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2016年5月29日 (日)

青島幸男は言った、「中山千夏ちゃんが候補になったことがショックで、小説書きに一生懸命になった」。(昭和56年/1981年7月)

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(←書影は昭和56年/1981年4月・新潮社刊 青島幸男・著『人間万事塞翁が丙午』)


 とりあえず「芸能人と直木賞」のくくりで、どうにか1年。かなり強引な人選もありましたが、このテーマは今回で終わりにします。

 そうなんです。ぐだぐだ言うまでもありません。もしも「直木賞に関わった芸能人」をひとりだけ思い浮かべてくださいと言われたら、全国民中9割以上が、この人を選ぶにちがいない、完全なる芸能人、完全なる全国区の有名人、青島幸男さん。テレビをはじめ、各メディアを通じて、「直木賞」の存在を数多くの人たちに認知させた、ということ以外、直木賞に対して実のある功績は何ひとつ残さなかった、すっきりさっぱり、気持ちのいい受賞者です。

 「青島を選ぶなんて、直木賞も終わったぜ」と批判した文章は見たことがあります(百目鬼恭三郎さんのやつとか)。でも「青島を選んだ直木賞の慧眼、すばらしい!」と、直木賞のほうが称えられているのは、見たことがありません。たしかに直木賞にとって、青島さんへの授賞は、ほとんど黒歴史だし、大して意味も意義もなかった、とワタクシも思うんですが、しかし逆に青島さんはどうでしょうか。「いろいろ活躍して、直木賞までとった才人」と言われ、「どうだ、直木賞もとったんだ、オレ、すごいだろ」と胸をはることで、確実に直木賞を「勲章」のひとつにしてしまいました。俗にいえば、直木賞を食っちまった男です。

 いやまあ、なにしろ裏方では飽き足らずに自分でオモテに出てきちゃった稀代のエンターテイナー。ですから、青島さんの直木賞受賞が、コント風の面白さに彩られているのは、自然かもしれません。さすが青島さんのお笑いは、常人レベルの想像をはるかに超えています。

 青島さんが、小説を書くにいたった動機やら経緯からして、もうかなりのギャグだと思います。

 昔から小説家に憧れていた、とは言うんですが、しかし、書きたい書きたいと思いながら、売れっ子になっても、長年、小説は発表しませんでした。これが、本気で小説を書こうと決心したのが、「湧いてくる創作意欲」とか、「現代の小説界への反発」とかではなく、ずっと親しくしてきた中山千夏さんが小説を発表して、直木賞候補になってキャンキャン騒がれるようになったのを傍から見ていて、発奮したから。……というんですから、そうとうイカしています。

「一昨年と昨年は同じタレント出身の中山千夏氏が直木賞候補になって話題をまいた。

「実をいうと、千夏ちゃんが候補になったことがショックで、自分は遅れるのではないかとあせり、その時点から小説書きに一生懸命になった。(引用者後略)」(『朝日新聞』昭和56年/1981年7月17日「初ものずくめの受賞 芥川賞・吉行さん 兄さんを追う 直木賞・青島さん 議員と両立で」より)

 中山さんの他にも、放送業界から野坂昭如さんや井上ひさしさんが受賞してチヤホヤされている、よく会う田中小実昌さんや色川武大さんたちが原稿用紙に向かって仕事をしている、そういう人たちがうらやましかった、などとも紹介されていたりします。何がブンガクだ、何が苦節ン年だ、別にそんな感じで小説を書き始めたっていいじゃないか、ウハハハ、と笑い飛ばす明るさが、青島さんの身上です(って、笑い飛ばしちゃいかなかったかもしれませんけど)。

 そして、まだ書き上げるまえから、「直木賞を狙う」と公言。そこも、青島さんの素晴らしいところです。たいていは、そんなこと恥かしくて言えないんじゃないか。と思うんですが、とにかく一発ハデなことを言えば、まわりのみんな、喜んでくれるし楽しんでくれる。と割り切ることのできる強い精神力があったればこその、発言でしょう。

 飲みの席で井上ひさしさんに相談したところ、新潮社の編集者、佐々木信雄さんを紹介してもらいます。ここから青島さん、かなり苦労したらしいです。

 その苦労ぶりには諸説あるので、その一端を紹介しておきますと、まずは青島さんご自身の言。あまりに第一回目の原稿がうまくまとまらないものだから、奥さんと相談して、

「「じゃあこうしよう、今度S氏(引用者注:担当者編集者)に逢ったら、この話はなかったことにして下さい、あれは冗談でした。ただ冗談だと言われてもあなたも納得出来ないだろうし、いろいろ御手数をわずらわしたのだからお詫びに洋服を作って差し上げます、こういって謝っちまおう」

(引用者中略)

次にS氏に逢った時、その通りに切り出すと、S氏はニコリともせず、

「いえ、私の実家は洋服屋ですから洋服はいりません。原稿を下さい」

と切り返してきた。」(『小説新潮』昭和56年/1981年10月号 青島幸男「特別寄稿 ハラハラドキド記――直木賞受賞まで」より)

 と、一度は執筆をあきらめるつもりだったことを告白しました。さらに連載第二回目の原稿は、編集者に全面的な書き直しを命じられ、ナニクソーッと憤然と書き直しにあたった、みたいなことも書いています。

 森炎さんの評伝では、いったん断ろうとしたという経緯には触れられているんですが、そのうえで、

「すでに、『小説新潮』で連載のページを取ってしまっていた。「もう、変更は利かない。間に合わない」と言う。直木賞どころのはなしではない。「とにかく埋めてください」ということだった。

そう言われて、青島は、再び机に向かった。すると、どうだ。今度は、いままでの苦しみが嘘のように筆が動く。あっという間に、五〇枚、一〇〇枚……。数日で原稿用紙五〇〇枚を超える長編ができてしまった。」(平成25年/2013年12月・講談社刊 森炎・青島美幸・著『昭和に火をつけた男 青島幸男とその時代』より)

 ずいぶんと、青島さん自身の「ハラハラドキド記」とは違う展開をみせた、という解釈が書かれています。

 違う解釈、といえば、新潮社との橋渡しをした井上ひさしさんの証言です。後年、青島さんが都知事になったころに、矢崎泰久さんの取材を受けて、当時のことを回想しました。

「ある夜、赤坂のホテルに呼び出されて、

「このままで終わるのは淋しい。小説家になりたい。直木賞が取れたら死んでもいい……」

とおっしゃった。国会議員をなさっていたころのことです。

そのとき、この人はいま大事なことをなさっているのに、しかも強く望んでそれをなさっているのに、それがこの人の「分」であったはずなのに……と思いました。

しかし、考えてみれば、小説が書きたければ、だれだって小説を書けばいいわけですから、当時、私がもっとも信頼していた編集者を紹介しました。いい編集者の第一条件は口が固いこと。ですから、その編集者は私には具体的なことはなに一つおっしゃらなかったけれども、横で見ていると、青島さんの原稿にずいぶん手を入れていた。」(平成9年/1997年5月・飛鳥新社刊 矢崎泰久・著『変節の人――かつての同志が告発する青島幸男の正体』「第3章 青島幸男の虚々実々」より)

 『人間万事塞翁が丙午』は編集者との密な二人三脚によって仕上がったのだ、という何とも微笑ましいエピソード。……って感じでは全然ないんですが、それは青島都政に断固反対の熱意をみなぎらせていた矢崎さんのつくった本だから、なんでしょう。青島さん、小説の執筆にかなり苦労したんだな、っつうことはじゅうぶん伝わってきます。

 さらさらーっと書けました。というより、挫折の末に書き上げたほうが、ドラマとしては盛り上がる。みたいな意識は、絶対に青島さんにはなかったはずですけど、期せずして、そんな苦労エピソードを残すことになりまして、才人だけど人間味のある男、青島幸男さん本領発揮の図。連載完結後に単行本となった『人間万事塞翁が丙午』が、直木賞候補に挙げられますと、昭和56年/1981年7月16日、候補8名(全11作)のなかから、初候補で受賞、ということになりました。このとき芥川賞の受賞は、吉行理恵さん。

 受賞者の記者会見は、先に会見場の「東京会館」に到着した青島さんのほうから行われ、その様子を『読売新聞』は「青島フィーバー」(昭和56年/1981年7月17日)と表現しました。

           ○

 そりゃフィーバーするっしょ。だって青島さんですよ。タレントであるだけじゃなく、参議院議員でもある。妻・長女・長男といっしょに会見場にやってきて一緒に写真で笑みをたたえるところなんぞは、ファミリー層も受けがよく、しかも、さんざん実績が重要だあ、これまでの作品を加味して作家に与えられる賞だあ、などと言われてきた直木賞を、はじめて発表した小説で受賞するカッコよさ(?)。

「議員活動と作家活動の両立について「多作して財をなす気はないので、年一作ぐらいのペースで書いていきたいと思う」と語っていた。」(『読売新聞』昭和56年/1981年7月17日「異色コンビ受賞」より)

 ということで、青島さんの本を出してどんどん売り上げを伸ばしたがっている(立て直したがっている)小説出版界にも、ちょっとしたリップサービス。当然のように盛り上がります。『人間万事塞翁が丙午』はガンガン売れまして、ベストセラーとなり、ミリオンセラーを達成し、昭和56年/1981年度の青島さんの申告所得額は、9,366万円。前年度の2,517万円から3倍増の大幅アップになりました。

 しかしです。直木賞を受賞して、それから文学のことを語ったり、たくさん小説を書いて一家をなす、というのは並の受賞者。そんなんじゃだれも笑わないよ。と、青島さんが考えたという痕跡はないんですが、青島さんの「小説を書かなくなる」っぷりは、ハンパじゃありません。いくら何でも極端すぎますよ。ほとんどコントの域です。

 書くものといえば、自身の回想録ばかりでお茶を濁し、そんなもの、ことさら直木賞受賞者じゃなくたって、ちょっとしたタレントならみんなやるだろ、っていう執筆活動に終始。青島さんより小説を書いているのに、「あの人、消えちゃったね」などと揶揄される直木賞受賞者はたくさんいます。しかし青島さんは、書かずして、「消えた受賞者」扱いをされることもなく、何かやれば「直木賞をとった人」と紹介され、都知事の任期が終わったあとも「直木賞作家から芥川賞作家へ」と話題になる。

 タレントパワー恐るべし、と言いますか。直木賞なんてその程度のお飾りとしてしか認識されていないんだな、と言いますか。

 とりあえずの一作目、自分の経験や見聞をもとにした小説で候補に挙がっただけで、その後、小説家としてまったく(と言っていいほど)働かなかった人に、「将来性もうかがえる」とか言って満場一致で授賞させてしまったのは、直木賞の大失敗の最たる例です。でしょ? なのに、そんな雰囲気をまるで感じさせません。青島さんだからです。

 これはどう見ても、芸能人と競っても直木賞は大完敗、っていうところでしょう。スゴすぎるんですよ、芸能人が世間に与えるインパクトは。

 そういう人たちと関わったって、結局、直木賞のほうが呑み込まれるだけです。ほんとは、コツコツ小説書いて読者の心をつかむ、そういう作家だけを相手にやればいいのかもしれません。でも、直木賞単独では絶対に実現できない、芸能人の方たちの力を借りなければ到達できないような、華々しい世界があります。そういうなかに置かれた直木賞をみるのも、また楽しいじゃないですか。いまもなお、芸能畑から小説を書く人たちは、減りはしないようですし、これからもどんどん直木賞には、芸能人を候補にしてほしいと思います。

           ○

 今週のエントリーで「芸能人と直木賞」は50本目。ここで一区切りとしまして、また来週からテーマを変えて、直木賞について、だらだらやっていきます。

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