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2016年5月の5件の記事

2016年5月29日 (日)

青島幸男は言った、「中山千夏ちゃんが候補になったことがショックで、小説書きに一生懸命になった」。(昭和56年/1981年7月)

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(←書影は昭和56年/1981年4月・新潮社刊 青島幸男・著『人間万事塞翁が丙午』)


 とりあえず「芸能人と直木賞」のくくりで、どうにか1年。かなり強引な人選もありましたが、このテーマは今回で終わりにします。

 そうなんです。ぐだぐだ言うまでもありません。もしも「直木賞に関わった芸能人」をひとりだけ思い浮かべてくださいと言われたら、全国民中9割以上が、この人を選ぶにちがいない、完全なる芸能人、完全なる全国区の有名人、青島幸男さん。テレビをはじめ、各メディアを通じて、「直木賞」の存在を数多くの人たちに認知させた、ということ以外、直木賞に対して実のある功績は何ひとつ残さなかった、すっきりさっぱり、気持ちのいい受賞者です。

 「青島を選ぶなんて、直木賞も終わったぜ」と批判した文章は見たことがあります(百目鬼恭三郎さんのやつとか)。でも「青島を選んだ直木賞の慧眼、すばらしい!」と、直木賞のほうが称えられているのは、見たことがありません。たしかに直木賞にとって、青島さんへの授賞は、ほとんど黒歴史だし、大して意味も意義もなかった、とワタクシも思うんですが、しかし逆に青島さんはどうでしょうか。「いろいろ活躍して、直木賞までとった才人」と言われ、「どうだ、直木賞もとったんだ、オレ、すごいだろ」と胸をはることで、確実に直木賞を「勲章」のひとつにしてしまいました。俗にいえば、直木賞を食っちまった男です。

 いやまあ、なにしろ裏方では飽き足らずに自分でオモテに出てきちゃった稀代のエンターテイナー。ですから、青島さんの直木賞受賞が、コント風の面白さに彩られているのは、自然かもしれません。さすが青島さんのお笑いは、常人レベルの想像をはるかに超えています。

 青島さんが、小説を書くにいたった動機やら経緯からして、もうかなりのギャグだと思います。

 昔から小説家に憧れていた、とは言うんですが、しかし、書きたい書きたいと思いながら、売れっ子になっても、長年、小説は発表しませんでした。これが、本気で小説を書こうと決心したのが、「湧いてくる創作意欲」とか、「現代の小説界への反発」とかではなく、ずっと親しくしてきた中山千夏さんが小説を発表して、直木賞候補になってキャンキャン騒がれるようになったのを傍から見ていて、発奮したから。……というんですから、そうとうイカしています。

「一昨年と昨年は同じタレント出身の中山千夏氏が直木賞候補になって話題をまいた。

「実をいうと、千夏ちゃんが候補になったことがショックで、自分は遅れるのではないかとあせり、その時点から小説書きに一生懸命になった。(引用者後略)」(『朝日新聞』昭和56年/1981年7月17日「初ものずくめの受賞 芥川賞・吉行さん 兄さんを追う 直木賞・青島さん 議員と両立で」より)

 中山さんの他にも、放送業界から野坂昭如さんや井上ひさしさんが受賞してチヤホヤされている、よく会う田中小実昌さんや色川武大さんたちが原稿用紙に向かって仕事をしている、そういう人たちがうらやましかった、などとも紹介されていたりします。何がブンガクだ、何が苦節ン年だ、別にそんな感じで小説を書き始めたっていいじゃないか、ウハハハ、と笑い飛ばす明るさが、青島さんの身上です(って、笑い飛ばしちゃいかなかったかもしれませんけど)。

 そして、まだ書き上げるまえから、「直木賞を狙う」と公言。そこも、青島さんの素晴らしいところです。たいていは、そんなこと恥かしくて言えないんじゃないか。と思うんですが、とにかく一発ハデなことを言えば、まわりのみんな、喜んでくれるし楽しんでくれる。と割り切ることのできる強い精神力があったればこその、発言でしょう。

 飲みの席で井上ひさしさんに相談したところ、新潮社の編集者、佐々木信雄さんを紹介してもらいます。ここから青島さん、かなり苦労したらしいです。

 その苦労ぶりには諸説あるので、その一端を紹介しておきますと、まずは青島さんご自身の言。あまりに第一回目の原稿がうまくまとまらないものだから、奥さんと相談して、

「「じゃあこうしよう、今度S氏(引用者注:担当者編集者)に逢ったら、この話はなかったことにして下さい、あれは冗談でした。ただ冗談だと言われてもあなたも納得出来ないだろうし、いろいろ御手数をわずらわしたのだからお詫びに洋服を作って差し上げます、こういって謝っちまおう」

(引用者中略)

次にS氏に逢った時、その通りに切り出すと、S氏はニコリともせず、

「いえ、私の実家は洋服屋ですから洋服はいりません。原稿を下さい」

と切り返してきた。」(『小説新潮』昭和56年/1981年10月号 青島幸男「特別寄稿 ハラハラドキド記――直木賞受賞まで」より)

 と、一度は執筆をあきらめるつもりだったことを告白しました。さらに連載第二回目の原稿は、編集者に全面的な書き直しを命じられ、ナニクソーッと憤然と書き直しにあたった、みたいなことも書いています。

 森炎さんの評伝では、いったん断ろうとしたという経緯には触れられているんですが、そのうえで、

「すでに、『小説新潮』で連載のページを取ってしまっていた。「もう、変更は利かない。間に合わない」と言う。直木賞どころのはなしではない。「とにかく埋めてください」ということだった。

そう言われて、青島は、再び机に向かった。すると、どうだ。今度は、いままでの苦しみが嘘のように筆が動く。あっという間に、五〇枚、一〇〇枚……。数日で原稿用紙五〇〇枚を超える長編ができてしまった。」(平成25年/2013年12月・講談社刊 森炎・青島美幸・著『昭和に火をつけた男 青島幸男とその時代』より)

 ずいぶんと、青島さん自身の「ハラハラドキド記」とは違う展開をみせた、という解釈が書かれています。

 違う解釈、といえば、新潮社との橋渡しをした井上ひさしさんの証言です。後年、青島さんが都知事になったころに、矢崎泰久さんの取材を受けて、当時のことを回想しました。

「ある夜、赤坂のホテルに呼び出されて、

「このままで終わるのは淋しい。小説家になりたい。直木賞が取れたら死んでもいい……」

とおっしゃった。国会議員をなさっていたころのことです。

そのとき、この人はいま大事なことをなさっているのに、しかも強く望んでそれをなさっているのに、それがこの人の「分」であったはずなのに……と思いました。

しかし、考えてみれば、小説が書きたければ、だれだって小説を書けばいいわけですから、当時、私がもっとも信頼していた編集者を紹介しました。いい編集者の第一条件は口が固いこと。ですから、その編集者は私には具体的なことはなに一つおっしゃらなかったけれども、横で見ていると、青島さんの原稿にずいぶん手を入れていた。」(平成9年/1997年5月・飛鳥新社刊 矢崎泰久・著『変節の人――かつての同志が告発する青島幸男の正体』「第3章 青島幸男の虚々実々」より)

 『人間万事塞翁が丙午』は編集者との密な二人三脚によって仕上がったのだ、という何とも微笑ましいエピソード。……って感じでは全然ないんですが、それは青島都政に断固反対の熱意をみなぎらせていた矢崎さんのつくった本だから、なんでしょう。青島さん、小説の執筆にかなり苦労したんだな、っつうことはじゅうぶん伝わってきます。

 さらさらーっと書けました。というより、挫折の末に書き上げたほうが、ドラマとしては盛り上がる。みたいな意識は、絶対に青島さんにはなかったはずですけど、期せずして、そんな苦労エピソードを残すことになりまして、才人だけど人間味のある男、青島幸男さん本領発揮の図。連載完結後に単行本となった『人間万事塞翁が丙午』が、直木賞候補に挙げられますと、昭和56年/1981年7月16日、候補8名(全11作)のなかから、初候補で受賞、ということになりました。このとき芥川賞の受賞は、吉行理恵さん。

 受賞者の記者会見は、先に会見場の「東京会館」に到着した青島さんのほうから行われ、その様子を『読売新聞』は「青島フィーバー」(昭和56年/1981年7月17日)と表現しました。

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2016年5月22日 (日)

又吉直樹は言った、「時代時代で事件性のある作品が話題になってきた」。(平成28年/2016年1月)

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(←書影は平成27年/2015年3月・文藝春秋刊 又吉直樹・著『火花』)


 日本文学振興会、とくに直木賞の予選担当グループの人たちに、ぜひ言いたい。もうじき1年が経ちますけど、いまだにワタクシは怒りが収まりません。何という大ポカをやらかしてしまったのか。又吉直樹が芥川賞ですって? ちがう。全然ちがいますよ。

 又吉さんの『火花』。どう考えたって、直木賞の候補になるべくして生まれたような小説じゃないですか。これを、もはやいくら燃料をつぎ込んでも消えていくだけの残りカス、文芸誌護送船団のなれの果てみたいな賞に奪われて、ニコニコ笑っている場合じゃないでしょ直木賞関係者は。猛省してほしいです。

 すでに他分野で大活躍しながら、エッセイも数多く書いて著書もあり、読み物誌(『別冊文春』)に小説も発表したりして、書き手として脂の乗り始めた人である。というのに加えて、なにしろ初出が『文學界』。読んでみりゃ、ガチガチの意味不明な純文芸、みたいな匂いはまったくせず、さりとて、エンタメに振りきった読み物でもない。……明らかに、直木賞で取り上げるのが自然な流れでしょうに。

 まったくもう。こういう千載一遇のチャンスですら、平気で逃してしまう直木賞の、うっかり屋さんぶりには、心底あきれ果ててしまいます。あれが「直木賞受賞作」だったら、200万部も行かなかったかもしれませんけど(いや、それ以前に、受賞はできなかったかもしれませんけど)、『火花』=直木賞候補、のほうが、のちのちまで盛り上がる要素は多かったでしょうし、よっぽど活性化につながったはずなのに。ああ、かえすがえすも残念です。

 とはいえ、又吉さんには、これから期待するところがあります。これまでもさんざん、出版界の活性化(という名を借りた金儲け)に利用されてきた、「過去の小説の案内役」としての得難い才が、よけいに光輝くと思うからです。

 そもそも、芥川賞をとる前、「本好き又吉直樹」の最大の功績は、西加奈子のことをやたらと推しに推したことだ。とよく言われますが(……言われているのか?)、あそこまで西作品にハマる理由が個人的にはさっぱりわからないながらも、とにかくその褒めっぷりは尋常じゃありません。

 『第2図書係補佐』(平成23年/2011年11月・幻冬舎/幻冬舎よしもと文庫)でも『東京百景』(平成25年/2013年9月・ヨシモトブックス刊)でも、西加奈子エピソードがわんわん出てくるし、又吉さんのホームグラウンド(なんすかね)『ダ・ヴィンチ』でも、読んでいるこちらがヒくぐらいに、西さんの作品を激賞しています。

「西加奈子さん。あの人は、笑いのセンスが天才的やと思う。最初は『あおい』から入って『さくら』『通天閣』『しずく』、みんな、面白かった。(引用者中略)西さんの小説を読んでると“これ、このまま舞台でいけるな”って。それはちょっとほかにおらんというか。“ここから笑わせますよ”みたいなこれみよがしなところがなくて、笑いと物語が乖離してないところも凄い。」(『ダ・ヴィンチ』平成23年/2011年11月号「「僕はこんな本を読んできた」芸人・又吉直樹(ピース)」より ―取材・文:瀧晴巳)

 ずっと以前から変わらぬテンションでベタ褒めされていて、ヒいちゃうこっちが恥ずかしいと自己嫌悪に陥るぐらいです。その後、西さんが直木賞をとったときには、西作品の長年のファン・又吉、あるいは芸人又吉と仲良しの西、ということで直木賞記事もにぎやかにしてくれた、というのは、いまさら言うまでもありません。

「西さんの作品を読み続けることができるだけで、ぼくの人生は幸福だと思わせてくれる、そんな作家です」(『女性セブン』平成27年/2015年2月5日号「西加奈子さんへ ピース又吉絶賛祝辞「笑いも天才!」」より)

 といったコメントを寄せるだけじゃなく、直木賞発表号の『オール讀物』(平成27年/2015年3月号)に、見開き2ページの特別寄稿「無敵の西さん」を顔写真つきで書いてしまうという、そもそも何でここで又吉さんが特別寄稿しているのか、と異例中の異例な取り上げられ方だったんですが、「テレビでよく見るおなじみの人」+「恐るべき本好き」の威力は、直木賞だって軽々となびくほどの存在ではあったわけです。

 とにかく、硬であれ軟であれ、ツボにはまった小説は「面白い」とはっきり言ってくれるこの姿勢。若干「文芸」に偏りながら、でも気持ちわるい文芸畑方面だけに目を向けるわけじゃなく、どんなジャンルの本もフラットに語ってくれる。ほんと、又吉さんのおすすめは、有難いし、勉強にもなります。文芸誌にチロッと小説書いて「純文芸の救世主」扱いされるより、小説のよさを語り、本をすすめるほうが、又吉さんのよさが光るはずだわ。と、みんなから言われるのも当然だよなと思います。

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2016年5月15日 (日)

柏原芳恵は言われた、「直木賞受賞作家をめざしている!?」。(昭和61年/1986年2月)

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(←書影は昭和59年/1984年10月・白泉社刊 柏原芳恵・文・絵『夢だいて 心の絵日記』)


 1980年代、出版界の主役といえば、これはもう明らかに芸能人でした。タレント本がベストセラーの上位を飾るようになった、タレント本ばっかり売れて文芸書が売れなくなった、それどころかタレントの書いた小説が、文学賞をにぎわせるほどに席巻しだしたじゃないか、世も末だ、キーッ。と叫び声を上げるふりして意外とみんな楽しんでいた80年代。

 もちろん、直木賞もその熱狂の影響を受けないわけがありません。というか、いかにもその騒動の中心にあるかのように引っ張り出されて、ケバケバしいスポットライトを浴びながら、いろいろなかたちでオモチャにされ、世の隅々まで浸透していきました。

 時に80年代の芸能界は、アイドルの黄金時代だ。と言われることもあるそうです。そりゃ「文芸」だって、このにぎわいと無縁なはずがありませんよね。代表的なところで、「小説の創作」の分野では松本伊代さん、「小説の評論・批評(というか紹介)」の分野では小泉今日子さん、という両巨頭が大きな波を生み出した。というのがどうも定説のようです。

 松本さんについては、「私はまだ読んでないんですけど」のおチャメ発言のほうばかり、神格化されている感があり、それはそれで楽しいんですけど、それから多少の年月を経て、いい大人になった90年代に、これはほんとに自分が書いたとの触れ込みで、等身大・同年代の女性を主人公にして書いた処女小説『マリアージュ――もう若くないから』(平成3年/1991年4月・扶桑社刊)が、いっとき話題になりました。

「伊代のおすすめは、本と同時に発売されるアルバムを合わせて聴くこと。

社長業をこなすだけあって商売も上手?」(『週刊文春』平成2年/1990年12月27日号「Tea Time 小説家デビュー 松本伊代」より)

 とか言われながら、文芸方面からの反響はほぼなかったんですが、でも、当時専修大学文学部教授の畑有三さんに「現代ギャルと松本伊代の小説」(『専修国文』50号・平成4年/1992年1月)という一篇を書こうと思わせた、そのくらいには、意義ある出版だったと思います。

 まあ、タレントの小説といったら、ゴーストライターが書いた(あるいは、多くの部分に編集者やライターの手が入っている)、ということになっています。これをまともに「小説」として評論することに、どんな意味があるんだ? みたいな(固定観念の)壁が、当然そこに立ちはだかります。

 畑さんも、やはりそこには悩んだらしいです。そして「タレント小説」を評するときには、従来とは異なる視点が必要なのではないか、と言っています。

(引用者注:松本『マリアージュ もう若くないから』は)純粋に作家が一人で書いて、第二段階として原稿がそのままの形で印刷物になる、といういわゆる近代芸術としての小説の条件を充たしていないところがあるかもしれない。しかし、十代の半ばから歌手・女優・タレントとして自己形成をしてきた著者にとっては、作品を創り出すとは、個人の才能が孤独に開花して行くことではなく、企画に携わった人がそれぞれ自己の役割を果たす中で総合的にまとめ上げられて行くことだと、自然に受けとめられるところがあるのではなかろうか。

そうすると、現代では小説を書くことが、ある選ばれた才能の所有者にのみ可能な、世界との特別な交流のあり方を意味するだけではなく、平凡な日常生活者であっても、その人の内面に言葉による〈表現〉を希求する生の要請がわずかでもあるかぎりは、その要請の核を大切に育てていくことによって小説の創り手になることが可能になってくるという、そのような時代に今はなってきているのだと考えてもよいのではないか。」(『専修国文』50号・平成4年/1992年1月 畑有三「現代ギャルと松本伊代の小説」より)

 まったく、ワタクシも、一人の人間がうんうん苦しみ悩みながら書き進めて完成させたものしか「小説(文芸、でもいいですけど)」とは呼ばない、みたいな考え方には反対です。むしろ、どうだっていいと思います。

 だけど、アレです。畑さんが評した90年代はもちろんのこと、いまだって絶対に、(合作、といった形態は別として)作家といったら一人で文章を書くもの、いろんな人の手が入った小説を、文学賞の対象にするなんてトンデモない、というのが一般的な認識のはずです。平成17年/2005年の本屋大賞で、一次投票の多かった『電車男』が、最終ノミネートから外されたのなど、その一例でしょうし、「小説」というものに対して抱かれている感覚や感情は、おおむね、意外と保守的なもんだと思います。

 べつに保守的なのがいいとか悪いとか、言いたいわけじゃないんです。いい悪いではなく、そういうもんだよなあ、と思うだけです。

 それで「保守的」といえばやっぱり直木賞ですが(……)、その選ばれ方、選ばれる対象、あるいは選んでいる人たちの「文学賞観」、どれをとっても保守的で、もう「保守的な文学現象のトップランナー」として、いまも元気にひた走っています。でも、それは賞を運営したり選んでいる直木賞そのものだけが、保守的なんじゃありません。それをまわりから見て、直木賞に対して何らかの印象を持ち、ああだこうだ言っている我々もまた、負けず劣らず保守的なんじゃないのかあ、と感じます。

 ……と、ようやく、今日取り上げようと思っていた芸能人のことに進めます。80年代アイドルのひとり、柏原芳恵さん。けっきょく小説の本は出さず、絵を描いたりものをつくったり写真撮ったりとビジュアルな方面で創作熱を追求していくことになりますが、その路線への萌芽をのぞかせていた80年代中盤に、(おそらく雑誌記者によって勝手に)直木賞なんかと結びつけられてしまいました。

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2016年5月 8日 (日)

高峰秀子は言われた、「十人の名文家を選べといわれたら、その一人に入れたいくらい」。(昭和51年/1976年7月)

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(←書影は平成10年/1998年3月・文藝春秋/文春文庫 高峰秀子・著『わたしの渡世日記』(上))


 「超」をいくつ重ねても足りないほどの超絶トップスター。でありながら、文学賞タイトルホルダー。「人をこき下ろさせたら誰もかなわないほどの悪口の天才」と自称するその筆で、数々の名エッセイを書きのこし、けっきょく小説は書かなかったおかげで、とくに直木賞とのからみはなかったんですが、明らかに高峰秀子さんは、「芸能人×散文」界に大きな足跡を残しました。

 でまあ、高峰さんの存在感と並べたら、直木賞のほうが霞みますよね。こんなブログで取り上げたって仕方ないんですけど、いつも、仕方ないことしか書かないブログなので、いいです。直木賞(というか、文藝春秋、あるいは文学賞界)に、何だかんだとカスッてくれた高峰さんに触れないままじゃ、「芸能人×直木賞」テーマも、どうもカッコがつきません。なので今日も、だらだら書きます。

 まずは文春との縁です。女優引退後については、これは当然、斎藤明美さんがいなければ、まず生まれることのなかった数々の文章、というのがあり、一時期、『オール讀物』の看板のひとつでもあったので、直木賞ファンにもなじみが深いです。古くは、文春には池島信平さんという「直木賞・芥川賞の中興の祖」みたいな人がいて、そもそも高峰さんの文章の才を、早くに察知していたひとりが、その池島さんでした。

 有名なエピソードらしいんですが、以下、高峰さんご本人の回想です。

「ある時、チキンライス食べながらポツンとしてたら、「おう、おう」なんて信平さんが見えて、「何考え事してんだ?」って言うから、「うーん、私ね、どうもイヤなんだ、女優が。芝居っていうのは本当に私に向いてなくて、モヤモヤしてるんだけど、何していいかわかんないんだ」って言うと、信平さんが、「真剣にデコが女優をイヤなら、辞めちゃいな。辞めてうちへおいでよ。(引用者中略)文章は学歴で書くんじゃない。大学出てたって、手紙一つ書けない男もいる。僕はデコの書くものをちょこちょこ読んでるけど、いいもの書くよ。わかんないことは全部僕が教えるから、本当にイヤなら、辞めてうち来いよ」

 ものすごく嬉しかった。そんなこと言ってくれた人いないもの。普通はみんな、「いいご身分じゃないの。女優でさぁ、お金貰って」って。周り、そういう人ばっかりでしょ。だから私なんかにそこまで言ってくれる信平さんの気持ちが嬉しくて、忘れられないの。」(『オール讀物』平成10年/1998年12月号 高峰秀子「思い出の作家たち」より ―インタビュー・編集部、構成・斎藤明美)

 池島さんの優しさ、の一種。かもしれませんけど、半分、本気で言っていたんじゃないかと思います。高峰さんの書くものには、ユーモアがあり、また毒がある。そして何より、飾った感がない。ここでまじめにスカウトしておけば、高峰さん、文春の中核ライター、編集者になったでしょう。そうなれば、直木賞・芥川賞の下読みの役も振られたはずで、高峰さんが直木賞の候補作を決める一員になっていた。……なあんて世界もあったかもしれません。

 裏方の仕事に、ものすごく関心と愛情と尊敬の念を抱いていた方、だったそうです。きっと高峰さんも喜んで、イイ仕事をしたんじゃないかなあ。『人情話 松太郎』では、川口松太郎さんとの会話や、その解説などに、ちょこっと小説の話題も出てきますが、(当然といおうか)高峰さんは、直木賞側の文学に対しても非常に好意的です。

 敬愛する作家、司馬遼太郎さんの『梟の城』なんて、「興奮して読んだ」と言っています。

「川口先生は昭和九年、芸道に生きる男女の機微を描いた『鶴八鶴次郎』で直木賞を受賞し、司馬先生は昭和三十五年に、当時はまだはしりであった忍者もの『梟の城』で直木賞を受けている。『梟の城』は題材も新鮮だったけれど、文章が明快、かつ切れ味がよく、なにしろ面白い。女の私も興奮して読んだけれど、司馬先生はこの一作で根強い男のファンを一気に獲得した。」(昭和60年/1985年2月・潮出版社刊 高峰秀子・著『人情話 松太郎』より)

 後年、高峰さんのもとには、新聞の書評委員の依頼が舞い込んだ(そして、「人生の後始末」期に入っていた高峰さんは、それを断固ことわった)、っていうのも納得です。何より「スター高峰秀子」の放つ魅力に、すり寄ろうとするのは、出版産業として自然なことですし、しかも、おカタい文学の人じゃないのに、おのずと文学作品のことを語れてしまう。高峰さんは、ほかに代えがたい稀有な人、としか言いようがありませんもん。

 まあ、後年のことはさておいて、女優なんてイヤだイヤだと言って、池島さんに慰められた昭和20年代のころ。そこでスパッと文春の社員へと鞍替えし、裏方として働いて、直木賞に関わってくれたとしたら、と考えるだけでヨダレが止まりません。何しろ戦前からの映画スター高峰さんです。裏にまわったとしても、いずれ回想録など注文するメディアもあったにちがいなく、昭和20年代からそのころの、直木賞や芥川賞の予選模様が、少しは伝わるきっかけになった、かもしれませんし。何とも惜しいことをしました。……って、完全な妄想だけで言っています。すみません。

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2016年5月 1日 (日)

塩田丸男は言われた、「直木賞候補作に、ふだんの軽やかなエッセイに隠された重いものを見たような気がした」。(昭和58年/1983年10月)

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(←書影は平成1年/1989年8月・光文社/光文社文庫 塩田丸男・著『社長になるぞ!』)


 「芸能人と直木賞」のしばりですけど、いい加減、ハナシが続かなくなってきました。今日の主役、塩田丸男さんも、純粋な(?)芸能人じゃありません。

 なのに「芸能人と直木賞」の対象に選んだのは、「塩田丸男」で検索するとかならず、芸能人・安田成美の話題が出てくるから。というわけじゃありません。直木賞候補になったことのある「テレビでおなじみのアノ人」チームのひとりであり、しかも候補になったけど受賞しなかったメンツとして、「トゥナイト」の利根川裕さんと並び称されるのが、「ヤジウマ新聞」の塩田さんだからです。

「異色候補(3)=(引用者中略)テレビでおなじみの利根川裕、塩田丸男もかつての直木賞候補者で(引用者後略)(平成11年/1999年11月・名鑑社刊 溝川徳二・編『2000年度新装版 芥川・直木賞名鑑 全受賞者』所収「芥川賞・直木賞テーマ別解説」より)

 直木賞でいいますと、利根川さんと塩田さんには、たしかに共通点があります。テレビで人気の顔になった、そのおかげもあって、たくさんの著書を出しているんですが、直木賞候補になった小説は、雑誌に掲載されたっきりで、本になっていない、っていう点です。またご本人が、かつて直木賞の候補に挙がったことを、ほとんど語っていないところも似ていて、「直木賞」なんて別になくたって、とくに困りゃしない人たちがたくさんいる、という当たり前の常識を、その存在によって明瞭に伝えてくれるお二人になっています。

 ただ、そうはいっても、お二人には違いもあります。利根川さんと違って、塩田さんの場合、大上段に構えたような「文学」を、自分でやる意識は、まるでなかったに違いありません。何にせよ小難しいことは言わない。そのなかで、相手に興味をもってもらい、楽しませたい。小説の創作も、そのサービス精神の一環だったんじゃないかなあ。……と、推測します。

 少し塩田さんの来歴に触れますと、塩田さんには、もう読み切れないほどのエッセイ(軽文集)の類いがあり、だいたいが、ちょっぴりユーモア混じりです。なので、額面どおり受け取っていいのかどうかはわからないんですが、若き日、読売新聞という有名企業にもぐり込むことができ、一生このまま勤め上げる気でいた、んだそうです。

「私が勤めていた会社は、一応世間では一流と認められていた会社であったから、ジッと定年まで勤めていれば退職金もたんまり貰えて一生食いっぱぐれはない。おそらく自分はこの会社を中途で辞めることなんかないであろう、と私は思っていた。それが予想違いになったのだから、私の人生にとっては大事件である。」(昭和52年/1977年10月・鎌倉書房刊 塩田丸男・著『女房の旧姓―自伝的夫婦論―』所収「女房の旧姓」より)

 予想違いになった原因は、公団住宅の抽選に当たって、団地に住むようになり、それら生活をしたためた物語が一冊の本となって、なかなかの評判を呼び、次第にフリーでものを書く機会が増えていって、うんぬん。……というんですが、別のところでは、もとから「文筆で生計を立てる」のが目標だった、と言っていて、真意は不明です。

「私は小学生のころから将来は文筆で生計を立てたい、と思っていたこまっしゃくれたガキであった。三十九歳ではじめて自分の著書を持った時、

(これでもう死んでもいい)

と思ったぐらい感激したものだった。一冊書いただけで死んでしまったのでは、文筆で生計を立てることにはならないわけで、矛盾した話だが、とにかくそれぐらい感激したのである。それは、本を書くこと、それを公刊することが、どんなに珍しく、またむつかしいことだったか、という証拠でもあるだろう。」(平成8年/1996年7月・白水社刊 塩田丸男・著『文章毒本』所収「第六章 主婦と天ぷら屋も漫才師も」より)

 ともかくも、たかだか「直木賞が好きだ好きだ」言っている程度のド素人の本まで世に出てしまう、お手軽出版時代とはレベルの違う時代に、文筆業に乗り出した才人。これはたしかです。1960年代に、18年間つとめた安定の職、新聞記者を辞め、以来、政治のことから小市民の生活まで、こつこつと雑文を書き、「私は時流に巻きこまれやすいだらしない人間だから、頼まれればいやと言えず」(平成1年/1989年2月・リクルート出版刊『人間大好き、雑談大好き』所収「多言無用」)と謙遜しながらも、いやいや、塩田さんの仕事ぶりはほんと素晴らしく、幅広いテーマをわかりやすく書く領域で、一家を成してしまいます。

 いっぽう直木賞です。こちらの主戦場といえば、やはり中間小説誌。各界の練達の士が、昔を振り返り、自分の体験したことに大きく脚色を入れ、どことなく自伝風だけど、架空でもある物語。というのを、たくさん載せていました。そのなかから直木賞の候補に選ばれたものもあり、一時期、そういったものが直木賞に彩りを添えることになります。

 藤本義一「生きいそぎの記」(第65回候補 昭和46年/1971年・上半期)。なんてのは古い例ですけど、中山千夏「子役の時間」(第81回候補 昭和54年/1979年・上半期)あたりから注目されだして、青島幸男『人間万事塞翁が丙午』(第85回受賞 昭和56年/1981年・上半期 初出『小説新潮』)が、ごぞんじのとおり受賞。それでも終わらず、樋口修吉『ジェームス山の李蘭』(第90回候補 昭和54年/1979年・下半期 初出『小説現代』を加筆)や、早坂暁『ダウンタウン・ヒーローズ』(第96回候補 昭和61年/1986年・下半期 初出『小説新潮』)などなど、けっこう多く候補になりました。

 そのなかのひとつ(ふたつ)が、塩田丸男さんの「臆病者の空」「死なない鼠」です(第89回候補 昭和58年/1983年・上半期 『別冊文藝春秋』)。舞台は両作とも、戦後まもないころの、猥雑で牧歌的な新聞業界まわり、主人公も同一で、恋人のいる若い青年記者、となっています。

 すでに塩田さんは、著作を何十冊ももつ人でした。プラス、昭和56年/1981年からはテレビ朝日の朝のニュース情報番組に出演して、その日の各紙の記事をもとにお話をするコメンテーター役。顔も売れています。

 こういう人が受賞すれば、それはそれで盛り上がったはずですが、各委員の票がばらけたうえに、「これまで何度も候補になって精進しているようだから……」というような選考をしちゃう、(城山三郎さんがブチ切れるのも当然の)実績主義者たちが跋扈した結果、賞は胡桃沢耕史さんの『黒パン俘虜記』に贈られることになって(これもまた、〈体験談〉脚色小説のひとつですけど)、塩田さんの小説は、すらっと見送られました。

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