島田紳助は言った、「「直木賞」というペンネームで本を出したい」。(昭和63年/1988年9月)
(←書影は昭和63年/1988年7月・小学館刊 島田紳助・著『風よ、鈴鹿へ』)
島田紳助さんと直木賞を結びつけて語ろう、っつうのは、さすがに無理があります。
無理がありすぎなので、今週は手みじかに終わらせようと思いますが、ワタクシ自身、すべての日常と思考が直木賞を軸にまわっている人間なもんですから、島田さんがたくさんテレビに出ていたときも、いつも「直木賞と関係ある(あった)芸能人」として見ていました。じつは、何だかいろいろとすごい方なのだそうで、まあ少なくとも、「直木賞」そのものよりすごいことは、長年の(創設以来の)直木賞のショボさからして、明らかだとは思います。
先に明かしてしまいますと、島田さん×直木賞、両者の接点についてワタクシの知っているエピソードは、次に挙げる一件しかありません。遠い遠い昔、おそらくMANZAIブームの前後に発せられた島田さんの発言を、毎日新聞の近藤勝重さんが紹介しているおハナシです。
「吉本のタレントはよくギャラをギャグにする。
ギャラ闘争を一大パフォーマンスにしたのは島田紳助で、自ら委員長になって「全吉本お笑い連合」を結成、ギャラのアップなど、待遇改善を要求して、若手タレントと吉本本社まで無届けデモをした話は有名だ。また彼は、「直木賞」というペンネームで本を出したい、などという筆まめだけあって、ギャラ闘争では手紙戦術もとっている。」(昭和63年/1988年9月・毎日新聞社刊 近藤勝重・著『笑売繁盛 よしもと王国』「1 吉本の構造とその力」より)
「直木賞というペンネームで本を出したい」などと島田さんがどこで言っていたのか。『マンスリーよしもと』か、当時のテレビ・ラジオ・舞台あたりでか、いまのところ詳細は不明です。ともかく、このエピソードを知って以来、ワタクシにとって島田さんの存在は、ぐっと身近なものに感じられていまに至っている。といっても過言じゃありません。
身近なんですよ。自分で小説を書かないくせして、オイラが直木賞をとったら、どうだのこうだの、とベラベラ語り散らかす元・漫才師とはちがい、また実際に(ほんの一冊、二冊程度)小説を出版したのを機にみずからの話題づくりのためだけに「直木賞をねらっています!」と笑顔をふりまく芸人たちともちがって、まだこのときの島田さんは、まとまった散文作品をひとつも発表していない。「直木賞」そのものから遠く隔たった、直木賞の可能性ゼロパーセントの立場なのに、直木賞の名を出してうそぶいてみせる姿勢。
こういうやり方は、ほら、とくにインターネットが生まれて以降、いろんな人がネットでやっていて、ひんぱんに見かける日常風景ですし、どこが面白いのかよくわからない笑えないシャレである点も共通しています。身近な「直木賞イジリ」です。
で、近藤さんいわく、島田さんと直木賞が結びつく接触理由は、島田さんが筆まめなことにあるらしいんですね。どの程度の筆なめなのか。ご本人はこう話していました。
「もともと、漫才をやっていた頃から、ネタとか、思いついた言葉とか、やるべきこととか、計画とか、ノートをつけるくせがありました。」(平成16年/2004年11月・KTC中央出版刊 島田紳助・著『いつも風を感じて』「はじめに」より)
ということで、この本の巻末には、かなり唐突に「紳助アフォリズム集 いつか、ノートに書いていた言葉」なる、20数ページに及ぶ、これは本の厚みを少しでも増したいがための埋め草ページか!? と疑われても仕方のない文章の断片が付いていて、たしかに書きためた文章はけっこうありそうです。
しかし、(当然と言いましょうか)『いつも風を感じて』にしたって、森綾さんが「構成」をしているし(要するにゴースト・ライティングしたもの)、公称15万部を売った島田紳助名義の初の本『風よ、鈴鹿へ』(昭和63年/1988年7月・小学館刊)からしてもう、本人が全篇全部の文章を書いたと信じている人は誰もいないと思われます。
『サンデー毎日』に連載していた「いつも心に紳助を」のなかには、小説を書いてみようとしたのだが……、って回があるんですけど、
「自分でなんか小説みたいなものを書いてみようと思って、書き出したんやけど、すぐ力尽きてしもうた。
(引用者中略)
どうしようもないことをボーッと書いてたら、三十枚くらいにはなるのやけどね。
そういう、しょうもないことを書いてるのは楽しいんですよ、没頭できて。
ところが、まともなことを書こうとすると、詰まってまうねん。
(引用者中略)
ぼくら、何人称とか、基本的な書き方をわからんから、ダメですわ。
それに、言葉を知らん。むずかしい言葉、使えへんもん。
(引用者中略)
字を書くの、好きなんですよ。手紙書くのとか。名前の入った原稿用紙、よく作家の人が使うやつ、ああいうのも前につくったことがあるんです。それは、映画用ですけど。上にト書きの書けるやつ。」(『サンデー毎日』平成8年/1996年9月29日号「いつも心に紳助を 連載146 エッチな小説書いている時はやっぱり興奮するんですよ」より)
おお、何と身にしみる親近感じゃないですか!
よーし、小説を書いてやろう、と思い立つ経験はいろんな人がすると思いますが、文章を書くことはできても完結させることができず、けっきょくイヤになって30枚程度でやめてしまう、という。そういう人、世のなかにはゴロゴロいるでしょう。そこで、名前入り原稿用紙を準備したり、「直木賞」というペンネームで本を出したいと言ったり(そうすれば売れるだろう、ぐらいの軽い冗談なのか)、なかなか、こっ恥ずかしい感じが、自分にも思い当たる節があったりして、よけいに島田さんに共感を抱かないわけにはいきません。……って、抱きますよね?
○
いずれにしても、『風よ、鈴鹿へ』っつって本にしたぐらいですから、もちろん自前でレーシングチームを組んでの鈴鹿8耐への挑戦は、紳助さん自身、思い入れをぶつけるにふさわしい日々だったんだと思います。
昭和60年/1985年に紳助・竜介を解散し、そこから1年ぐらいのあいだが、一気に紳助さんのなかで「本を出したいんだ!」熱が高まった時期だったみたいです。
「紳助のこれまでの人生の中で、もっとも大きな節目になったのは、昭和六十年のコンビ解消から、翌六十一年にかけてだった。紳助がバイクのチームを作ったのもこの頃であり、テレビではしゃべれないことを本の形で書きたい、と思い始めたのもこの頃だった。
(引用者中略)
昭和六十一年八月、胆石の除去手術、盲腸の手術を続けて受けた際、腹膜炎から腸閉塞を併発した。再三にわたる開腹手術の中で、紳助は度々危篤状態に陥った。あまりの痛みに、「喉に詰まったタンを吸引するチューブで首を吊って死のうと思た」という。(『週刊文春』平成2年/1990年10月18日号「語りおろし連載 行くカネ来るカネ 私の体を通り過ぎたカネ」より)
それで念願の(?)出版へとつながったわけですが、何しろ、先の「いつも心に紳助を」で、紳助さんが、当時の文章についての思い出として繰り出したのが、本のほうではなく、映画のシナリオを夢中になって書いた、ってこと(だけ)なんですから、まったく紳助さん、文章への思い入れは薄いようです。
後年になってくると、もうはっきりと、僕は本を読まない、とさえ断言する領域に。
「僕は本を読みません。年に一冊も読まない。それは何でかと言ったら、そんなもの役に立たないから。クイズ番組には役に立つかもしれないですよ。本をたくさん読んでたら、たくさん答えられるでしょう。でも、それだけ。そんなもの、僕たち喋り手には何の役にも立たないんです。
僕たち喋り手は、本を読んで「頭」で記憶するのではなく、実際に体験して「心」で記憶しなくてはならないんです。」(平成21年/2009年9月・ヨシモトブックス刊 島田紳助・著『自己プロデュース力』より ―平成19年/2007年3月・NSC(吉本総合芸能学院)大阪での特別講義)
役に立つか立たないか、の基準からすれば、本など(とくに小説などは)読んで役に立つシロモノじゃない、ってことにワタクシは激しく同意します。
直木賞とか言ったら、これはもう、とるとらないの境界付近にいる人にとっては別として、人間的な生活を送るうえで役に立たない最たる存在。本も出せるようになったし、自分の人生に何の影響も及ぼさない直木賞のことを、もう島田さんが口にしなくなったとして、何の不思議もないところです。そりゃそうです。年がら年中いつまでも、直木賞、直木賞いっている人間のほうが異常です。
ほんとうは、島田さんお得意の分析と実践で、小説技術を取得してもらって、どんどんと小説界に参入、やがて直木賞を手にしたその場で、賞状も懐中時計もゴミ箱に投げ入れる。という島田さんならではの、賞との接し方を、文学賞のほうでもやってもらい、大いに世間をにぎわせてほしかったなあと思います。残念です。
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