なべおさみは言った、「直木賞? 取りたいですね」。(平成6年/1994年12月)
(←書影は平成6年/1994年12月・光文社刊 なべおさみ・著『七転八倒少年記』)
芸能界っていうのは、どこか、直木賞的なものを好むところがあるんでしょうか。いや、直木賞のほうが、芸能界と近い体質なんでしょうか。とりあえず芸能界バナシには、直木賞の関係人物がぞくぞくと出てきます。
ここに来て、昨年平成27年/2015年12月に『やくざと芸能界』(講談社+α文庫。平成26年/2014年5月・イースト・プレス刊『やくざと芸能と――私の愛した日本人』の改題、加筆版)と、『昭和の怪物――裏も表も芸能界』(講談社刊)を出し、昔の芸能界ウラ話ライターとして、ふんばりをみせているのが、なべおさみさんです。
当然といいましょうか、奇縁といいましょうか、なべさんの人生のなかにも、びゅんびゅんと、直木賞に関わった人たちが現われました。
たとえば阿木由紀夫さん。なべさんが明治大学の学生だったころ、三木鶏郎のトリロー事務所に押しかけ入門を果たし、そこで出会うことになります。まだ芸能界を知らない純真な(?)青年なべさんは、この異才による、いい加減ぶりの洗礼を受けたらしいです。
「元元がいい加減を絵に描いたような人なのだろう。この頃までの生活は、きっと人生で最高に楽しかったはずだ。私みたいな半ちくでも、手塩に掛けて下さった。名馬喰の手から塩を舐めさせてもらえば、私なんかの駄馬でも勇む。
阿木から野坂昭如の本名に戻って、功なり名遂げた身で、大島渚さんのパーティーで、ポカリに乱闘事件なんか、雀百までだ。文才に欠けていたらやくざしかなかったかも。」(なべおさみ・著『やくざと芸能界』「第一章 生まれは江戸前」より)
渡辺プロに所属する役者見習いになったあとで、昭和37年/1962年から付き人としてついた先が、ハナ肇さん。となれば、むろんクレージーキャッツであり、青島幸男です。なべさんも、『シャボン玉ホリデー』で首尾よくデビューとなり、いずれ直木賞を騒がせることになる芸能界人と、濃密な時間を過ごします。
その後は、役者としてさらに名を上げ、しかし「ドキュメント女ののど自慢」の司会に抜擢されて人気を博してしまうという、もういったい、俳優なのかタレントなのか、あるいは「何か知らんがテレビ出ている人」枠なのか、ともかくそれで芸能界のなかでも、けっこうお金をもらっているほうの部類にまでのし上がりました。
と、これはなべさん自身が言っています。
「芸能人は三万人いるといわれています。そのうちの三百人が、メジャーといわれる人種です。一定の年収を上げて、全国的に顔が売れている。
僕は、ナベプロをやめてからもずっとメジャーのランクにいる。年収もそれに匹敵しています。
ただ、仕事にはあまり恵まれていないんです。西田敏行とか武田鉄矢みたいにいい仕事がめったにない。やっぱり、なんか軽々しく生きているんだろうね。」(『週刊文春』平成1年/1989年6月15日号「行くカネ来るカネ 私の体を通り過ぎたおカネ」より)
まあ、芸能人っていうのは、メジャーであっても明日はどうなるかわからない不安定稼業です。2年後の平成3年/1991年には、マスコミから一気に犯罪者扱いされて糾弾されるという地獄の展開が待っており、仕事を全面的に自粛。しかも、べつに一人のタレントがいなくたって芸能界は、楽しくにぎやかに、ナニゴトもなく平穏に回っていきます。苦しい思いをかみしめながら、なべさんは、その後もなかなか元のようには復帰できなかったらしいです。
そんななかで引き受けたのが、『夕刊フジ』にエッセイを連載する仕事でした。
なべさんが文章を書く。というのは唐突な感もあります。幼少のころ、町工場を経営しながら歌人でもあった父親や、そこに集まるキモい文学亡者たちを見てきたので、その反動から、ほとんど本を読まなかった、との回想もあるくらいです。だけど、文章を書かせてみれば、売れない役者だった若い時代から、どこか光るものがあった……んでしょうおそらく。渡辺晋社長からは、相当に信頼され、原稿書きの仕事をまわしてもらっていた、というぐらいです。
「「うちのタレントの作文は、全て、ゴーストライターや記者に書かせないで、本人名でやらしてくれ。それを、なべに宛がうように」
新聞のラテ(ラジオ・テレビ)欄で、タレントが書くページなどがあった。
それがうち(原文傍点)のタレントの場合、全てが私に、御鉢が回って来た。
(引用者中略)
私は手記を書くタレントに会い、束の間の時間インタビューして、直ぐに書き上げては、プロダクションに届けた。男は男なりに、女は女なりに文章を仕上げなくてはならないが、私の書いた物で、本人からのクレームは一度として無かった。」(なべおさみ・著『昭和の怪物――裏も表も芸能界』「第一章 芸能夜話」より)
『夕刊フジ』への連載が、ひとすじの光明になった。とは、さすがに言いかねるんですが、でも、ここで登場するのが、ひとりの作家。しかも、直木賞を受賞した作家だった、というのですから、(うちのブログぐらいは)注目しなきゃおさまりません。
「今春『夕刊フジ』に連載したエッセイが作家の山口洋子氏の目にとまり小説に挑戦。処女出版となった。」(『週刊宝石』平成6年/1994年12月29日号「本のレストラン」より ―取材・文:野木口仁)
ということで、山口洋子さんからの励ましを受けまして、平成6年/1994年、文章も書ける(そして挫折も経験した)芸能人、なべおさみ、のお披露目となります。
○
仕事がひとつもなくなり、比叡山にのぼって修行を体験。そのなかで浮かんできたのが、自分の少年時代、昭和25年/1950年前後のことだった。というので、処女小説は、ほぼ実体験をもとにした回想ものの『七転八倒少年記』となりました。
よくあるっちゃあ、よくあるテーマの小説、ではあるんですけど、じっさいに書けるか書けないかは大違いです。回想記にありがちなベタベタ感、その時代を生きたものだけがわかればいい、みたいな内にこもる自意識過剰さもなく、客観性のそなわった文章で、見事、書き下ろしてみせます。
少し人前に出る仕事からは離れていましたが、しかしサービス精神を発揮するのは、お手のものです。刊行の折りには、「芸能人が小説を書いたぞ」記事の定番に、よろこんで乗っかってあげて、直木賞ネタも繰り出してくれました。
「「この4年間、喜びも悲しみもイヤというほど味わいました。
なんとかしようと、あがけばあがくほど、裏目に出ましたが、やっと“光”が見えてきました」
(引用者中略)
映画少年から、コント作家 付き人、コメディアン、そして失意の日々。それらが、この少年記に凝縮されている。
「直木賞? 取りたいですね」
キッパリと宣言した。」(『女性自身』平成6年/1994年12月20日号「長編自伝小説で念願の作家デビューを果たした!「直木賞……?う~ん狙ってみたいネ」」より)
「キッパリと宣言した」と週刊誌ライターが書けるように、応対してあげるところが、なべさんのやさしさです。
もちろん(?)そのあと直木賞の話題はおろか、次から次へと執筆の注文が舞い込む。なんてこともありませんでした。だけどそれはそれとして、たとえば、冒頭に紹介した近著『やくざと芸能界』にしろ、『昭和の怪物』にしろ、「昔こんなことがあったんですよ、どうですかゴシップ好きの愚民ども!」といった、エピソード連発で終わっていない。そこが、なべさんの持ち味なんですよね。
「「本物」のヤクザを教えよう」(『やくざと芸能界』)と章を立てて、えんえんと、日本におけるヤクザの起源・歴史を概説してみたり、「再び「ケ」と「ハレ」考」(『昭和の怪物』)では、なんで昭和の芸能界の回想記にこんな文章が付け加えられているんだ!? と叫ばずにはいられない、「ケ」と「ハレ」のおハナシを、めんめんと綴ったりしています。
なべさんの、文章家としての才能を高く買っているひとりが、元『文藝春秋』に勤め、やがて『WiLL』編集長となった花田紀凱さんです。『病室の「シャボン玉ホリデー」 ハナ肇と過ごした最期の29日間』(平成26年/2014年11月・イースト・プレス/文庫ぎんが堂)に「解説」を寄せています。
「なべおさみは単なる付き人、単なるコメディアンで終わる人ではないのである。
(引用者中略)
なべおさみには三つの力が備わっている。それは生まれつきのものもあろうし、育った環境、育った時代ということもあろう。
その三つとは、
①観察力
②表現力。本の場合なら文章力ということになろう。役者としてなら演技力か。
③人間力。人間を見抜く力。人間関係をつくっていく力。それらをひっくるめてぼくは人間力と言っている。」(『病室の「シャボン玉ホリデー」 ハナ肇と過ごした最期の29日間』「文庫版解説」より)
正直、回想もの以外にも、なべさんには挑戦してほしいんですが、いまの世の中、そうやすやすと、もの書きの仕事は入ってこないかもしれません。とりあえず、抜群の人間力で築いてきた幅広い交遊関係のなかから、「あのときの、こんなとっておきバナシ」などを書いてしのぎながら、いつかまた、小説、書いてください。
最後に、文章を書くときのモットー、というのを、なべさんが明かしてくれていますので、挙げておきます。
「――執筆時にはどんなことを意識されたのでしょう。
原稿を書く書斎には、井上ひさしさんの言葉が貼ってあります。
「むずかしいことをやさしく やさしいことをふかく ふかいことをゆかいに ゆかいなことをまじめに」
これが僕のモットーです。」(『週刊現代』平成26年/2014年6月14日号「インタビュー 書いたのは私です なべおさみ」より)
ぬふ。ここにも、直木賞受賞者が出てくるんだ! いつも直木賞をごひいきくださり、ありがとうございます。
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