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2015年12月13日 (日)

室井佑月は言った、「金屏風の前で記者会見するのが夢です。直木賞受賞とか」。(平成10年/1998年12月)

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(←書影は平成10年/1998年6月・新潮社刊 室井佑月・著『熱帯植物園』)


 先週の利根川裕さんにつづいて、今週も「テレビで知られるようになった作家」つながりで。

 って全然つながっちゃいない気がしますけど、ほんのわずかな足がかりをきっかけに一気にタレント(コメンテーター)の道を駆けあがって、小説家としては開店休業中(なんですよね?)、その小説を読んでファンになったという読書子たちに、新作を届けられず、悲しませつづけてン年がたった室井佑月さんです。

 元『小説新潮』編集長に校條剛さんという方がいます。落ち目の中間読物誌をどうにかして活気づかせようと、いろいろ奮闘し、その一環としていくつも公募の賞をつくっては、けっきょく長続きせずに次の策を練る、という「新潮社マインド」を体現したかのような編集人生を歩んだ方ですが(……たぶん)、1990年代から2000年代前半ごろに、『小説新潮』がやたら売り出そうとしていたのが「性の小説」です。はじめは既成作家の作品だけで特集を組んでいたものを、途中から読者の投稿も募るようになりました。これがのちに女性限定の「女による女のためのR-18文学賞」につながっていくんですが、これもまた途中から「性全般をテーマにした小説」というくくりをやめちゃったので、もはや原型はありません。

 「読者による「性の小説」」からは、都合9名の入選者が出ました。みな、いまはどこでどんな小説を書いているのか不明です。しかし唯一、こんなささいなコンテストをきっかけに、室井佑月さんだけが、作家への道をこじあけます。

 入選作掲載の『小説新潮』が平成9年/1997年5月号。クラブホステス、でありながら作家(をめざしている)ってことで、『週刊女性』7月22日号のグラビア1ページで早くも顔をさらし、

「本業は純文学作家。室井佑月のペンネームで、某月刊小説誌でデビューしたばかり。現在も秋に掲載予定の作品を執筆中。」(『週刊女性』平成9年/1997年7月22日号「シリーズ 東京一人暮らし」より)

 と、本人が申告したのか、ライターがよくわからずに書いたのか、いきなり「本業は純文学作家」宣言をぶちかまします。

 もちろん「作家」という肩書きは、自称他称蔑称尊称、何でもありのオールマイティ・パスなので、べつに純文学作家でもいいんですけど、「おまえが作家とか名乗るな」みたいな反応をする人は、けっこう世の中には多い、ってことは室井さんがひき起こしたその後の反響などを見てもわかります。こういう「作家という名乗りに敏感に反応しちゃう肩書き至上主義者」たちの闘争心に火をつけてやろうとする、室井さんお得意の姿勢が早くも登場しているところに、さすがだなと思わずにはいられません。

 この年には、連載エッセイの仕事も舞い込み(あるいは、つかみ取り)、『週刊SPA!』誌上で「“作家”の花道」がスタート。そこに書かれていたプロフィールは、

「'97年秋、小説新潮からデビュー。現在長篇執筆中。」(『週刊SPA!』平成9年/1997年12月31日・平成10年/1998年1月7日号より)

 フォーマットは7月の『週刊女性』と同じです。いちおう「執筆中」と言っておかないと現役作家(志望者)のかっこうがつかない、という意図がしっかり伝わってきます。そして、「デビュー」の時期が繰り下がっている点にも、注目したいですね。読者投稿をデビューと呼ばず、小説として採用された11月号の「Piss」をデビュー作にする、履歴をどんどん上書きして前に突き進むたくましい精神をかいま見せてくれているからです。

 田舎から出てきて、一発当てたくて作家になろうと思った。というのが、室井さんが気に入って使っていた「私が作家になろうと思った理由」です。私は何と言われてもへこたれない野心家である、っていう一種のキャラ付けに近いものがありますが、ここで室井さんの選んだキーワードが、はい、みなさんお待ちかねのアレ。直木賞、だったわけです。

「田舎から出てくるとき考えた。学歴もコネもなく成功するなら、スポーツ選手か芸能人か作家。(引用者中略)作家のエッセイ読んでると、有名人と遊んだだの、ハイヤーで隣の県まで帰っただの、編集者とスッポン食べただのと羨ましすぎる。(引用者中略)作家・室井佑月、違いの分かる女。平成十年、まっ赤なオープンカーで帰郷できると信じてる。」(同)

 と、連載1回目、本文中には直木賞はいっさい出てきませんが、室井さんが思い描く成功した作家像が、デフォルメして描かれる。そのシリーズタイトルが「あたしの直木賞計画 “作家”の花道」。

 これは室井さんじゃなく、『SPA!』編集者のセンスだった可能性もあります。ともかく、「直木賞」という、ほぼイメージだけで世間に広まっている例の単語を掲げることで、みんなからチヤホヤされてカネも儲かる憧れの作家(をめざす私)を演出しているわけですね。

 『SPA!』の連載は、初の小説集『熱帯植物園』が出るところまでで終了し、その後「作家の花道」は(「作家」を囲っていたダブルクォーテーションが取れて)「六本木野望篇」として集英社の『青春と読書』で再開。これらがまとめられて単行本になるときには、『青春と読書』のほうは「栄光への序曲篇」となり、『SPA!』連載分が「六本木野望篇」と改題されたので、「直木賞」の文字がなくなってしまうという、何とも悲しい展開になってしまいました(いや、装画担当の児嶋都さんが、女性の着ているシャツに「直木賞」の文字を入れておいてくれているので、そこはまあ、我慢するとしましょう)。

 『作家の花道』が本になったのは平成12年/2000年です。室井さんの作家人生からすれば、まだ始まったばかりなんですが、本人も言うとおり、

「銀座のちんぴらホステスが小説デビューを果たし、続けざま三冊本を出版し、本を読んで会いたいといってくれた先輩作家と恋に落ち、電撃結婚し、その上宇宙一かわいいベィビーまで授かって――小説というアイテムを手に入れてから、ちゃんとうまい具合に回っていたじゃんか。三十年間生きてきて、実際、こんなに運がよかった三年間はいままでなかったよ。」(平成12年/2000年12月・集英社刊『作家の花道』「祝!ベィビー出産」より)

 という感じで、他にも講演に呼ばれるは、テレビ番組にもちょくちょく出るは、室井さんが言っていた「成功している人」像を一気に体験するほどの、めまぐるしい3年間だったと思います。

           ○

 はじめての本となった『熱帯植物園』(平成10年/1998年6月・新潮社刊)。その内容と作者の経歴で、当然のように話題となりまして、具体的にどんな話題となったのかは知らないんですが(ってオイ)、朝日新聞の馬場秀司さんは、こんな表現を使いました。

 新人文学賞ってものに対して異議をとなえるトークイベントを、紹介する記事の一節です。

「新人賞のあり方に疑問を投げかけるトークイベントがこのほど、東京・新宿のロフトプラスワンであった。

主催者は歌人の枡野浩一さん。作家の津原泰水さん、モデルなどを経て作家になった室井佑月さん、劇作家の可能涼介さんが出席。四人とも賞には無縁だったが、活躍中だ。

(引用者中略)

イベントでは室井さんの存在が、そのまま新人賞批判でもあった。賞に応募したが落ちた作品が、いま注目の『熱帯植物園』。選考委員と読者の興味との間には差があったのだ。」(『朝日新聞』平成10年/1998年9月13日「新人賞にもの申す 若手作家ら討議 東京・新宿で」より ―署名:馬場秀司)

 「いま注目の」本だと説明しています。注目されるのは、いいことだと思います。

 また、室井さんにインタビューした丸山佳子さんも言っています。

「今年六月に刊行した初の作品集『熱帯植物園』が話題を集めた。」(『青春と読書』平成10年/1998年12月号「『血い花』の著者・室井佑月さんに聞く 小説のこと、恋のこと」より ―インタビュー&構成:丸山佳子)

 話題を集めたそうです。ここには「デビュー以来、室井さんは鮮烈な作品と同時に、その華麗な経歴でも話題を集めてきた。」とも書かれていて、ワタクシは狭い世界で生きているものですから、当時、室井さんの名前や作品を話題にするような知り合いはひとりもいませんでした。経歴や容姿にとびつく人がいたのは容易に想像できますけど、作品も同時に話題を集めたというのは、丸山さんも覚悟をもって書いているはずですので、おそらく、言いすぎってことはないんでしょう。

 新人賞をとったわけでもない作家が、1年ちょっとで2冊目の作品集を出す、その版元の集英社が宣伝のためにつくっている、PR雑誌のインタビュー記事。……とはいえ、ライター業に命を賭ける丸山さんが、テキトーなことを書くわけがありません。これは絶対に、提灯記事などではないんだ、冷静で客観的なインタビューなんだ、と念じながら読み進めていきますと、最後、こんなハナシでしめくくられます。

「デビューから一年半、室井佑月は、新しい感覚で物語を紡げる作家として大きく成長したのではないだろうか。華麗な経歴の持ち主が選んだのは、女流作家という職業だった。その彼女が子供のころにどんな夢を持っていたのか聞いてみた。

「夢は、金屏風の前で記者会見をすること。私、すごくミーハーなんで、子供のころからテレビのワイドショーが大好きだったんです。何かいいことで記者会見できたらいいですね。直木賞受賞とか(笑)」

冗談で終わらなさそうなところが、こわい。」(同)

 何をこわがっているのか、まったくわかりません。しかし、室井さんの冗談にわざわざ真剣に向き合う丸山さんの誠実さは、わかりました。

 室井さんは、いまでも直木賞を夢に思い描いてくれているんだろうか。だとしたら、それはそれで直木賞ファンとして嬉しいです。でも、自分の経歴をふりかえって「とても移り気」と言っていた方でもあります。もはや、直木賞なんかより、実質、成功の足跡をのこし、きっと新たな願望も芽生えたことでしょう。いまさら、作家の卵がイキがって直木賞がどうたら、とうそぶいてみせる、そんな姿を見せる必要がなくなった。のかもしれません。ハァー、まったく、さびしいことです。

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