落合恵子は言われた、「直木賞に対しては意外に淡々としている」。(昭和62年/1987年1月)
(←書影は平成2年/1990年4月・講談社/講談社文庫 落合恵子・著『アローン・アゲイン』)
やっぱ、イイっすよ、落合恵子さんの書くものは。とくに疲れた気分のときに読むと、慰められるし、背筋も伸びて、明日も生きるか、っていう気になれる。明らかに、こんなジジイを励ますために書かれたものじゃないとは思うんですけど、じんわり元気が出てきます。
で、そんな読書体験とは何の関係もないんですが、落合さんという方は、直木賞の歴史のなかに現われた特別な存在です。「芸能人と直木賞」というくくりで語るとき、落合さんほど適切な作家がほかにいるでしょうか(……いや、いっぱいいるか)。
とにかく学生時代から、ものを書くのが大好きで、活字に関わる仕事がしたいと思い、希望の就職先は出版社。しかし、受けるとこ受けるとこ、全部落ち、結局、何となく自由そうだからと放送業界を当たって、文化放送への入社試験に受かります。
ほんとうは制作の仕事がしたかったのに、「女性には、制作部門の求人枠がない」という理由でアナウンサーとなり、しかし落合さんの「ものを書くのが好き」欲求は収まるところを知らず、入社2、3年目のころには、ボーナス全額をはたいて、これまで書いてきた詩や小説の断片を『のようなもの』と題する本にまとめて、自費出版。
折りも折り、深夜放送のパーソナリティーに抜擢されたところから、歯車がかみ合ったのか狂ったのか、一躍人気者となってしまいます。落合さんにしたら、そうした扱われ方がイヤでイヤで仕方なかったそうです。
「落合――そのころ(引用者注:昭和47年/1972年ごろ)わたしは文化放送でいわゆる深夜放送というのをやっていた。“レモンちゃん”とみごとに商品化されていた時代ですね。
佐高(引用者注:佐高信)――『スプーン一杯の幸せ』(集英社文庫)は書いていたの? ずいぶん慎ましい幸せですよね。タイトルはあなたがつけた?
落合――そのころは会社をやめたくてやめたくて。社会に対してバケツ一杯の怒りを持っているのに、バケツ一杯の怒りのほうはこっちへおいといて、スプーン一杯の幸せを拡大するなんて、わたしも“社畜”の一人だったのかもしれないな。」(平成20年/2008年4月・七つ森書館刊 落合恵子・佐高信・著『われら63歳 朝焼けを生きる』より)
若い女性がいるぞソラ行けー、と言わんばかりに、何か可愛らしい愛称をつけて売り出し、その人の発言や真意、思いとは関係ないままに、イメージ先行の虚像化をフル回転させ、がんがんとモノを売る。……というその渦中に、知らぬ間に、どっぷり浸からされた、というわけです。
「取り上げられているうちがハナだよ」などと、ヒトゴトな慰めの言葉をかけられるそばから、手当たり次第にプライバシーのことを書かれるは、自分の意図とは違うところを切り取られて記事にされちゃうは。イヤーな経験をいっぱいしました。
しかし、ここで、しゅんとなって引かない、いやむしろ断固として前に出ていく。それが落合さんのエラいところだと思うんですが、この「苦しみの芸能人体験」を糧に、モノ書きとして活躍、羽ばたいていくことになります。
文化放送のアナウンサーから執筆業へ、という昭和54年/1979年ごろにはすでに、エッセイだけでなく小説も数多く発表。しかし本人はべつに、「小説を書く作家」だから偉いんだ、みたいなくだらない物書きヒエラルキーにも、まったく興味を示しません。
「中山 ところで、これからも、ずっと小説書いていこうと思ってるわけね。
落合 いきたいなあと思ってるんですけど、やってて自分でイヤになっちゃうときがある。
中山 どうして?
落合 いろんな方の小説読むでしょ。そうすると私なんてやらなくてもいいやって気が本当にありますもの。」(『小説CLUB』昭和54年/1979年8月号 中山あい子、落合恵子「女流対談 すべからく愛人関係がベター」より)
と、こぼしたりしていました。
ところが案の定(と言いましょうか)、世のなかには、どうしても「小説」というワードに、ピピッと反応する人がたくさんいます。「えっ、小説? ふうん、有名人が何か書いているんですね」と言われちゃう状況は、どうしたって拭い難く、落合さんはこういう世間の目とも戦っていたんでしょうが、例の百目鬼恭三郎さんなどは、『朝日新聞』の朝刊一面で「昨今の出版界」論を語るに、思いっきし落合さんの名前を引き合いに出してみせます。
「人気作家の本が、作品の実質と無関係に売れるのは、有名人だからといい直したほうが正しいかもしれない。いま、出版界で、中山千夏、落合恵子、青島幸男といった有名タレントに小説を書かせることが流行しているのも、有名人は、有名であるということ以外の実質を問われないからである。つまり、作品はつまらなくても売れるということだ。」(『朝日新聞』昭和56年/1981年9月6日「没価値の時代 実質より知名度優先」より ―署名:編集委員 百目鬼恭三郎)
ちなみに、この記事中、百目鬼さんの観測によれば、「ちかごろ小説は極度に売れなくなっており、売れるのは司馬遼太郎とか城山三郎といった特定の人気作家に限られている。」ということだそうで、その側面だけは、昭和56年/1981年当時も、現在も、状況に変わりがないんじゃないかと思います。もちろん、「売れる」という基準をどうとらえるかで、異論も反論も可能なので、まったく同じとは思いませんけど、少なくとも、「芸能人が小説を書いて、それが売れていると聞くと、ヤンヤと野次を飛ばしたがる人が出てくる」状況は、30ン年前も変わりはありません。
このあと、落合さんは『ザ・レイプ』(昭和57年/1982年5月・講談社刊)という、話題になるべくしてなったような超問題作を書いて、小説家としての存在感と力量を知らしめることになり、そしてこの年の下半期に、『結婚以上』(昭和57年/1982年11月・中央公論社刊)ではじめて直木賞の候補に挙げられることになります。
一度ならず、二度、三度、四度、五度……。最初のうちは、まだそれほどでもなかったんですが、回を重ねるうちに、落合さんの「有名人」格が注目を浴びだし、またしても、あのアナウンサー時代のような、「メディアが勝手な印象をつくり出し、その視点で記事を書かれる」攻撃を受けることになっちゃうわけです、直木賞のせいで。
直木賞候補に何度も挙げられる女性が3人いるぞ。しかもみんな、小説以外で、かなりのネームバリューがある人たちだぞ。っていうんで、「女である」「他の業界で活躍して有名」という属性だけで、大きく記事に取り上げられます。
○
と、この「三才女」騒ぎについては、これまで何度か、うちのブログにも登場してもらっています。言うまでもありません。
直木賞の発表誌『オール讀物』までが、このアチャラカな騒ぎぶりに追従。「直木賞をねらう女流3人特集」なんちゅう舞台を設け(昭和59年/1984年12月号)、落合さんと林真理子さん、山口洋子さんの新作を掲載したうえに、そこに発表された落合さんの「聖夜の賭」を、次回の直木賞でそのまま候補作に挙げてしまうという、ちょっとやりすぎなんじゃないかと思えるほどの策を弄します。直木賞、相当な浮かれっぷりです。
3人とも、週刊誌やらのメディアに、ああだのこうだの言われることには慣れっこだったと思います。とくに今回はネタが、たかが直木賞ごときの話です。局所的にすぎますし、シーズンもピンポイントです。この方たちがそれまで通ってきた、芸能界のまわりで日常的に飛び交うゴシップの、集中的な量、厚み、あるいは下品さにかなうわけがありません。
おのおの、「直木賞をめぐる報道」ぶりを冷静に受け止めていたと思われますが、なかでも最もおだやかにやり過ごしたのが、おそらく落合さんなんじゃないでしょうか。
……って、これは3人のなかでは落合さんだけ、「受賞したときの喜びの感想」が残されず、ずーっと先々まで、直木賞を受けなかった立場からの発言しかないから、ワタクシがそう感じるのかもしれません。
落合さんの書くものを読むと、おそらくまともな感覚をお持ちです。「直木賞」そのものは、もらえれば嬉しい程度に思っていたんでしょうけど、まわりが起こす「直木賞騒ぎ」は、だいたいがうっとうしいから、興味もなく、むしろ嫌悪感すら抱いていたんじゃないかな、と想像します。
5度目の候補の『アローン・アゲイン』(第96回 昭和61年/1986年・下半期)がとれなかったあとには、「とれなかった」ということで、『FOCUS』に取り上げられました。
「「とにかく物書きになりたかった」のだという。(引用者中略)それほどに物書きにこだわった彼女、直木賞には意外に淡々としている。過去、賞について問われた時も「残念でした。すみません。自信がなかったから……」「賞の結果より、自分の執筆ペースを守っていくことの方が大事ですね。受賞の自信はありません」なんてクールというか優等生的というか。でもこのサラリとして物欲し気な態度を見せないのが、この人の美学のようだ。」(『FOCUS』昭和62年/1987年1月30日号「直木賞5回落ちて落合恵子さんのクールな受けとめ方」より)
これがイイんっすよね。落合さんのサラッと流すところ。
とれなくて悔しがる、悔しがっているさまが記事になり、メディアやそれを享受する野次馬たちを楽しませる、というのが「直木賞騒ぎ」の下品さで、そういうものに乗っからない人がいるのは、当然だと思いますよ。ホッとします。
もちろん、外野から見ている興味本位なワタクシたちは、「直木賞がほしいーっ。でも落とされたーっ、悔しいーっ」と恨みを吐露する候補者、みたいな姿を見て楽しみたい欲求があり、メディアもまたそういうものを期待するせいで、こぞって「直木賞がとれなくて怨む」エピソードを取り上げます。でも、それって話題になるからオモテに出てくるわけです。直木賞、とれなかったらそれでも全然いいですよ、自分には目の前の仕事がありますし、みたいな候補者も、そりゃいるでしょうよ。そんなこと言っても、よほど注目されている人でなければ、べつに面白くもないし話題にもならないから、あまり文献に残らないだけで。
落合さんの場合は、その「よほど注目されている人」だったので、落選したらそれが写真に撮られ、週刊誌に載ったりしていました。直木賞に対する、ごくふつうの感覚からくるコメントも活字に残されるっていうのは、落選した候補者のなかでは、それほど多くはないです。貴重な立場の人です。
のち、自分の人生を振り返りながら『東京新聞』『中日新聞』にエッセイを連載したときに、落合さんは、直木賞のことにも触れてくれました。直木賞に対する恨みつらみなど、ひとことも書いてありません(そりゃそうだ)。しかし、当時「いやだった」ことが挙げられています。それは「直木賞」ならぬ「直木賞騒ぎ」……わざわざ落ちた感想を聞きにくるレポーターに追われたことだったと。
「直木賞に関しては、わたしもLOSERだった。何度候補になったかは忘れたが、かなりの回数だった。そしてそのたびに、LOSERになった。
賞というのはそういうものだ。誰かが勝者になれば、誰かは敗者になる。
(引用者中略)
いやだったのは、当日夕方からワイドショウのレポーターに追われることだった。「落ちたご感想は?」。嬉しいはずはないだろう。
それらも、遠い昔のできごとだ。
権力などに阿ることなく、好きなものを書いていく……。それでいいではないか。」(平成26年/2014年3月・東京新聞刊 落合恵子・著『「わたし」は「わたし」になっていく』「ルーザー」より)
うちみたいなサイトやっている人間が言うのもアレなんですが、「直木賞騒ぎ」ってイヤなんだろうなあ、と思いますよ。伊坂幸太郎さんの一件だって、あれは「直木賞」がどうこうではなく、「直木賞騒ぎ」がイヤなのが理由、と言っていたわけですし。
伊坂さんはさておき、落合さんは、イメージ戦略による商品化がいやだっつって会社辞めたのに、その時代の有名性にひきずられた直木賞騒ぎで追いかけまわされ、なおかつ賞が与えられることもなかったんですから、これでワイワイと賞のことを注目してもらえた「直木賞」の側は、心底、感謝しなけりゃならないと思います。
だいたい、「選ばれなかった」ことが、いい思い出なわけはありません。しかし以前、選考委員だった池波正太郎さんのエントリーのときに触れたんですけど、落合さんは、その当時のことを、敬愛する池波さんに小説を読んでもらえる機会として、自分のなかでは幸せな時期だった、と言っていました。けっきょく受賞しなかった直木賞のことでさえ、心あたたまるエピソードになってしまう。そういうところが、ほんと、落合さん、すばらしいです。
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