高橋洋子は言われた、「本の売れゆきのために文学賞と結びつけられた」。(昭和58年/1983年4月)
(←書影は昭和56年/1981年12月・中央公論社刊 高橋洋子・著『雨が好き』)
直木賞に比べて芥川賞は、芸能人をひっぱり込む機会が遅れました。
「芸能人に小説を書かせ、それに賞を与えて本を売るとか、出版界終わったな」などと言われて、大きな嵐が吹き荒れたのが昭和50年代のこと。それも最初のうちは、基本、直木賞のおハナシだったんですが、自然界の公理に照らせば、芥川賞を超えて直木賞ばかり話題になる状況など絶対にあり得ません。芥川賞もさらっと芸能人に手を出します。すると日本文学振興会の読みどおり、マスコミを含めたまわりの人たちは、ついに前代未聞の、芸能人芥川賞受賞者が誕生するか!? とまんまと盛り上がりました。
「かつて、作家への道はふたとおりあった。同人雑誌などにコツコツ書き続け、それが既成作家や編集者に認められて引き上げられる場合と、懸賞小説に応募して受賞、または候補となってデビューする場合である。ところが、この二つの方法以外の新しいケースが生まれつつある。それは、テレビタレントをはじめとする有名人に小説を書かせて“候補”とするやり方だ。青島幸男、つかこうへい、向田邦子や中山千夏、阿久悠、高橋洋子などがそれ。彼らと文学賞とが結びつけば本の売れゆきがどうなるかは、改めて説明するまでもあるまい。こうした傾向は、文学賞がすでにベストセラー商法の道具と化し、出版社の営業政策に利用されているからだ。」(昭和58年/1983年4月・幸洋出版刊『キミはこんな社長のいる文藝春秋社を信じることができるか?』所収 坂口義弘「マスコミに現れた文春三賞(芥川賞・直木賞・大宅賞)の評判」より)
直木賞がせっせとつくり上げてきた芸能人候補作群のなかに、ポッと混ざり込んだかっこうの高橋洋子さんです。
おかげで、「芸能化」で一歩も二歩も先を行っていたはずの直木賞の存在感はかすみ、いつのまにやら「芸能化する芥川賞・直木賞」と言われることに。直木賞は、これらの単なるひとつ、へと明らかに格下げ(?)されてしまいました。直木賞オタクとしては悲しいです。そして、いつもどおりといえば、いつもどおりです。
ということで、「芸能化する直木賞」騒ぎに水を差した、にっくき敵役こと、高橋洋子。高橋さん自身には何の罪もないんですけど(そりゃそうだ)、とにかく高橋さんが「芸能人×文学賞の黄金時代」とも言われる昭和50年代の、代表作家となったことは間違いありません。
NHK朝ドラのヒロインとなった20歳ごろ、高橋さんのもとに、いちどエッセイ集刊行の話が舞い込みます。ゴーストライターによるものじゃなく、自分で書きたい!と思って、ちょっとずつ書き始めたものの、あとが続かずに頓挫。昭和54年/1979年、26歳ごろになって、今度は少し長いものを書いてみたら?とひとに勧められたのを機に、また書き出し、これも30枚ぐらいになったところで、いったん止まってしまいます。昭和56年/1981年になって、女性誌に小文を投稿していたころでもあり、エッセイなどを読んだ編集者からの助言で、小説「雨が好き」を書き上げ、中央公論新人賞に応募。受賞しました。
「女優の高橋さんが、作家の仲間入りをしたのは、約八年前。二十八歳の時だった。
「あの頃は、女優をやっていても、地に足がつかない感じで、今一つ充実感がなかったんです。(引用者中略)このままでいいのかな、という思いが、いつも私の中にあったんです」
そんな高橋さんに、ある編集者が、小説を書いて新人賞に応募するようにすすめた。彼女が時々雑誌に寄稿していたエッセイを読み、その才能を見抜いたのだ。
「やってみようと決心してから締め切りまでの約三ヵ月間は、燃えに燃えたという感じでした。」(『SOPHIA』平成1年/1989年2月号「「女ざかり」を生かす 30をすぎてみつけた自分の道 作家を続けるという道はつらかったけれど、あきらめないでよかった」より ―文:北林紀子)
細部に少しブレはありますが、新人賞決定直後に受けた取材記事によれば、すすめたのは『婦人公論』の編集者らしいです。
「ことしの四月ごろ、婦人公論のかたに、応募してみたらと勧められて、しまい込んでおいたものに書き足していったんです。最終的には八十五枚。」(『サンデー毎日』昭和56年/1981年9月13日号「「現代の紫式部」は女優タレントから?! そのドラマチックな人生こそ「いとおかし」」より ―文:本誌・青野丕緒)
応募するにあたって高橋さんは、あえて「吉原方」(よしはら・なみ)っていう筆名を使いました。しかし、なにしろ応募したことは中央公論社の人間も知っているし、予選通過を決めるのも中央公論社の人たち。最終候補に残ったっていうけど、さてはデキレースだったな、と尾辻克彦(赤瀬川原平)さんのことなども合わせて、やいのやいのと言い始める一群もいたようなんですが、それを取り上げると収拾がつかなくなるので無視します。
女優が小説を書いて賞まで取ったぞ、やったぞカネになるぞ、と興奮する人たちが出てくるのは、これは避けられないことで、受賞第一作「通りゃんせ」(『中央公論』掲載は昭和57年/1982年1月号、つまり昭和56年/1981年12月発売)ができあがったと見るやすぐに『雨が好き』(昭和56年/1981年12月・中央公論社刊)を刊行し、当然のようにベストセラー入り。この勢いを逃してなるものかと、いろんな方面で才能がある「才女」高橋さんをおだて上げ、監督・脚本・主演をになわせた映画「雨が好き」まで制作してしまい、
「新人賞という賞にうかれて、またいろいろな人たちの引力に、ついつい身をのり出して「雨が好き」の映画を撮ってしまいました。あれはかなり草臥れました。そして、失敗でした。」(昭和63年/1988年6月・新潮社刊 高橋洋子・著『雨を待ちながら』「あとがき」より)
と、高橋さん自身に言わしめるほどの、熱狂の「高橋洋子・賞フィーバー」。
こういう風が吹いているのを横目に見て、われは文壇の権威なり、とふんぞり返って微動だにしない芥川賞。……なはずはなく、ここら辺が、芥川賞が「お調子者」呼ばわりされるゆえんかと思いますが、いちおう手を出して自らも騒ぎに参加する。そしてけっきょく「芥川賞騒ぎ」にしてしまって自分が中心におさまるという、芥川賞のイヤらしさ、世渡りのうまさを、世間に見せつけることになるのです。
○
この世には「純文学(誌)」信仰ってものがあります。いまでも確実にありますが、当時もやはり幅を利かせていました(当時どころか、昔からずっと)。要するに、タレントが小説やエッセイを書くことは多い→でも純文学の世界で認められることは稀だ→だからその賞をとった人スゴい! というテッパンの論理。
この考え方は、多くの人に支持されてきまして、現在でも健在です。よく耳にします。もちろん高橋さんのときにも数多く(?)使用されました。
先に引用しました『サンデー毎日』記者の青野さんは、ほかの女優の文筆活動として、黒柳徹子、山口百恵、沢村貞子、高峰秀子、桃井かおり、冨士真奈美、杉村春子、中村メイコ、宮城まり子、村松英子、岸田今日子、大場久美子、鈴木いづみ、沖山秀子、中山千夏、落合恵子、原田美枝子、東てる美、といった人たちのことを紹介したあとで、こう書いています。
「ま、こうやってズイッと見回してみても、小説でカチッとした賞をもらったのは、高橋洋子が初めてである。快挙というべきだろう。そして彼女に続く“女優作家”は、今後も出てきそうである。」(前掲載『サンデー毎日』昭和56年/1981年9月13日号「「現代の紫式部」は女優タレントから?!」より)
ちなみにこの記事は「純文学」とかそういう言葉は一切使わず、「女優ライター」(←これは青野さんによる表現)と言っていて、全部いっしょくたにまとめた、かなり乱暴な切り口です。
もうちょっとまともな(?)言い方をしたのが、『週刊平凡』でした。
「『タレントが書いた本』という本が出るほど芸能界は出版ブーム。だが、純文学で、しかも小説家の登龍門である『中央公論新人賞』を処女作で手中にしたとなるとこれは“おみごと”というほかない。」(『週刊平凡』昭和56年/1981年9月3日号「高橋洋子が恋の思い出のある町鎌倉を舞台にした小説で新人賞受賞」より)
これがまともか! とツッコみたい方は、すみません、流してください。
それで芥川賞の件です。純文芸誌に小説を発表する(できる)人は、芸能界のなかでも稀少です。そのなかからしか選ばれないのが芥川賞で、候補にでもなろうものなら、すごいすごい、と街を踊りあるいて浮かれちゃうマスコミ陣がどっと発生しました。
彼らにとっては、芥川賞でも直木賞でもどっちでも似たようなもの、なはずですが、ことさら盛り上げなきゃ記事になりません。今回の高橋さんがいかに「スゴい」例だったかを書くには、中山千夏さんが直木賞で候補になったことは、さておかなきゃいけない、ってことで当時の『週刊平凡』ライターがしぼりだしたのが、「“前人未到”の芥川賞」っつう表現でした。
「もし芥川賞をもらってでもいたら、もちろん女優としてははじまっていらいの快挙になるところだった。山口百恵の『蒼い時』や黒柳徹子の『窓ぎわのトットちゃん』が大ベストセラーになったとはいっても、これは自伝。
女優では沢村貞子や高峰秀子が筆達者として知られているが、こちらはすべてエッセーだ。
作家としてはわずかに、3年前、『子役の時間』で直木賞候補になった中山千夏がいるが、高橋洋子の場合はこれまで“前人未到”の芥川賞で惜敗。しかも彼女の実力については、選考委員の先生がたが「みんな感受性は認めていたけど、これからを楽しみに、というのが結論でした」(遠藤周作さん)というから、これからの研鑽しだいで、芥川賞女優の誕生も夢ではなさそうだ。」(『週刊平凡』昭和57年/1982年7月29日号「高橋洋子 結果を聞いて夫・三井誠さんは祝福!? 本人の予想どおり、初の“芥川賞女優”ならず」より)
そうそう、『週刊平凡』の言うように、直木賞と芥川賞は別もの、別世界。……だったはずなのに、今日のエントリーの最初に戻りまして、とにかく高橋洋子の芥川賞候補入りは、芸能人に小説を書かせて本を売りたい連中の、下劣な営業戦略の一例なのだ! と直木賞も芥川賞もいっしょにしちゃう、大ざっぱな人たちの直木賞・芥川賞(&出版界)批判のなかに組み込まれてしまった、もの悲しい一件でもありました。
とはいえ、自分のペースを大事にする(らしい)高橋さんにとっては、中公新人賞受賞から始まった、やたらと騒々しい文学賞騒ぎは、相当に負担だったようで、
「中央公論新人賞に選ばれてから、私の周りは変わった。インタビュー、対談、グラビア撮影、次から次へと引っぱられた。そんな中で小説も書かなければならない。追討ちをかけるように他の原稿依頼も飛び込んできた。
(引用者中略)
私はつま先を伸ばして考える。早く静かになりたいものだ。」(高橋洋子・著『雨を待ちながら』所収「夜に饒舌」より)
そして、その後は、わずらわしい馬鹿さわぎも過ぎ去って、静かに小説を書きつづけられるようになったご様子です。心底よかったなと思います。
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