ねじめ正一は言われた、「詩人、作家、タレント、民芸店主と4つの顔を持つ異彩」。(平成1年/1989年8月)
(←書影は平成1年/1989年2月・新潮社刊 ねじめ正一・著『高円寺純情商店街』)
とにかく、ねじめ正一さんはテレビを観るのが大好きだったらしいです。テレビへの情熱(?)を語ったエッセイが何本もあります。しかも、ご本人も「でたがりの目立ちたがり屋だ」と認めるぐらい、メディアに顔をさらすことに積極的でした。
「有名になりたい!」というのは、詩人ねじめ正一の持ちネタのひとつだったわけですが、昔から有名人になることに憧れていたという、詩を書きはじめる以前のエピソードを、2つ挙げておきます。
高校に進学して、でも野球部に入れないとなったとき、まず歌手になりたいと思ったそうです。
「野球部に入って甲子園にいく夢が途絶えてしまったら、今度は歌手になりたくなったのだ(この軽薄さ)。
目立ちたがり屋の血が疼いてきて、ふつうの高校生のようにはいかなかったのだ。当時、日本テレビで『ホイホイミュージックスクール』という人気番組があった。(引用者中略)私はこの『ホイホイミュージックスクール』に出場したいがために日本テレビにある予選会場に張り切って出かけたものの、「カーン」と鐘ひとつだった。」(平成6年/1994年6月・マガジンハウス刊 ねじめ正一・著『純情ねじり鉢巻』所収「アズナブールのセクシーさ」より)
歌の才能はない、と宣告されたので(「ので」かどうかは不明ですけど)、次に志願したのが、コメディアン。
「高校二年になったころ、日劇ミュージックホールで観たトリオ・ザ・パンチの内藤陳が、私のコメディアン志願を決定的にした。帰りがけに日劇ミュージックホールの事務所を訪ねコメディアンになりたいと頼んでみたもののいまは雑用係しかないと断られたこともあったが、コメディアンになりたくてなりたくて、どうしたらなれるかということばかり考えていた。(引用者中略)当時「お笑いスター誕生」のような番組があれば、ゼッタイ応募していたし、予選位は勝ち残れたのではないかと思っている。」(昭和59年/1984年11月・リブロポート刊 ねじめ正一・著『ねじりの歯ぎしり』所収「あとがき」より)
このあと、しばらくたって詩を書きはじめ、32歳のときに『ふ』でH氏賞受賞。よーしここが本拠とばかりに、「有名になりたい詩人のオレ」を売りに、芸やパフォーマンスで暴れまくることになって、「変わった詩人」枠でメキメキと名を挙げたことは、ご存じのとおりです。
1980年代のねじめさんは、ほんとうに精力的で、どうやったら詩で稼げるか、本気で考えていたフシがあります。昭和60年/1985年には、FM東京の深夜番組「真夜中のサウンド・レター」のパーソナリティーに抜擢されたのを筆頭に、テレビにも出る、週刊誌のルポは書く、絵本もやれば、カルチャースクールの講師も、と名を売りました。「詩人」という芸名でたけし軍団に入ってみようか、などと言っていたのもこの頃です。ねじめさん37歳前後。
なんか過激でおもしろい人がいるぞ、ネクラな詩壇でひときわ「暴力性」を売りにピーピー騒いでいるね、ということで、めでたく注目を集めます。ああよかった、これでねじめさんも満足ですよね。と思われたのに、そうそう一筋縄ではいかないのが心の綾、ほんとうに自分の好きな世界はそっちじゃないんですよ、などと、ねじめさん自身が今さらのように手のひらをひるがえしちゃうのです。
ね。この節操のなさが、ねじめさんの魅力、なのかもしれません(……って、よくはわかりません)。
「僕は、ほんとうはしみじみほのぼのの世界が好きなのに、詩に関してはそういうのいけないって思って書いてきたんです。ずーっと人情とかをねじ伏せてきたから、小説を書けるならきっちり出したかった。で、3年かかって出来上がったのが『高円寺純情商店街』なんですね。」(『週刊宝石』平成1年/1989年8月24・31日合併号「人物ウイークリー・データ 少年時代を描いた『高円寺純情商店街』で直木賞を受賞! ねじめ正一」より)
過激詩人から、しみじみほのぼの小説家への、方向転換です。
ねじめさんも、30代後半から40歳に差しかかるお年ごろ。いつまでも、サングラスかけて、まわりと違うことやって笑われる詩人、そういう役まわりを演じている場合じゃない、と感じたっておかしくないと思います。
別のところでは「そういう自分に飽きてきた」と表現したりしました。たとえば、「茶色い小説家宣言」のなかでは、名前の「ねじめ」に、「クネクネ」「ねじくれた」印象があるととらえ、一方の「正一」にあるのは「律儀」なイメージ。詩人として、ずっと「ねじめしさ」を追究していった結果、過激で過剰なコトバにのめり込んでいったのだ、と分析したうえで、こう続けます。
「そんな自分に飽きてきたのが三年ほど前である。もっと過激に、もっと過剰にと鍛えてきたコトバの筋肉が妙に重苦しくなってきた。「正一」筋はいつのまにか細く、頼りなく衰弱して、「ねじめ」筋だけが発達し、自分が不自由になったような気がした。
(引用者中略)
そこで書き始めたのが小説である。『高円寺純情商店街』に収められた私の小説を読んだ人から、「これがあのねじめ正一の書いた作品か」「まるで別人が書いたみたいだ」という感想がよく聞こえてくるが、私にしてみれば久しぶりに「正一」筋を目いっぱい使って書いたのだからそれも当然、ただし八年間鍛えに鍛えた「ねじめ」筋がおとなしくしているわけもなく、文章のところどころでしっかり自己主張しているのは無理もない。」(平成3年/1991年12月・PHP研究所刊 ねじめ正一・著『今日もトットと陽はのぼる』所収「茶色い小説家宣言」より ―『小説新潮』平成1年/1989年9月号)
うーん。「正一」筋でも、しみじみほのぼの、でもいいんですけど。しかし『高円寺純情商店街』みたいな、あまり面白くもなく際立ってもいない小説に受賞させてしまう直木賞の、地味な文芸モノに甘いところ、何とかなりませんかねえ。とボヤきたくなるでしょ、正直なところ。
○
長く詩人をやってきて直木賞を受賞、というのは、そうとう稀有です。それだけでも特異です。
ところが、ねじめさんの場合、「タレントが受賞した」と言っていいほどに、ある程度「有名人」の格もありました。ここが、稀有ななかでもさらに異様だった点なんですよね。
メディアにバンバン出るようなことは、すでにひととおり経験済みです。なので、こんな受賞記事が書かれたくらいです。
「ねじめ正一 直木賞作家、詩人、タレント、民芸品店を経営する41歳。」「4つの顔を持つ異彩詩人」
「詩人、作家、タレント、民芸店主と4つの顔で、まさしくフル回転だ。」(『週刊宝石』平成1年/1989年8月17日号「Portrait of A Literary MAN」より)
肩書きに「タレント」が入っています。
もちろん、直木賞をとったとなれば、そこに輪がかかります。本も多少は売れるでしょうが、やっぱり「直木賞」の看板というのは、他の方面で、客が呼べる存在です。ねじめさんがさんざん触れ回っていた「有名人」状態が、いっそう現実のものになった、と言えると思います。
たとえば、ずーっと会いたくて会いたくて仕方がなかったビートたけしさん……直木賞候補のときに『TVタックル』の出演オファーを受けながら、けっきょくドタキャンを喰らい、対面が叶わなかったたけしさんにも、直木賞を受賞したら、きちんとテレビ番組に呼ばれて念願を果たすことになります。
しかも、まもなく、TBS『たけしの頭の良くなるテレビ』にレギュラー出演まで決定。いっときは、たけしも直木賞を欲しいからねじめがキャスティングされているんだ、などといったネタが飛び交い、直木賞周辺を盛り上げてくれました(←そんなネタで喜ぶのは、ワタクシぐらいか……)。
だけど、ねじめさんはすでに、「ワーワーと前に出る過激詩人」である自分に飽きていたんですよね、このころには。直木賞もとったわけだし、もう「有名になりたい有名になりたい」と、ことさらイキがって触れまわる必要もなくなった……のかもしれません。
サングラスをやめて素メガネにし、今度は「純情」路線だと、そちらが強調されて、受賞から一年たったころには、しばらくテレビから離れて小説に集中しますよ宣言。
「幼少時より、ずっと芸人に憧れ、いかに話相手を笑わせるかに腐心していたという、ねじめ正一。そんな彼は、つい最近、芸人廃業(!?)宣言をした。
「ビートたけしさんに出会ったことが大きいよね。だって、おもしろさが全然違うんだから。(引用者中略)」
秋以降は、しばらくテレビから離れ、新作の小説に集中する。」
(引用者中略)
「昔のような暴力的な詩は、いまは書けないなあ。体力がいるんだよね。暴れる言葉を必死で抑えつけてるんだから。」」(『宝石』平成2年/1990年9月号「素顔で登場 ねじめ正一 芸人廃業宣言!?ぼく、作家でいます」より)
80年代は、「詩人の芸能化」とかを唱えて、イケイケ(のふり)でした。首尾よく、詩人のなかでは有名なところまで来て、直木賞受賞。これで一気にタレント性が開花するぞ。と見せかけて、もはやねじめさんの目には、小説を書いていく未来があったようです。徐々に(?)タレント業もフェードアウトしていきます。
あそこで直木賞をとっていなかったら、どうなっていたんでしょうか。……考えたってしょうがありませんが、でも、しみじみほのぼのな小説、これからも書いていっていいんだよ、と肩をたたいてくれるような存在(=直木賞)があって、ねじめさんにとってはよかったことでしょう。じゅうぶん有名にもなれたし。
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