志茂田景樹は言った、「直木賞、もういらないと思います」。(平成5年/1993年7月)
(←書影は平成6年/1994年3月・海竜社刊 志茂田景樹・著『人生はまじめが勝つ これがぼくの生き方だ』)
直木賞を受賞した人が、その後タレント業に進出した、っていう例はあまり見かけません。そのなかで1990年代前半、テレビに出まくるは、ファッションショーもやるは、雑誌グラビアでヌードを披露するはと、直木賞受賞者のなかでもかなりの異彩を放ちました。志茂田景樹さんです。
およそ文学賞のなかでも「直木賞」は、とっただけである程度有名になってしまいます。でも志茂田さんの場合、「直木賞をとったから」といって、芸能界での仕事が増えたわけじゃありません。第83回(昭和55年/1980年・上半期)に直木賞をとって、それからバイオレンス、伝奇、ミステリー、歴史if物と、読み物小説界で確固たる足跡をのこし、受賞からしばらく時がたってから、それとは別のところで急激に脚光を浴びるようになりました。
奇抜なファッション、ってやつです。おかしなカッコをしたおじさんがいるぞオイ、ってやつです。
みずからファッションショーのオーディションに応募して、山本寛斎さんのショーのモデルになったのが昭和55年/1980年。しばらくは、一般的に街で見かけるような服装をしていたらしいんですけど、昭和58年/1988年ごろから、だんだんと枠にとらわれないファッションを模索するようになっていき、平成2年/1990年ごろには、アノおなじみの、キラキラに光る、インパクト絶大なレディスものファッションに到達します。
「担当編集者になって9年めというカッパ・ノベルスの丸山弘順さんは言う。
「ああいう格好(引用者注:レディスものをまとったファッション)をしはじめたのは、5年ぐらい前からですね。でも、それまでも、ご自分に似合う、選んだ服を着てましたよ。キッカケは知りませんが、以前から先生の中にそういう願望というか、アピールしたい気持ちはあったんじゃないでしょうか。(引用者後略)」」(『週刊宝石』平成5年/1993年4月29日号「人間・再発見!話題の震源地 志茂田景樹にぶつけるカゲキなQ&A」より)
それで、ゲテモノだ、バケモノだ、と批判の声をたくさん浴びることになるんですが、本人まるで意に介しません。いや、逆にもっとやってやろうじゃないかと意欲を燃やして、「作家」だの「直木賞」だのがもつ、まじめで堅くて権威的なイメージから外れようと努めます。
当時、ナンシー関さんは、
「いままでも「立派な肩書を持ったゲテモノ」というのはテレビのなかにときどき出現したものだが、それらはいつのまにか「立派な肩書」の立場からの見識を述べることで、「ゲテモノだ(に見える)けれども、実は立派」というキャラクターに自分を持ってきて、メディアのなかでの延命を図っていたように思う。しかし志茂田景樹は、「なんだかんだ言っても、さすがは直木賞作家」というオチをいっさい使わずに、たんなるゲテモノとしてここまで来た。」(平成6年/1994年10月・朝日新聞社刊 ナンシー関・著『小耳にはさもう』所収「「子供とはいえライバルになったのだから追い越させない」」より)
と指摘し、このあと「天然」というキーワードで志茂田さんのメディアでの安定感を分析。さすが関さんだ、と尊敬するほかない素晴らしい切り口なんですが、すみません、関さんの見方を紹介していたら、それですべてが終わってしまいそうなので、先に進みます。
「直木賞をとった」という肩書きは、もうこれは、肩書きだけでメシが何杯も食える、というぐらい強烈に人びとを惹きつける力を、世の中に放っています。ほんと、そうです。でも、じっさいにその肩書きをもっている人のなかには、「直木賞だからって何だっていうんだ」と、直木賞のイメージに対して、反発というか、イラ立ちを感じる人もいるらしいんですよね。志茂田さんの場合も、やはりそういう意識があったんじゃないかなと思います。表現された手法は、ほかの人とは大きく違っていますが。
テレビにバンバン出ていたとき、だいたい志茂田さんに使われた肩書きは「直木賞作家」。ってことで、インタビューなどで「直木賞」のことを聞かれる機会も、けっこうあったみたいです。ここで、志茂田さんはどんな受け答えをしていたか。こんな感じです。
「高名な直木賞作家であることと、キンキラファッションがよく似合うことと、自分ではどちらの喜びがより大切?
「ウーン……あえて選ぶとすれば、醜い顔と体形の直木賞作家であるよりも、レディスもの、メンズものを問わずどちらも似合う人間でありたいですね。どっちも喜びは少なくないんだけど、4対6の差でそうだと思います」」(前掲『週刊宝石』平成5年/1993年4月29日号より)
別のところでは、いずれ小説が書けなくなった、売れなくなったとしても、そのときはまた別の仕事しますよ、とも言っています。ほんとに、小説を書くことに対する身を賭しての執着、みたいなものがありません。どんな環境・状況であれ、「自分のやりたいことを好きなようにやる」という志茂田さん、全然ブレていませんね。
直木賞は、もっと破天荒なものを受賞させていったほうがいいんじゃないか、とも語っていました。このあたりも、きっと志茂田さんの、「これまでと同じことばかりしていてどうする」という考え方が出た直木賞観なんだと思います。
「直木賞には、もっと破天荒なものが出てきてもいいんじゃないですか。だんだんそうなってきてはいると思いますけど、もっとね。(引用者中略)いろんな世界で活躍してた人が、横からポンと入ってきて作家になる例が増えてるでしょう。現代をどっかで感じ取ってなきゃダメなんですよ。こもって書くって時代じゃない。僕は、いい傾向だと思うんだけどなあ。ハチャメチャな作品が、どんどん出てきてほしい」(『週刊宝石』平成2年/1990年9月20日号「人物日本列島 秋にファッション・ショーを催すハチャメチャ人気作家 志茂田景樹」より)
うん、ほんと。20数年前の発言ですけど、直木賞にハチャメチャな作品が選ばれてほしいって考え、ワタクシも大賛成です。
○
あるいは志茂田さんに、直木賞をとったことの意味を尋ねる人もいました。
作家として認められて嬉しかった。作家としてやっていく自信がついた。そのおかげで今喰えている。……などなど、あまた想定される答えのなかから、志茂田さんの選択したのは、これです。「初めての親孝行である(いや、親孝行としての意味しかない)」。
「――(引用者中略)直木賞を受賞されるわけですが、志茂田さんにとってこの権威的な賞のもつ意味は?
「初めての親孝行ですね」(引用者中略)「ぼくにとっては親父の喜んでる顔がなによりでしたね」
(引用者中略)
――まだ文学賞の話ですが、最近、素人の目から見ても、文学賞って乱発し過ぎてるように思う。志茂田さんどう思いますか。
「あんまりいらないと思いますよ」
――直木賞なんかもですか。
「そうですね。もういらないと思います。ぼくの場合、テレビ局が面白がってわーっと直木賞作家って付けることが多いですけどね」(『宝島』平成5年/1993年7月24日号「作家志茂田景樹に突撃インタビュー、小説家としての意外な一面!! 笑撃的発言「もう直木賞はいらない!!」」より ―取材・文:大久保光志)
記事タイトルには「笑撃的」ってあるんですが、志茂田さん、思っていることをけっこうまともに答えていると思います。だって「直木賞はもういらない」って、そんなに笑えます?
志茂田さんがエッセイで書くこと、取材インタビューで答えることは、着ているものや見た目のオカシさとは何の関係もなく、まともでスジが通っていることが多いです。ひとつの場所に止まっているのが嫌、何かに縛られるのが嫌、とさんざん語る志茂田さんが、自分で直木賞の権威性に寄りかかるはずもなく、どうあっても小説を書きたいのなら賞などなくても書いていけばいい、という考え方からすれば、直木賞なんていらない、っていうのも納得できます。
まあ今でも無価値ではないので、「即刻なくせ!」とは思いませんけど、べつにこれがなくなるというハナシが起きても「絶対なくさないでくれー」と泣いてすがりつくようなものじゃありません。その程度のものでしょ、直木賞ってやつは。
で、志茂田さんの「直木賞受賞は親孝行」。このエピソードについて、より具体的に語られているのが、『人生はまじめが勝つ これがぼくの生き方だ』(平成6年/1994年3月・海竜社刊)です。
父親が直腸ガンにかかってしまい、余命3か月。そのなかで、父に捧げる父のための小説を書こうと思って『黄色い牙』を書き下ろすと、これが直木賞の候補に挙げられ、ついには初候補にして受賞。翌日の朝、寝たきりのはずの父親が、自力で新聞を手に、志茂田さんの部屋までやってきて、「おい、載っているぞ! おまえのことが新聞に出ているぞ!」と喜びをあらわに叫んだ。
という感動の逸話なんですが、続けて、志茂田さんは自分の生き方について語ります。
「ぼくは自分を他人と比較することはしません。
昨日の自分、過去の自分はどうだったのかと、思い返すこともしません。あるのは未来のみ。
こんな現在の自分をつくりだしたのは、ほかでもない父かもしれません。ぼくのファッションが変わり、生き方、考え方が変わったのも、少なからず父の影響です。」(志茂田景樹・著『人生はまじめが勝つ』より)
志茂田さんにとっての直木賞とは、なによりまず、父を喜ばせることができた、というハナシに集約されるらしいんですよね。「直木賞作家」という肩書きをテレビ局が面白がって使って、キモチ悪がられたり、はたまた人気が出たり……なんていうことは、志茂田さんには重大なことではなかったんでしょう、おそらく。
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