んでいる人たちに「なるほどーっ!」と思わせるような、何か分析めいたことを言わなきゃいけない記者や専門家の方々って、ほんと大変だろうなと、重々お察ししますが、はっきり言って、以前と比べて何がどう変わったということのない、相変らずの直木賞・芥川賞の動き、だったとしか思えません。

続きを読む "第103回直木賞『蔭桔梗』、第104回直木賞『漂泊者のアリア』の単行本部数"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年9月11日 (日)

第101回直木賞『高円寺純情商店街』『遠い国からの殺人者』、第102回直木賞『私が殺した少女』の単行本部数

第101回(平成1年/1989年・上半期)直木賞

受賞作●ねじめ正一『高円寺純情商店街』(新潮社刊)
受賞後+3万部→20万(受賞9か月で)→?
受賞作●笹倉明『遠い国からの殺人者』(文藝春秋刊)
受賞後+5万部→7万

第102回(平成1年/1989年・下半期)直木賞

受賞作●原尞『私が殺した少女』(早川書房刊)
受賞前4万部?→35万

※ちなみに……

第102回(平成1年/1989年・下半期)芥川賞

受賞作●瀧澤美恵子「ネコババのいる町で」収録『ネコババのいる町で』(文藝春秋刊)
15万

 ここ2~3か月、意識して「直木賞の売れ行き」に関する文章を探すようにしているんですけど、よく目につくよなあ、っていう表現があります。「最近の直木賞のなかでは好調で~」うんぬん、というやつです。

 とくに、これが頻出しはじめるのが、前週ふれた宮尾登美子『一絃の琴』(第80回 昭和53年/1978年・下半期)より後になってから、1980年代以降のことです。80年代は、とにかく「文芸書が売れなくなった!」と叫びたがる病気が蔓延し、あっちこっちで、小説売れない、小説売れない、とイイ年した大人たちが、カネにまつわる話でやたら興奮していた時期ですので、直木賞についても、(ようやく)売れた・売れないの話題が、大っぴらに語られるようになります。

 それはいいんですけど、どうもクセモノなのが、「最近の」っていう部分なんすよね。

 直木賞(や芥川賞)に対する発言といって、「最近の受賞作は~」とか「昔のほうが~」とか、そういう語り口をよく目にします。目にするどころか、定番中の定番というか、もうそういう感想には飽きたよというか、じつに(とくに芥川賞などは)戦前から繰り広げられつづけている、何の学習能力も感じられない文学賞批評なんですけど、売れ行きに関しても、やっぱりこれは王道の表現のようです。

 何なんでしょう。人は、直木賞を目の前にすると、時間感覚がおかしくなるんでしょうか。1980年代以降の、たった30余年のあいだに、「最近の直木賞としては好調で~」みたいな表現が、何度も何度も登場する、おかしな現象を生んでいて、どうも4~5年ぐらい前のことは、もう「最近」ではなくなるらしいです。完全に感覚が狂っています。だいじょうぶでしょうか。

 このあいだ、第100回(昭和63年/1988年・下半期)前後のことを取り上げました。景山民夫『遠い海から来たCOO』(第99回 昭和63年/1988年・上半期)が受賞2か月半で22万部、だいたい受賞1年ぐらいたった平成1年/1989年7月12日現在で40万部、と報告されています(『日経トレンディ』平成1年/1989年9月号「文学のもうひとつの基準 賞と売れ行きとの微妙な関係」)。第100回受賞の藤堂志津子『熟れてゆく夏』も、だいたい受賞2か月足らずで、21万8千部、同じく『日経トレンディ』の記事では26万部、と伸ばしており、だれがどうみても、「売れた直木賞受賞作」の部類です。

 それからわずか1年。第102回(平成1年/1989年・下半期)は、星川清司「小伝抄」と原尞『私が殺した少女』の2作が、受賞と決まります。星川さんのほうは、受賞が決まって以降の3月に、受賞作が単行本として発売される、というタイミングはもとより、ご想像のとおり、まず「売れた直木賞」のニュースには顔を出さない、地味ーな売れ行きだったらしいんですけど、問題は原さんのほうです。

 よく売れました。

「『私が殺した少女』(早川書房)は26万部まで来たが、直木賞作としては久々に相当のヒットが見込めそうだ。」(『出版月報』平成2年/1990年2月号「出版傾向 書籍」より)

「(引用者注:『私が殺した少女』は)31万部、直木賞作品としても久々のヒットだ。」(『出版月報』平成2年/1990年3月号「出版傾向 書籍」より)

 この年の早い段階で、公称35万部まで行った、といわれています。

 しかし、ほんの1、2年前に、(おそらく)40万部近くの『遠い海から来たCOO』とか、(おそらく)20万部なかばの『熟れてゆく夏』とか、そういう受賞作があるのに、ここで「久々のヒット」という表現を選択する神経がもうアレです。何というか、直木賞を前にすると人は時間感覚がおかしくなるんだろう、と考えるしかないじゃないですか。

 ちなみに売れ行きについて、原尞さんは、こんなことを語っています。

「白石(引用者注:白石一郎) 今度、原さんの作品が三十五万部も売れたことは素晴らしいことです。

原 いやあ、あれは公称ですよ。(笑い)

(引用者中略)

今回は、芥川、直木賞受賞作のうち、単行本があったのはぼくだけで、運もよかった。受賞前の部数が正確な数字ではないかな。

高樹(引用者注:高樹のぶ子) いえ、作品そのものも面白く、ミステリー以外の読者を引きつける魅力がありましたよ。

原 ミステリーの売れ行きも限界があって、ベストセラーになるには別のジャンルでないとだめでしょう。最近はミステリーはダサイという世代もありますし……。」(『西日本新聞』平成2年/1990年4月13日「九州の文学を語る・芥川賞、直木賞作家座談会 9 地域性」より)

 テレというか、軽くいなす感じが、まったく原作品のファンを裏切りません。「受賞前の部数」はどのくらいだったかといえば、4万部とか、あるいは8万部とか、そういう文献が見受けられます。

 その後、「書かない受賞者」の道を突き進み、平成12年/2000年に受けたインタビューでは、

(引用者注:『私が殺した少女』は)四十万部以上売れ、文庫本にもなった。

「それまで、一、二年に一作、そこそこ面白いものを書けばやっていけるかな、という矢先にボーナスみたいなカネが転がり込んできた」

裕福になり、小説を書く気力と動機を失う。「本来ぼくは怠け者。(売れるから)受賞直後に書け、と勧められても、小説を書かなければならない理由がない」」(『佐賀新聞』平成12年/2000年9月25日「さが100年の物語20世紀の群像」より)

 などと答えたりして、ほんとに食えない人です。

続きを読む "第101回直木賞『高円寺純情商店街』『遠い国からの殺人者』、第102回直木賞『私が殺した少女』の単行本部数"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年9月 4日 (日)

第71回直木賞「鬼の詩」、第80回直木賞『一絃の琴』の単行本部数

第71回(昭和49年/1974年・上半期)直木賞

受賞作●藤本義一「鬼の詩」収録『鬼の詩』(講談社刊)
初版5,000部→3万部超(受賞1か月で)→さらに増刷

第80回(昭和53年/1978年・下半期)直木賞

受賞作●宮尾登美子『一絃の琴』(講談社刊)
初版1万5,000部→32万

※ちなみに……

第76回(昭和51年/1976年・下半期)直木賞

候補作●宮尾登美子『陽暉楼』(筑摩書房刊)
初版8,000部→?

 先週『復讐するは我にあり』を取り上げたので、その流れで、『鬼の詩』と『一絃の琴』にも手を伸ばしてみます。

 『復讐するは~』が受賞したのが、第74回(昭和50年/1975年下半期)。ちょうどその前後に、同じ講談社から受賞本になったのが、第71回(昭和49年/1974年上半期)の藤本義一「鬼の詩」(収録の同題書)と、第80回(昭和53年/1978年・下半期)の宮尾登美子『一絃の琴』です。5年以内で重なっていて、だいたい同じころ、と見ていいでしょう。

 まずは藤本さんです。直木賞を受賞する前からすでに、雑誌の連載やら、注文原稿やらをどっさり抱える人気作家だった、と言われています。というか、ご自身で言っています。

 基本、エンターテイメント小説の世界で「人気作家」と言った場合、雑誌や新聞にどれだけ大量の原稿を書いているか、が一番のバロメーター。著書の売れ行きなどは、二の次でした。校條剛さんが『ザ・流行作家――笹沢左保 川上宗薫』(平成25年/2013年1月・講談社刊)で、雑誌には月産ン百枚で書いている人気作家、でも出す本はさほど売れたわけじゃない、みたいなことを書いているのは、まさにそういうことなんだと思います。

 「売れっ子」の部類に入るはずの黒岩重吾さんなども、本はあまり売れない作家、と言われていたそうです。

「角川文庫は黒岩氏の「文庫フェア」をやって成功したらしい。とにかく、黒岩氏の作品が売れだしたという。どちらかと言えば、雑誌の売れっ子作家でも、本の売れ行きはもう一つといった評価が黒岩氏にあった。(昭和57年/1982年9月・文化出版局刊 山本容朗・著『作家の人名簿』「黒岩重吾」より)

 と、黒岩さんのハナシをしている場合じゃありません。藤本さんもまた、月産ン百枚、次々から次へと原稿の締め切りに追われる人気の作家、しかもテレビに出ている有名人。だったのに、直木賞をとるまで、そんなに本は売れちゃいなかったらしいです。

 受賞して、講談社の『鬼の詩』が3万部を突破した、と証言しています。

「受賞後一カ月あまりが経過しようとしている。(引用者中略)そして、これはまったく奇妙なことだが、受賞作から目を逸らしたい気持になっている。今まで、三万部以上売れたことがなかったので、三万部売れたと聞くと、ただもうそれだけで空恐しく、書いたものが自分の手になったものであっても、それはもう他人の手に渡ったものとしか眺められない。だから五十万部、百万部突破という超ベストセラーを書いた人は、一体どんな精神の持主であったかと考えてみる。強靭というよりも異常ではなかったかとも思う。」(『文藝春秋』昭和49年/1974年10月号 藤本義一「直木賞のためのタキシード」より)

 3万部でもう動揺しているじゃないですか。何と、かわいい感覚でしょう! ……このときまでにすでに50万部以上の超ベストセラーを出したことのある芥川賞じゃなく、受賞作でも数万のレベル、という水準だった直木賞の世界ならでは、と言ってもいいと思います。

 このあとも、『鬼の詩』は増刷を重ねていきまして、少なくとも翌年までかけて、10刷以上には伸びました。初版が5,000部、1か月で3万部、しかし昭和49年/1974年の年間ベストセラーリストには入らず。といったところで、さすがに10万部の声は聞けなかった、と推測しますが、「売れっ子」藤本義一さん史上、経験したことのない売れ行きを見せたのは、(当時の)微力な直木賞にしては、よく効果を発揮したほうです。

 本が売れる、ってことでは、まだ昭和40年代は、直木賞は全然、芥川賞に歯がたたなくて、昭和49年/1974年でいうと、森敦さんの『月山』という、地味な文学を煮詰めました、みたいな作品に、売れ行きでまったく及びませんでした。

続きを読む "第71回直木賞「鬼の詩」、第80回直木賞『一絃の琴』の単行本部数"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2016年8月 | トップページ | 2016年10月 »