山下洋輔は言われた、「直木賞関係者が、ノミネートを思いとどまった」。(平成5年/1993年9月)
(←書影は平成2年/1990年8月・新潮社刊 山下洋輔・著『ドバラダ門』)
SFにもファンタジー系にも寛容な、陳舜臣さん、藤沢周平さんが直木賞選考委員になったのが、第94回(昭和60年/1985年下半期)、その援軍、田辺聖子さんの就任が第97回(昭和62年/1987年上半期)です。それで第99回(昭和63年/1988年上半期)に、景山民夫さんの『遠い海から来たCOO』が受賞して、直木賞史に燦然と足跡がのこりました。
いよいよ直木賞の固い扉がこじ開けられそうだぞ、いまからSF系統の作品がどしどしと候補になり、受賞したりするはずだ! と、このなりゆきを『小説新潮』編集部も期待をかけて見守っていた……といった証言はどこにも残っていないので、そんなことはないんでしょうが、昭和62年/1987年、名エッセイストとしても名高かった、SFにも造詣の深いジャズピアニスト、山下洋輔さんにようやく長篇小説を書かせることに成功したのが『小説新潮』誌です。よーし、連載もはじまって快調、快調。と思っていたら、話はいろんなところに飛び、連載はいつまでたっても終わらず、終結したのは3年たったころ。連載時の「三十一億五千三百六十万秒の霹靂」を『ドバラダ門』に改題し、全462ページ、堂々たる分厚さで刊行されました。
これがもう大作にして、快作、奇作、どこからどう取りついて評価していいものやら、といった感じで、そんじょそこらの、並な文学賞じゃ扱い切れないシロモノ。と思われたのかどうなのか。まだ創設が発表されたばかりで、実態の不明な、でも何やら文壇外からの刺客みたいで面白い、と話題になっていたBunkamuraドゥマゴ文学賞とかなら、いいんじゃないか、と言う人たちがいて、
「「Bunkamuraドゥマゴ文学賞」は同文化村内に「ドゥマゴ」と提携したレストランがあることから創設された(引用者注:パリのドゥマゴ文学賞の)姉妹文学賞だ。全く賞を受けたことのない新人作家の作品(小説、評論、戯曲、詩)を対象に選考、(引用者中略)昨年秋の創設発表時には、早くも水村美苗「續明暗」が有力とか、山下洋輔「ドバラダ門」ではないかなど、いろいろな予想が飛び交っていた。」」(『文學界』平成3年/1991年2月号 小山鉄郎「文学者追跡 文学賞の流行」より)
要は、文学賞でキャッキャと盛り上がることを生き甲斐にしている文芸記者や編集者たちに、ていよく酒のサカナにされた、ということです。って、全然「要は」になっていませんね。
小説とのふれこみではありますが、これはもう、山下さんがこれまで書いてきたような、実話をもとにした文章芸=エッセイの延長、といった感じでして、そこが明らかに小説『ドバラダ門』の魅力のひとつだと思います。素晴らしいことに、まるっきり小説然としていません。
親交の厚い村松友視さんは、この作品を評するなかで「可能なかぎりの図々しさ、可能なかぎりの恐縮ぶり(これは、ただいま文学にちょっかいを出しており御迷惑をおかけしておりますが、もうすぐ終わりますので……という山下洋輔独特のセンス)を示しつつ」(『週刊現代』平成2年/1990年10月20日号)と、山下さんの「文学に対する恐縮ぶり」に言及しています。なにしろ、山下さんの身近には、尊敬してやまない「天才」小説家、筒井康隆なるバケモノがいました。そんな人にさんざん勧められながらも、とにかく自分には小説なんて書けませんよ、と山下さんは小説執筆を避けつづけてきた過去があります。
「筒井(康隆)さんに、一度、ちゃんと小説を書きなさいっていわれたことあるんですよ。なにをどう書けばよいかまで話してくれてね。でも、こちらの覚悟が足りなくて、結局、その時、『とてもできません』って逃げ出してきたんです。あれが、小説家になれる、一生一度のチャンスだったんだろうけど」(『週刊宝石』昭和62年/1987年7月17日号「人物日本列島 クラシックの殿堂をジャズファンで埋めたピアニスト 山下洋輔」より)
といったことを、『小説新潮』の連載を始めるほんの数か月前に言っています。
『ドバラダ門』刊行の折りには、小説を書くにいたった動機について各メディアで問われ、
「今までも旅の面白い経験について書いていましたが、今回の、一連の事件は何だかもうちょっと大切なことのような気がしたんです。エッセイでペロッと書くのでは済まない、大きなものにしたいという気がありました。」(『スコラ』平成2年/1990年11月8日号「読まなきゃあばれるゾッ! 青山1丁目・交差点角 軽薄堂書店」より ―構成・太田裕子)
などなど答えているんですが、たしかにエッセイではない、でもこれってほんとに小説なのかな、と山下さん自身も感じていたらしいことは、こんなインタビューから読み取れるところです。
「今度初めて小説・のようなものを書きました
(引用者中略)
ちょっと今までとは違ったやり方でやってみよう、いわゆるエッセイと小説の中間というか、括弧つきの小説というようなものを意識しながら書いてみようとしたんです。」(『波』平成2年/1990年8月号 山下洋輔「かいまみた秘密」より)
あえて「・のようなもの」「括弧つきの小説というようなもの」などの表現を使っているわけです。
もちろん読むほうにとっちゃ、エッセイだろうが小説だろうが、どっちでもいいです。奇想と現実感あふれる、山下さんの文章芸が堪能できる、おそろしく楽しい一冊なので、去年平成26年/2014年末に刊行された『ドファララ門』(晶文社刊)も、まだ読めていないんですけど、いまから読むのが楽しみです。
で、ご想像のとおり、といいますか、ジャンル分類の困難な『ドバラダ門』のような作品を、なかなか対象に据えることができないのが、文学賞の限界なんでしょうか。「これは小説だね、だれがみてもそうだね」という、パリパリに襟を立てて小説顔をしているものが、小説の賞には選ばれやすい。新潮社の山周賞だって、SF大好き人間たちが決める星雲賞だって、これを候補作(ないしはノミネート作)にする勇気はありませんでした。
候補にしなかった点では、直木賞も同様です。そりゃまあ、そうでしょう。『ドバラダ門』は、頭上はるか上空を飛びすぎています。直木賞なんかにゃ、手に余ります。
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