« 2015年9月 | トップページ | 2015年11月 »

2015年10月の4件の記事

2015年10月25日 (日)

山下洋輔は言われた、「直木賞関係者が、ノミネートを思いとどまった」。(平成5年/1993年9月)

151025

(←書影は平成2年/1990年8月・新潮社刊 山下洋輔・著『ドバラダ門』)


 SFにもファンタジー系にも寛容な、陳舜臣さん、藤沢周平さんが直木賞選考委員になったのが、第94回(昭和60年/1985年下半期)、その援軍、田辺聖子さんの就任が第97回(昭和62年/1987年上半期)です。それで第99回(昭和63年/1988年上半期)に、景山民夫さんの『遠い海から来たCOO』が受賞して、直木賞史に燦然と足跡がのこりました。

 いよいよ直木賞の固い扉がこじ開けられそうだぞ、いまからSF系統の作品がどしどしと候補になり、受賞したりするはずだ! と、このなりゆきを『小説新潮』編集部も期待をかけて見守っていた……といった証言はどこにも残っていないので、そんなことはないんでしょうが、昭和62年/1987年、名エッセイストとしても名高かった、SFにも造詣の深いジャズピアニスト、山下洋輔さんにようやく長篇小説を書かせることに成功したのが『小説新潮』誌です。よーし、連載もはじまって快調、快調。と思っていたら、話はいろんなところに飛び、連載はいつまでたっても終わらず、終結したのは3年たったころ。連載時の「三十一億五千三百六十万秒の霹靂」を『ドバラダ門』に改題し、全462ページ、堂々たる分厚さで刊行されました。

 これがもう大作にして、快作、奇作、どこからどう取りついて評価していいものやら、といった感じで、そんじょそこらの、並な文学賞じゃ扱い切れないシロモノ。と思われたのかどうなのか。まだ創設が発表されたばかりで、実態の不明な、でも何やら文壇外からの刺客みたいで面白い、と話題になっていたBunkamuraドゥマゴ文学賞とかなら、いいんじゃないか、と言う人たちがいて、

「「Bunkamuraドゥマゴ文学賞」は同文化村内に「ドゥマゴ」と提携したレストランがあることから創設された(引用者注:パリのドゥマゴ文学賞の)姉妹文学賞だ。全く賞を受けたことのない新人作家の作品(小説、評論、戯曲、詩)を対象に選考、(引用者中略)昨年秋の創設発表時には、早くも水村美苗「續明暗」が有力とか、山下洋輔「ドバラダ門」ではないかなど、いろいろな予想が飛び交っていた。」」(『文學界』平成3年/1991年2月号 小山鉄郎「文学者追跡 文学賞の流行」より)

 要は、文学賞でキャッキャと盛り上がることを生き甲斐にしている文芸記者や編集者たちに、ていよく酒のサカナにされた、ということです。って、全然「要は」になっていませんね。

 小説とのふれこみではありますが、これはもう、山下さんがこれまで書いてきたような、実話をもとにした文章芸=エッセイの延長、といった感じでして、そこが明らかに小説『ドバラダ門』の魅力のひとつだと思います。素晴らしいことに、まるっきり小説然としていません。

 親交の厚い村松友視さんは、この作品を評するなかで「可能なかぎりの図々しさ、可能なかぎりの恐縮ぶり(これは、ただいま文学にちょっかいを出しており御迷惑をおかけしておりますが、もうすぐ終わりますので……という山下洋輔独特のセンス)を示しつつ」(『週刊現代』平成2年/1990年10月20日号)と、山下さんの「文学に対する恐縮ぶり」に言及しています。なにしろ、山下さんの身近には、尊敬してやまない「天才」小説家、筒井康隆なるバケモノがいました。そんな人にさんざん勧められながらも、とにかく自分には小説なんて書けませんよ、と山下さんは小説執筆を避けつづけてきた過去があります。

「筒井(康隆)さんに、一度、ちゃんと小説を書きなさいっていわれたことあるんですよ。なにをどう書けばよいかまで話してくれてね。でも、こちらの覚悟が足りなくて、結局、その時、『とてもできません』って逃げ出してきたんです。あれが、小説家になれる、一生一度のチャンスだったんだろうけど」(『週刊宝石』昭和62年/1987年7月17日号「人物日本列島 クラシックの殿堂をジャズファンで埋めたピアニスト 山下洋輔」より)

 といったことを、『小説新潮』の連載を始めるほんの数か月前に言っています。

 『ドバラダ門』刊行の折りには、小説を書くにいたった動機について各メディアで問われ、

「今までも旅の面白い経験について書いていましたが、今回の、一連の事件は何だかもうちょっと大切なことのような気がしたんです。エッセイでペロッと書くのでは済まない、大きなものにしたいという気がありました。」(『スコラ』平成2年/1990年11月8日号「読まなきゃあばれるゾッ! 青山1丁目・交差点角 軽薄堂書店」より ―構成・太田裕子)

 などなど答えているんですが、たしかにエッセイではない、でもこれってほんとに小説なのかな、と山下さん自身も感じていたらしいことは、こんなインタビューから読み取れるところです。

「今度初めて小説・のようなものを書きました

(引用者中略)

ちょっと今までとは違ったやり方でやってみよう、いわゆるエッセイと小説の中間というか、括弧つきの小説というようなものを意識しながら書いてみようとしたんです。」(『波』平成2年/1990年8月号 山下洋輔「かいまみた秘密」より)

 あえて「・のようなもの」「括弧つきの小説というようなもの」などの表現を使っているわけです。

 もちろん読むほうにとっちゃ、エッセイだろうが小説だろうが、どっちでもいいです。奇想と現実感あふれる、山下さんの文章芸が堪能できる、おそろしく楽しい一冊なので、去年平成26年/2014年末に刊行された『ドファララ門』(晶文社刊)も、まだ読めていないんですけど、いまから読むのが楽しみです。

 で、ご想像のとおり、といいますか、ジャンル分類の困難な『ドバラダ門』のような作品を、なかなか対象に据えることができないのが、文学賞の限界なんでしょうか。「これは小説だね、だれがみてもそうだね」という、パリパリに襟を立てて小説顔をしているものが、小説の賞には選ばれやすい。新潮社の山周賞だって、SF大好き人間たちが決める星雲賞だって、これを候補作(ないしはノミネート作)にする勇気はありませんでした。

 候補にしなかった点では、直木賞も同様です。そりゃまあ、そうでしょう。『ドバラダ門』は、頭上はるか上空を飛びすぎています。直木賞なんかにゃ、手に余ります。

続きを読む "山下洋輔は言われた、「直木賞関係者が、ノミネートを思いとどまった」。(平成5年/1993年9月)"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年10月18日 (日)

中島らもは言った、「直木賞の選評を読んで、渡辺淳一はなんてバカなヤツだと思った」。(平成16年/2004年6月)

151018

(←書影は平成3年/1991年11月・集英社刊 中島らも・著『人体模型の夜』)


 テーマが「芸能人と直木賞」だっていうのに、どうして中島らもを取り上げるのだ? スジ違いにもほどがある。ったく、これだから、直木賞オタクってのは底が浅くてキラいなんだよ。と、全国にン千人以上はいるはずの「中島らもを神と崇める信奉者」たちに怒られるはずですが、そもそも、小説を書いているだけの小説家ではない、職種分類不能な多才ぶり(ムチャクチャぶり、ともいう)が、ワタクシが中島らもさんを好きな理由ですから仕方ありません。

 テレビにもちょくちょく出たり、劇団をつくったり、バンドを組んだり、芸能の人であると言えないことはない! と強弁しながら、「芸能人」の枠組みで語るにはまるでそぐわないことを十分承知のうえで、今週は中島らもさんです。

 ここ数十年のあいだで、エンタメ小説を書いてきた人は何千、何万(何十万かも)もいます。彼らの書く作品のほとんどは、いわゆる文壇的な小説とは何の関係もないまま、生み出されて読み捨てられてきました。その構造(っていうか状況)は、直木賞ができた昭和初期からいままで、大して変わっちゃいません。そのなかで、中島さんの小説は相当に文壇的にも評価され、賞までもらうことのできた数少ない部類に属します。どう考えたって、そうです。

 しかし、そんなまともな解釈をしたってつまらないわけですね。少なくとも、中島さんを介して「体制」だの「権威」だのを見る第三者としては、権威から弾かれてしまう中島らも、反体制的な中島らも、であってほしい! とどうしても強く願ってしまうじゃないですか。

 中島さん自身が、

「やっぱり権力に噛みついていくタイプの人が好きやったね。

その頃の中年のおっさんでいえば、竹中労さん、野坂昭如さんとかね。寺山修司も好きだったけど、なんでよその家を覗いてたんや。

(引用者中略)

今東光も好きだった。」(平成16年/2004年6月・KKベストセラーズ刊 中島らも・著『異人伝 中島らものやり口』「第三章 社会と家族」「反権力、反体制の男たち」より ―構成:小堀純)

 と語っているけれど、いや、こちらにとっちゃ中島さんだって「権力に噛みついていくタイプの人」の代表的なひとり。その書くもの、話すこと、やることなすことに、大いに惹かれたものです。とにかくわけがわからない、わからないけど、ムチャクチャで面白いおっさん。

 となれば、今東光さんや野坂昭如さんのように、直木賞をとりながら、まるで権威然とせずにアレやコレやと楽しませてくれる、っていう道もアリですけど、文学賞に落とされて、何だあんなもん、と攻撃しつづける「反主流」な役が、すんなりと似合います。

 吉川新人賞や推理作家協会賞をとっただけでなく、山周賞や直木賞の候補に挙げられた人に対して「反主流」もクソもないんですが、最終の選考会で落とされることは「反主流」派の勲章みたいなもんです。中島さんといえば直木賞をとれなかった(だけど直木賞とかいうバカらしい尺度で計ることのできない)偉大な作家じゃないか! ということになって、ああほんとに、直木賞ってどうしようもない愚か者だよなあ、って思いを深くさせてくれるのでした。

 その意味で(どの意味でだ)中島さんが、「直木賞? そんなもの気にしてませんよ」みたいな、もののわかる人ふうの態度をとらず、機会があれば、直木賞攻撃をしつづけてくれた、その効果は大きかったと思うんです。夢枕獏さんのインタビューで、聞き手の浅野智哉さんも、こう言ってくれています。

「――(引用者中略)らもさんの意外な面として、実はコンプレックスの強い人だったと思うんですよ。山本賞・直木賞などメジャーの賞に続けて落とされて、エッセイなどでその悔しさと恨みをしっかり書かれている。好きなことばっかりやってる無頼なイメージがあるけど、どこか中心の存在になりきれない後ろめたさがあるというか、俗人くさい劣等感を感じてます。

夢枕(引用者注:夢枕獏) なるほど、それはわかる気がする。文学賞って、作家は濃いか薄いかはあるだろうけど、どこかに何がしかの思いはあるんですよ。僕も含めて、何にも気にしてない作家はいないと思うんだよね。でもらもさんはもし直木賞を獲れてたとしても、たぶんあのまんまのスタンスだったはずですよ。権威のある場所とか文壇の中心になんて絶対に行かない人ですよ。」(『文藝別冊 総特集中島らも』所収 夢枕獏「インタビュー 飄々として芯がある作家」より ―ききて:浅野智哉)

 中島さんの、直木賞に対する恨みの発言。じっさいには、直木賞がどうだこうだ、というものではありません。ほとんどが、「権威なるもの」への反骨と反発で彩られていました。

 そして、権威の代表格としてつるし上げの対象とされたのが、ええ、ごぞんじ渡辺淳一さんです。中島さんを落とした選考委員は数々いたのに、ただただ、渡辺さんただひとりを攻撃しつづけました。

らも 俺も直木賞は3回候補になったんですけど、渡辺淳一が毎回アホなこと言うもんやから、3回とも落っこっちゃって。ホントに馬鹿なこと言うんですよ。怪奇小説を書いたら、「私は医者なので笑ってしまった」とかね。ホラーに医者もヘチマもないじゃない。

『ガダラの豚』というのは1400枚ぐらいの長編なんですけど、渡辺淳一は「私なら、これを300枚で書ける」とか言うわけです。量じゃないんだよ。必要があるから長くなったんだ。300枚って、そんなダイジェストみたいなもの書いたって意味ないんだもん。そんな人が審査してるんだから、賞自体の値打ちを下げてんのと一緒やねん。」(平成16年/2004年10月・イースト・プレス刊 中島らも・著『なれずもの』「中島らも×竹井正和」より)

 というのは、前に『直木賞物語』でも引用しました。とにかく、直木賞というより渡辺淳一(の偉そうにしているところ)が、中島さんの直木賞攻撃の核、と言ってもいいです。

「ところで、君(引用者注:中島らものこと)の小説『今夜、すべてのバーで』は直木賞候補になったが、作家で医者の選考委員のワタナベ・ジュンイチが頑として反対したために賞はとれなかったようだ、と君は言っていた。あいつにそんな資格や能力があったのか。納得のいかないことが世の中には多々ある。」(平成26年/2014年3月・河出書房新社/河出文庫 鈴木創士・著『ザ・中島らも らもとの三十五光年』「中島らも烈伝」より ―初出:平成17年/2005年1月・河出書房新社刊)

 といった証言(?)に対しては、いや、いくら何でも「渡辺淳一が頑として反対したために賞はとれなかった」は言いすぎでしょ、と思います。でも、おそらく中島さんは、直木賞に反感をもっているのではなく、ただ単に、渡辺淳一さんの言うことが気にくわず、渡辺さんなんかが偉そうにふんぞり返ってしまえる体制側に、ムカツいているだけらしいので、これはいいと思います。

続きを読む "中島らもは言った、「直木賞の選評を読んで、渡辺淳一はなんてバカなヤツだと思った」。(平成16年/2004年6月)"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年10月11日 (日)

島田紳助は言った、「「直木賞」というペンネームで本を出したい」。(昭和63年/1988年9月)

151011

(←書影は昭和63年/1988年7月・小学館刊 島田紳助・著『風よ、鈴鹿へ』)


 島田紳助さんと直木賞を結びつけて語ろう、っつうのは、さすがに無理があります。

 無理がありすぎなので、今週は手みじかに終わらせようと思いますが、ワタクシ自身、すべての日常と思考が直木賞を軸にまわっている人間なもんですから、島田さんがたくさんテレビに出ていたときも、いつも「直木賞と関係ある(あった)芸能人」として見ていました。じつは、何だかいろいろとすごい方なのだそうで、まあ少なくとも、「直木賞」そのものよりすごいことは、長年の(創設以来の)直木賞のショボさからして、明らかだとは思います。

 先に明かしてしまいますと、島田さん×直木賞、両者の接点についてワタクシの知っているエピソードは、次に挙げる一件しかありません。遠い遠い昔、おそらくMANZAIブームの前後に発せられた島田さんの発言を、毎日新聞の近藤勝重さんが紹介しているおハナシです。

「吉本のタレントはよくギャラをギャグにする。

ギャラ闘争を一大パフォーマンスにしたのは島田紳助で、自ら委員長になって「全吉本お笑い連合」を結成、ギャラのアップなど、待遇改善を要求して、若手タレントと吉本本社まで無届けデモをした話は有名だ。また彼は、「直木賞」というペンネームで本を出したい、などという筆まめだけあって、ギャラ闘争では手紙戦術もとっている。」(昭和63年/1988年9月・毎日新聞社刊 近藤勝重・著『笑売繁盛 よしもと王国』「1 吉本の構造とその力」より)

 「直木賞というペンネームで本を出したい」などと島田さんがどこで言っていたのか。『マンスリーよしもと』か、当時のテレビ・ラジオ・舞台あたりでか、いまのところ詳細は不明です。ともかく、このエピソードを知って以来、ワタクシにとって島田さんの存在は、ぐっと身近なものに感じられていまに至っている。といっても過言じゃありません。

 身近なんですよ。自分で小説を書かないくせして、オイラが直木賞をとったら、どうだのこうだの、とベラベラ語り散らかす元・漫才師とはちがい、また実際に(ほんの一冊、二冊程度)小説を出版したのを機にみずからの話題づくりのためだけに「直木賞をねらっています!」と笑顔をふりまく芸人たちともちがって、まだこのときの島田さんは、まとまった散文作品をひとつも発表していない。「直木賞」そのものから遠く隔たった、直木賞の可能性ゼロパーセントの立場なのに、直木賞の名を出してうそぶいてみせる姿勢。

 こういうやり方は、ほら、とくにインターネットが生まれて以降、いろんな人がネットでやっていて、ひんぱんに見かける日常風景ですし、どこが面白いのかよくわからない笑えないシャレである点も共通しています。身近な「直木賞イジリ」です。

 で、近藤さんいわく、島田さんと直木賞が結びつく接触理由は、島田さんが筆まめなことにあるらしいんですね。どの程度の筆なめなのか。ご本人はこう話していました。

「もともと、漫才をやっていた頃から、ネタとか、思いついた言葉とか、やるべきこととか、計画とか、ノートをつけるくせがありました。」(平成16年/2004年11月・KTC中央出版刊 島田紳助・著『いつも風を感じて』「はじめに」より)

 ということで、この本の巻末には、かなり唐突に「紳助アフォリズム集 いつか、ノートに書いていた言葉」なる、20数ページに及ぶ、これは本の厚みを少しでも増したいがための埋め草ページか!? と疑われても仕方のない文章の断片が付いていて、たしかに書きためた文章はけっこうありそうです。

 しかし、(当然と言いましょうか)『いつも風を感じて』にしたって、森綾さんが「構成」をしているし(要するにゴースト・ライティングしたもの)、公称15万部を売った島田紳助名義の初の本『風よ、鈴鹿へ』(昭和63年/1988年7月・小学館刊)からしてもう、本人が全篇全部の文章を書いたと信じている人は誰もいないと思われます。

 『サンデー毎日』に連載していた「いつも心に紳助を」のなかには、小説を書いてみようとしたのだが……、って回があるんですけど、

「自分でなんか小説みたいなものを書いてみようと思って、書き出したんやけど、すぐ力尽きてしもうた。

(引用者中略)

どうしようもないことをボーッと書いてたら、三十枚くらいにはなるのやけどね。

そういう、しょうもないことを書いてるのは楽しいんですよ、没頭できて。

ところが、まともなことを書こうとすると、詰まってまうねん。

(引用者中略)

ぼくら、何人称とか、基本的な書き方をわからんから、ダメですわ。

それに、言葉を知らん。むずかしい言葉、使えへんもん。

(引用者中略)

字を書くの、好きなんですよ。手紙書くのとか。名前の入った原稿用紙、よく作家の人が使うやつ、ああいうのも前につくったことがあるんです。それは、映画用ですけど。上にト書きの書けるやつ。」(『サンデー毎日』平成8年/1996年9月29日号「いつも心に紳助を 連載146 エッチな小説書いている時はやっぱり興奮するんですよ」より)

 おお、何と身にしみる親近感じゃないですか!

 よーし、小説を書いてやろう、と思い立つ経験はいろんな人がすると思いますが、文章を書くことはできても完結させることができず、けっきょくイヤになって30枚程度でやめてしまう、という。そういう人、世のなかにはゴロゴロいるでしょう。そこで、名前入り原稿用紙を準備したり、「直木賞」というペンネームで本を出したいと言ったり(そうすれば売れるだろう、ぐらいの軽い冗談なのか)、なかなか、こっ恥ずかしい感じが、自分にも思い当たる節があったりして、よけいに島田さんに共感を抱かないわけにはいきません。……って、抱きますよね?

続きを読む "島田紳助は言った、「「直木賞」というペンネームで本を出したい」。(昭和63年/1988年9月)"

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2015年10月 4日 (日)

高橋洋子は言われた、「本の売れゆきのために文学賞と結びつけられた」。(昭和58年/1983年4月)

151004

(←書影は昭和56年/1981年12月・中央公論社刊 高橋洋子・著『雨が好き』)


 直木賞に比べて芥川賞は、芸能人をひっぱり込む機会が遅れました。

 「芸能人に小説を書かせ、それに賞を与えて本を売るとか、出版界終わったな」などと言われて、大きな嵐が吹き荒れたのが昭和50年代のこと。それも最初のうちは、基本、直木賞のおハナシだったんですが、自然界の公理に照らせば、芥川賞を超えて直木賞ばかり話題になる状況など絶対にあり得ません。芥川賞もさらっと芸能人に手を出します。すると日本文学振興会の読みどおり、マスコミを含めたまわりの人たちは、ついに前代未聞の、芸能人芥川賞受賞者が誕生するか!? とまんまと盛り上がりました。

「かつて、作家への道はふたとおりあった。同人雑誌などにコツコツ書き続け、それが既成作家や編集者に認められて引き上げられる場合と、懸賞小説に応募して受賞、または候補となってデビューする場合である。ところが、この二つの方法以外の新しいケースが生まれつつある。それは、テレビタレントをはじめとする有名人に小説を書かせて“候補”とするやり方だ。青島幸男、つかこうへい、向田邦子や中山千夏、阿久悠、高橋洋子などがそれ。彼らと文学賞とが結びつけば本の売れゆきがどうなるかは、改めて説明するまでもあるまい。こうした傾向は、文学賞がすでにベストセラー商法の道具と化し、出版社の営業政策に利用されているからだ。」(昭和58年/1983年4月・幸洋出版刊『キミはこんな社長のいる文藝春秋社を信じることができるか?』所収 坂口義弘「マスコミに現れた文春三賞(芥川賞・直木賞・大宅賞)の評判」より)

 直木賞がせっせとつくり上げてきた芸能人候補作群のなかに、ポッと混ざり込んだかっこうの高橋洋子さんです。

 おかげで、「芸能化」で一歩も二歩も先を行っていたはずの直木賞の存在感はかすみ、いつのまにやら「芸能化する芥川賞・直木賞」と言われることに。直木賞は、これらの単なるひとつ、へと明らかに格下げ(?)されてしまいました。直木賞オタクとしては悲しいです。そして、いつもどおりといえば、いつもどおりです。

 ということで、「芸能化する直木賞」騒ぎに水を差した、にっくき敵役こと、高橋洋子。高橋さん自身には何の罪もないんですけど(そりゃそうだ)、とにかく高橋さんが「芸能人×文学賞の黄金時代」とも言われる昭和50年代の、代表作家となったことは間違いありません。

 NHK朝ドラのヒロインとなった20歳ごろ、高橋さんのもとに、いちどエッセイ集刊行の話が舞い込みます。ゴーストライターによるものじゃなく、自分で書きたい!と思って、ちょっとずつ書き始めたものの、あとが続かずに頓挫。昭和54年/1979年、26歳ごろになって、今度は少し長いものを書いてみたら?とひとに勧められたのを機に、また書き出し、これも30枚ぐらいになったところで、いったん止まってしまいます。昭和56年/1981年になって、女性誌に小文を投稿していたころでもあり、エッセイなどを読んだ編集者からの助言で、小説「雨が好き」を書き上げ、中央公論新人賞に応募。受賞しました。

「女優の高橋さんが、作家の仲間入りをしたのは、約八年前。二十八歳の時だった。

「あの頃は、女優をやっていても、地に足がつかない感じで、今一つ充実感がなかったんです。(引用者中略)このままでいいのかな、という思いが、いつも私の中にあったんです」

そんな高橋さんに、ある編集者が、小説を書いて新人賞に応募するようにすすめた。彼女が時々雑誌に寄稿していたエッセイを読み、その才能を見抜いたのだ。

「やってみようと決心してから締め切りまでの約三ヵ月間は、燃えに燃えたという感じでした。」(『SOPHIA』平成1年/1989年2月号「「女ざかり」を生かす 30をすぎてみつけた自分の道 作家を続けるという道はつらかったけれど、あきらめないでよかった」より ―文:北林紀子)

 細部に少しブレはありますが、新人賞決定直後に受けた取材記事によれば、すすめたのは『婦人公論』の編集者らしいです。

「ことしの四月ごろ、婦人公論のかたに、応募してみたらと勧められて、しまい込んでおいたものに書き足していったんです。最終的には八十五枚。」(『サンデー毎日』昭和56年/1981年9月13日号「「現代の紫式部」は女優タレントから?! そのドラマチックな人生こそ「いとおかし」」より ―文:本誌・青野丕緒)

 応募するにあたって高橋さんは、あえて「吉原方」(よしはら・なみ)っていう筆名を使いました。しかし、なにしろ応募したことは中央公論社の人間も知っているし、予選通過を決めるのも中央公論社の人たち。最終候補に残ったっていうけど、さてはデキレースだったな、と尾辻克彦(赤瀬川原平)さんのことなども合わせて、やいのやいのと言い始める一群もいたようなんですが、それを取り上げると収拾がつかなくなるので無視します。

 女優が小説を書いて賞まで取ったぞ、やったぞカネになるぞ、と興奮する人たちが出てくるのは、これは避けられないことで、受賞第一作「通りゃんせ」(『中央公論』掲載は昭和57年/1982年1月号、つまり昭和56年/1981年12月発売)ができあがったと見るやすぐに『雨が好き』(昭和56年/1981年12月・中央公論社刊)を刊行し、当然のようにベストセラー入り。この勢いを逃してなるものかと、いろんな方面で才能がある「才女」高橋さんをおだて上げ、監督・脚本・主演をになわせた映画「雨が好き」まで制作してしまい、

「新人賞という賞にうかれて、またいろいろな人たちの引力に、ついつい身をのり出して「雨が好き」の映画を撮ってしまいました。あれはかなり草臥れました。そして、失敗でした。」(昭和63年/1988年6月・新潮社刊 高橋洋子・著『雨を待ちながら』「あとがき」より)

 と、高橋さん自身に言わしめるほどの、熱狂の「高橋洋子・賞フィーバー」。

 こういう風が吹いているのを横目に見て、われは文壇の権威なり、とふんぞり返って微動だにしない芥川賞。……なはずはなく、ここら辺が、芥川賞が「お調子者」呼ばわりされるゆえんかと思いますが、いちおう手を出して自らも騒ぎに参加する。そしてけっきょく「芥川賞騒ぎ」にしてしまって自分が中心におさまるという、芥川賞のイヤらしさ、世渡りのうまさを、世間に見せつけることになるのです。

続きを読む "高橋洋子は言われた、「本の売れゆきのために文学賞と結びつけられた」。(昭和58年/1983年4月)"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2015年9月 | トップページ | 2015年11月 »