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2015年11月15日 (日)

阿久悠は言った、「直木賞が欲しい、と言うべきだったかもしれない」。(平成16年/2004年5月)

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(←書影は昭和54年/1979年11月・文藝春秋刊 阿久悠・著『瀬戸内少年野球団』)


 なかにし礼さんもそうでしたけど、芸能界から直木賞の舞台にやってくる人たちは、たいてい直木賞よりも有名で、売れてて、立派すぎるほどの業績があります。阿久悠さんの場合も、とにかく阿久悠を候補にしたのだ!ってことで、直木賞のほうが注目され、俄然、直木賞の名が挙がることにつながりました。阿久さんサマサマです。

 まあ、こういう「直木賞振興策」の裏にはかならずトヨケンの影あり。と言われた定石どおり、阿久さんの直木賞候補(というか、候補になった『瀬戸内少年野球団』刊行)には、豊田健次さんが関わっていて、そりゃあ当時の『オール讀物』編集長が惚れ込んで単行本になった小説ですから、候補に選ばれて何もおかしくないですよね。

(引用者注:阿久悠の個人誌『月刊you』での)連載中に作品を読んで、すぐさま単行本化を決定した豊田健次さん(当時『オール讀物』編集長)は、阿久悠と同学年である。

(引用者中略)

「私自身は、いまでも『瀬戸内少年野球団』は直木賞に値する作品だと思っています」と言う豊田さんは、「ただ……」とつづける。

「芸能界で大成功を収めた阿久さんに対して色眼鏡で見ていた選考委員の方もおられたと思います。ある委員は『十年、二十年と文学一筋に励んでようやく候補になった人と、たまたま出したような作品が候補になった人を同列に論じていいのか』とおっしゃっていました」(重松清・著『星をつくった男 阿久悠と、その時代』「第七章 「父」なき世代」より)

 司会として同席し、選考委員たちの議論を巧みにリードして受賞作を決めている文春社員。などと外からさんざん野次られる立場でありながら、『瀬戸内少年野球団』の落選を、しっかり受け止めて選考会を仕切った豊田さん、さすが「公正」な賞は違いますね。

 ……というのはいいんですけど、でも、選考委員が色眼鏡で見るのは当たり前のことだったと思います。だって直木賞ですよ。たとえば重松清さんだって、『ビタミンF』一作の作品評価じゃなく、『定年ゴジラ』『カカシの夏休み』と以前にも候補になったものがあって、ほかでも堅実に小説を書いているじゃないか、っつう「色眼鏡」があったから、直木賞を受賞できたようなもんじゃないですか。

 作品の出来いかんで決める、という文化をかたくなに否定して、「作家のそれまでの実績も加味して選考するのだ」、なんちゅう曖昧でナアナアな基準を堅持することで、なけなしの「権威」を保ってきたような賞が、色眼鏡なしで候補を論じられるわけがありません。当たり前です。

 しかも相手は阿久悠さんです。単なる作詞家じゃありません。ときに「バケモノ」扱いされるほどの、飛ぶ鳥おとして自分が飛んじゃっている売れっ子中の売れっ子。いったい、どこのだれが色眼鏡なしでその小説に接することができるというんでしょう。

 どうせ受賞させたらさせたで、「こんな有名人にいまさら小説の賞をあげて何の意味がある」「直木賞ってけっきょくショーだよね」「本を売るためだけにやっているんだから仕方ない」などと、絶対100パー、直木賞に対する攻撃の手は増えたはずです。どっちに転んでも、いくらでもブーブーと不満の声があがる。直木賞候補になった芸能人の宿命です。

 じっさい、直木賞とは逆に、「色眼鏡」=阿久さんの有名性と話題性を利用して受賞をきめた、とも言われているのが、『瀬戸内少年野球団』の直木賞落選から2年後の、角川書店主催の横溝正史賞でした。これはこれで、悪評につぐ悪評をもたらし、「芸能人×文学賞交錯史」をいろどる代表的な汚名(?)ともなっています。

 『朝日新聞』の昭和57年/1982年5月1日「土曜の手帳」では、匿名ライター(隅)さんが、「いみじくも大藪委員が指摘したように、「応募作の中では知名度も高く話題性充分」というのが、この作を選び出した側の本音であろうことは、疑いをいれない。」と言いながら作品をくそみそにけなし、また、『週刊文春』書評欄の(風)=朝日新聞・百目鬼恭三郎さんも、「天下の愚作」と断じる、お得意の罵倒芸を披露。

「これで、横溝正史賞は、第一回の受賞作である斎藤澪『この子の七つのお祝いに』につづいて、天下の愚作に授賞するという悪名を担うことになった。こういう選考をつづける気なら、いっそ向後は(引用者注:授賞に反対した土屋隆夫以外の委員は)角川商法協賛委員と改名したほうがよろしいのではあるまいか。」(『週刊文春』昭和57年/1982年5月20日号「ブックエンド 天下の愚作 阿久悠『殺人狂時代ユリエ』」より)

 じっさい、この作品は角川側が強硬に受賞作にするようねじ込んだ、とウワサが飛び交いました。受賞がきまる前の、『週刊宝石』昭和57年/1982年1月2日号「人物日本列島」を見るところ、阿久さんはふつうに角川ノベル(カドカワノベルスのこと?)からの注文で小説『殺人狂時代ユリエ』を書き下ろしている様子が紹介されています。少なくとも、これが8月31日に締め切られた第2回横溝賞の応募原稿に入っていたはずがなく、はっきりいって、デキレースだったことでしょう。『週刊宝石』の記事タイトルは「兼業作家で多忙な売れっ子作詞家 阿久悠 作詞家No1は直木賞作家をめざす」……だったんですが、直木賞よりも横溝賞が先にきてしまいました。

 『殺人狂時代ユリエ』の場合は、そもそも作品の内容からして、直木賞をめざすも何もないダーッと読んでパパッと忘れる類のエンタメ読み物。じっさいワタクシの好みから言えば、直木賞にふさわしいとか、直木賞惜しかったよねとか言われる『瀬戸内少年野球団』よりも、『殺人狂時代ユリエ』のほうが面白くて、角川商法だ、インチキ受賞だ、と叩かれることを承知のうえでこれに賞を与えた横溝賞のほうが、勇気があって偉いと思います。

 阿久さんはとにかくスーパーマルチな人だったようなので、小説だって、多種多彩なものが書けてしまいます。郷愁を感じさせながら、ちょっぴり文学臭の漂うオトナな小説はお手のものだし、サスペンス、バイオレンス、アクションものだってイケる口。ってそんなことは阿久さんの作詞した歌の数々を見たって、よくわかりますよね。

 ここで直木賞がどう出たか。といえば、同じ阿久作品でも、『瀬戸内少年野球団』系の、要するに「ボクらが生きてきた時代を回顧する」ふうの、新鮮味も何もない、阿久さんでなくたって他に数多くの人が書いている領域のほうばかり、チヤホヤしてしまいました。やはり、惜しいと言うほかありません。

           ○

 阿久さん自身、かなり昔から小説を書きたい、と思っていたらしいです。でもべつに、もともとは、自分の履歴をベースにした、同世代の人たち(だけ)にウケるような小説、しか頭になかったわけじゃありません。

 『瀬戸内少年野球団』刊行の折りには、これは例外だ、とすら言っていました。

「この人が作詞すれば必ずあたる、といわれる歌謡界の大ヒットメーカー・阿久悠氏(42)が、自伝風青春小説『瀬戸内少年野球団』(小社刊)を“半書下ろし”した。

(引用者中略)

「以前スポーツ紙に全くのフィクションを一年連載したことがあるのです。本来は、架空の題材の面白いものを書きたいのですが、例外として、これだけは書いておきたい唯一の“身辺もの”といえるでしょう」」(『週刊文春』昭和54年/1979年11月22日号「ぴいぷる」より)

 本来は、架空の題材の面白いものを書きたい、と明言しています。

 おそらくは、「作者・阿久悠」の看板が要らない、自伝的でも都会派でもなく人生の断片も切り取っていない、面白いエンターテインメントを書きたい! という欲求が阿久さんのなかにあったものと思います。処女作の『ゴリラの首の懸賞金』(昭和53年/1978年2月)から、『殺人狂時代ユリエ』、『なに?お巡りさんが… スラップスティック・スーパーマン』(昭和54年/1979年5月、のち『おかしなおかしな大誘拐』に改題)、『キングの火遊び ベビーシッター・ダンディ・ブルース』(昭和63年/1988年7月)などは、その成果でしょう。『球心蔵』(平成9年/1997年12月)もこの系列かもしれません。

 しかし、最初は例外だったはずの“身辺もの”が、やたらと増えていきます。けっこう評判よかったからか、あるいは芸能界の有名人が書くんだから、自伝モノか芸能界モノじゃなきゃカッコがつかない、と依頼する側が思ったものか、わかりません。直木賞もそこに参戦し、かなり偏った世界しか相手にしないその性格をぬけぬけと見せつけて、身辺ものの『墨ぬり少年オペラ』なんちゅう作品を候補に挙げたりして、火に油をそそぎました。

 やがて阿久さんは、小説家としてではなく作詞家として、菊池寛賞とか紫綬褒章とかまでもらい、じゃあ小説家人生はどうだったのかと、回想する折りには、

「ぼくにとって小説の処女作が「ゴリラの首の懸賞金」という、途方もないバイオレンス小説であったことが、プラスかどうかわからない。」(平成16年/2004年5月・日本経済新聞社刊 阿久悠・著『生きっぱなしの記』より)

 と書くにいたりました。こう書くってことはたぶん、マイナス面のほうが大きかったと、まわりからも言われたし、自分もうすうす感じていたんじゃないかと思います。

 とくに直木賞あたりは、途方もないバイオレンス小説を拒絶することで、我が身をカッコよく見せたい! みたいな、イケすかない精神構造を持っている賞です。直木賞を欲しいと思っていた阿久さんも、やはり直木賞が好みそうな小説とそうでない小説、っていうことは気になっていた、……のかもしれません。

(引用者注:直木賞の候補になったのは)一回目は『瀬戸内少年野球団』、二回目が「喝采」と「隣りのギャグはよく客食うギャグだ」、三回目が『墨ぬり少年オペラ』である。これも一回目が満々の自信で該当作なしの痛み分けに終わったあと、欲しがるか、欲しがらないかで妙な時期を過した。結局、欲しがってはいたが、欲しいとは誰にも言わないまま終わった。

(引用者注:日本レコード大賞の)作詞賞と直木賞の取れる取れない始末記の大きな違いは、作詞賞が昭和四十八(一九七三)年に、「ジョニイへの伝言」で受賞したのち、記録的回数で貰いつづけたことであり、直木賞はなぜか一応のケリが、取らないままについてしまったということである。欲しいと言うべきであったかもしれない。」(同)

 おい、阿久さんほどの方が、欲しかったと言っているぞ! ってことで、直木賞のほうのカブが上がる、直木賞にとってはオイシいことしかない言及です。

 いや、直木賞を欲しがるか欲しがらないか、という状況があったせいで、「架空の話で読者を楽しませてやりたいぜ!」みたいな阿久さんのテンションが、だんだん下がっていった……わけではないと願いたいところです。

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