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2016年7月 3日 (日)

第52回直木賞『炎環』と同候補『帝国軍隊に於ける学習・序』の単行本部数

第52回(昭和39年/1964年・下半期)直木賞

受賞作●永井路子『炎環』(光風社刊)
2万5,000

※ちなみに……

第52回(昭和39年/1964年・下半期)直木賞

候補作●富士正晴『帝国軍隊に於ける学習・序』(未来社刊)
2,000部~3,000

第50回(昭和38年/1963年・下半期)直木賞

受賞作●和田芳恵『塵の中』(光風社刊)
2万5,000

 今日も出だしは、景気のよくない話からいきます。

 いや。よくない、っていうか、そんなの普通だよ、みたいなハナシかもしれません。

 未來社、というシブくて堅い出版社があります。なにしろ、シブくて堅いので、直木賞ファンであるワタクシは、そんなに馴染みがありません。そこで30年ほど編集者をやっていた松本昌次さんに『わたしの戦後出版史』(平成20年/2008年8月・トランスビュー刊)という本があって、聞き手の上野明雄さん、鷲尾賢也さんを相手に、未來社時代に関わった数々の、シブくて堅い(……堅そうな)著者たち、あるいはその本のことなどが、てんこもりに語られています。やたら面白い本です。

 ええ、直木賞と未來社に、たいした縁はないと思うんですけど、未來社から出た本が、一回だけ、直木賞候補になったことがあります。まったく、直木賞の雑食ぶりには、あきれ返るしかないんですが、第52回(昭和39年/1964年・下半期)、なぜか富士正晴さんの、なぜか『帝国軍隊に於ける学習・序』が、直木賞の予選を通過しています。

 その『帝国軍隊に於ける学習・序』の出来上がるまでが、つくった松本昌次さん自身の口から語られている。もうそれだけで、『わたしの戦後出版史』って本はキュートです。

「――未来社から出た富士さんの本は、最初は小説でしたよね。未来社では、めずらしかったんじゃないですか。

松本 最初に手がけたのは短篇集の『帝国軍隊に於ける学習・序』(一九六四・九)です。富士さんがそれまでに書いた戦場小説を七篇集めて、西谷能雄(引用者注:当時の未来社社長)さんに企画を出したら、「なに! あの富士君が小説を書いているの?」と驚かれましてね(笑)。というのは、戦争中の四二年から翌年にかけて一年ほど、弘文堂の京都店に、富士さんは編集者として勤めたことがあるんです。弘文堂は東京と京都に店があって、西谷さんは三七年の入社以来、両方を行き来していましたからよく知っていたわけです。」(『わたしの戦後出版史』「13 竹林の隠者、富士正晴」より)

 まともにやっても、富士さんの短編集など、売れるとは思えませんよね。しかし、これはどうしても出したいんだと、企画を通した松本さんの偉さが光るところです。

 そして話は、売れゆきの件へと及んでいます。

「――富士さんの最初の本の反響はいかがでしたか。

松本 『帝国軍隊……』は直木賞の候補にもなったんですが、せいぜい二千か三千部ぐらいしか売れなかったんじゃないですか。(引用者中略)六四年十二月に、戦場ではなく戦後を題材にした短篇七篇を集めた『あなたはわたし』も未来社から出したんですが、これがまた前の本に輪をかけたようにさっぱり売れない(笑)。」(同)

 うーん、万が一、富士さんが直木賞をとっていたら、どうなっていたでしょう。……「こんな純文学の人が直木賞なんて、おかしいぞっ、キーッ!」とか目くじら立ててわめき立てる、文学亡者たちが、どうせまた、直木賞をバンバン攻撃しまくったに決まっていて、そんな連中に攻撃材料を与えずに済んだだけでも、正直、ワタクシはホッとします。まじでウッサいですからねー、「直木賞」をネタにするときの、文学亡者たちのワンパターンな攻撃は。

 大川公一さんの『竹林の隠者 富士正晴の生涯』(平成11年/1999年6月・影書房刊)によれば、富士さん自身も、直木賞の候補に挙げられたことには、閉口、または困惑していたらしいです。そういう感情を相手にもよおさせちゃうところが、直木賞の不徳のいたすところ。というか、ただそこにあるだけなのに敬遠される、直木賞の可哀そうなところ、だと思います。かなしいです。

 と、つい(往年の)直木賞の姿を見て涙ぐんでしまう直木賞オタクの反応も、またワンパターンなので人のことは言えません。とりあえず、人を攻撃することで溜飲をさげるような文学亡者のいるところから、少し離れたいと思います。

 直木賞候補、に選ばれたって、そんなに売れゆきが伸びたわけじゃない、っていうのは、まったく普通かもしれません。じゃあ、これと同じく第52回、運よく受賞した本は、どのくらい売れたんでしょう。

           ○

 うちのブログでは、何度も取り上げてきました。しつこいですけど、豊島澂さん率いる光風社の話題です。

 光風社は、規模は資本金50万円、社員7人と、たいして大きくはなかったそうですが、直木賞・芥川賞の受賞作や候補作を数多く手がけた出版社、と知られています(知られていました)。

 直木賞・芥川賞と縁ぶかい、ということはつまり、(売れるかどうかわからない)新人作家の小説も、かなり積極的に出していて、豊島さんの「新人の喜ぶ顔がみたい」という、人の好さから、徐々に経営が圧迫されていったんだそうです。

「著者は部数を多く刷れば刷るほど喜ぶもの。喜ぶ顔みたさについ新人のものでも、五千部、六千部刷ってしまった。当然、返品は五割から六割、二、三十万円の赤という結果になる。」(『出版ニュース』昭和40年/1965年7月下旬号「ある出版社の倒産、再建―そこにまつわる数々のエピソード―」より)

 5000~6000部刷って、5割・6割の返品ってことは、実売2000~3000部。だいたい、未來社の『帝国軍隊に於ける~』の売れ行きと同程度と見てよく、通常の文芸書って、だいたいそんなところだったのかもしれないなあ、と推察できます。

 それで、この『出版ニュース』の記事に、光風社から出た直木賞受賞作のうち、2冊について、およその部数が紹介されています。

「『塵の中』は豊島氏が和田芳恵氏に(引用者注:昭和)三十三年にはじめて長編を依頼したものが、紆余曲折、短編集として、足あけ六年かかって完成したもの。『炎環』は「近代説話」に第一章がのったときに、豊島氏が発見、その出版を永井路子氏に申し出たところ、全部書きあがってみなければ、自分としても自信がもてないという返事で、三年間待って、出版されたものだという。受賞作を生み出すまでに、大きな労苦が払われたのである。いずれも二万五千部は出たという。」(同)

 作品の中身からして、和田さんの『塵の中』はともかく、永井さんの『炎環』でも、2万5千部程度だったの? と、ちょっと驚きました。少なくとも受賞直後の報道では、永井さんってさまざま取り上げられたし、「直木賞受賞のスポットライト」が、部数に影響したっておかしくない例ですから。

 2000~3000部が当たり前のなかでの、2万5千部はスゴい。というのは、言うまでもありませんけど、直木賞の力はこのくらいだった、と認識しておくのは大切だと思います。だいたい、このくらいの力、いまだって直木賞には、ありますもんね。

 たとえば現在、「直木賞受賞作というだけで、本の売れた時代があった(……でもいまはそれほどでもない)」と言う人がいたとして、どうやらそれは、昭和40年/1965年ごろのことを想定しているわけじゃなさそうです。

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