塩田丸男は言われた、「直木賞候補作に、ふだんの軽やかなエッセイに隠された重いものを見たような気がした」。(昭和58年/1983年10月)
(←書影は平成1年/1989年8月・光文社/光文社文庫 塩田丸男・著『社長になるぞ!』)
「芸能人と直木賞」のしばりですけど、いい加減、ハナシが続かなくなってきました。今日の主役、塩田丸男さんも、純粋な(?)芸能人じゃありません。
なのに「芸能人と直木賞」の対象に選んだのは、「塩田丸男」で検索するとかならず、芸能人・安田成美の話題が出てくるから。というわけじゃありません。直木賞候補になったことのある「テレビでおなじみのアノ人」チームのひとりであり、しかも候補になったけど受賞しなかったメンツとして、「トゥナイト」の利根川裕さんと並び称されるのが、「ヤジウマ新聞」の塩田さんだからです。
「異色候補(3)=(引用者中略)テレビでおなじみの利根川裕、塩田丸男もかつての直木賞候補者で(引用者後略)」(平成11年/1999年11月・名鑑社刊 溝川徳二・編『2000年度新装版 芥川・直木賞名鑑 全受賞者』所収「芥川賞・直木賞テーマ別解説」より)
直木賞でいいますと、利根川さんと塩田さんには、たしかに共通点があります。テレビで人気の顔になった、そのおかげもあって、たくさんの著書を出しているんですが、直木賞候補になった小説は、雑誌に掲載されたっきりで、本になっていない、っていう点です。またご本人が、かつて直木賞の候補に挙がったことを、ほとんど語っていないところも似ていて、「直木賞」なんて別になくたって、とくに困りゃしない人たちがたくさんいる、という当たり前の常識を、その存在によって明瞭に伝えてくれるお二人になっています。
ただ、そうはいっても、お二人には違いもあります。利根川さんと違って、塩田さんの場合、大上段に構えたような「文学」を、自分でやる意識は、まるでなかったに違いありません。何にせよ小難しいことは言わない。そのなかで、相手に興味をもってもらい、楽しませたい。小説の創作も、そのサービス精神の一環だったんじゃないかなあ。……と、推測します。
少し塩田さんの来歴に触れますと、塩田さんには、もう読み切れないほどのエッセイ(軽文集)の類いがあり、だいたいが、ちょっぴりユーモア混じりです。なので、額面どおり受け取っていいのかどうかはわからないんですが、若き日、読売新聞という有名企業にもぐり込むことができ、一生このまま勤め上げる気でいた、んだそうです。
「私が勤めていた会社は、一応世間では一流と認められていた会社であったから、ジッと定年まで勤めていれば退職金もたんまり貰えて一生食いっぱぐれはない。おそらく自分はこの会社を中途で辞めることなんかないであろう、と私は思っていた。それが予想違いになったのだから、私の人生にとっては大事件である。」(昭和52年/1977年10月・鎌倉書房刊 塩田丸男・著『女房の旧姓―自伝的夫婦論―』所収「女房の旧姓」より)
予想違いになった原因は、公団住宅の抽選に当たって、団地に住むようになり、それら生活をしたためた物語が一冊の本となって、なかなかの評判を呼び、次第にフリーでものを書く機会が増えていって、うんぬん。……というんですが、別のところでは、もとから「文筆で生計を立てる」のが目標だった、と言っていて、真意は不明です。
「私は小学生のころから将来は文筆で生計を立てたい、と思っていたこまっしゃくれたガキであった。三十九歳ではじめて自分の著書を持った時、
(これでもう死んでもいい)
と思ったぐらい感激したものだった。一冊書いただけで死んでしまったのでは、文筆で生計を立てることにはならないわけで、矛盾した話だが、とにかくそれぐらい感激したのである。それは、本を書くこと、それを公刊することが、どんなに珍しく、またむつかしいことだったか、という証拠でもあるだろう。」(平成8年/1996年7月・白水社刊 塩田丸男・著『文章毒本』所収「第六章 主婦と天ぷら屋も漫才師も」より)
ともかくも、たかだか「直木賞が好きだ好きだ」言っている程度のド素人の本まで世に出てしまう、お手軽出版時代とはレベルの違う時代に、文筆業に乗り出した才人。これはたしかです。1960年代に、18年間つとめた安定の職、新聞記者を辞め、以来、政治のことから小市民の生活まで、こつこつと雑文を書き、「私は時流に巻きこまれやすいだらしない人間だから、頼まれればいやと言えず」(平成1年/1989年2月・リクルート出版刊『人間大好き、雑談大好き』所収「多言無用」)と謙遜しながらも、いやいや、塩田さんの仕事ぶりはほんと素晴らしく、幅広いテーマをわかりやすく書く領域で、一家を成してしまいます。
いっぽう直木賞です。こちらの主戦場といえば、やはり中間小説誌。各界の練達の士が、昔を振り返り、自分の体験したことに大きく脚色を入れ、どことなく自伝風だけど、架空でもある物語。というのを、たくさん載せていました。そのなかから直木賞の候補に選ばれたものもあり、一時期、そういったものが直木賞に彩りを添えることになります。
藤本義一「生きいそぎの記」(第65回候補 昭和46年/1971年・上半期)。なんてのは古い例ですけど、中山千夏「子役の時間」(第81回候補 昭和54年/1979年・上半期)あたりから注目されだして、青島幸男『人間万事塞翁が丙午』(第85回受賞 昭和56年/1981年・上半期 初出『小説新潮』)が、ごぞんじのとおり受賞。それでも終わらず、樋口修吉『ジェームス山の李蘭』(第90回候補 昭和54年/1979年・下半期 初出『小説現代』を加筆)や、早坂暁『ダウンタウン・ヒーローズ』(第96回候補 昭和61年/1986年・下半期 初出『小説新潮』)などなど、けっこう多く候補になりました。
そのなかのひとつ(ふたつ)が、塩田丸男さんの「臆病者の空」「死なない鼠」です(第89回候補 昭和58年/1983年・上半期 『別冊文藝春秋』)。舞台は両作とも、戦後まもないころの、猥雑で牧歌的な新聞業界まわり、主人公も同一で、恋人のいる若い青年記者、となっています。
すでに塩田さんは、著作を何十冊ももつ人でした。プラス、昭和56年/1981年からはテレビ朝日の朝のニュース情報番組に出演して、その日の各紙の記事をもとにお話をするコメンテーター役。顔も売れています。
こういう人が受賞すれば、それはそれで盛り上がったはずですが、各委員の票がばらけたうえに、「これまで何度も候補になって精進しているようだから……」というような選考をしちゃう、(城山三郎さんがブチ切れるのも当然の)実績主義者たちが跋扈した結果、賞は胡桃沢耕史さんの『黒パン俘虜記』に贈られることになって(これもまた、〈体験談〉脚色小説のひとつですけど)、塩田さんの小説は、すらっと見送られました。
○
熱量満載の長篇やら、何度も候補になっている常連やら、そういうのがライバルでは、さすがに塩田さんの二篇は、分が悪すぎました。
塩田さんが、他の世界ですでに大きな仕事をしてきた、という影響は、山口瞳さんや五木寛之さんの選評に表れていて、
「塩田丸男さんの作は、一種の習作と思って読んだ。塩田さんの才能・資質は、こんなところにとどまるものではない。」(『オール讀物』昭和58年/1983年10月号 山口瞳選評「余慶あり」より)
「塩田丸男さんの作品には、私も同じ時代を生きてきた人間として惹かれるものがある。ことに最後の「死なないネズミ」として生きようという感慨に作者のふだんの軽やかなエッセイに隠された重いものを見たような気がした。
ただ、「語ラザレバ憂ヒナキニニタリ」という生きかたも、作家としてはもう一方にあるのかもしれない。」(同号 五木寛之選評「北方謙三氏を推す」より)
塩田さんにも、苦しいことや、つらいことを、まじめに語りたいときがあるでしょう、でもやはり塩田さんは、そういうところを見せず、いつもニコニコ、弁舌かろやかに、言いたいことをベラベラ語りまくる放言オヤジの路線のほうが、いいのでは……。と五木さんは言っているんでしょう(たぶん)。
直木賞をとる小説だけがよい。とは、さすがにワタクシも思わないので、塩田さんの小説が直木賞で評価されなくても、これは悲しむ事態ではないんですが、賞はさておいても、ワタクシも『別冊文春』に載ったような作品より、『オトコの四季報』(昭和59年/1984年1月・福武書店刊)とか『社長になるぞ!』(昭和60年/1985年5月・光文社刊)とか、くだけて親近感のわく塩田作品のほうが、好きだし面白いです。
塩田さん自身も、「やわらかい作家」「軽量級の作家」のほうに、親しみを感じる、と書いていました。
「大ざっぱな言い方をすれば、カタカナを多用するのは「やわらかい作家」「軽量級の作家」で、カタカナを使わないのは「おカタい作家」「重々しいのがお好きな作家」という区分けができるのではないか。
小川国夫、加賀乙彦、辻邦生、中村真一郎、埴谷雄高といった作家たちの作品には、漢字で書くべきところをことさらカタカナで表記するような箇所はまず見当らない。
宇野(原文ママ)鴻一郎、田辺聖子、田中小実昌、三田誠広らの小説はカタカナの頻出度が高い。
私個人の選択としては、前者のグループより後者のグループのほうに親しみを感じるが……。」(前掲『文章毒本』「第二章 カタカナ七変化」より)
そもそも、「軽評論家」を演じていた塩田さんの小説が、直木賞の候補に挙がった、そのことが驚きです。むしろそんなものをとったら、少しは重たいハナシも書けば小説として評価されるんだな、とその方向に行っちゃう危険性だってあったかもしれません。そうならずに、常に「軽いもの」の味方でありつづける塩田さんのほうが、やっぱり魅力的です。結果、塩田さんはその後も、カタくない方面の文筆とメディア出演で、活躍することになりまして、そう考えると、五木寛之さん、さすがイイこと言っていたなあ、と思うのでした。
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