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2015年9月27日 (日)

三益愛子は言われた、「別の男から流行作家にのりかえた世渡り上手」。(昭和13年/1938年5月)

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(←書影は昭和37年/1962年3月・講談社刊『長編小説全集17 川口松太郎集』〈「生きるという事」収録〉)


 今回はちょっと別の角度から行きます。

 直木賞といちばん最初にからんだ芸能人ってだれですか? と、会社の同僚や、学校の同級生、コンビニの店員などに質問された経験は、日本人ならきっとあるはずですが、そこで三益愛子さんの名を出せないと軽蔑されてしまう。……かもしれない、っつうぐらいに、直木賞とはべったりの超重要芸能人、三益さんです。

 いま、うちのブログは、ことさらに「芸能人と直木賞」などというテーマでやっています。だけどそもそも直木賞は、芥川賞と比べて芸能関係者との結びつきが異常に強く、直木賞を語るうえで芸能の話題は欠かせない、とさえ言われています。その代表的な事例が、いきなりの第1回、昭和10年/1935年に発生しちゃっていたわけです。

 第1回の直木賞に選ばれたのは川口松太郎さんでしたが、当時は、小説家としてだけじゃなく、「芸能の人」として存在感がありました(当時、だけじゃなくその後もずっとですね)。

 直木賞を贈られたときにも、

「受賞の時に菊池寛が、

「君は雑用の多い男だが、今後は作家一筋に精進して他の仕事には手を出さぬように」

と釘をさされている。」(昭和56年/1981年8月・中央公論社刊 川口松太郎・著『八重子抄』「第五章」より)

 なあんて逸話が残るぐらいに、いろんなことやりたがり屋さん。作家以外に雑用が多いとか、菊池親分、あんたにだけは言われたかないよ、と言い返してやればよかったと思いますけど、たしかに川口さんは、小説だけに専念できず、演劇人であり、その流れから映画人でもありました。当然、芸能人たちとはツーカーの仲。といったわけで古川緑波一座の看板女優、三益さんとくっついちゃうことになります。

 このとき川口さんは、すでに妻子持ちで、プラトン社の編集者だったころに大阪新町で知り合った人気舞妓の静子こと、本名・照さんと結婚して、娘の一女さんもありました。いっぽう三益さんのほうは、俳優の中野英治さんと恋愛関係まっさいちゅう。しかし、この二人の別れ話が発展したのが昭和9年/1934年から昭和10年/1935年ごろだといい、中野さんのマネージャーをしていた川口さんが、仲裁役に入っていったところ、ミイラ取りがミイラになって、あれよあれよ、と結ばれていった。と三益さんのお仲間、清川虹子さんが回想します。

「中野さんと三益さんの別れ話のときに仲裁に入ったのも川口さん。『川口松太郎って、ヤなやつ。私たちを別れさせようとしてんのよ』と三益さん、プンプン怒っていたのに……ふたりは同棲を始めます」(『週刊大衆』平成10年/1998年10月12日号「清川虹子の本音でいくわよ!」より)

 そうです、どうやらこれが昭和10年/1935年ごろのことらしいんですね。川口さんがずーっとあとになって書いた『愛子いとしや』(昭和57年/1982年6月・講談社刊)巻末の「三益愛子―舞台・映画・テレビ出演一覧と略年譜―」では、三益さんと川口さんが結婚した年、と明記されることになる昭和10年/1935年。この年の川口さんが、大変重大な局面を迎えていたことは、まったく言わずもがなです。

 川口さんは昭和2年/1937年ぐらいからずっと、小説家の道をめざして、やってきていました。

(引用者注:大正14年/1925年に)プラトン社をやめたあと私は本当の流浪時代で生活を支える仕事もなく、取りとめもない雑文書きのみじめな暮しをしていた。生涯のうちで最も苦労した時期だが、然しもう勤め人になる気はなかった。(引用者中略)本当は純粋に文学と取り組みたいのだが、それで生活を立てる自信はない。文学に殉ずるといってももう間に合わないし、生活の実際を考えて大衆小説の勉強を始めた。(引用者中略)どうやら物になりかけたのは昭和五、六年だった」(昭和58年/1983年11月・講談社刊 川口松太郎・著『久保田万太郎と私』「「机」恐怖症」より)

 「森下与作」といった筆名を使って、雑文書きで糊口をしのぎつつ、映画の脚本、監督、演出なども手がけながら、それでも何とか小説家として売り出したい、と思っていたそうです。昭和6年/1931年から昭和7年/1932年にかけて『講談倶楽部』に断続的に発表した「女優情艶史」は、好読物として読者に受け入れられたようなんですが、

「これの連載中、川口さんから貰った手紙がある。それには「お前さんひどい奴だ、もう女優物語は嫌だ、早くやめさせてくれ、そして小説を書かせろ」ということが書いてある。川口さんの心境はまさにこれであった。」(昭和47年/1972年1月・青蛙房/青蛙選書 萱原宏一・著『私の大衆文壇史』「心憎い川口松太郎」より)

 と編集者に売り込みをかけ、昭和7年/1932年、『オール讀物』に持ち込んだ「牛肉問答」が掲載されたときには、おいおまえ菊池寛さんが褒めていたぞ、と人づてに聞かされて、やる気のテンションうなぎ昇り。花柳章太郎の新派の仕事に携わるいっぽうで、大衆読物誌にせっせと原稿を売り、昭和9年/1934年には仕事机を新調、昭和10年/1935年が明けたときには「作家生活の板につきたる年となるべし」と念じたそうで(『文藝春秋』昭和61年/1986年8月号 小出一女「出世机」より)、まあだいたいこの年には、「人気作家」と言われても遜色ない状況になります。

 とにかく川口さんは活発でした。どこに顔を出しても物怖じせず、言いたい放題やり放題。自信みなぎる意気軒昂な働きざかり、と言いますか、押しが強くて厚顔無恥のイヤなやつ。直木賞が創設されると聞けば、おれ直木賞ほしいなあ、おれにくれよお、と久米正雄さんや小島政二郎さんにお願いしちゃう臆面のなさに、当然、眉をしかめる人も出てきます。

 川口さん自身、こう回想しています。

「「鶴八」(引用者注:「鶴八鶴次郎」)が直木賞候補になった時には、委員のほとんどが先輩知人ばかりで、そのころの私は小生意気時代だったから、だれからもよく思われていなかったらしい。

「作品はともかくとして川口という人間が気に入らない」

これもあとで聞いた話だが、そんなふんいきで作品よりも人間が論じられてしまった。」(昭和48年/1973年10月・講談社刊 川口松太郎・著『人生悔いばかり』所収「「鶴八鶴次郎」」より ―初出:『朝日新聞』昭和37年/1962年4月3日)

 うんうん、あの第1回の直木賞選評を覆う、川口松太郎に向けた人格攻撃の嵐。あれは、選考委員が言いすぎなのではなく、ほんとうに川口さんの側に問題があった、ってわけですね。

 川口さんが当時、いかにイヤなやつ呼ばわりされていたか、もうひとつだけ紹介しておきます。『中央公論』の「街の人物評論」コーナーに川口さんに関する記事が載りました。書いたのはペンネーム「武者小平」なる人、その実は、文芸評論家の杉山平助さんです。

「川口の自信満々たること。我々から見てはいくぶん道化てさへ見える、あの鼻の曲つたやうな御面相でも、御自分ではたいした自信ださうだから、余は推して知るべしだ。

(引用者中略)

この松太郎君と最近東宝の○○○○との濡事は衆知の件である。

(引用者中略)

○○にくらべて、川口ははるかに下司である。ちよつと頭脳の働く車夫馬丁が、ザツクバラン主義で、天下何ものをも尊重せず、紳士の面にも痰をひつかけることが出来ると云つたやうなわるく気負つた了簡構へが、心あるものをして、このうす馬鹿野郎! と云つたやうな侮蔑の念を発せしめる。」(昭和12年/1937年3月・亞里書店刊 杉山平助・著『街の人物評論』より ―初出:『中央公論』昭和11年/1936年12月号)

 発表した作品がどうこうより、川口さんという人物そのものが、もう侮蔑のマトでした。

 川口さんいわく、さすがにこの攻撃にはハラワタが煮えくり返ったらしくて、

「飽まで自分(引用者注:川口のこと)を罵倒しなければ気のすまない筆者の態度があまりにも露骨だ、人物評論の題下に、これほどひどく叩きつけられるのも珍しからう。

(引用者中略)

どれほど割引しないで自分を考へても、これほどいやな奴だとは思へない。」(『読売新聞』昭和12年/1937年11月28日 川口松太郎「やつつけられる 「中央公論」の人物評論へ」より)

 と反撃。しかし、当の「武者公平」さん(おそらく杉山平助さん)から、

「自分があれほど厭な奴かどうか、知人の公平な批判にまつ、と君は云つてるが、小生の知つてる限りあの評論は君の「知人」の間でも評判が宜しい。君は或る方面からは、もつと厭な奴だとさへ思はれてゐるのを、小生は比較的に是正してかいたつもりだ。

(引用者中略)

文壇に生きて行くには、天下の人間をすべて敵と覚悟し、どこからでも打つて来いといふ心構へでやつて行け!」(『読売新聞』昭和12年/1937年12月1日 武者公平「壁評論 川口君へ」より)

 とハッパをかけられた態で、要は、おまえはもっと嫌な奴だと思われているんだぞ、と再反撃を食らう始末。

 しかし杉山さんの心配をよそに(?)、川口さんの生意気ぶりは、その後も衰えることはありませんでした。後年、直木賞選考委員を務めることになってもまだ、自分のことは棚に上げて、若い連中に、やたら偉そうな口を叩きまわるもんですから、守旧派の代表みたいに思われて老害扱いされ、さすが川口さんの、まわりに顰蹙される人格は永遠ものなのでした。

 ……って、今日の主役は三益さんのはずなのに、すみません、川口さんのことばっかりになっちゃって。(おそらく)第1回直木賞の直後に川口さんと結ばれた三益さんについては、後半で。

           ○

 直木賞にかんする研究テーマは、ごぞんじのとおり、数々ありますが、そのなかのひとつに「川口松太郎と三益愛子はいつ結ばれたのか」問題、っていうのがあります。

 平成に入って伊集院静さんが、直木賞受賞直後に篠ひろ子さんと入籍してワイワイと話題になりました。このとき、だれかこの問題にも触れてくれるんじゃないかとひそかに期待していたんですが、スルーされてしまい悲しかったです。浮かれ調子の(じゃなくて上昇急流に乗っていた)川口さんにとって、文名を確固たるものにした直木賞が先だったのか。それとも紆余曲折のすえ生涯の伴侶となった三益さんと、その前にくっついていたのか。……どうでもいい話にはちがいありませんが、直木賞を調べていれば、どうしたって気にかかります。

 「母もの女優」としての三益さんを研究テーマに選んだ水口紀勢子さんも、やっぱりこの辺りに関心があるらしいです。ですよねえ。

「川口の愛妻物語『愛子いとしや』巻末の三益略歴には川口・三益の結ばれたとされるのが昭和10年(引用者注:該当箇所には、「古川緑波と共に東京宝塚劇場に入社発表」の前に「川口松太郎と結婚(旧姓・乾)」とある)。本書筆者の最も知りたい、この年のロッパ日記(引用者注:古川緑波による『古川ロッパ昭和日記』)が、なぜかすっぽり欠落している。

(引用者中略)

三益と知合った当時の川口の日記にも、綿々と甘い愛の言葉が吐露されていると愛娘(引用者注:国重晶)は言う。『古川ロッパ昭和日記』から脱落している昭和10年が大恋愛時期だとするのが、部外者である筆者に許される最もそれらしい推定になる。」(平成17年/2005年4月、[改訂増補版]平成21年/2009年4月・彩流社刊 水口紀勢子・著『映画の母性〈改訂増補版〉――三益愛子を巡る母親像の日米比較』「第4章 主演女優の実像」より)

 川口さんは、けっこう「自伝的」(と他人に言われる)小説を書いています。ご本人は、「よく、あれはあの時のあの作家がこう書いているから事実だとか、何とか言うけれど、僕の場合はそんなことをあれこれ言われるのはまっぴらだね」(若城希伊子・著『空よりの声 私の川口松太郎』)と言って、牽制球を投げているんですけど、そんな「小説」であっても、実際にあったことのヒントぐらいにはなるはずです。

 三益さんとの「夫婦」生活をモデルにした小説も当然あります。代表的なのは『生きるという事』(昭和34年/1959年2月・文藝春秋新社刊)と『生きてゆく』(昭和50年/1975年5月・講談社刊)でしょう。

 前者は、二人が出会う少し前の昭和8年/1933年頃から、長男が母親と同じ俳優の道に入るまで。後者は、戦時下の昭和20年/1945年、夫婦のあいだに次男が生まれる頃から、テレビが全盛となったことで主人公が専務をしている映画会社の収益が激減する時代までを描いています。いま注目すべきは前者ってことになります。

 とくに出だしは、主人公「三井秋子」の履歴が、実際の三益愛子さんのそれとほぼ同じです。まもなく関係を結ぶことになる男性作家との出会いについて、作者川口松太郎は、こう書きました。

「芝居もだんだん一流作家の脚本を使うようになり、菊池寛や久米正雄の原作も演り、そういう人たちとも知り合う機会が多くなり、そして信吉をも知るようになった。信吉は吉川の友人で、新派の作家で、小説家としても相当有名で、秋子の芝居も好く見に来た。」(『生きるという事』より)

 「吉川」のモデルは古川緑波、「信吉」のほうは、もう言うまでもありませんね。喜劇女優「秋子」が彼と出会ったときには、すでに男は、著名な人気の小説家の仲間入りをしていた、ってことになっています。

 このあとすぐ、二人がはじめて夜をともにしたところも出てきます。「秋子」は「吉川」らとともに名古屋へ巡業に出るんですが、その帰り道、「信吉」が東京から熱海まで彼女を迎えに出て、海の眺めの綺麗なホテルに泊まったときだと。じっさい、このときのことは作中、かなり強調されていまして、というのも、「秋子」は信吉と熱海へ行ったのが4月23日だったから、毎月23日を記念日としているのだ、といったエピソードが書かれているんです。

 『古川ロッパ昭和日記』の昭和11年/1936年を見ると、たしかにロッパさんたちが名古屋へ行く前には、すでに三益・川口のあいだには親交がありました。楽屋に出入りして、さんざんロッパ一座の演技に口を出していた、というのも小説のとおり。4月21日に一座は名古屋を経って、22日に静岡に滞在したとのことで、『日記』ではその後の三益さんの動向に触れられていませんが、23日に三益さんが熱海にいたっておかしくありません。

 現実に、この日、二人のあいだに(はじめてだったかどうかはともかく)何かがあったことは想像に難くないところです。現実そのままじゃないにしても、川口さん、わざわざ小説に期日を書くぐらいの大きな思い出ではあったでしょう。

 で、(作中では)まもなく同居するようになり、イチャついて、主人公ご懐妊。翌年は舞台を休んで長男を出産。ということになって、このあたりは事実に近い展開になっています。(ちなみに、二人の長男は、ごぞんじ川口浩さんで、のちに有名になったので経歴もいろいろ書き残されているんですが、なぜ「昭和11年/1936年」生まれ、ってことになっているんでしょう? 当時の文献からすれば、誰が見たって、「昭和12年/1937年8月22日」生まれが正しいと思うんですけど)

 さて三益さんの側からしてみると、何か文学の賞をとったばかりで、注文原稿をさばきながら毎日を送っている、売り出し中の作家とデキてしまった。ということで、多少の中傷ややっかみを浴びることになってしまいました。

 元来、三益さんって人は、「ずるさが伴う世渡り方」をしている女優、と指摘されちゃうような人です。昭和10年/1935年、まだおそらく川口さんと結びつく前にも、児玉孝雄さんにこう言われていました。

「三益君の長所は如才ないといふ点だ。若干、ずるさが伴ふ世渡り方だ。しかし、これは実力を伴つてだからいゝ。短所は、少し、出鱈目過ぎる日常生活だ。若いにまかせての乱脈は、最もいけない事だと思ふ古い御馴染甲斐にこいつは、ちよつぴり苦言を呈する。」(『東宝』昭和10年/1935年9月号 児玉孝雄「――東宝劇団の俳優を語る――(その三) 三益愛子」より)

 そして、川口さんとくっつき、子供まで生んでしまった三益さんを見た竹村春二さんは、はっきり「世渡り上手」だと表現しました。

「中野(引用者注:中野英治)が持前の女あさりをやつてゐたのと同時に三益の前にも流行作家の川口松太郎が登場して来た。

川松はロッパと親しかったので、何時か三益とも相知る仲になり、世渡り上手な三益は自分から進んで、中野から川口へと綺麗に乗換えをしてしまつた。」(昭和13年/1938年5月・大陸書院刊 竹村春二・著『出世三人女』所収「三益愛子の巻」より)

 飛ぶ鳥落とす勢いの(ってほどでもないか)人気大衆作家のハートをつかんでしまった三益さんに対する、コノヤロうまいこと行きやがって。みたいな世間のやっかみが表われているのかもしれません。

 といったようなことは、本人たちにとっちゃ、わずらわしいことこのうえない外野からの下世話な野次。だったでしょうけど、芸能人・芸能界に付きものの、惚れた腫れたのゴシップが、ほとんど誰にも注目されていない最初期の直木賞に、華やかな光を与えてくれたのは事実です。作品評とは何の関係もない興味本位な話題のほうが、断然にふくれあがっていく、のちの直木賞をしっかりと先取りしている、と言ってもいいわけでして、やはり直木賞オタクとしては、先駆者である三益さんに敬意を表するしかないのでした。

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