中山千夏は言った、「二度と直木賞候補にすることもあるまい。静かに小説が書けるだろう」。(昭和55年/1980年7月)
(←書影は昭和58年/1983年11月・文藝春秋/文春文庫 中山千夏・著『子役の時間』)
直木賞の(いや、芥川賞も含めた)世界において、芸能人が候補になることで、どっと脚光が浴びせられての盛り上がり。先陣を切ったのはこの人だ、といっても過言じゃありません。
それまでの「芸能枠」は、ほとんどが、裏カタ色の強い人ばかりでした。そこに正真正銘、表舞台に立ってキャーキャー芸能人扱いされていた人が出現。大旋風を巻き起こして燦然と直木賞史を変えたのが、中山千夏さんです。
昨年平成26年/2014年、中山さんは『芸能人の帽子 アナログTV時代のタレントと芸能記事』(平成26年/2014年・講談社刊)っつう分厚い本を上梓しました。〈中山千夏〉を扱ったかつての雑誌記事をさまざま紹介しながら、芸能活動をしていた頃の自分のことを語っていくという、書くも書いたりの素晴らしい本でして、これさえ読めば、直木賞候補時代の中山さんのことがすべてわかってしまう! ……とはいかないまでも、中山さんが芸能ジャーナリズムでどのようにもてあそばれていたかがわかる本に仕上がっています。
もてあそばれたことは、とりあえず措いときまして、本書には「モノ書き」という項目があります。中山さんが芸能人家業からライター業・作家業へと移行していく経過などにも、筆が費やされているのでした。
「歌だけではなく、また、TVタレント時代に始まったことでもなく、芸能人・中山千夏はずっと自分の仕事にさしたる愛着も執着も持っていなかった。むろん、そのつど楽しかったり嬉しかったりはするのだが、底流はあっさりした気分で、淡々とこなしていた。
(引用者中略)
まったくのところ、自分から一念発起してやった仕事は皆無だった。しかし、文を書くことだけは、ちょっと違った。」(同書「第6章 才女ブス 中山千夏時代がくる!! 7 モノ書き」より)
ってことで、18歳のときに中山さんみずからが決意して書いた、〈夏村旅子〉名義の脚本(東宝の菊田賞に応募して、最終候補に残ったもの)のこととか、「子役の時間」よりも前に、じつは「たしかに私が初めて書いた小説」として『女性自身』昭和45年/1970年1月10日号に発表した作品の顛末、そういったことがけっこう詳しく紹介されています。
昭和44年/1969年には、『週刊文春』で名ライター神吉拓郎さんが担当していた「天下の美女」に、中山さんが登場。それを機に同誌の編集者だった鈴木琢二さん、藤野健一さん(ともにのちには『オール讀物』編集長)と仲良くなって、神吉さんの後釜として2年間、コラム執筆の仕事が舞い込みます。
「それにつけても今、曲がりなりにもライターをやれているのは、タクちゃん(引用者注:鈴木琢二)とケンちゃん(引用者注:藤野健一)が蛮勇をふるって、泥縄修業の場を与えてくれたおかげだと思っている。」(同)
こういった縁から、鈴木さんは、中山さん、もし小説を書いたら一番最初に自分に見せてよね、と約束を交わすことになったらしいんですが、待つこと約10年。矢崎泰久さん、井上ひさしさん、色川武大さんたちが冗談半分本気半分で、「中山千夏に小説を書かせる会」をつくるほどに、なかなか小説を書かない、でも書いたら援軍がたくさん付くことがわかっている状況になって、ついに中山さん、「子役の時間」を書き上げます。これを約束どおりにゲットしたのが鈴木さんで、『別冊文藝春秋』147号[昭和54年/1979年3月]に掲載される運びになりました。
なにしろ、まわりを囲む連中が連中です。文壇っぽい空気が色濃く漂っている、と言っちゃっていいでしょう。すぐさま、芥川賞がどうだ直木賞がこうだ、と声が挙がる事態になります。
『週刊文春』は「いずれ芥川賞の声も 中山千夏の小説第一作」(昭和54年/1979年3月15日号)と恥ずかしげもなくエール記事を載せ、中山さん自身も直接、まわりの人が(先輩風、もしくは文壇人風を吹かせて)こういうことをギャンギャン言うのを聞かされました。
「私の小説を読んだその筋(つまり作家や編集者)の知人たちが、これは賞の対象になる、と予想するのを聞いていて、私は半信半疑だった
(引用者中略)
芥川賞直木賞といえば、私でも知っているくらい有名な賞だ。初めて小説を書いて、それが賞の対象になるなんて、そんなうまい話があるかいな、とこれが半疑。知人のひとりは、そりゃ直木賞は無理かもしれないが、芥川賞なら、全くの新人でも門外漢でも対象になるから可能性はある、と言った。」(昭和56年/1981年10月・文藝春秋刊 中山千夏・著『偏見人語』「拾った馬券」より)
えっ。だれだよ、芥川賞なら可能性はある、とかテキトーなこと言ったのは。『別冊文藝春秋』に載った小説の、どこに可能性があるっていうんですか。0パーセントじゃないですか。
芸能人が小説を書いた、と聞くと、まあ自分の「直木賞・芥川賞に関する知識」をフル動員して、ここぞとばかり自慢げに下馬評を披露したがる人がやたら出てくる、っていうのは、みなさんご存じのとおりなんですが、中山さんのまわりにいる作家や編集者だったら、当然、直木賞にも芥川賞にも詳しいはず。もう少し、ましな下馬評を言うのかな、と思ったら、この有りさまです。
中山さんは、「芸能人」というだけですでに注目を浴びる存在でした。さらに中山さんその人が、奔放で快活で、言いたいことを言っては愛されたり憎まれたりしてきた、注目しがいのある人でしたので、話題となれば加速がつきます。そこに「直木賞」なんちゅう、みんなでテキトーなこと言い合っていれば場がにぎわう、「中身なき話題性」の権化みたいなやつが接近してしまいました。
中山さんも、あることないこと、さんざん言われたそうです。第81回(昭和54年/1979年・上半期)直木賞が決まった直後です。
「噂は、結果が出るや否や、銀座と新宿に集うその筋を駆け巡り広がったという。いわく、中山千夏は落選を知ると記者を招集して敗北記者会見を開き、強気の発言をした。選挙と間違ってるんじゃないか。田中小実昌さんに電話して、「よかったね、私じゃなきゃあなたが取るといいと思ってたんだ」と言ったそうだ、云々。
これを聞いて、やっぱり嫌な奴、とうなずく者もあり、千夏も大事なところでマズイことをしたものだ、と友人甲斐に嘆いてくださる方あり、いずれにせよ、ありそうなこととしてその筋に広まったそうで、日頃の不徳のいたすところとは知りつつも、三日ぐらいは思い出す度に吐き気がした。もうひとりの受賞者、阿刀田高さんはよく存じ上げないけれど、田中さんとは十年位前から知合いで、大好きな人間だ。彼の受賞を聞いて嬉しかったし、田中さんのところへ向かう記者に、オメデトウと言伝もした。それ以上のことは何も無い。」(同)
中山千夏、落ちたくせに何か偉そうでイヤな女。と反感をくらって、いろいろ言われちゃう立場の人だったことが、よくわかります。その自覚を持ちながら、落選したときのことをエッセイで書いてしまう中山さんって人が、ワタクシは好きです。
「子役の時間」一発だけでも、中山さんの名前は確実に芸能人×直木賞史に深く刻まれたにちがいありません。しかしですよ。このあと、3期も連続で候補に挙げられてしまい、そのつど、選考会の前から後まで大勢の取材陣を湧き立たせることになりまして、もう中山さんは伝説の直木賞候補者、の高みへと昇りつめてしまうのです。
○
2度目の「羽音」(第82回 昭和54年/1979年・下半期)のときは、「芸能人候補三羽ガラス」のひとりとして、阿久悠さん、(そしてなぜか)つかこうへいさんと並べられます。例のNHKの俗悪ドキュメンタリー番組で、選考会の前からテレビカメラに張りつかれました。
この話題は、直木賞史を見るうえでは重要すぎて、うちのブログでも何度も取り上げてきました。なので割愛します。
3度目の「ミセスのアフタヌーン」(第83回 昭和55年/1980年・上半期)。この年、中山さんは昭和55年/1980年6月投票の、参議院議員選挙の全国区に、革新自由連合から出馬して当選。候補になった知らせは、ちょうどその選挙戦の最中に届き、候補が公表されたのが当選後まもなく。しかも、選考会の7月17日は、中山さん初登院の日にカブるという、マスコミ陣にとってはおいしい展開となりまして、国会議員となったタレントの小説が、直木賞で受かるか落ちるか!? と、どこに注視していいのやら、(直木賞ファンとしては)テンテコマイの事態が巻き起こりました。
と、ここら辺のことも、選考委員・新田次郎さんのエントリーのときに書きました。繰り返しになってすみません。
ええい、とにかく芸能人・中山千夏が直木賞候補になった。そりゃあ周辺は、やたらと騒がしかったわけですね。しかしこの間、直木賞をとるとかとらないとかは、気にしない。というのが中山さんのスタンスではありました。
とはいえ、直木賞は、本人の思いや考えを超えて、まわりの人たちに影響を及ぼします(まわりの人たちの勘違いを含めて)。ここで、「直木賞は文学である。文学であるから神聖なものである。神聖なものだから、それで騒ぐのはおかしい」などと、的外れな境地に向かわないところが、中山さんの素晴らしいところ。政治活動(およびタレント活動)のなかでの「直木賞」というものを、こうとらえました。
「前々回「子役の時間」が、前回「羽音」が直木賞の“タレント候補”になり、その間私は参院選の“タレント候補”になるかどうか決断を迫られていた。なかなか立候補の決意がつけ難いので、私とY兄(引用者注:矢崎泰久)は「直木賞を受賞したら立候補しよう」と冗談半分に話していた。
(引用者中略)
Y兄は「何もできないから立候補でもしようか」という“単なるタレント”に私が見られるのを不満に思い、賞の真の意味はともかく、直木賞受賞の事実はそうした見方を払拭する役には立つだろう、と考えていた。
結局、落選と決まり、私は立候補を決心し、これで「直木賞の権威」が私のイメージを“単なるタレント”以上のものに変えるために、私に歩み寄ることは生涯あるまい、と見切りをつけた。今、“単なるタレント”として立候補し、これだけ多くの支持を得られたことが、とてもうれしい。そして、「小説を書き始めたタレント」ではなく、「立候補しているタレント」の小説が候補になったことが、すごくうれしい。」(昭和56年/1981年6月・話の特集刊 中山千夏・著『中山千夏議員ノート1980年度』「'80千夏の陣・選挙日記」「6月16日」の項より)
後段では「賞の候補にされることが作品の良さを示すとは今だに少しも思わない。」とも言っています。
いやいや作品の出来がよかったから候補にしたんですよ、当然じゃないですか、と中山さんが思ってくれるような説明を、文春の鈴木さんや藤野さんがしなかったわけはないとは思うんですが、たしかに直木賞には、「作品の良し悪し〈以外〉で決まっちゃう賞」っていうレッテルが、べっとり付きまくってしまいました。これは直木賞運営の失敗かもしれません。
中山さんは確実に、直木賞のことを、他人が自分を見るときの有効な肩書き、といった面でとらえています。小説の良し悪しを評議する場、だなんてちっとも思っちゃいません。要するに「権威ある賞」ってやつですね。対して、内実に興味がある人は極端に少ないっていう。そういう面があることは、直木賞の特徴のひとつですし、多くの人が直木賞を毛嫌いする理由にもなっているわけですけど、でも、その面しかないわけじゃありません。もちろん。
ちなみにワタクシは、直木賞候補になった中山さんの三作のうち、「子役の時間」がいちばん面白くて、直木賞をとってもよかった作品だよなあ、と思っています。
三度目の落選の報を、文春・藤野さんから聞いた中山さんは、
「これで二度と候補にすることもあるまいから、静かに小説が書けるだろう。」(同)
と安堵の感想をもらすこととなりまして、事実、その後は「直木賞」が引き連れてくる狂ったような騒ぎから逃れることができました。
しかし中山さんが、直木賞(とそれを話題にする周辺)にもたらした、芸能人を候補にすることの麻薬の効果は絶大なものがあり、しばらく直木賞の神経に居残ります。中山さんが直木賞候補になってチヤホヤされるのを見て、悔しさを募らせた青島幸男さんは言わずもがな。「芸能化した直木賞・芥川賞」に対して、ことあるごとに注文をつける外野の人たちの勢力が増したのは、まさに、中山さん以後のことなのでした。
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