内藤陳は言った、「文学賞の選考委員たちは、あれやこれやとリクツをつける」。(昭和62年/1987年8月)
(←書影は昭和58年/1983年5月・集英社刊 内藤陳・著『読まずに死ねるか!』)
何週かまえに(なぜかうっかり)小泉今日子さんを取り上げてしまいました。そうか、本を勧める立場の人でもいいのか。じゃあ、もっと直木賞に近く、しかも一時は、エンタメ読書人たちがその書評(本のおススメ文)に熱狂したとも言われる芸能人がいるじゃないか。ってことで、遅ればせながら、内藤陳さんです。
昭和53年/1978年。まだ「冒険小説読み」の人たちが、肩身をせまくして生きていたころ(?)、オレは冒険小説が大好きだ、何が悪い、と内藤さん、『月刊PLAYBOY』に颯爽と登場します。外国物・国内物を問わず、ハードカバーも文庫本も関係なしに、これが面白いぞ読め読め、とストレートに勧めるスタイルが、次第に評判となり、しかも、読んでみたら、たしかに面白いじゃん、やるな内藤陳、とその本のチョイスも信用されて、一躍、世に得がたい書評人として名を挙げます。
連載分をまとめた本が出ると、そちらもまたけっこう売れ、
「「これぞマッコト陳メがおススメする」といった名調子で、ただ今雑誌の連載五本をかかえる売れっ子ライター。連載をまとめた「読まずに死ねるか!」(集英社刊)は、文庫も含め七万部を超えるロングセラーに。二作目「読まずば二度死ね!」(同)、最新刊の「読まずに死ねるか! 3」(同)も好評。「だいたい四万から四万五千部は出るみたい」とか。」(『週刊文春』昭和62年/1987年10月29日号「語りおろし連載 行くカネ来るカネ 私の体を通り過ぎたおカネ」より ―取材・構成:野村進)
その2年後に石井晃さんが取材したときには、書評の連載が『月刊PLAYBOY』『週刊宝石』『スポーツニッポン』『コミック・トム』など6紙誌、また〈読ま死ね〉シリーズは、「本職の評論家の本では、三千部が標準」のところ、3冊で計21万部が売れていたんだそうです(『AERA』平成1年/1989年7月25日号「現代の肖像 ハードボイルドの水先案内人」)。
いや、内藤さんのスゴいのは、昔テレビでよくみたコメディアンが、熱烈な推薦を文章にこめて小説のことを語っている。なんちゅう領域から大きく飛び出してしまったところにありました。
「自分は冒険小説やハードボイルドが好きだけど、まわりにいる読書家はみんな、小難しい文学理論を振りまわしたり、批評と批判をゴッチャにして語るような廃人ばかり。いっしょに小説の面白さを語り合える仲間がいないんだよお」と嘆いていた、娯楽・エンタメ小説大好き人間たちが、夜ごと集える店をひらき、その中心人物となります。いっぽうでメディアを通じては、ザクザクと国内外のエンタメを紹介しつづけ、読み物界の一傍流だった冒険小説を、名実ともに発展・拡散させる役割をにないました。
北方謙三、船戸与一、大沢在昌、志水辰夫、樋口修吉、逢坂剛などなど、デビュー直後の若手(?)のころから、内藤さんからの容赦ない激励と賞讃を浴びて育った人ばかり。内藤さんがいたおかげで景山民夫さんは冒険小説を書き、すぐさま小説家として注目されるようになったし、内藤さんがいたおかげで馳星周さんはグレずにまっとうな物書きになったし、内藤さんがいたおかげで西村健さんは小説家になったし……といったようなことは、現場に居合わせたわけじゃないので、よく知りませんが、内藤さんが、1980年代以降の日本エンタメ小説界の礎(の一端)を築いたのはたしかです。
没後、『小説すばる』に載った西村健さんによる「最後のロングインタビュー」記事(平成24年/2012年4月号)には、副題がついていました。「追悼 日本冒険小説の父」……まったく大げさでも何でもありません。今年平成27年/2015年5月から、「集英社創業90周年企画」として〈冒険の森へ 傑作小説大全〉全20巻の刊行が始まりましたが、これなどは、内藤さんの長年の、面白本をススメるというライフワークが、かたちを変えて結実したひとつの成果だと思います。
で、ここで内藤さんと直木賞を比べるのもどうかとは思うんですけど、直木賞の基本姿勢は、何やかんやと小理屈を並べるふりをして、面白いだけの本は、文学じゃないからと言ってけっきょく推奨しない。っていうところにあります。内藤さんの姿勢と対極にある、と言っちゃってもいいです。
もちろん内藤さんは大人ですので、そういう選考姿勢に表だって抗議するような、幼稚なことはしませんでした。だけどやっぱり、それまで出版界や読み物小説界で行われてきたような、評論的に小説を紹介するやり方に、明らかに不満があったんでしょう。
「ホントにいいぜ、冒険小説は。その思い入れだけは誰にも負けない。だからこうしてシャシャリでて来たわけだ。文芸作品、恋愛小説、社会派ミステリー、朝日ジャーナル、中央公論、etc.……。そんなものはくそくらえ。冒険小説のみが男の小説だ。」(内藤陳・著『読まずに死ねるか!』より)
くそくらえといって、いくつかのブツを槍玉に挙げています。お高くとまっているものへの反抗心が垣間見えるところですよね。
各媒体に、うだうだと分析、考察したりしてカッコつけているようなものが書評然として載っていたことも、おそらく内藤さんをイラッとさせたんだと思います。はっきり「インチキ臭い」と言っています。
「深く読みこんでいらっしゃる書評家が立派なことをお書きになるけれど、ときどきインチキ臭いんだよね。おれは中身のことは細かく書かなくて、絶対おもしろいよって推薦する。」(『ミステリマガジン』昭和56年/1981年12月号「連載インタビュー 侃侃諤諤 第4回 内藤陳」より)
内藤さんが呼びかけてつくった日本冒険小説協会では、勉強会や読書会といったものを一切やらなかったそうです。つまりは、そういうことやると、ネチネチと小説を論じる人間がエラそうに振る舞うから、らしいです。
となれば、こんなふうに過去の文献をつなぎ合わせては、ヒトサマのことをいろいろ言うブログは、真っ先に軽蔑されただろうな、と想像できます。深く反省して、やめちゃいたいところではありますが、当時からエラそうにしていた直木賞にも、欠点、欠陥は数々あり、しかし内藤さんは、そんな「ハリボテの権威」などまったく意に介さず、ただひたすらに読書好きの道を邁進。大きな波をつくってくれた結果、直木賞のほうが仕方なく、冒険小説系も表彰対象に加えることになった、という歴史的事実を振り返ったとき、やはり内藤さんの偉大さが際立つと思うので、このまま続けます。
○
4年まえ、日本冒険小説協会大賞のことをブログに書きました。じっさい、内藤さんと直木賞のことも、それ以上のことはワタクシは知りません。
少なくとも内藤さんは、賞をきっかけに小説を読む、なんちゅう人たちは、あまり相手にしていなかったと思います。
「スーパーミーハーの陳メとしては、「何々賞」「大ベストセラー」なんて肩書きでおススメ本を決めはしない。」(『読まずに死ねるか!』「“恋愛”冒険小説の白眉!!さあ泣いてくれ、と強く言うゾ」より)
新聞や総合誌に載っているような書評を、「ご立派な先生がたが理屈をこねくりまわしたもの」、みたいに言っていたぐらいの方ですから、当然、世の文学賞についても、あまり好印象は持っていなかったらしいです。
というか、何々賞と言って宣伝されるようなものが売れて(当時でいえば、文藝賞の『なんとなく、クリスタル』とか)、どうしてムチャクチャ面白い冒険小説が売れないんだ! という熱烈すぎるファン感情ゆえの、冒険小説びいきだった。って面は否めませんけど、なにしろエンタメ分野に属するはずの直木賞からして、何を気取っているのか、「面白い本だから売れてほしい」っていう正直さとは真逆のところに立つエエカッコしいでした。そりゃ面白本を求める人たちも、フラストレーションが溜まって当然です。
「日本には、本について、いろいろなナントカ賞がすでに多い。そのほとんどは、選考委員(つまりプロ(原文ルビ:ベテラン)の作家や評論家です)があれやこれやとリクツをつけて、ふり落したり当選させたりするものだ。ところが、ウチ(引用者注:日本冒険小説協会大賞)の場合、まず、読者の反響(原文ルビ:コウフン)がダイレクトに、作家に伝わるのだから、これはこたえられない感激だろうと思うノダ。
(引用者中略)
名誉と誇りなら大手出版社の○×賞にも負けやしない。」(昭和62年/1987年8月・集英社刊 内藤陳・著『読まずに死ねるか!PART3』「冒険小説協会風雲録」より)
その直木賞に対するフラストレーションを、はっきりと内藤さんが表した、ある意味貴重な回が、第90回(昭和58年/1983年・下半期)の直木賞です。
北方謙三、樋口修吉、西木正明、そして高橋治。と、内藤さんが愛してやまない「オトコ」な小説を書く作家が四人も候補にそろい、そのうち高橋さんの「秘伝」だけが受賞(同時受賞は、神吉拓郎さんの『私生活』)。とくに北方さんは、前期に『檻』という、内藤さん大絶賛の小説が候補になったのに、直木賞亡者こと胡桃沢耕史さんの動向にさんざん選考会が荒らされて、結果落選してしまっています。それで、つい直木賞とからませてのエールを送ってしまった、……という感の漂う内藤ブシが繰り出されました。
「直木賞、2人同時授賞というテがあるのなら、なんで『檻』の時おやり下さらない? ヒトゴトながらこまめに歯ギシリの連チャンで、陳メの美顎も少しデッサンが狂ってきた。で、北方謙三さんなのだが、賞は逃したものの売れ行きは並じゃない。京浜東北線ひた走り、新幹線もブッチギル。でも質が……などとは言うまいゾ。長い小説(ルビ:もの)ばかりボンボン出して、次々と前作越えてゆくなど、どんな作家にもできるわけがない。ましてや、強烈な魅力と型をもつ北方文体(ルビ:ブルース)だ(バクチだって勝率5割ならグー。野球においてや3割台で打撃王。ましてや……)
とりあえずは走(ルビ:こだわ)り続け、ひたすら稼げ。2、3年経ってチョイと落ち着いた頃、またでかい仕事(ルビ:ヤマ)をはれば良いと、ウダウダ想っていたら、『渇きの街』(北方謙三 集英社 980円)にウームと唸ってしまった。」(内藤陳・著『読まずば二度死ね!』「北方、気迫の『渇きの街』」より)
まあ直木賞は、面白本をススメるのが苦手です。北方さんにあげられなかったのも、仕方なかった気がします。
その後にもう一度、北方さんは候補になりました。しかし3度目はほとんど相手にもされず落とされて、オトコ北方謙三、憤然と逆境に立ち向かうヒーロー像そのままに、
「僕は同じ時期に直木賞を取った作家に負けない作品を書き続ける、と自分に誓った。
でもね、直木賞を受賞せずに書き続けるのは大変な苦労があります。それは僕が一番よく知っている。文芸誌の直木賞作家特集では執筆できない。また、ほかの作家の肩書に“直木賞作家”とある横で、僕だけ“作家”なのは、やっぱり嫌ですよ。そういう苦労は、書くこととは別のこと。」(『ダカーポ』平成18年/2006年7月19日号「直木賞選考委員・北方謙三さんに聞く 力のある作家にきちんと受賞させたい」より)
と苦難の作家人生を歩んだすえに、直木賞選考委員を拝命。けっきょく選評読んでいても、受賞してから委員になった人と何がどう違うのかよくわからない、と揶揄られながら、いまも立派に務めを果たしています。これもまた、内藤さんの長年の、面白本をススメるというライフワークが、かたちを変えて結実したひとつの成果……というのは、さすがに言いすぎですか。
ただひたすらに面白本を追い求め、多くの人たちの心を動かし、時代にひとつのうねりをつくってしまった人と、出来合いの小説をあっちこっちからつまみ喰いして、結果、何のスジも通っていない顕彰しかできない賞のことを、比べて語ろうっていうのは、無理がありました。すみません。
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