森本毅郎は言われた、「テレビを捨てて、直木賞をねらえ」。(昭和63年/1988年6月)
(←書影は平成3年/1991年7月・主婦の友社刊 森本毅郎・著『転勤を命ず』)
アナウンサー、少し気さくな立場になるとキャスターと呼ばれるらしいですが(ってほんとか?)、このあたりの方は、まず「知的」なことが求められます。芸能界でも、より文化チックな職種です。なかでも、文章を書くのが上手だったり好きだったりすると、エッセイの仕事もたくさん生まれるらしく、そのおひとりに森本毅郎さんがいます。
いわずと知れた、NHKの朝の顔。人気アナウンサーと目されるにいたった昭和59年/1984年2月に、番組の本番中にいきなりNHKからの退職を宣言して、TBS専属へと鞍替えしちゃうのですが、さあ、一挙手一投足がマスコミから注目されるなか、本は出るわ、TBSでの仕事も堅調だわ。といったところで、平成1年/1989年から小説にも手を染めて、もう押しも押されもしない、「直木賞が囁かれる芸能人グループ」の一員となりました。
と、紹介するくだりで、わざと言い忘れたことがあります。1980年代後半(から90年代前半まで)のこの時期、森本さんといえば、もうスキャンダルなくしては語れません。語れるわけがありません。
何つっても当時は、ワイドショーから週刊誌から、森本毅郎一色、というありさま(それは言いすぎか)。知的でダンディーな話題の男が、影ではとんでもない女性関係を繰り広げていたんですってよ奥さん、まあイヤらしいわ、不潔だわ、とさんざん叩かれたりオチョクられたりしました。
簡単にいいますと、昭和63年/1988年、夜のニュース番組「プライムタイム」のキャスターだったとき、「ニュースステーション」との視聴率争いに大差をつけられていた折りに、弱り目にたたり目と言いましょうか、女性ディレクターとの深夜の密会が写真週刊誌に撮られたことで、あえなく番組降板。しばらくたった平成6年/1994年には、昼のワイドショー「ウオッチャー」を仕切っている時代、「8日で4人」の女性と不倫したと、またもスキャンダルになって、エロ爺い呼ばわりされる始末。2度の大きな花火で、ゴシップ界隈を沸かせてくれたのでした。
ハナシは、その1度目のスキャンダルがあったときのことです。むむっ、こいつは「直木賞の話題に結びつけるにふさわしい芸能人」だな、と独特の嗅覚で嗅ぎつけた人がおりました。『サンデー毎日』で「人物一品料理」という連載コラムを書いていた早瀬圭一さんです。
「タケちゃんマン(引用者注:森本毅郎)もハーモニカおじさん(引用者注:江森陽弘)もテレビを見捨てて活字の世界に転身なさるべきです。おっと江森さんはもとはといえば新聞記者だった。森本さんはずっと放送屋だが『ぼくの人間手帖』や『母のオルガン』の著書もある。芥川賞直木賞をねらって、ひたすら書かれたらいい。小説の世界は男女のどろどろした生きざま、心理の綾、その描写こそ本流だ。これまでのご経験を一字一句克明に表現なさればいい。
(引用者中略)
お二人ならきっとやれます。余計なお世話ながら、お書きになった作品が三島由紀夫賞や山本周五郎賞の候補になった場合は即座に辞退なさい。二つの賞は新潮社が主催、ご両所とも『週刊新潮』にはボロンのチョンに書かれているからです。」(『サンデー毎日』昭和63年/1988年6月26日号 早瀬圭一「人物一品料理 森本毅郎・江森陽弘 テレビをやめて芥川賞直木賞をねらいなさい」」より)
これって基本、早瀬さんの冗談です。「芥川賞・直木賞」だの「三島賞・山周賞」だのと、文学賞なら何だっていっしょ、みたいな薄い見方しかしていないことからも、よくわかります。いくら小説の著書を増やしたって、まず芥川賞はとれないですもん。しかし、こういう場面で、いちおう芥川賞の名を挙げておかないと箔がつかないのが、週刊誌上における文学賞の扱われ方。直木賞ファンとしては涙をにじませながら読むほかない記事に仕上がっています。
しかしです。泣くな直木賞ファン。生きていればいいこともあるもんです(いいこと、と言おうか、何と言おうか……)。「プライムタイム」の降板後、しばらく「謹慎」状態を過ごして元気に復帰した森本さんが、処女小説をひっさげて登場するんですが、その舞台が、直木賞のお膝もと『オール讀物』だったんです。
小説の題名は「ADたちの夜」といいます。以下は、目次に載った編集部による煽り文(キャッチコピーともいう)です。
「人気キャスターが沈黙を破って放つ異色作」
「華やかなブラウン管の影で蠢くテレビマンの生態を熟知する者の眼で捉え描くインサイドストーリー」(『オール讀物』平成1年/1989年4月号目次より)
いま話題のひと。しかも文章を書かせて問題ないことはすでにわかっている。といったあたりを狙って、処女小説をかっさらう『オール讀物』、さすがの手腕じゃないですか。
で、内幕モノ! という子供だまし、または猫だましにマンマと誘われてしまったのが『週刊朝日』です。『オール讀物』に掲載された、なんちゅう芳しい匂いに神経中枢もやられしまい、ここでまた、森本さんと直木賞をつなぐ貴重な働きを見せることになったのでした。
○
記事タイトルは、惜しげもなくドドーンと「森本毅郎さんコンドは直木賞デスカ?」。わざわざカタカナまじりにしたところに、森本さんを馬鹿にしている感じがよく伝わってきます。
小説「ADたちの夜」の評判はいかほどか、というのが、この記事の主眼です。そこで『週刊朝日』がまずコメントを求めたのが、『小説新潮』編集長の横山正治さんでした。
「ライバル「小説新潮」の横山正治編集長は、
「テレビ界の一部にはデスペレートなある種の情熱があるんだろうが、そこがよく書けてるなという印象です。カタルシスはないが、スピード感がいい。新人賞の水準はあるでしょう」
と合格点をつけた。」(『週刊朝日』平成1年/1989年4月14日号「処女小説「ADたちの夜」の内幕が評判 森本毅郎さんコンドは直木賞デスカ?」より ―署名:本誌・水野守)
おお、けっこうな高評価です。たしかに、小説としてワタクシも楽しく読めました。
あと、この記事でコメントを寄せているのは、実名を隠したかたちでテレビ業界人が数名。うーん、これだけでは記事として弱いと考えたのか、最後に登場するのが、例の早瀬圭一さんなのです。
えっ。何でここで早瀬さんを? ……といえば、つまり早瀬さんの「森本さんよ、芥川賞・直木賞をねらえ」発言をここでもう一度取り上げたかったから、なんでしょう(たぶん)。
「昨年、スキャンダルで謹慎を命じられた森本サンに同情して、ノンフィクション作家の早瀬圭一氏は、「サンデー毎日」誌上で、こう呼びかけていた。
「テレビを見捨てて活字の世界に転身なさるべきです。……芥川賞、直木賞をねらって、ひたすら書かれたらいい」
その早瀬氏は、
「よく書いたと思うが、まだ自分を全部さらけきれてない。どうも、電波での彼は自分をつくっている。できればラジオもやめて、小説に集中してほしい」
と望んでいる。」(同)
こんな、テレビキャスター自身は脇役としてしか出てこないような、内輪のネタ程度の小説じゃ満足できませんよ、もっと自分の破廉恥なシモ事情を赤裸々に書いてくれなきゃ! と言いたいわけじゃないんでしょうけど、まあたしかに、週刊誌の記事になるほどの、刺激的な小説じゃありません。それじゃあ、少し景気づけに「直木賞」の文字でも躍らせておくか、といった感じでアッサリと使われちゃう直木賞の、この軽々しい扱い。何ともいい味を出していて、たまりませんね。じっさい、森本さんの口からは直木賞のナの字も聞き出せていない記事ですし。
その後、森本さんの作家活動はどうなったんでしょうか。
『オール讀物』には、「TV界に蠢く男女の愛と別れ。「ADたちの夜」につづく業界小説第二弾」として「赤い眼」(平成2年/1990年8月号)が発表されたんですが、第一作と同様、書籍としてまとめられることもないまま、深淵な中間小説誌史の奥底に消えていきました。
このころ、『主婦の友』に「転勤を命ず」を連載(平成2年/1990年1月号~12月号)、平成3年/1991年7月に主婦の友社から刊行されます。こちらも、お得意の(お決まりの)「テレビ業界のことを描いた」小説で、ちょうどNHK前会長の島桂次さんが国会で虚偽答弁だー、愛人といっしょにいたんじゃないかー、と騒がれていた折りも折り、島さんをモデルにしたんじゃないかと思われる人物が出てくることから、少し(ほんの少し)話題になったりしました。
あとは『小説フェミナ』発表の作品をおさめた『夢球場』(平成5年/1993年5月・学習研究社刊)というのもあるけれど、やっぱりテレビ業界のおハナシが中心。
テレビを舞台にしないと原稿が売れないのか(そういう注文ばっかりだったのか)、よくわかりませんけど、たぶん本人も、作家で食っていく気などなかったんでしょう。スキャンダルの渦中にいる人に好奇の視線が浴びせられるドロッとした空気のなかで、ほんのいっときだけ、にぎやかしに参加させてもらった「直木賞」。すぐにみんな去っていってしまい、あとに残された直木賞のさみしさが募る一件なのでした。
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