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2016年1月10日 (日)

板東英二は言った、「直木賞を狙っているわけじゃないけど、ノミネートはされたいですよ」。(昭和61年/1986年10月)

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(←書影は平成10年/1998年10月・青山出版社刊 板東英二・著『赤い手』)


 せっかくなので、だれかスポーツ界の人も取り上げておきたいな。と悩んだ末に、いや悩むまでもなく、完全なる芸能人でありながら、スポーツ界出身で、しかも立派な直木賞エピソードまで持っている、かっこうの人がおりました。板東英二さんです。

 板東さんといえば、なにをさておいても(といっていいのか)、堂々たるベストセラー・ライターです。昭和59年/1984年から刊行のはじまった、青春出版社プレイブックスの球界内幕もの、『プロ野球知らなきゃ損する』シリーズが、江本孟紀さんの『プロ野球を10倍楽しく見る方法』(昭和57年/1982年5月・ベストセラーズ/ワニの本)の二番煎じにもかかわらず、やたらと売れてしまい、結果、いちばん売れたもので80万部以上を突破。すでにこのとき板東さんは、野球解説の人なのかお笑い芸人なのか、よくわからないほどにメディアでしゃべりまくり、テレビ・ラジオ合わせてレギュラー19本を抱える売れっ子ぶりで、日本放送演芸大賞の最優秀ホープ賞もとってしまって、人気タレントとして遇されていました。これらの本も、いわゆるタレント本の一種として、多くの人の購買欲をそそった、と言っていいでしょう。

 ということで、タレント本を書く人(の一部)に共通の悩みが、板東さんにも襲いかかったそうです。

「「一番悔しいのは、どうせゴーストライターが書いたんだろうと思われること。本当に書きたいのは小説、自分の一代記なんですわ」と常々言う。」(『中央公論』平成5年/1993年6月号「人物交差点」より)

 「タレントが本を出したんだから、ゴーストライターがいるんでしょ」問題は、ほとんど日本の常識となった、と言ってもいいですもんね。これには板東さんも、かなりイラッとしたようです。おれは自分で書いているっちゅうの、という強烈な自負があったからです。

「タレントと呼ばれる人が自分で書いていないと世間の人が思うのは、僕らより前の人が書いていないからでしょうね。

僕は一度調べたことがあるんですよ。野球解説や野球評論の記事を実際に書いているのは、あの当時は僕だけだった。あとは名前は野球人でも、書いているのは新聞記者です。

(引用者中略)

僕は野球をしているからには、下手でも自分で原稿を書かなければという思いがあったのと、実は小さい頃から、学校の先生になりたくてしかたがなかった。」(『保険展望』平成12年/2000年1月号 板東英二×山咲千里「書くことも、また楽しからずや」より)

 と、スポーツ紙などに掲載される野球評論記事のことを語っています。プレイブックスの諸作もそうだったのかどうかは、よくわかりません。

 ただ、板東さんがベストセラーを連発していたころにはすでに、いつか自分の半生を書いておきたい、と望んでいたことはたしかなようです。中日ドラゴンズを退団したあたりには、すでに原稿用紙を買ってきて、書きだしていた、という回想もあります。タイトルも「赤い手」にすると決め、周囲の人に小説の構想を話して聞かせたりもしていたのだとか、何とか。

 それがオモテに出た最初期の例が、『週刊サンケイ』昭和61年/1986年10月2日号の、上之郷利昭さんによるインタビュー記事です。俳優としても活躍しはじめたころで、単なるおしゃべり野球バカではないタレント性が、世のなかにも浸透し、次なる目標や夢を、いろいろ語らされる機会も増えたのでしょう。板東さんの小説執筆への思いがお披露目されることになったのも、自然といえば自然なタイミングでしたが、ここで早くも「直木賞」の単語が飛び出してしまうところが、さすが板東さん、直木賞オタク連中からも愛されるゆえんでしょう。

「――ところで今、小説を書いておられるんですって? 初公開で、その骨格を公開してもらえますか。

板東 いや、夢ですけどね(笑い)。『赤い手』というタイトルです。(引用者中略)

――一説では直木賞を狙ってらっしゃるとか。

板東 狙ってるわけじゃないですけど(笑い)。」(『週刊サンケイ』昭和61年/1986年10月2日号「上之郷利昭取材現場 直木賞ノミネート目指して『赤い手』いう小説書いてます」より)

 ……狙っているわけじゃないけど、どうなのか。直木賞にノミネートはされたいと言うのです。

 しかも板東さんの場合は、作家として認められたいとか、作家の称号を手にしたいとか、そういう理由じゃないんですね。こう続けます。

「本心を言うと大それた言い方ですが、ノミネートはされたいですよ。これまで自分が書いた本や記事について、どっちみちゴーストライターが書いてるんやろとよう言われるんです。それがシャクでしてね。直木賞はゴーストライターが書いたやつはダメですから、正真正銘、自分で書いたということの証明のためにも……書き上げたいですワ。」(同)

 直木賞の候補になれば「自分が書いたことの証明になる」のだと。自分で書いていると信じてもらえず、よっぽどシャクだったんでしょうか。

 しかしなるほど、ベストセラーを連発するタレントならではの理由、といいましょうか。「直木賞をとりたいですね」とさえ言っておけば済むところを、そうじゃなくて実はこうなんですわ、と言葉を続けなきゃ満足できない、しゃべり屋ダマシイの本領発揮、といいましょうか。いずれにせよ、直木賞にはそんな効用もあったのか。と、通常の角度とはまたちがう面で期待をかけられている直木賞の顔をみたおもいで、こういうことを瞬時に答えられる板東さん、そりゃ売れっ子になるよなあ、と感嘆してしまいます。

           ○

 このインタビューが昭和61年/1986年のことです。「夢」と言ってしましたが、同時期の『週刊平凡』10月31日号では「自叙伝に着手した」とも書かれ、「完成までに5年はかかりそうですわ」と、ざっくりとした予定も発表しました。

 しかしどうせ口の達者な板東さんのことだから、口先だけのハナシだったんでしょ、と思った人がどれだけいたのか、計測不能なので、わかりませんが、そう思われたっておかしくなかったはずです。なにしろ板東さんはお忙しい身で、そんなものを書くひまがどこにあるんだ、っていうくらいの人気をキープしていましたので、昭和61年/1986年から5年たっても、完成したという話題はまるで出てきません。

 それどころか、平成6年/1994年にいたってもまだ、しつこく「小説を書くのが夢」だと言い続けるありさまでした。

「15年ほど前から小説を書きたいと思い、去年の夏には出生地の旧満州を訪ねた。

「(引用者中略)時間がねぇ……。僕にしてみれば小説を書くというのは大きな夢でね。何かの賞をとりたい。(引用者後略)」」(『週刊宝石』平成6年/1994年6月9日号「本のレストラン タレント活動、野球評論――次なる「夢」は小説で文学賞 板東英二」より ―取材・文:朝山実)

 あれっ、賞をとりたい、ですって? ノミネートされることが望みだったんじゃないの。と、ここにひっかかった人は多かったことでしょう(ワタクシだけか)。1ページものの短い記事のため、板東さんの真意は、ちょっとうかがい知れません。タレントと小説といえば、うだうだ言わずに、やはり「賞をとりたい」という表現のほうがおさまりがよかった、という理由も十分考えられます。

 いったい、構想から何年がたったんでしょうか。「幾度となく挫折し、夢は遠のくばかりだった」と板東さん本人も言っています。しかし、口先だけの男、とは言わせないぞとばかりに、その間も夢をずーっと持ちつづけていたところに、テレビマン・ユニオンの中谷直哉プロデューサーが、大いに乗り気になってくれたおかげで、おそらく何度めかの小説執筆にチャレンジ。まもなく平成9年/1997年、作中で大きな存在をしめる母親が他界し、ますます「書きのこしておきたい」との思いがつのったんでしょう、ついに構想のなかのまず第一巻を書き上げることができ、平成10年/1998年に青山出版社から刊行が決まりました。

 けっきょく、これで板東さんが全部自分で書き上げたのかどうか、という疑問が解消されたわけではありません。というのも、少なくとも構成面では他の人のアドバイス(指導?)があったことが明らかにされていて、

「僕の『赤い手』は小説とは言えないと思うけど、構成を考えてくれる方がいないとできないですね。僕自身は思い入れで書いているだけだから、それをどう組み合わせたり膨らませるかは、第三者がいないとね。」(前掲「書くことも、また楽しからずや」より)

 あるいは、文章の面でも、

「私の母の思いをひとりでも多くの女性の方々に伝えるためには女性の文章を、ということになり、ライターの百瀬しのぶさんにも大変ご苦労をかけた。」(『赤い手』「あとがき」より)

 と、どの程度のご苦労かわかりませんが、ライターの百瀬さんが関わったのだそうです。ただ、よほど板東さんがウソつきでなければ、少なくとも板東さんの文章がベースとなっていたとは思いますし、通常の小説制作現場だって、編集者による介入がある程度はあり得ますから、純粋な「ゴーストライターによる作品」とは、まるでちがう小説だったことでしょう。

 果たして直木賞やら、何か文学賞の候補になっていれば、完全にゴーストライター説も払拭された……んでしょうか。いや、この世には、ウワサ程度のものがあれば勝手に事実として吹聴する人間であふれ返っていますから、たとえ直木賞候補になったとしても、そうはうまくいかなかったと思いますけど、現実に賞にノミネートされることはなかったので、仮定のハナシをしてもしかたありません。

 まあそれでも、『赤い手』は話題になって、いっときはベストセラーランキングの上位に挙がるほどには売れました。また長年の念願だった夢をかなえることができたという意味では、板東さん、十分満足したことと思います。本人も語っています。

「小説の執筆は「これまでの人生でもっとも落ち着いた満足な仕事だった」と語る氏の顔は、テレビで見る顔とまた一味違っていた。」(『潮』平成11年/1999年2月号「全国を熱狂させた一九五八年夏の甲子園の雄、波瀾万丈の少年期を綴った自伝小説『赤い手』を上梓。」より)

 その後も板東さんは、「波瀾万丈」を地でいく道のりを歩んでいるらしいのですが、それはまた、直木賞とは関係ないストーリーに突入しそうなので、ここらでやめておきます。

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