野坂昭如は言った、「直木賞がほしくてTVをやめた」。(昭和52年/1977年12月)
(←書影は昭和47年/1972年6月・新潮社/新潮文庫 野坂昭如・著『受胎旅行』)
平成27年/2015年、今年は直木賞にとってどんな一年だったか。……といえば、これはもう明らかに「数多くの受賞者が亡くなった年」です。
昨年、平成26年/2014年は、一年で鬼籍に入った直木賞受賞者が6人、という新記録をうちたてたばかりでしたが、今年はそれを上まわるペースで次々と訃報がながれた末に、12月に入って7人目、8人目と他界。悲嘆にくれる余裕もない年でした(っていうのは、さすがに大げさ)。
陳舜臣、赤瀬川隼、船戸与一、車谷長吉、高橋治、佐木隆三、杉本章子……そして、最後(ですよね?)のおひとりが、選考委員にはならなかったが大物中の大物、長い直木賞の歴史をこの人(とその時代)が変えたのだ、とも言われる天才鬼才、野坂昭如さんです。と同時に、「芸能人と直木賞」のテーマにふさわしすぎる芸能人でもありました。
野坂さんについては、昔、関連書籍として『文壇』(平成14年/2002年4月・文藝春秋刊)を取り上げたことがあります。川口松太郎さんとカラんだ一件も、軽く触れました。
「テレビにチャラチャラ出てるやつに、賞などやれるか」という考え方と、「小説界を担うにふさわしい才能であれば、テレビに出ていようが何だろうが関係ない」という意見。その後の直木賞(とか、もうひとつの賞とか)を彩ることになる、お約束な構造。これを、まわりを取り巻く人たちが、好んで言い立てるようになった嚆矢が、野坂さんの直木賞落選&受賞でした。昭和42年/1967年ごろのことです。
と言いますか野坂昭如っていう人物が、テレビ業界が猛烈なパワーで拡大していた、そんな時代に現われた人です。嚆矢にならざるを得なかったわけですけど、この対立構造を強固にするのには、野坂さんお得意の「ひがみ根性」も、ひと役買ったものと思います。
どんな場面でもひがんでみせる。これは、野坂さんのひとつの藝です。後年、おれは直木賞選考委員になれない、っていうテーマで長部日出雄さんと対談したときも、長部さんが盛んにツッコみを入れなきゃいけなくなるぐらいに、ねたんで、ひがんで、そねってみせました。
「野坂 近ごろ、直木賞のシーズンになって、どれが候補作に選ばれたとか、受賞作の選考過程がどうであったかという話をするときに、非常にぼくに言いにくそうに話す人が出てきたね。なんか申訳ないという感じで……。
長部 どういうことですか、それは。
野坂 まだ選考委員になっていないけれど、あなたとしてはさぞかしなりたいだろう……と、そう思っているらしいんだね。だけれども、どんどん先を越されてしまって、あなたとしては不本意な心境であるにもかかわらず、こんな話題を持ち出して、なおさら傷を掻き回すようですが……って、そういうニュアンスがうかがえるわけですよ。
長部 それはちょっと考え過ぎじゃないですか(笑)。
(引用者中略)
長部 たとえば野坂さんがこんど、直木賞の選考委員になったとすると、野坂さんの性格からして、この委員のなかでベストセラーを出していないのはおれだけだなんて、また僻むんじゃないですか。
野坂 そう、ベストセラーを出してなきゃ駄目ってことはわかった。しかし、一方では、女にモテるってことも必要なんじゃないですか。
長部 そうかしら。」(昭和62年/1987年6月・文藝春秋刊 野坂昭如・長部日出雄・著『超過激対談』所収「NOSAKAはなぜ「直木賞選考委員」になれないか」より)
こんな感じで、えんえんとやっています。
ということで、受賞当時のことにハナシを移しますが、ひがみを肥やしにする野坂さんにとって、「放送業界で何とかおマンマ食っているけど、やはり優遇されている小説家になりたい」みたいな構図が、最もしっくりくる、もの書き感だったらしいです。
テレビ業界(の書き手)は、活字の文壇より下に見られている、みたいな感覚です。
「CMソング作詞者だった時は、結局は、作曲家に従属していなければならず、TV脚本家の頃は、ディレクター、タレント、スポンサーに押えつけられ、雑文業にうつれば、同じ活字ならば、やはり小説家が一枚上に見える、どんなところにおかれても、自分を偽らず、精いっぱいに生きることのできる人もいるだろうけど、ぼくはついおもねりへりくだってしまい、その不満がしだいによどんで、その場がいやになる。
そして、小説家になるには、直木賞をとらねばならぬ、そのためにはあまりTVにでるなといわれて、TV出演もひかえたし、雑文もやめて、いかにも小説一筋といったイメージをつくるよう努力した。口では、「別に、いいじゃないか、TVのなにがわるい、それまでしてもらわなくっても」いきがっていたが、ぼくは身のふり方を、小心にとりつくろい、そのあらわれは、たとえば、バアで直木賞選考委員の方に、ばったりあうと、まったく存じ上げないのに、ひょいっとお辞儀してしまうほどだった。」(『文藝春秋』昭和44年/1969年2月号「文士劇初出演の記」より)
野坂さんは、当時のことを手をかえ品をかえ、何種類も、何作品ものなかに書いています。おおむね、「受胎旅行」で第57回直木賞(昭和42年/1967年上半期)候補になるまで、本気で自分が直木賞と関係するとは思っていなかった→一度候補になると、やたらとりたくなった→テレビ出演を控えるようにした→次の第58回(昭和42年/1967年下半期)で直木賞を受賞した。っていう流れです。
といったって、村上玄一さんほどの情熱がもてればいいんですが、野坂さんの全著作はとうてい読めていません。『マスコミ漂流記』『新宿海溝』『文壇』あたりの記述を参照するにとどまります。
とくに、このあたりのことに、いちばん筆が割かれているのが『文壇』です。野坂さんが候補になって落ち、半年後にとるまでのあいだにも、テレビと直木賞のことが、いちいろ出てきます。
「選考委員の川口松太郎は、落した理由の一つとして、ぼくに本気で小説を書く気があるのか、疑わしい旨を述べていた。TV番組を持っている、もともといかがわしい存在、「小説を書く気持」の有無を問われれば、あるとしかいいようはないが、まだこれが小説になっているのかどうか、疑問が残る、
(引用者中略)
直木賞候補、落選、この理由の一つにTV出演があるらしい、読売TV、末次摂子に、それとなく降りることをほのめかし、末次も編集者出身だけに、ぼくの気持を推察、
(引用者中略)
八月末、TV司会辞退を申し出た、末次は快く了解、(引用者中略)直木賞のためにTVをやめる、両者に何の関係があるのか、少し抵抗感はあったが、とりあえず受賞しておく、父が喜ぶだろう、親孝行で自分を納得させた。(野坂昭如・著『文壇』より)
似たようなことが『新宿海溝』にも書かれています。『文壇』では「両者に何の関係があるのか」という部分が、こちらではこう表現されています。
「前回の選考に当って、委員の一人は、庄助はTVになど出演し、本気で小説を書く気があるのかどうか、疑わしいと述べていた、べつに関係はないだろうと考えたが、とりあえず直木賞が欲しい、庄助はあっさりTVをやめた、」(野坂昭如・著『新宿海溝』「第六章 銀座トラフ」より ―初出『別冊文藝春秋』142号[昭和52年/1977年12月])
直木賞とテレビ。ほんと、関係なんてないんじゃないでしょうか。
まず、じっさいに記録として残された第57回の選評を読んでみますと、選考委員は11人いて、大佛次郎さんは欠席したので、選評を書いたのは10人。野坂さんがテレビに出ているからうんぬん、と書いたのは、たったの2人しかいません。川口松太郎さんと松本清張さんです。
そして二人とも、選考会のなかでは、そうとう野坂さんに好意的な委員でした。この人たちを「野坂を落とした」戦犯として糾弾するのは、まったく失礼なくらいです。
ずいぶんと野坂作品を褒めています。松本さんなどは受賞作に推してさえいるんです。
二人とも全文は長く、主眼は当然、野坂作品をどう読んだか、が中心です。テレビがどうたら、なんてことは付けたしにすぎません。
「テレビタレントの真似であったり、プレイボーイを自称してひんしゅくさせる言動があったり、人生を茶化している態度に真実が感じられない。真剣に取り組めばいい作家になる素質を持っているだけに次回作を期待する。」(『オール讀物』昭和42年/1967年10月号 川口松太郎選評より)
「よけいなことだが、テレビなどの雑業を整理し、新フォームの小説開拓に専念されることを望みたい。」(同号 松本清張選評より)
この部分だけを取り上げて、「こいつら、バカだから、テレビに出ていることを理由に落としやがった」と見るのは、さすがに酷でしょう。野坂さんの回想(というか自伝小説ですか)だって、そうだ、別に関係はない、でも直木賞がほしくてテレビ出演を控えたのも、そんなささいな一文ですら気にするほどの小心者だからなんだ。……という自画像が描かれているにすぎません。
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