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2016年2月の4件の記事

2016年2月28日 (日)

山口洋子は言われた、「程度の低いこんな作品が、直木賞の候補作になるのがおかしい」。(昭和59年/1984年8月)

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(←書影は昭和60年/1985年3月・文藝春秋刊 山口洋子・著『演歌の虫』)


 「直木賞と芸能人」……と言われてピンとこない人でも、「直木賞と芸能モノ小説」と聞けば、ああ、とうなずいてくれるでしょう。うなずいてほしいです。

 直木賞の受賞作には、いわゆる芸能モノ小説の系譜、ってやつがあって、しょっぱなの「鶴八鶴次郎」から始まり、『花のれん』「團十郎切腹事件」『巷談本牧亭』「鬼の詩」『蒲田行進曲』『てんのじ村』『漂泊者のアリア』『長崎ぶらぶら節』とかが続きます。長部さんの津軽もの二篇やら、『一絃の琴』やらも、そうかもしれません。

 最近じゃ、『漂砂のうたう』あたりに、ほんのりソレ系の香りが入っていましたが、どうも時代遅れなのか、あまり芸能モノが直木賞を受賞することはなくなっちゃいました。でも当然、ああ、とうなずく人が多い(?)くらいですから、「直木賞と芸能モノ小説」程度のテーマであれば、すでに誰かが解説・研究を書いていると思います。なので、そこは、ざっくり端折ります。

 で、「芸能モノ直木賞」といって、忘れちゃならないのが「演歌の虫」ですよね。これを書いた山口洋子さん自身、若いころからずーっと、芸能界隈のそばで暮らしてきた人です。いまさら言うまでもありません。

 女優への道は、二年でさっさと終えましたが、その後は、銀座のクラブなんちゅう、人びとの憧れなのか、軽蔑・差別される対象なのか、よくわからない業界でのっしのっしと大活躍。芸能人、プロ野球選手ほか、訪れたセレブは数えきれません。その間、昭和43年/1968年には、ちょこっとだけテレビの司会者に抜擢されたりと、山口さんの美貌と才覚が一般に知れ渡るチャンスもあったんですが、すぐにクラブに舞い戻り、しかし(なぜだか)歌謡曲・演歌の作詞をはじめ、いくつかのヒット曲に恵まれるうち、女と男の色恋に関するエッセイやら、プロ野球の観戦記やらを書くという、ほかに追随できる人など誰もいない、独特の山口洋子街道を突き進みます。

 作家への夢も、ずっと抱いていたそうです。近藤啓太郎さんに勧められたのがきっかけで小説を書くようになり、冨士真奈美さんみたいに「美しい女性がちょっとエロティックな小説を書いてまっせ、ダンナ、どうっすか」の謳い文句でおなじみ『小説宝石』に、場所を提供されて、処女作「情人」を発表。

 山口さんは近藤さんを、「人生の師、小説の師」と仰ぎました。小説を書いては鴨川の近藤邸を訪ね、さまざま指導・添削を受けたりします。なかで、近藤さんから言われた印象ぶかい言葉があるそうです。

「思えば酒場も一人、作詞も一人、孤立無援で寄るべき大樹の陰ももたない私が、はじめて心から人に甘えさせてもらえたのは、近藤先生ただお一人である。」

(引用者中略)

「小説をはじめたとき、

「おまえ、かく以上は本当のことを思った通りかけ。それが世の中に受けいれられなかったら、他人に迷惑をかけるからすぐさまやめちまえ」といわれた。

私のなかにずしりと根を張った、重い一言である。」(昭和60年/1985年7月・文藝春秋刊『百人の男』所収「近藤啓太郎」より ―初出;『夕刊フジ』連載「これぞ!! 100人の男」)

 じっさいに山口さん、他人に迷惑をかけかねない小説を、けっこう書きます。

 新進・新人作家ではありましたが、とにかく山口さんは、すでに有名人の一角にいて、顔も広い人でした。しかし、世間的には、最初ははっきりいってイロモノ扱いだった、と言うしかありません。同じイロモノ扱い(扱われ)三人娘のひとりだった林真理子さんは、わたしの受けたバッシングもたいがいだったけど、山口さんのほうがもっとエゲツなかった、などと言っています。

「山口洋子さんとは、三十年前直木賞を一緒にノミネートされた仲である。山口さんと落合恵子さん、そして私の三人が続けて直木賞の候補になり、誰が一番最初に獲るか騒がれた。「新才女時代」と書かれたこともある。

その口調には軽い揶揄があったと思う。

(引用者中略)

私もさんざん嫌なめにあったが、山口洋子さんはもっと風あたりが強かったのではないだろうか。

「女給風情に何が書ける」

と面と向かって言われたこともあったと、何かに書かれていたのを読んだことがある。

(『週刊文春』平成26年/2014年10月2日号 林真理子「夜ふけのなわとび 作家の語学力」より)

 そうなんですよね。まえにもうちのブログに書きましたけど、山口さんの場合、「ヒット作続々の作詞家」じゃなく、「恋愛エッセイスト」としてでもなく、とにかく「クラブのママ」の側面が、当時いちばんイジくられやすい部分だったらしいんですよ。直木賞の候補に3度なって、そのあと受賞したあたりの、週刊誌の記事を見ていると、よく出てきます。

 この辺、人をコケにしたいときの王道な攻め口。なのかもしれませんが、たとえば「お笑い芸人の書いた小説なんか、読みたくもない」みたいな表現は、いまでも立派に通用する(みたいな)ので、とりあえずどうやって他人をバカにしていいか迷ったときは、人の職業のことを笑っておけば済むらしいです。

 しかも山口さんの場合、書く題材も題材でした。近藤さんから「本当のことを思った通りかけ」と言われたからなのか、この小説のモデルは誰それだ、とついウワサしたくなるような、現実との距離感がかなり近い小説を書いていきます。

 銀座のクラブのママ、プロ野球選手、スキャンダル、の三題噺のうえにさらに直木賞(落選)までのっかり、裏ドラがついて満貫。みたいな第91回(昭和59年/1984年上半期)のときなどが、その代表的なものでしょう。候補作は「弥次郎兵衛」。まあ、さんざん酷評する作家スジ・評論家スジのコメントが躍動しました。

「ある高名な作家は、

(引用者注:山口洋子の「弥次郎兵衛」は)週刊誌のスキャンダル記事をふくらましただけの小説だよ。だいたい、こんな作品が直木賞の候補作として上ってくること自体おかしい。作家としての目、新しい解釈があればともかく、程度の低い作品だね。(引用者中略)文学に対する姿勢が低いよ」

とコテンパンなのだ。

(引用者中略)

某文芸評論家など、彼女が聞いたら卒倒しかねないようなことを平気でいうのだ。

「読む気すら起りませんな。だいたい、あの人の作詞を見れば小説だってわかります。山口さんの詩は、いい加減な文句を並べただけですからね。猫がパソコンを叩いているようなもんですね。ま、ああいう小説は読みたい人が読めばいいんだけど、どうせ読むなら、もう少し深い楽しみを与えてくれるものを読んだほうがいい」

そして、返す刀で直木賞そのものも斬って捨てる。

「直木賞も最近では程度が低くなり、有名人に書かせた小説に賞をやって売ろうという魂胆が見えている。小説全体が低迷しているから、その中で何とかヒットを出そうとする戦略みたいなもんですな」」(『週刊新潮』昭和59年/1984年8月2日号「巨人「柳田選手」のスキャンダルを書いて直木賞落選した「姫」のママ」より)

 「高名な作家」は、まだ作品そのものを基準に語ろうとしているからいいです。だけど、この「某文芸評論家」。偉そうな口きいている割りには自分の実名を隠して、しかもさして中身のない、毒にも薬にもならない直木賞批判を繰り出すという、なんとまあ恥ずかしい人でしょうか。

 というのはさておき、この『週刊新潮』の記事、本文では山口さんを「銀座のクラブのママにして作詞家という“マルチ人間”」ととらえ、作詞家・山口洋子についてもきちんと言及しています。なのに、けっきょくタイトルを「「姫」のママ」にしてしまうあたりが、どうやら人をコケにする手法の王道、なんでしょう。たぶん。

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2016年2月21日 (日)

タモリは言われた、「末は参議院議員か直木賞作家か、という徴候が、タモリにもある」。(昭和57年/1982年4月)

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(←書影は昭和57年/1982年4月・世界文化社刊『タモリと賢女・美女・烈女』)


 タモリさんは、たいていの業界に何らかの縁がある全方位型タレントです。もちろん出版界、小説界にもさまざまなつながり、因縁、エピソードがあります。直木賞関連芸能人のひとりである、と強弁したって(たぶん)だいじょうぶです。

 かつてタモリさんは、自分の嫌いなものをよくネタにしていましたが、そのなかのひとつに「小説(とくに純文学)」があります。とにかく深刻がって気取っている、そして高級がっている、と言っては、純文学作家をこき下ろして笑いをとっていました。

阿刀田(引用者注:阿刀田高) タモリさんは、小説家がお嫌いだそうですね。

タモリ ええ、嫌いです。それも純文学の作家というのに、異常な敵対心と偏見を持ってまして……。

阿刀田 (引用者中略)どういうところが嫌いですか?

タモリ (きっぱりと)何の役にも立たん!

阿刀田 ハッハッハッ。

タモリ 役に立たんだけならいいんですけど、害があるんじゃないかと思うんです。(引用者中略)人生とか人間の問題をえらそうに取り上げてるというのが全般的にありますよね。まず、あれがうさん臭い。(引用者中略)問題ばっかり提起して高級がってる。解決がどこを見たって見当たらない。(引用者中略)悩むというのは、非常に高級なことで、両手に納豆つけて遊んでるんだって、ぼくはいってるんです。悩みごっこをしてるんですよ。」(『週刊現代』昭和54年/1979年11月15日号「阿刀田高の「雑学」対談」より)

 同じころの、遠藤周作さんとの対談でも、やはりそういう作家批判が出てきます。

遠藤 視聴者から叱られたことありますか。

タモリ それはたくさんありますよ。不まじめだとか、人をバカにするなとか……。

遠藤 アッハッハ、オレとおんなじだア!

タモリ それから、ふざけすぎる……なにかお笑いというのは下賤なものだという考えが根強いんですね。

遠藤 それは、日本の喜劇の芸人の責任もあると思いますよ。オレたちモノを書く人間の責任もあります。日本では、ユーモア小説はバカ扱いされるでしょう。世界人類の苦悩を一身に背負ったようなのが高級で……。

タモリ そうそう。ぼくが作家を批判するのはそこなんです。」(『女性セブン』昭和53年/1978年5月25日号「周作快談」より)

 気取ったものが大嫌い。しかも、気取っているだけならまだしも、そうでなければ評価されないような「文学」周辺の空気が、もっと嫌い。

 ということで、デビュー前から興味・関心が重なってツルんでいた作家、筒井康隆さんの小説を、「こんなものは文学ではない」とか何とか、ケチをつけて落とすような「直木賞」は、たぶん、タモリさんも毛嫌いしたと思います。直木賞って、ほんと、深刻がってるやつ、好きっすからねー。

 それでタモリさんは、「純文学撲滅運動」なんてものを掲げます。これは「純文学」自体じゃなく、そういう深刻なフリ、高級なフリをして、威張ったりチヤホヤされたりする「純文学の醸し出す状況」が、攻撃対象です。となれば、もはやそれは純文学でなくてもいいわけで、猛烈にタモリさんが、ああいう作家はイヤだねえと名指しで批判しまくったのが、五木寛之さんでした。

 当時の状況を、てれびのスキマさんの文章から引かせてもらいます。

「「この国では、シリアスなものが最高なんだと思ってる風潮があるが、いちばん気に食わない」と語り、その矛先は五木寛之のような日本文学にもおよんだ。日本文学を「病人が全部作った文学」と定義し、「何がいやって日本の文学のあの暗さ(笑)、あれ最悪ですね。暗ければいいという。悩むことが人間の一番崇高なことであるとか」(『広告批評』81年6月号)と批判。」(平成26年/2014年3月・洋泉社/洋泉社MOOK『タモリ読本』所収「あらゆる“意味”から逃れようとする男・タモリ」より ―文:てれびのスキマ)

 対談集『タモリと賢女・美女・烈女』(昭和57年/1982年4月・世界文化社刊)には、五木さんと交流のある中山あい子さんとの対談も入っているんですが、五木って人は、いったいあのカッコつけたナリと態度で、どうやって女を口説いているのか、「人生は……」とか真面目くさっているんだろうな、イヤなやつだな、とえんえんとネタにしています。

タモリ 遠くを見つめながら、言うんだろうな。そういうポーズをとらなきゃいけないんだ。

中山 あの人はたくらんでやっているわけじゃないと思うよ。

タモリ ほおー、たくらんでない?

中山 すごくまじめで、いい子だなと思う子に、いろいろ教えてやりたいなと思う性格なのよ。

タモリ それが余計なお世話なんだ。(笑)」(『タモリと賢女・美女・烈女』より)

 タモリさんが気に食わないのは、五木寛之そのもの。でもあるんでしょうが、何か深淵なことを言っているような態度をとり、意味ありげなムードを演出するのがイヤだと。そして、そういう人を、やたらありがたがったり持てはやし、感動しました!とか言っている、そういう世間の感覚がイヤなんだ、と言っていたんでしょう。……うん、ほんと、イヤです。

 これが、1980年代に入ったころのおハナシです。タモリさん、30代なかば。自分より上の世代、先輩たちが築いてきた風土にケチをつけ、深刻がっていないでただ笑って生きようぜ、とノーテンキにやっていても、不自然さのないお年ごろでした。

 しかし、いつまでそれを続けられるかは未知数だぞ、いずれタモリも、「意味なき笑い」だけじゃ飽き足らなくなり、先輩たちと同様の道に行くんじゃないか。と、不安視(?)されたころでもあります。

 ちょうどそのころ、直木賞のほうでも、タイミングよくそんな事例が発生してしまいました。……と、すみません、いちおう直木賞専門ブログなんで、直木賞の話題を少しします。

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2016年2月14日 (日)

ねじめ正一は言われた、「詩人、作家、タレント、民芸店主と4つの顔を持つ異彩」。(平成1年/1989年8月)

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(←書影は平成1年/1989年2月・新潮社刊 ねじめ正一・著『高円寺純情商店街』)


 とにかく、ねじめ正一さんはテレビを観るのが大好きだったらしいです。テレビへの情熱(?)を語ったエッセイが何本もあります。しかも、ご本人も「でたがりの目立ちたがり屋だ」と認めるぐらい、メディアに顔をさらすことに積極的でした。

 「有名になりたい!」というのは、詩人ねじめ正一の持ちネタのひとつだったわけですが、昔から有名人になることに憧れていたという、詩を書きはじめる以前のエピソードを、2つ挙げておきます。

 高校に進学して、でも野球部に入れないとなったとき、まず歌手になりたいと思ったそうです。

「野球部に入って甲子園にいく夢が途絶えてしまったら、今度は歌手になりたくなったのだ(この軽薄さ)。

目立ちたがり屋の血が疼いてきて、ふつうの高校生のようにはいかなかったのだ。当時、日本テレビで『ホイホイミュージックスクール』という人気番組があった。(引用者中略)私はこの『ホイホイミュージックスクール』に出場したいがために日本テレビにある予選会場に張り切って出かけたものの、「カーン」と鐘ひとつだった。」(平成6年/1994年6月・マガジンハウス刊 ねじめ正一・著『純情ねじり鉢巻』所収「アズナブールのセクシーさ」より)

 歌の才能はない、と宣告されたので(「ので」かどうかは不明ですけど)、次に志願したのが、コメディアン。

「高校二年になったころ、日劇ミュージックホールで観たトリオ・ザ・パンチの内藤陳が、私のコメディアン志願を決定的にした。帰りがけに日劇ミュージックホールの事務所を訪ねコメディアンになりたいと頼んでみたもののいまは雑用係しかないと断られたこともあったが、コメディアンになりたくてなりたくて、どうしたらなれるかということばかり考えていた。(引用者中略)当時「お笑いスター誕生」のような番組があれば、ゼッタイ応募していたし、予選位は勝ち残れたのではないかと思っている。」(昭和59年/1984年11月・リブロポート刊 ねじめ正一・著『ねじりの歯ぎしり』所収「あとがき」より)

 このあと、しばらくたって詩を書きはじめ、32歳のときに『ふ』でH氏賞受賞。よーしここが本拠とばかりに、「有名になりたい詩人のオレ」を売りに、芸やパフォーマンスで暴れまくることになって、「変わった詩人」枠でメキメキと名を挙げたことは、ご存じのとおりです。

 1980年代のねじめさんは、ほんとうに精力的で、どうやったら詩で稼げるか、本気で考えていたフシがあります。昭和60年/1985年には、FM東京の深夜番組「真夜中のサウンド・レター」のパーソナリティーに抜擢されたのを筆頭に、テレビにも出る、週刊誌のルポは書く、絵本もやれば、カルチャースクールの講師も、と名を売りました。「詩人」という芸名でたけし軍団に入ってみようか、などと言っていたのもこの頃です。ねじめさん37歳前後。

 なんか過激でおもしろい人がいるぞ、ネクラな詩壇でひときわ「暴力性」を売りにピーピー騒いでいるね、ということで、めでたく注目を集めます。ああよかった、これでねじめさんも満足ですよね。と思われたのに、そうそう一筋縄ではいかないのが心の綾、ほんとうに自分の好きな世界はそっちじゃないんですよ、などと、ねじめさん自身が今さらのように手のひらをひるがえしちゃうのです。

 ね。この節操のなさが、ねじめさんの魅力、なのかもしれません(……って、よくはわかりません)。

「僕は、ほんとうはしみじみほのぼのの世界が好きなのに、詩に関してはそういうのいけないって思って書いてきたんです。ずーっと人情とかをねじ伏せてきたから、小説を書けるならきっちり出したかった。で、3年かかって出来上がったのが『高円寺純情商店街』なんですね。」(『週刊宝石』平成1年/1989年8月24・31日合併号「人物ウイークリー・データ 少年時代を描いた『高円寺純情商店街』で直木賞を受賞! ねじめ正一」より)

 過激詩人から、しみじみほのぼの小説家への、方向転換です。

 ねじめさんも、30代後半から40歳に差しかかるお年ごろ。いつまでも、サングラスかけて、まわりと違うことやって笑われる詩人、そういう役まわりを演じている場合じゃない、と感じたっておかしくないと思います。

 別のところでは「そういう自分に飽きてきた」と表現したりしました。たとえば、「茶色い小説家宣言」のなかでは、名前の「ねじめ」に、「クネクネ」「ねじくれた」印象があるととらえ、一方の「正一」にあるのは「律儀」なイメージ。詩人として、ずっと「ねじめしさ」を追究していった結果、過激で過剰なコトバにのめり込んでいったのだ、と分析したうえで、こう続けます。

「そんな自分に飽きてきたのが三年ほど前である。もっと過激に、もっと過剰にと鍛えてきたコトバの筋肉が妙に重苦しくなってきた。「正一」筋はいつのまにか細く、頼りなく衰弱して、「ねじめ」筋だけが発達し、自分が不自由になったような気がした。

(引用者中略)

そこで書き始めたのが小説である。『高円寺純情商店街』に収められた私の小説を読んだ人から、「これがあのねじめ正一の書いた作品か」「まるで別人が書いたみたいだ」という感想がよく聞こえてくるが、私にしてみれば久しぶりに「正一」筋を目いっぱい使って書いたのだからそれも当然、ただし八年間鍛えに鍛えた「ねじめ」筋がおとなしくしているわけもなく、文章のところどころでしっかり自己主張しているのは無理もない。」(平成3年/1991年12月・PHP研究所刊 ねじめ正一・著『今日もトットと陽はのぼる』所収「茶色い小説家宣言」より ―『小説新潮』平成1年/1989年9月号)

 うーん。「正一」筋でも、しみじみほのぼの、でもいいんですけど。しかし『高円寺純情商店街』みたいな、あまり面白くもなく際立ってもいない小説に受賞させてしまう直木賞の、地味な文芸モノに甘いところ、何とかなりませんかねえ。とボヤきたくなるでしょ、正直なところ。

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2016年2月 7日 (日)

なべおさみは言った、「直木賞? 取りたいですね」。(平成6年/1994年12月)

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(←書影は平成6年/1994年12月・光文社刊 なべおさみ・著『七転八倒少年記』)


 芸能界っていうのは、どこか、直木賞的なものを好むところがあるんでしょうか。いや、直木賞のほうが、芸能界と近い体質なんでしょうか。とりあえず芸能界バナシには、直木賞の関係人物がぞくぞくと出てきます。

 ここに来て、昨年平成27年/2015年12月に『やくざと芸能界』(講談社+α文庫。平成26年/2014年5月・イースト・プレス刊『やくざと芸能と――私の愛した日本人』の改題、加筆版)と、『昭和の怪物――裏も表も芸能界』(講談社刊)を出し、昔の芸能界ウラ話ライターとして、ふんばりをみせているのが、なべおさみさんです。

 当然といいましょうか、奇縁といいましょうか、なべさんの人生のなかにも、びゅんびゅんと、直木賞に関わった人たちが現われました。

 たとえば阿木由紀夫さん。なべさんが明治大学の学生だったころ、三木鶏郎のトリロー事務所に押しかけ入門を果たし、そこで出会うことになります。まだ芸能界を知らない純真な(?)青年なべさんは、この異才による、いい加減ぶりの洗礼を受けたらしいです。

「元元がいい加減を絵に描いたような人なのだろう。この頃までの生活は、きっと人生で最高に楽しかったはずだ。私みたいな半ちくでも、手塩に掛けて下さった。名馬喰の手から塩を舐めさせてもらえば、私なんかの駄馬でも勇む。

阿木から野坂昭如の本名に戻って、功なり名遂げた身で、大島渚さんのパーティーで、ポカリに乱闘事件なんか、雀百までだ。文才に欠けていたらやくざしかなかったかも。」(なべおさみ・著『やくざと芸能界』「第一章 生まれは江戸前」より)

 渡辺プロに所属する役者見習いになったあとで、昭和37年/1962年から付き人としてついた先が、ハナ肇さん。となれば、むろんクレージーキャッツであり、青島幸男です。なべさんも、『シャボン玉ホリデー』で首尾よくデビューとなり、いずれ直木賞を騒がせることになる芸能界人と、濃密な時間を過ごします。

 その後は、役者としてさらに名を上げ、しかし「ドキュメント女ののど自慢」の司会に抜擢されて人気を博してしまうという、もういったい、俳優なのかタレントなのか、あるいは「何か知らんがテレビ出ている人」枠なのか、ともかくそれで芸能界のなかでも、けっこうお金をもらっているほうの部類にまでのし上がりました。

 と、これはなべさん自身が言っています。

「芸能人は三万人いるといわれています。そのうちの三百人が、メジャーといわれる人種です。一定の年収を上げて、全国的に顔が売れている。

僕は、ナベプロをやめてからもずっとメジャーのランクにいる。年収もそれに匹敵しています。

ただ、仕事にはあまり恵まれていないんです。西田敏行とか武田鉄矢みたいにいい仕事がめったにない。やっぱり、なんか軽々しく生きているんだろうね。」(『週刊文春』平成1年/1989年6月15日号「行くカネ来るカネ 私の体を通り過ぎたおカネ」より)

 まあ、芸能人っていうのは、メジャーであっても明日はどうなるかわからない不安定稼業です。2年後の平成3年/1991年には、マスコミから一気に犯罪者扱いされて糾弾されるという地獄の展開が待っており、仕事を全面的に自粛。しかも、べつに一人のタレントがいなくたって芸能界は、楽しくにぎやかに、ナニゴトもなく平穏に回っていきます。苦しい思いをかみしめながら、なべさんは、その後もなかなか元のようには復帰できなかったらしいです。

 そんななかで引き受けたのが、『夕刊フジ』にエッセイを連載する仕事でした。

 なべさんが文章を書く。というのは唐突な感もあります。幼少のころ、町工場を経営しながら歌人でもあった父親や、そこに集まるキモい文学亡者たちを見てきたので、その反動から、ほとんど本を読まなかった、との回想もあるくらいです。だけど、文章を書かせてみれば、売れない役者だった若い時代から、どこか光るものがあった……んでしょうおそらく。渡辺晋社長からは、相当に信頼され、原稿書きの仕事をまわしてもらっていた、というぐらいです。

「「うちのタレントの作文は、全て、ゴーストライターや記者に書かせないで、本人名でやらしてくれ。それを、なべに宛がうように」

新聞のラテ(ラジオ・テレビ)欄で、タレントが書くページなどがあった。

それがうち(原文傍点)のタレントの場合、全てが私に、御鉢が回って来た。

(引用者中略)

私は手記を書くタレントに会い、束の間の時間インタビューして、直ぐに書き上げては、プロダクションに届けた。男は男なりに、女は女なりに文章を仕上げなくてはならないが、私の書いた物で、本人からのクレームは一度として無かった。」(なべおさみ・著『昭和の怪物――裏も表も芸能界』「第一章 芸能夜話」より)

 『夕刊フジ』への連載が、ひとすじの光明になった。とは、さすがに言いかねるんですが、でも、ここで登場するのが、ひとりの作家。しかも、直木賞を受賞した作家だった、というのですから、(うちのブログぐらいは)注目しなきゃおさまりません。

「今春『夕刊フジ』に連載したエッセイが作家の山口洋子氏の目にとまり小説に挑戦。処女出版となった。」(『週刊宝石』平成6年/1994年12月29日号「本のレストラン」より ―取材・文:野木口仁)

 ということで、山口洋子さんからの励ましを受けまして、平成6年/1994年、文章も書ける(そして挫折も経験した)芸能人、なべおさみ、のお披露目となります。

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