なかにし礼は言われた、「直木賞も夢ではない」。(平成5年/1993年4月)
(←書影は平成10年/1998年4月・文藝春秋刊 なかにし礼・著『兄弟』)
※こちらのエントリーの本文は、大幅に加筆修正したうえで、『ワタクシ、直木賞のオタクです。』(平成28年/2016年2月・バジリコ刊)に収録しました。
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(←書影は平成10年/1998年4月・文藝春秋刊 なかにし礼・著『兄弟』)
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(←書影は昭和62年/1987年4月・サンケイ出版刊 桂三枝・著『ゴルフ夜明け前』)
六代目の桂文枝、昭和62年/1987年当時の芸名でいうと桂三枝さんのことは、2年半まえ、うちのブログが「直木賞(裏)人物事典」をテーマにしていたころにも、一度取り上げました。
同じ人のことを二度も書くのはしつこいか。とも思ったんですけど、「芸能人と直木賞」と言ったら当然、お笑い芸人を無視できないですよ、そのうえ、昭和60年代に「直木賞」を芸能ネタに活用した両巨頭、といってビートたけしさんと桂三枝さんの名前を思い浮かべない人など、この世にいるんでしょうか!(……いるか)。あらためて、三枝さんと直木賞のこと、書いておきたいと思います。
三枝さんはとにかく昔からまじめで、勉強家で、努力家だった、といろんな資料に書いてあるんですが、子供のころから本もたくさん読む文化系ひと筋の人。就職活動で上京した折りに、丸の内のサラリーマンの群衆をみて暗澹たる気持ちになり、企業に就職する道をやめた、と語っていて、そのときにぱっと中原中也の詩が頭に浮かんだんです、というぐらいに、文学を愛する(?)人でした。
「三枝 オフィス街で、ちょうど昼間だったんですよ。そこへ、黒やら灰色の背広着た人がどーっと出てきたわけですよね。ぼくは中原中也の詩がものすごく好きだったんです。その中に、「ああサイレンだ、サイレンだ、サラリーマンの昼休み、出てくるわ、出てくるわ……」という詩があるんですよ。それを思い出しまして、ああオレも来春にはこの中の一人になるのか、と。」(『週刊明星』昭和55年/1980年2月10日号「桂三枝『心優しき笑いの仕掛人の自画像』」より)
その後、落語の世界に入るわけですが、落語家としてよりまず、テレビタレントとしてぐいぐいとのし上がり、十数本のレギュラー番組を抱える売れっ子になって……、といったハナシの詳細は略します。まじめに「笑い」の道をひた走り、放送作家の新野新さんに言わせれば、
「ビートたけし、タモリ、横山やすし……芸人のほとんどが下降志向。極端に言えば“先はのたれ死にや”という生きざまが、昔から芸人のイメージにはついてまわってきた。ところが桂三枝にはたゆまぬ上昇志向がある。こういうタレントは稀ですわ」(『週刊現代』昭和62年/1987年2月21日号 古川嘉一郎「短期集中連載 桂三枝「関西はワシがいただきや」第三回」より)
と、上昇志向のある芸人ってほんとに稀だったのか、そこはよくわからないところですが、三枝さんはたしかに、新しいことに意欲的に取り組む人でした。
そのひとつが創作落語で、きっかけは昭和55年/1980年12月15日、大阪の「高島屋ホール」で開かれた「'80落語ニューウエーブ」だったらしく、よーし、大阪でも定期的に創作落語の会をやろうと企画しまして、昭和56年/1981年3月にスタート。これを続けているうちに、昭和59年/1984年1月には、新作の「ゴルフ夜明け前」が芸術祭大賞を受賞する運びとなり、いっしょに創作落語の会に参加してきた桂文珍、月亭八方、桂べかこなどから、「コノヤロ、何であいつだけが」と白い眼で見られてしまうもとになった。とかいう芸能ゴシップは(楽しいですけど)このさい措いておきましょう。
落語の「ゴルフ夜明け前」が、その設定・筋運びなどから話題となって、映画化のハナシも舞い込みます。三枝さん、常に新しいことにチャレンジしたがり屋、だったからか、映画化にはものすごく乗り気だったんですが、ちょうどそのころ、自律神経失調症を発症しちゃうは、映画化のハナシもポシャっちゃうはで(けっきょく、のちに映画化は実現)、少し足踏み。
じゃあ、少し生活のリズムを変えてみようかと、手をつけたのが小説執筆だったそうで、本人いわく、「小説は前から書きたいと思ってたんです」(『週刊平凡』昭和62年/1987年5月1日号)。昭和61年/1986年1月から本格的に書き始め、2か月あまりで脱稿しました。これが「処女小説」だといわれる『ゴルフ夜明け前』です。
これが、どうして「直木賞」と結びつけられたのか。
三枝さん自身が本気で直木賞を狙っていた、という面もゼロではないでしょう。だけど、まず「直木賞を狙っている」と宣言すれば、芸能ジャーナリズムが話題にしてくれる、という宣伝効果狙いのほうが強かったんだと思います。落語「ゴルフ夜明け前」も賞をとっている、小説だって賞をとっておかしくないだろう、みたいな連想も生きていたころでしょうし。
対して、じっさいの直木賞はどうだったのか。といえば、昭和62年/1987年ごろは、もう完全に、〈中間小説〉なる古くさくなって売れゆきガタ落ちの事業を、なかなか見捨てることのできない文芸出版社と、小説でメシを食っていかなくてはいけない書き手たちを、メインターゲットに据えた賞でした。タレント長者番付の常連が、「文芸メインの出版社」ではないサンケイ出版なるところから出した本など、とうてい直木賞の候補になるような状況ではありません。
でも、直木賞(の予選)は小説の内容や質が優先される、と信じている向きは多い。というか大多数の人にとって、直木賞がどういう賞かなんてどうでもいいことで、タレントと「直木賞」を結びつければハナシは盛り上がります。もとから文芸志向も高く、ものを書くことが苦にならない三枝さんにとっても、取り上げられてナンボの人気商売ですから、別にイヤがる道理はありません。
「直木賞を狙っている」。三枝さんはメディアに向かってそう言いました。そして、まんまとそのように書かれました。
「つぎの小説のアイデアも無尽蔵に湧いてくる。「直木賞をねらっています」の発言もまんざら冗談ではなくなっている。」(『週刊平凡』昭和62年/1987年5月1日号「ナニワの王道 『ゴルフ夜明け前』で“文壇”デビュー 関西お笑い界のリーダーがつぎに狙うのは…」より)
いや、冗談でしょ、ふつうに考えたら。
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(←書影は平成13年/2001年9月・幻冬舎刊 さだまさし・著『精霊流し』)
ここ最近の芸能人小説家を取り上げるなら、やはり、この人は外せないでしょ。と思って今日は、さだまさしさんです。
小説を書く著名な芸能人はたくさんいます。ただ、継続的に本を出しつづけられる人は少ないです(いや、芸能人にかぎらず「小説家」全体でも同じですね)。そのなかで現役歌手&現役小説家をつづけているさださんの、何と稀少で輝かしいこと。
小説家として本格始動したのは平成13年/2001年でしたが、なにせ当時は、やり口がやり口だったものですから、おおかたの人が「ああ、こりゃ一発か二発で終わるだろうな」と予想しました(たぶん)。しかし、そんな状況を意に介さず、誰にも文句は言わせないぞ、といった感じで次から次へと小説を発表。振りかえれば、もはや堂々たる15年選手です。その(作家的)キャリアからすれば、直木賞候補に挙がってもおかしくない! と思えるほどの実績を築いてきました。
もともと、さださんは、その歌詞の世界から「文芸フォーク」と言われていたそうです(by 富沢一誠)。平成13年/2001年にいたるまでにも、自著のなかにポツリポツリと短篇小説を混ぜ込ませ、「俺、小説を書きたいのだ」熱の高さはかなりのものでした。そりゃあなた、さださん自身こう語っているぐらいです。まさか自分が歌手になるとは想像もしていなかったが小説家にはなりたかった、と。
文芸指向の強さ。23歳のときに出した雑文集『本 人の縁とは不思議なもので…』(昭和51年/1976年3月・八曜社刊)でも、くっきりと表われていました。短篇小説をおさめていることは言うに及ばず、巻末に自己紹介風の原稿が載っているんですが、ここに「グレープ」解散後の(つまり未来の)自分を、こういったギャグでまとめているほどです。
「ファッション・モデルとして再出発し、ワコールの下着のモデルなどやるが、才能に限界を感じ、突如出家する。
法恵坊陰念と名乗り、自ら天皇になりたくて兵を挙げるが、マスコミで有名になった藤原純友に敗れ、あっさりと僧籍を捨て、作家になる。
夏目僧籍というペンネームで茶川賞受賞。
代表作に「むらむら」「先天性阿呆」「君よ憤怒死の紐を締めれ!」「ガキドカ」がある。」(さだまさし・著『本 人の縁とは不思議なもので…』「ぼくのMENU」より)
その人の個性は、馬鹿ばかしい冗談を言うときによく出る、と言われます(言われていないか)。どうですか。「作家になる」からの、「茶川賞受賞」というくすぐり。芥川賞をもじるにあたって「茶川賞」とするセンスに、いかにも文学青年らしさがにじみ出ていますし、俺に小説なんか書けるんだろうか、と疑いながら、でも書きたい欲がうずうずしている、さださんの日頃の思いがきれいに表現されたギャグだと思います(って、そんなこと解説するなっつうの)。
ときは流れて40代なかばをすぎたころ、小学校時代の親友から「お前、そろそろ〈歌手〉から戸籍を変えてみろよ。小説かいてみたらどうだ」とアドバイスを受けたのだそうで、タイミングよく、そんな折りに降ってわいたのが、幻冬舎との仕事のおハナシ。まずは「自伝的小説」を書くっていう、芸能人小説としては王道すぎる路線を敷かれながら、テレビ番組(「ほんパラ!関口堂書店」)の企画でカメラも入ったなかで、『精霊流し』(平成13年/2001年9月・幻冬舎刊)を書き下ろしたところ、これがテレビの力と幻冬舎の宣伝企画力にドーンと押され、いきなり33万部も売れてしまいました。
「著者が人気歌手のさだまさし、出版社がベストセラー路線行け行けドンドンの幻冬舎、おまけに表紙の写真が浅井愼平なら、話題性だけで売り抜けるコンタンの本に違いない。出版直前には、幻冬舎社長に原稿の不出来を叱り飛ばされるさだまさしがテレビに映っていたりして、ハハーン、ヤラセか、と思ったものだ。「人気歌手が小説に挑戦」といったって、人間だれでも一冊の本は書ける、といわれるくらいだしなあ。」(『新潮45』平成13年/2001年11月号「読まずにすませるベストセラー」より)
っていう紹介文が自然に見えてしまうほど、叩かれるべくして生まれた本。……だったんですが、そりゃ、さださんは、さんざんまわりから揶揄と批判を受けて芸能生活を送ってきた人ですもの。よそから「そんな演出までして売りたいのか」と言われることは十分承知のうえ、幻冬舎の編集者からの「自伝的な作品でいきましょう」というリクエストにきっちり対応。小説家としてやっていくたしかな一歩を刻みました。
そこでさださんの恐ろしいのは、単に小説家に憧れていた、というだけではなかったところです。デビュー前に柳行李一杯に原稿を書きためている(表現、古すぎ……)作家志望者よろしく、『精霊流し』を発表した段階までに、すでに、小説で書きたいことをたーくさん蓄えていました。
「さだ 書きたいテーマはいっぱいあるんですよ。もしも自分に書く力があるなら、という前提ですけど、書きたい、伝えたいというテーマはたくさんあります。
――では、小説を書く、ということは、以前から考えておられたことなんですね。
さだ それこそ、小説を書いて暮らすというのは、夢ですよね。昔から、作家願望というものが強くありました。」(『東京人』平成13年/2001年12月号「東京人インタビュー150」より)
ほかのところでも「小説は僕にとって憧れで、死ぬまでに小説はいっぱい書きたいと思っていた」(平成20年/2008年12月・太田出版刊 見城徹・著『異端者の快楽』所収の対談)と、おのれが一発屋作家でないことを表明(?)していたりします。
一冊めは、テレビ番組の企画でもあったために、かなりの縛りがあったらしいんですが、次は自分の書きたいことを書く、という気合いで臨んだ二冊目『解夏』(平成14年/2002年12月・幻冬舎刊)。そして三冊目『眉山』(平成16年/2004年12月・幻冬舎刊)。「自伝的」の束縛から逃れて、それぞれ違った世界を描き、これがまた売れる、ドラマ化もされる。幻冬舎と組んだタッグの勢いはとまらず、四冊目『茨の木』(平成20年/2008年5月・幻冬舎刊)、五冊目『アントキノイノチ』(平成21年/2009年5月・幻冬舎刊)を発表。好セールスを記録します。
つづいて出した『かすてぃら 僕と親父の一番長い日』(平成24年/2012年4月・小学館刊)は、〈実名自伝的小説〉という宣伝惹句に戻ってしまい、「とにかく自伝的といっておけば売り上げの伸びがちがう」っていう出版界の定説に沿ったものになりましたが、その間『小説新潮』で書きつないでいたものを『はかぼんさん 空蝉風土記』(平成24年/2012年8月・新潮社刊)として刊行。こちらは、それまでの小説とは趣向を変え、まことしやかなウソ奇譚を、リアリティを守って書き切っていて、さださんの小説家としての守備範囲の広さ、力量の高さを、世に印象づけました。
その後も、幻冬舎の書下ろし路線(『風に立つライオン』)は順調に進めながら、週刊誌への連載(『ラストレター』)に挑むは、新聞への連載(『ちゃんぽん食べたかっ!』)を果たすは、まるで専業作家が歩むような、職業小説家としてのステップを突き進んでいます。
「音楽の世界での存在感が大きすぎて、小説界での業績が不当に軽視されてるんじゃないかと思うくらいで、さだまさしはまぎれもなく当代屈指の人気作家なのである。」(平成27年/2015年4月・新潮社/新潮文庫『はかぼんさん 空蝉風土記』所収 大森望「解説」より 太字下線部は引用者による)
と、大森望さんが指摘するのもうなずけてしまうわけです(何が不当で何が順当かは、いろいろ考え方がありましょうが)。こうなるとさださん、当然、なにか文学賞のハナシが出てもおかしくありませんよね。とつい期待してしまうのが、文学賞ファンってものでしょう。
ここで直木賞だ、さあ手を伸ばしてくれ。っていう直木賞ファンの切なる願いが届いてくれていればうれしかったんですが、やはり、オクテの直木賞。まだそこまでの勇気はなかったようです。まず先に手を出したのは、別の文学賞でした。
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(←書影は平成5年/1993年7月・出版芸術社/ミステリ名作館 戸川昌子・著『猟人日記』)
ついこのあいだ、江戸川乱歩賞の受賞作、呉勝浩『道徳の時間』が発売されました。乱歩賞の受賞者は(公募制になって)67人目。呉さんもまた、何だかんだとまわりから褒められたりケナされたりしながら、力強く書き続けていってほしいと願います。
乱歩賞というと、受賞したら一年ぐらいのあいだには、次の受賞第一作を書下ろしで出すのが通例だそうです。そして受賞作よりも、受賞第一作のほうが、はるかに直木賞の候補にはなりづらい、とも言われていまして(言われているのか?)、じっさいその偉業を成し遂げたのは、これまで二人しかいません。『亡国のイージス』の福井晴敏さんと、本日の主役、『猟人日記』の戸川昌子さんです(ちなみに『猟人日記』も講談社文庫の新装版が、今月発売ですってよ!)。
公募が始まったころ、乱歩賞は「異色の経歴でデビューする人びと」の宝庫と言われ(だから、言われているのか?っつうの)、そりゃマスコミ飛びついちゃうよね、とうなずける受賞者がたくさんいました。何しろ公募しょっぱなに巻き起こった仁木悦子さんの『猫は知っていた』ベストセラー化現象とか、そのうちの何割かはマスコミのおかげ、だったはずです。
第8回(昭和37年/1962年度)受賞の戸川昌子さんもまた、相当に「経歴」先行で紹介された人でした。
「乱歩賞を受賞した時点では、彼女は現役のシャンソン歌手であったのだ。それだけにマスコミには、恰好の話題の主となったのだった。英文タイピストからシャンソン歌手へ、さらにはそこから作家へと変身した女性。おそらく現在でも、そういう経歴の持ち主ならばマスコミはこぞって話題とするだろう。それが四十年近く前のことだと思うと、いかに世を賑わしたか想像に難くない。」(平成10年/1998年9月・講談社/講談社文庫『江戸川乱歩賞全集第四巻 大いなる幻影 華やかな死体』所収 関口苑生「解説」より)
当時、戸川さんがこれまでどんな人生を歩んできたか、いまどんな歌手生活を送っているか、なぜ小説を書こうと思ったか、などの記事が、週刊誌や女性誌にずらりと登場。受賞が発表されたのが昭和37年/1962年8月1日で、当然まだそのときには、彼女の受賞作を読んだことがあるのは内々のごくわずかしかいなかったのに、いきなり取材やら座談会やらの仕事がどっと入って大忙し。……というところが、直木賞の受賞風景とは違う、公募系ならではの異常さです。
いちおう一誌だけ、その記事の様子を引いてみますと、こんな感じでした。
「BG、バーの女給、舞台女優、シャンソン歌手……とさまざまな人生経験のすえ書いた推理小説『大いなる幻影』で、第八回江戸川乱歩賞を受賞した戸川昌子さん(29歳)は、異色女流作家として一躍ジャーナリズムから注目されるようになった。
(引用者中略)
「もう二か月以上うたわないので、うたいたくてたまりません。ひにくなことに、うたわないで、座談会などでラジオやテレビにでる機会がおおくなりました」
こういって苦笑する彼女だ。
(引用者中略)
彼女のもとにきた投書のほかには、小説の読者からでなく、シャンソン・ファンのものがおおかったという。
「芸能人である私が受賞したことで、よろこんでくれてました。あなたの努力がみのったことで、私も勇気がでたといってくれた人もありました。みんな、シャンソン喫茶などで、私の歌をきいていてくれた人たちでしょう」」(『週刊平凡』昭和37年/1962年10月18日号「特集 江戸川乱歩賞を受賞した才女戸川昌子の私生活 私はシャンソン歌手で推理小説の作家です」より)
書いた本人のことはドバーッとマスコミに露出、数多く紹介されたのに、肝心の書いた本はそれほど売れない、っていうのは、とくに芸能人の本には「あるある」な状況です。戸川さんの『大いなる幻影』もまた、その例に洩れず、大して売れなかったといいます。何だよ推理小説ブームも大したことなかったんだな。と、つい浅い感想を抱いてしまう自分を戒めつつ、いやあさすが戸川さんだ、受賞してなお「苦難の道」を歩む姿、堂に入ってますね、とホレボレしてしまいます(←いや、それも十分、浅い感想だ)。
「歌手の書いた小説」みたいな偏見もあった、と回想するのは戸川さん本人です。
「今でこそ、若い子でもちょこちょこと歌って食べられるし、小説だって新人賞なんかをとると、女性誌が宣伝してくれるし、早速テレビのCFに顔を出したりできる時代です。
私たちの時代は賞を一つとったところで、すぐに書かせてくれるところなんてありません。雑誌の数も出版社の数も今に比べるとずっと少なかったのですから当然です。『大いなる幻影』は江戸川先生が押してくださっての受賞でしたから、とてもうれしかったけれど、それほどには売れませんでした。
(引用者中略)
受賞してから二、三年は苦労話みたいなものばかり書かされていました。今やマルチ人間ばやりの時代ですが、あの頃は「歌手の書く小説なんて!」という雰囲気があって、私の肩書きはいつも「歌手兼推理作家」でした。」(平成3年/1991年7月・海竜社刊 戸川昌子・著『今を自分らしく生きる』「誰でも自分の中に輝く宝石を持っている」より)
歌手とか言って雑誌に出てるけど、オレ、シャンソンなんか聞かないし、誰だよそれ。けっきょく「イロモノ受賞」の一発屋だろ。と巷間いわれていた(のか?)ツラい時を経まして、昭和38年/1963年、いよいよ書下ろし第一作として『猟人日記』を刊行。というところで、何とこれが、驚天動地の大爆発。戸川昌子、みずからの力で作家としての足場を築く記念碑的な作品となったのでした。
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(←書影は平成6年/1994年11月・早川書房刊 大槻ケンヂ・著『くるぐる使い』)
暑い夏なので、今日は個人的な思い出から始めます(夏、関係ない)。
子どものころ、『SFマガジン』に水玉螢之丞さんのイラストエッセイが連載されていました。ぐるぐるメガネのお姉さんが、毎月まるで訳のわからないおハナシをびっしり書いている、その特異な(異常な)世界に、「SF文化ってのは、何かついてけないな……」と、SFを読み進んでいこうとする気持ちが萎えていった覚えがあります。
SFマニアは気持ちわるい。……という思いは、いまでもさほど変わっていないんですが、結局、SFに比べて格段に仲間も少なく市場もせまい「文学賞」のほうのマニアになってみたところ、ああ、何かの世界にのめり込むっつうのは、おおむね気持ちわるいことなんだな、と思い知ることになりました。
近ごろ水玉さんの連載が、『SFまで10000光年』(平成27年/2015年7月・早川書房刊)と本になったというので買い求め、キモさあふれる情熱を再び目の当たりにしてドン引きしながらも、世の何人に伝わっているのか、そんなこと関係なく、とにかく自分の好きなものだけをピックアップしつづける姿勢に、なにがしかの共感を覚えてしまったのは、こちらが年をくってしまったせいなのかもしれません(っつうか、文学賞マニアのキモさは、ひとのこと言えない……)。
で、「SFまで10000光年」の連載が始まった『SFマガジン』平成5年/1993年1月号に、同誌初登場を果たしたのが、水玉さんとも交流のあった大槻ケンヂさんです。
ロックバンド〈筋肉少女帯〉のボーカリストだった大槻さんが、なぜ小説を書きはじめたのか(書かせられはじめたのか)は、ご本人がいろんなところで回想しているので割愛、しようと思ったんですが、いちおう割愛しないでかいつまんで言います。昭和の末期から平成初期、とにかく少しでも文章の書けそうな芸能人に、エッセイはもちろん、詩やら小説やらを書かせる、という雑誌活性化策がピーク(?)に達します。俳優小説の玉手箱とも言われた(言われたのか?)『別冊婦人公論』なんてものの他に、ミュージシャンの巣窟だったのが『月刊カドカワ』(『月カド』)。
『月カド』の杉岡中さんに小説を書くようにすすめられて、出来あがったのが、本人いわく「オタク少年がカルト教団で超能力テロリストに成長するドロドロの惨劇」のおハナシ。これが長篇になって『新興宗教オモイデ教』として出版されたのが、平成4年/1992年2月でした。
「――荒削りではあるが、彼には間違いなく才能があり、書ける人である
3年前(引用者注:平成4年/1992年)、大槻さん初の長編小説『新興宗教オモイデ教』(角川書店)が上梓されたとき、ある文芸評論家はこう語った。果たして、その後の短期間に、彼は幾つかの賞にもかがやく人気作家となった。」(『ダ・ヴィンチ』平成7年/1995年6月号「STUDIO INTERVIEW 大槻ケンヂ」より)
いくつかの賞、と言っています。この記事が書かれた段階で、どんな賞を受賞していたのか。よくわかりませんけど、とりあえずよく知られているのは星雲賞です。平成6年/1994年夏の日本SF大会「RYUCON」で、星雲賞の日本短編部門に「くるぐる使い」が選ばれました。
何だよ。キモSFオタク=ド素人たちの人気投票でもらった賞だけかよ。などと、馬鹿にしたものでもありません(いや、だれも馬鹿にしていないか)。キモい人たちには、キモい人たちなりの投票倫理があり(たぶん)、これはオレのことを書いてくれている、そんな感覚、古くさい爺さんたちが書いた直ナントカ賞あたりの小説にはひとつもなかった(いや、ないだろう)、オーケン最高だぜー、みたいな狂気者どうしシンパシーが通じ合った……のかどうなのか、わからないんですが、同じくミュージシャン兼SF作家である難波弘之さんは、こう語っていました。
「難波 だいたいでもそう……SFのマニアというのは女の子の扱い方をあやまって、結果、どんどんコンプレックスが固まっていってですね、大槻さんの小説の主人公のようになっていってしまうんですよ、みんな(笑)
大槻 いまでもそうですよ。だから、SFとはかぎらないんですけど、なんかこう……自分の好きなものを勧めることでしか女の子との付き合いかたっていうのがわかんないですよ。いまだに。
難波 たぶんね、星雲賞を取った源泉はそこにあるのかな、とぼくはいまだんだん思ってきたな。あれはね、やっぱり読んで我が身を見るような……自分の姿を投影して、なんかSFファンがさ、あのへんの共感をひじょうに得たのかもしれないな。」(『SFマガジン』平成7年/1995年2月号 大槻ケンヂ×難波弘之「『くるぐる使い』刊行記念対談 ぼくとロックとSFと」より)
しかし、大槻作品のなかにある、異様さや不気味さ、はてまた純真さに、ついふらふらと近寄ってってしまう人が(当然)いまして、『くるぐる使い』は強固で高い「SFエリア」の壁を乗り越えて、いよいよ一般文学賞の世界に進出。平成6年/1994年1月~12月発表分の小説を対象にした第16回吉川英治文学新人賞、という、一般文学賞のくせに星雲賞とどっこいどっこいの知名度しかない、講談社系の文学賞で、候補作のひとつに選ばれました。
当時、大槻さん自身は、バンドとしてもタレントとしても物書きとしても、あまりに急に人気が出て、かなりのノイローゼだったんだそうで、
「90年代半ば、筋肉少女帯の武道館公演、小説『くるぐる使い』が星雲賞受賞と、一見ノリノリに見えたオーケンだが、実は深刻なノイローゼに苦しんでいた。
「「オウム事件(引用者注:地下鉄サリン事件が平成7年/1995年)のちょっと前から3年ぐらい大ノイローゼ時代だったんだよね。ひとかったなあ。(引用者中略)ミュージシャンとか表現者は、結構そういう人多いんだけど、オレもそれに引っ掛かったみたい。パニくると、ドラッグとかさらに陰性のモノを求める人が多いんだけど、オレは健康的になろうと努力したんだ。どんどん仕事入れてね。だから、大ノイローゼ時代にいちばん本書いてるんだよね(笑)」」(『ダ・ヴィンチ』平成14年/2002年6月号「解体全書NEO」より)
精神的にかなりヤバい状況下で、『くるぐる使い』所収の諸篇は書かれ、そして吉川新人賞候補になった、ということです。
大槻さんはそこで、ケッ、そんな文学賞知るかよ、などとカッコつけたりしないカッコよさがあります。当時、日記のなかで、
「2月3日[金]
人生苦があれば楽がある。何と吉川英治文学新人賞にこのオレがノミネートされちまった。」(平成8年/1996年3月・ぴあ刊『オーケンののほほん日記』「1995冬」より)
と報告し、また数年のちのインタビューでは、
「吉川英治文学新人賞の候補にもなったんだ。嬉しかったですね。」(前掲『ダ・ヴィンチ』「解体全書NEO」の『くるぐる使い』へのコメントより)
と(おそらく)純粋に喜びを表わしてくれました。大槻さん自身がうれしかっただけでなく、いま思えば、町田町蔵がやがて芥川賞受賞まで行ったように、読み物小説界にも文学賞をとるロックミュージシャンが出るのでは!? という文学賞ファンたちの期待も、きっと高まったことでしょう。
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