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2015年12月の4件の記事

2015年12月27日 (日)

野坂昭如は言った、「直木賞がほしくてTVをやめた」。(昭和52年/1977年12月)

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(←書影は昭和47年/1972年6月・新潮社/新潮文庫 野坂昭如・著『受胎旅行』)


 平成27年/2015年、今年は直木賞にとってどんな一年だったか。……といえば、これはもう明らかに「数多くの受賞者が亡くなった年」です。

 昨年、平成26年/2014年は、一年で鬼籍に入った直木賞受賞者が6人、という新記録をうちたてたばかりでしたが、今年はそれを上まわるペースで次々と訃報がながれた末に、12月に入って7人目、8人目と他界。悲嘆にくれる余裕もない年でした(っていうのは、さすがに大げさ)。

 陳舜臣、赤瀬川隼、船戸与一、車谷長吉、高橋治、佐木隆三、杉本章子……そして、最後(ですよね?)のおひとりが、選考委員にはならなかったが大物中の大物、長い直木賞の歴史をこの人(とその時代)が変えたのだ、とも言われる天才鬼才、野坂昭如さんです。と同時に、「芸能人と直木賞」のテーマにふさわしすぎる芸能人でもありました。

 野坂さんについては、昔、関連書籍として『文壇』(平成14年/2002年4月・文藝春秋刊)を取り上げたことがあります。川口松太郎さんとカラんだ一件も、軽く触れました。

 「テレビにチャラチャラ出てるやつに、賞などやれるか」という考え方と、「小説界を担うにふさわしい才能であれば、テレビに出ていようが何だろうが関係ない」という意見。その後の直木賞(とか、もうひとつの賞とか)を彩ることになる、お約束な構造。これを、まわりを取り巻く人たちが、好んで言い立てるようになった嚆矢が、野坂さんの直木賞落選&受賞でした。昭和42年/1967年ごろのことです。

 と言いますか野坂昭如っていう人物が、テレビ業界が猛烈なパワーで拡大していた、そんな時代に現われた人です。嚆矢にならざるを得なかったわけですけど、この対立構造を強固にするのには、野坂さんお得意の「ひがみ根性」も、ひと役買ったものと思います。

 どんな場面でもひがんでみせる。これは、野坂さんのひとつの藝です。後年、おれは直木賞選考委員になれない、っていうテーマで長部日出雄さんと対談したときも、長部さんが盛んにツッコみを入れなきゃいけなくなるぐらいに、ねたんで、ひがんで、そねってみせました。

野坂 近ごろ、直木賞のシーズンになって、どれが候補作に選ばれたとか、受賞作の選考過程がどうであったかという話をするときに、非常にぼくに言いにくそうに話す人が出てきたね。なんか申訳ないという感じで……。

長部 どういうことですか、それは。

野坂 まだ選考委員になっていないけれど、あなたとしてはさぞかしなりたいだろう……と、そう思っているらしいんだね。だけれども、どんどん先を越されてしまって、あなたとしては不本意な心境であるにもかかわらず、こんな話題を持ち出して、なおさら傷を掻き回すようですが……って、そういうニュアンスがうかがえるわけですよ。

長部 それはちょっと考え過ぎじゃないですか(笑)。

(引用者中略)

長部 たとえば野坂さんがこんど、直木賞の選考委員になったとすると、野坂さんの性格からして、この委員のなかでベストセラーを出していないのはおれだけだなんて、また僻むんじゃないですか。

野坂 そう、ベストセラーを出してなきゃ駄目ってことはわかった。しかし、一方では、女にモテるってことも必要なんじゃないですか。

長部 そうかしら。」(昭和62年/1987年6月・文藝春秋刊 野坂昭如・長部日出雄・著『超過激対談』所収「NOSAKAはなぜ「直木賞選考委員」になれないか」より)

 こんな感じで、えんえんとやっています。

 ということで、受賞当時のことにハナシを移しますが、ひがみを肥やしにする野坂さんにとって、「放送業界で何とかおマンマ食っているけど、やはり優遇されている小説家になりたい」みたいな構図が、最もしっくりくる、もの書き感だったらしいです。

 テレビ業界(の書き手)は、活字の文壇より下に見られている、みたいな感覚です。

「CMソング作詞者だった時は、結局は、作曲家に従属していなければならず、TV脚本家の頃は、ディレクター、タレント、スポンサーに押えつけられ、雑文業にうつれば、同じ活字ならば、やはり小説家が一枚上に見える、どんなところにおかれても、自分を偽らず、精いっぱいに生きることのできる人もいるだろうけど、ぼくはついおもねりへりくだってしまい、その不満がしだいによどんで、その場がいやになる。

そして、小説家になるには、直木賞をとらねばならぬ、そのためにはあまりTVにでるなといわれて、TV出演もひかえたし、雑文もやめて、いかにも小説一筋といったイメージをつくるよう努力した。口では、「別に、いいじゃないか、TVのなにがわるい、それまでしてもらわなくっても」いきがっていたが、ぼくは身のふり方を、小心にとりつくろい、そのあらわれは、たとえば、バアで直木賞選考委員の方に、ばったりあうと、まったく存じ上げないのに、ひょいっとお辞儀してしまうほどだった。」(『文藝春秋』昭和44年/1969年2月号「文士劇初出演の記」より)

 野坂さんは、当時のことを手をかえ品をかえ、何種類も、何作品ものなかに書いています。おおむね、「受胎旅行」で第57回直木賞(昭和42年/1967年上半期)候補になるまで、本気で自分が直木賞と関係するとは思っていなかった→一度候補になると、やたらとりたくなった→テレビ出演を控えるようにした→次の第58回(昭和42年/1967年下半期)で直木賞を受賞した。っていう流れです。

 といったって、村上玄一さんほどの情熱がもてればいいんですが、野坂さんの全著作はとうてい読めていません。『マスコミ漂流記』『新宿海溝』『文壇』あたりの記述を参照するにとどまります。

 とくに、このあたりのことに、いちばん筆が割かれているのが『文壇』です。野坂さんが候補になって落ち、半年後にとるまでのあいだにも、テレビと直木賞のことが、いちいろ出てきます。

「選考委員の川口松太郎は、落した理由の一つとして、ぼくに本気で小説を書く気があるのか、疑わしい旨を述べていた。TV番組を持っている、もともといかがわしい存在、「小説を書く気持」の有無を問われれば、あるとしかいいようはないが、まだこれが小説になっているのかどうか、疑問が残る、

(引用者中略)

直木賞候補、落選、この理由の一つにTV出演があるらしい、読売TV、末次摂子に、それとなく降りることをほのめかし、末次も編集者出身だけに、ぼくの気持を推察、

(引用者中略)

八月末、TV司会辞退を申し出た、末次は快く了解、(引用者中略)直木賞のためにTVをやめる、両者に何の関係があるのか、少し抵抗感はあったが、とりあえず受賞しておく、父が喜ぶだろう、親孝行で自分を納得させた。(野坂昭如・著『文壇』より)

 似たようなことが『新宿海溝』にも書かれています。『文壇』では「両者に何の関係があるのか」という部分が、こちらではこう表現されています。

「前回の選考に当って、委員の一人は、庄助はTVになど出演し、本気で小説を書く気があるのかどうか、疑わしいと述べていた、べつに関係はないだろうと考えたが、とりあえず直木賞が欲しい、庄助はあっさりTVをやめた、」(野坂昭如・著『新宿海溝』「第六章 銀座トラフ」より ―初出『別冊文藝春秋』142号[昭和52年/1977年12月])

 直木賞とテレビ。ほんと、関係なんてないんじゃないでしょうか。

 まず、じっさいに記録として残された第57回の選評を読んでみますと、選考委員は11人いて、大佛次郎さんは欠席したので、選評を書いたのは10人。野坂さんがテレビに出ているからうんぬん、と書いたのは、たったの2人しかいません。川口松太郎さんと松本清張さんです。

 そして二人とも、選考会のなかでは、そうとう野坂さんに好意的な委員でした。この人たちを「野坂を落とした」戦犯として糾弾するのは、まったく失礼なくらいです。

 ずいぶんと野坂作品を褒めています。松本さんなどは受賞作に推してさえいるんです。

 二人とも全文は長く、主眼は当然、野坂作品をどう読んだか、が中心です。テレビがどうたら、なんてことは付けたしにすぎません。

「テレビタレントの真似であったり、プレイボーイを自称してひんしゅくさせる言動があったり、人生を茶化している態度に真実が感じられない。真剣に取り組めばいい作家になる素質を持っているだけに次回作を期待する。」(『オール讀物』昭和42年/1967年10月号 川口松太郎選評より)

「よけいなことだが、テレビなどの雑業を整理し、新フォームの小説開拓に専念されることを望みたい。」(同号 松本清張選評より)

 この部分だけを取り上げて、「こいつら、バカだから、テレビに出ていることを理由に落としやがった」と見るのは、さすがに酷でしょう。野坂さんの回想(というか自伝小説ですか)だって、そうだ、別に関係はない、でも直木賞がほしくてテレビ出演を控えたのも、そんなささいな一文ですら気にするほどの小心者だからなんだ。……という自画像が描かれているにすぎません。

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2015年12月20日 (日)

内藤陳は言った、「文学賞の選考委員たちは、あれやこれやとリクツをつける」。(昭和62年/1987年8月)

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(←書影は昭和58年/1983年5月・集英社刊 内藤陳・著『読まずに死ねるか!』)


 何週かまえに(なぜかうっかり)小泉今日子さんを取り上げてしまいました。そうか、本を勧める立場の人でもいいのか。じゃあ、もっと直木賞に近く、しかも一時は、エンタメ読書人たちがその書評(本のおススメ文)に熱狂したとも言われる芸能人がいるじゃないか。ってことで、遅ればせながら、内藤陳さんです。

 昭和53年/1978年。まだ「冒険小説読み」の人たちが、肩身をせまくして生きていたころ(?)、オレは冒険小説が大好きだ、何が悪い、と内藤さん、『月刊PLAYBOY』に颯爽と登場します。外国物・国内物を問わず、ハードカバーも文庫本も関係なしに、これが面白いぞ読め読め、とストレートに勧めるスタイルが、次第に評判となり、しかも、読んでみたら、たしかに面白いじゃん、やるな内藤陳、とその本のチョイスも信用されて、一躍、世に得がたい書評人として名を挙げます。

 連載分をまとめた本が出ると、そちらもまたけっこう売れ、

「「これぞマッコト陳メがおススメする」といった名調子で、ただ今雑誌の連載五本をかかえる売れっ子ライター。連載をまとめた「読まずに死ねるか!」(集英社刊)は、文庫も含め七万部を超えるロングセラーに。二作目「読まずば二度死ね!」(同)、最新刊の「読まずに死ねるか! 3」(同)も好評。「だいたい四万から四万五千部は出るみたい」とか。」(『週刊文春』昭和62年/1987年10月29日号「語りおろし連載 行くカネ来るカネ 私の体を通り過ぎたおカネ」より ―取材・構成:野村進)

 その2年後に石井晃さんが取材したときには、書評の連載が『月刊PLAYBOY』『週刊宝石』『スポーツニッポン』『コミック・トム』など6紙誌、また〈読ま死ね〉シリーズは、「本職の評論家の本では、三千部が標準」のところ、3冊で計21万部が売れていたんだそうです(『AERA』平成1年/1989年7月25日号「現代の肖像 ハードボイルドの水先案内人」)。

 いや、内藤さんのスゴいのは、昔テレビでよくみたコメディアンが、熱烈な推薦を文章にこめて小説のことを語っている。なんちゅう領域から大きく飛び出してしまったところにありました。

 「自分は冒険小説やハードボイルドが好きだけど、まわりにいる読書家はみんな、小難しい文学理論を振りまわしたり、批評と批判をゴッチャにして語るような廃人ばかり。いっしょに小説の面白さを語り合える仲間がいないんだよお」と嘆いていた、娯楽・エンタメ小説大好き人間たちが、夜ごと集える店をひらき、その中心人物となります。いっぽうでメディアを通じては、ザクザクと国内外のエンタメを紹介しつづけ、読み物界の一傍流だった冒険小説を、名実ともに発展・拡散させる役割をにないました。

 北方謙三、船戸与一、大沢在昌、志水辰夫、樋口修吉、逢坂剛などなど、デビュー直後の若手(?)のころから、内藤さんからの容赦ない激励と賞讃を浴びて育った人ばかり。内藤さんがいたおかげで景山民夫さんは冒険小説を書き、すぐさま小説家として注目されるようになったし、内藤さんがいたおかげで馳星周さんはグレずにまっとうな物書きになったし、内藤さんがいたおかげで西村健さんは小説家になったし……といったようなことは、現場に居合わせたわけじゃないので、よく知りませんが、内藤さんが、1980年代以降の日本エンタメ小説界の礎(の一端)を築いたのはたしかです。

 没後、『小説すばる』に載った西村健さんによる「最後のロングインタビュー」記事(平成24年/2012年4月号)には、副題がついていました。「追悼 日本冒険小説の父」……まったく大げさでも何でもありません。今年平成27年/2015年5月から、「集英社創業90周年企画」として〈冒険の森へ 傑作小説大全〉全20巻の刊行が始まりましたが、これなどは、内藤さんの長年の、面白本をススメるというライフワークが、かたちを変えて結実したひとつの成果だと思います。

 で、ここで内藤さんと直木賞を比べるのもどうかとは思うんですけど、直木賞の基本姿勢は、何やかんやと小理屈を並べるふりをして、面白いだけの本は、文学じゃないからと言ってけっきょく推奨しない。っていうところにあります。内藤さんの姿勢と対極にある、と言っちゃってもいいです。

 もちろん内藤さんは大人ですので、そういう選考姿勢に表だって抗議するような、幼稚なことはしませんでした。だけどやっぱり、それまで出版界や読み物小説界で行われてきたような、評論的に小説を紹介するやり方に、明らかに不満があったんでしょう。

「ホントにいいぜ、冒険小説は。その思い入れだけは誰にも負けない。だからこうしてシャシャリでて来たわけだ。文芸作品、恋愛小説、社会派ミステリー、朝日ジャーナル、中央公論、etc.……。そんなものはくそくらえ。冒険小説のみが男の小説だ。」(内藤陳・著『読まずに死ねるか!』より)

 くそくらえといって、いくつかのブツを槍玉に挙げています。お高くとまっているものへの反抗心が垣間見えるところですよね。

 各媒体に、うだうだと分析、考察したりしてカッコつけているようなものが書評然として載っていたことも、おそらく内藤さんをイラッとさせたんだと思います。はっきり「インチキ臭い」と言っています。

「深く読みこんでいらっしゃる書評家が立派なことをお書きになるけれど、ときどきインチキ臭いんだよね。おれは中身のことは細かく書かなくて、絶対おもしろいよって推薦する。」(『ミステリマガジン』昭和56年/1981年12月号「連載インタビュー 侃侃諤諤 第4回 内藤陳」より)

 内藤さんが呼びかけてつくった日本冒険小説協会では、勉強会や読書会といったものを一切やらなかったそうです。つまりは、そういうことやると、ネチネチと小説を論じる人間がエラそうに振る舞うから、らしいです。

 となれば、こんなふうに過去の文献をつなぎ合わせては、ヒトサマのことをいろいろ言うブログは、真っ先に軽蔑されただろうな、と想像できます。深く反省して、やめちゃいたいところではありますが、当時からエラそうにしていた直木賞にも、欠点、欠陥は数々あり、しかし内藤さんは、そんな「ハリボテの権威」などまったく意に介さず、ただひたすらに読書好きの道を邁進。大きな波をつくってくれた結果、直木賞のほうが仕方なく、冒険小説系も表彰対象に加えることになった、という歴史的事実を振り返ったとき、やはり内藤さんの偉大さが際立つと思うので、このまま続けます。

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2015年12月13日 (日)

室井佑月は言った、「金屏風の前で記者会見するのが夢です。直木賞受賞とか」。(平成10年/1998年12月)

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(←書影は平成10年/1998年6月・新潮社刊 室井佑月・著『熱帯植物園』)


 先週の利根川裕さんにつづいて、今週も「テレビで知られるようになった作家」つながりで。

 って全然つながっちゃいない気がしますけど、ほんのわずかな足がかりをきっかけに一気にタレント(コメンテーター)の道を駆けあがって、小説家としては開店休業中(なんですよね?)、その小説を読んでファンになったという読書子たちに、新作を届けられず、悲しませつづけてン年がたった室井佑月さんです。

 元『小説新潮』編集長に校條剛さんという方がいます。落ち目の中間読物誌をどうにかして活気づかせようと、いろいろ奮闘し、その一環としていくつも公募の賞をつくっては、けっきょく長続きせずに次の策を練る、という「新潮社マインド」を体現したかのような編集人生を歩んだ方ですが(……たぶん)、1990年代から2000年代前半ごろに、『小説新潮』がやたら売り出そうとしていたのが「性の小説」です。はじめは既成作家の作品だけで特集を組んでいたものを、途中から読者の投稿も募るようになりました。これがのちに女性限定の「女による女のためのR-18文学賞」につながっていくんですが、これもまた途中から「性全般をテーマにした小説」というくくりをやめちゃったので、もはや原型はありません。

 「読者による「性の小説」」からは、都合9名の入選者が出ました。みな、いまはどこでどんな小説を書いているのか不明です。しかし唯一、こんなささいなコンテストをきっかけに、室井佑月さんだけが、作家への道をこじあけます。

 入選作掲載の『小説新潮』が平成9年/1997年5月号。クラブホステス、でありながら作家(をめざしている)ってことで、『週刊女性』7月22日号のグラビア1ページで早くも顔をさらし、

「本業は純文学作家。室井佑月のペンネームで、某月刊小説誌でデビューしたばかり。現在も秋に掲載予定の作品を執筆中。」(『週刊女性』平成9年/1997年7月22日号「シリーズ 東京一人暮らし」より)

 と、本人が申告したのか、ライターがよくわからずに書いたのか、いきなり「本業は純文学作家」宣言をぶちかまします。

 もちろん「作家」という肩書きは、自称他称蔑称尊称、何でもありのオールマイティ・パスなので、べつに純文学作家でもいいんですけど、「おまえが作家とか名乗るな」みたいな反応をする人は、けっこう世の中には多い、ってことは室井さんがひき起こしたその後の反響などを見てもわかります。こういう「作家という名乗りに敏感に反応しちゃう肩書き至上主義者」たちの闘争心に火をつけてやろうとする、室井さんお得意の姿勢が早くも登場しているところに、さすがだなと思わずにはいられません。

 この年には、連載エッセイの仕事も舞い込み(あるいは、つかみ取り)、『週刊SPA!』誌上で「“作家”の花道」がスタート。そこに書かれていたプロフィールは、

「'97年秋、小説新潮からデビュー。現在長篇執筆中。」(『週刊SPA!』平成9年/1997年12月31日・平成10年/1998年1月7日号より)

 フォーマットは7月の『週刊女性』と同じです。いちおう「執筆中」と言っておかないと現役作家(志望者)のかっこうがつかない、という意図がしっかり伝わってきます。そして、「デビュー」の時期が繰り下がっている点にも、注目したいですね。読者投稿をデビューと呼ばず、小説として採用された11月号の「Piss」をデビュー作にする、履歴をどんどん上書きして前に突き進むたくましい精神をかいま見せてくれているからです。

 田舎から出てきて、一発当てたくて作家になろうと思った。というのが、室井さんが気に入って使っていた「私が作家になろうと思った理由」です。私は何と言われてもへこたれない野心家である、っていう一種のキャラ付けに近いものがありますが、ここで室井さんの選んだキーワードが、はい、みなさんお待ちかねのアレ。直木賞、だったわけです。

「田舎から出てくるとき考えた。学歴もコネもなく成功するなら、スポーツ選手か芸能人か作家。(引用者中略)作家のエッセイ読んでると、有名人と遊んだだの、ハイヤーで隣の県まで帰っただの、編集者とスッポン食べただのと羨ましすぎる。(引用者中略)作家・室井佑月、違いの分かる女。平成十年、まっ赤なオープンカーで帰郷できると信じてる。」(同)

 と、連載1回目、本文中には直木賞はいっさい出てきませんが、室井さんが思い描く成功した作家像が、デフォルメして描かれる。そのシリーズタイトルが「あたしの直木賞計画 “作家”の花道」。

 これは室井さんじゃなく、『SPA!』編集者のセンスだった可能性もあります。ともかく、「直木賞」という、ほぼイメージだけで世間に広まっている例の単語を掲げることで、みんなからチヤホヤされてカネも儲かる憧れの作家(をめざす私)を演出しているわけですね。

 『SPA!』の連載は、初の小説集『熱帯植物園』が出るところまでで終了し、その後「作家の花道」は(「作家」を囲っていたダブルクォーテーションが取れて)「六本木野望篇」として集英社の『青春と読書』で再開。これらがまとめられて単行本になるときには、『青春と読書』のほうは「栄光への序曲篇」となり、『SPA!』連載分が「六本木野望篇」と改題されたので、「直木賞」の文字がなくなってしまうという、何とも悲しい展開になってしまいました(いや、装画担当の児嶋都さんが、女性の着ているシャツに「直木賞」の文字を入れておいてくれているので、そこはまあ、我慢するとしましょう)。

 『作家の花道』が本になったのは平成12年/2000年です。室井さんの作家人生からすれば、まだ始まったばかりなんですが、本人も言うとおり、

「銀座のちんぴらホステスが小説デビューを果たし、続けざま三冊本を出版し、本を読んで会いたいといってくれた先輩作家と恋に落ち、電撃結婚し、その上宇宙一かわいいベィビーまで授かって――小説というアイテムを手に入れてから、ちゃんとうまい具合に回っていたじゃんか。三十年間生きてきて、実際、こんなに運がよかった三年間はいままでなかったよ。」(平成12年/2000年12月・集英社刊『作家の花道』「祝!ベィビー出産」より)

 という感じで、他にも講演に呼ばれるは、テレビ番組にもちょくちょく出るは、室井さんが言っていた「成功している人」像を一気に体験するほどの、めまぐるしい3年間だったと思います。

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2015年12月 6日 (日)

利根川裕は言われた、「直木賞としては物足りない」。(昭和44年/1969年4月)

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(←書影は昭和41年/1966年10月・筑摩書房刊 利根川裕・著『宴』新版)


 古今東西、テレビラジオに出て広く知られるようになった作家、っていうのはたくさんいると思いますが、利根川裕さんはその代表的なひとり、と言ってもいいんでしょう。

 奇をてらわない落ち着いたおじさん。の印象が強い(?)利根川さんですが、当然その来歴もことさら派手ではありません。と言いつつ、地味でもありません。

 大学生活が終わるまぢかに、亀井勝一郎さんチに通って弟子入りを志願。とくに深く考えず大学院に進んだものの、途中から都立上野高校の社会科の先生となって、結核による3年の病気休養をはさみながら、まじめに奉職、30歳をすぎた昭和34年/1959年に、亀井さんに誘われるかたちで中央公論社に中途入社して、編集者として活動することになります。

 翌昭和35年/1960年には、かつて同僚だった保健体育の先生と結婚。お仕事のほうもメキメキやって、臼井吉見さんの「安曇野」が『中央公論』に載るきっかけをつくったんですが、その臼井さんとのやりとりのなかで、なぜか自分も小説を書いてみることになり、できたのが「宴」。臼井さんの肝煎りで筑摩の『展望』に短期連載され、まだ他社の編集者だったものですから「糸魚川浩」のペンネームを使用、昭和41年/1966年に単行本化されました。

 すると、これがけっこう売れまして、直後、筆で立つことを決心して退社。『宴』のほうも本名の「利根川裕」作として新版を再出版し、改めて作家デビューを果たします。39歳のときでした。

 その後は、亀井勝一郎論を『亀井勝一郎 その人生と思索』(昭和42年/1967年・大和書房刊)としてまとめたり、『北一輝 革命の使者』(昭和42年/1967年・人物往来社刊)と堅い評論も出せば、小説『幸福の素顔』(昭和42年/1967年・集英社)も上梓する。

 さらには、かつて有馬頼義さんが言ったような「一流文芸誌」にだって、さくっと登場。「館」(『新潮』昭和42年/1967年2月号)であるとか、「「ゆめ」の代役」(『オール讀物』昭和42年/1967年11月号)であるとかを発表し、着実に地歩をかためていたところに、直木賞、お得意のチョッカイを出すことになるのです。

 第60回(昭和43年/1968年・下半期)と第61回(昭和44年/1969年・上半期)。『オール讀物』と『中央公論』に載った作品で、2度連続、利根川さんは直木賞の候補に挙げられました。

 しかし選考会では酷評が相次ぎました。

「豊田穣氏の「空港へ」は、欠点のつけようのない作品だが、直木賞としては物足りない。(引用者中略)利根川裕氏の「糸魚川心中」は、豊田氏と同様のことが言える。」(『オール讀物』昭和44年/1969年4月号 第60回 村上元三選評より)

「直木賞向きでなかったようだ。といって、芥川賞の候補になり得たかというと疑問がある。」(『オール讀物』昭和44年/1969年10月号 第61回 源氏鶏太選評より)

「「オール讀物」に書くときは違って、どうしてこう読みづらい文章で書くのだろうか。」(同 第61回 村上元三選評より)

 編集者あがりで文学を気取っているという、よくいる書き手による、よくある凡作……みたいに扱われ(たのか?)、のちに選考会で大絶賛されて受賞する先輩・綱淵謙錠さんなどと比べると、好対照をなすような落選ぶりでした。

 で、その綱淵さんに言わせると、利根川さんという方は、

「一口でいえば才人だ。それが長所でもあり、また短所として彼を辛くしている。」(『週刊現代』昭和59年/1984年6月9日号「にんげんファイル 利根川裕」より)

 ってことらしいんですが、直木賞がどうしたこうした、などというセセコマしい世界とは別のところで華々しく注目されることになります。昭和51年/1976年のことです。

 「作家で初めてラジオ・ワイド番組を司会する」(『読売新聞』昭和51年/1976年4月3日「人間登場」より)。……と、TBSラジオ平日朝7時40分~9時15分の「おはよう!利根川裕です」のパーソナリティーに抜擢されちゃうのです。利根川さん49歳。

「「しかしあくまでも小説を書くことが主目的で、ラジオを引き受けたのも世間への間口を拡げることによって、作品の拡がりと深みも加えられるのではないかと思ってのことです……」

 あくまでも小説家利根川裕であることを強調した。」(『週刊現代』昭和51年/1976年4月29日号「話題人間告知板 「書くのも喋るのも、同じことですよ」」より)

 とわざわざ言っている(言わされている)のは、作家として行き詰ったから芸能の世界に転身すんの? みたいにオチョくられていたからかもしれません。

 まあ、いい大人ですから利根川さんも、やたらハシャいだりしないし、逆に憤然としたりもしませんでした。意固地に作家業に執着するわけではない、与えられた仕事を、ただ全力でこなす。いつも安心感・安定感たっぷりの利根川裕像、といってもいいでしょう。

 それでラジオの冠番組をもったときにも、強調されていた「オレは作家なんだ」という姿勢や発言。以後も、基本的なスタンスとして継承されていくことになります。

 なにしろ利根川さんは、このあと何年にもわたって、「あのひと作家っていっているけどさ、何を書いてるの、読んだことないよ」、っていう「タレント作家」または「作家タレント」に対するありがちな反応を真正面から受けつづけることになるんですが、これはもうご存じのとおり、昭和55年/1980年にテレビ朝日で「トゥナイト」が始まり、まさかの(?)人気番組にのし上がってしまったからです。

 作家にしろ大学の先生にしろ番組キャスターにしろ、何かになろうと思ってやってきたことはない、ただ生きてきただけだ。……と利根川さんは言い、ほんとうにそうだろうなと思います。自分でも自然体だと分析し、またそこが魅力だとも評価されました。

「世間のごく平均的なおとなとしての反応を、ということを繰り返して強調する。

(引用者中略)

「「このトシ(五十四歳)になって、そんなにムキになって驚くほどのことはそうはないわけですよ。でも距離を置けばシラけるだろうし、近づき過ぎれば芝居じみますしね」」(『朝日新聞』昭和57年/1982年2月12日夕刊「たれんと模様 作家活動にどう影響」より)

 大変まっとうです。文句のつけるところがありません。

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