桂三枝は言った、「直木賞をねらっています」。(昭和62年/1987年4月)
(←書影は昭和62年/1987年4月・サンケイ出版刊 桂三枝・著『ゴルフ夜明け前』)
六代目の桂文枝、昭和62年/1987年当時の芸名でいうと桂三枝さんのことは、2年半まえ、うちのブログが「直木賞(裏)人物事典」をテーマにしていたころにも、一度取り上げました。
同じ人のことを二度も書くのはしつこいか。とも思ったんですけど、「芸能人と直木賞」と言ったら当然、お笑い芸人を無視できないですよ、そのうえ、昭和60年代に「直木賞」を芸能ネタに活用した両巨頭、といってビートたけしさんと桂三枝さんの名前を思い浮かべない人など、この世にいるんでしょうか!(……いるか)。あらためて、三枝さんと直木賞のこと、書いておきたいと思います。
三枝さんはとにかく昔からまじめで、勉強家で、努力家だった、といろんな資料に書いてあるんですが、子供のころから本もたくさん読む文化系ひと筋の人。就職活動で上京した折りに、丸の内のサラリーマンの群衆をみて暗澹たる気持ちになり、企業に就職する道をやめた、と語っていて、そのときにぱっと中原中也の詩が頭に浮かんだんです、というぐらいに、文学を愛する(?)人でした。
「三枝 オフィス街で、ちょうど昼間だったんですよ。そこへ、黒やら灰色の背広着た人がどーっと出てきたわけですよね。ぼくは中原中也の詩がものすごく好きだったんです。その中に、「ああサイレンだ、サイレンだ、サラリーマンの昼休み、出てくるわ、出てくるわ……」という詩があるんですよ。それを思い出しまして、ああオレも来春にはこの中の一人になるのか、と。」(『週刊明星』昭和55年/1980年2月10日号「桂三枝『心優しき笑いの仕掛人の自画像』」より)
その後、落語の世界に入るわけですが、落語家としてよりまず、テレビタレントとしてぐいぐいとのし上がり、十数本のレギュラー番組を抱える売れっ子になって……、といったハナシの詳細は略します。まじめに「笑い」の道をひた走り、放送作家の新野新さんに言わせれば、
「ビートたけし、タモリ、横山やすし……芸人のほとんどが下降志向。極端に言えば“先はのたれ死にや”という生きざまが、昔から芸人のイメージにはついてまわってきた。ところが桂三枝にはたゆまぬ上昇志向がある。こういうタレントは稀ですわ」(『週刊現代』昭和62年/1987年2月21日号 古川嘉一郎「短期集中連載 桂三枝「関西はワシがいただきや」第三回」より)
と、上昇志向のある芸人ってほんとに稀だったのか、そこはよくわからないところですが、三枝さんはたしかに、新しいことに意欲的に取り組む人でした。
そのひとつが創作落語で、きっかけは昭和55年/1980年12月15日、大阪の「高島屋ホール」で開かれた「'80落語ニューウエーブ」だったらしく、よーし、大阪でも定期的に創作落語の会をやろうと企画しまして、昭和56年/1981年3月にスタート。これを続けているうちに、昭和59年/1984年1月には、新作の「ゴルフ夜明け前」が芸術祭大賞を受賞する運びとなり、いっしょに創作落語の会に参加してきた桂文珍、月亭八方、桂べかこなどから、「コノヤロ、何であいつだけが」と白い眼で見られてしまうもとになった。とかいう芸能ゴシップは(楽しいですけど)このさい措いておきましょう。
落語の「ゴルフ夜明け前」が、その設定・筋運びなどから話題となって、映画化のハナシも舞い込みます。三枝さん、常に新しいことにチャレンジしたがり屋、だったからか、映画化にはものすごく乗り気だったんですが、ちょうどそのころ、自律神経失調症を発症しちゃうは、映画化のハナシもポシャっちゃうはで(けっきょく、のちに映画化は実現)、少し足踏み。
じゃあ、少し生活のリズムを変えてみようかと、手をつけたのが小説執筆だったそうで、本人いわく、「小説は前から書きたいと思ってたんです」(『週刊平凡』昭和62年/1987年5月1日号)。昭和61年/1986年1月から本格的に書き始め、2か月あまりで脱稿しました。これが「処女小説」だといわれる『ゴルフ夜明け前』です。
これが、どうして「直木賞」と結びつけられたのか。
三枝さん自身が本気で直木賞を狙っていた、という面もゼロではないでしょう。だけど、まず「直木賞を狙っている」と宣言すれば、芸能ジャーナリズムが話題にしてくれる、という宣伝効果狙いのほうが強かったんだと思います。落語「ゴルフ夜明け前」も賞をとっている、小説だって賞をとっておかしくないだろう、みたいな連想も生きていたころでしょうし。
対して、じっさいの直木賞はどうだったのか。といえば、昭和62年/1987年ごろは、もう完全に、〈中間小説〉なる古くさくなって売れゆきガタ落ちの事業を、なかなか見捨てることのできない文芸出版社と、小説でメシを食っていかなくてはいけない書き手たちを、メインターゲットに据えた賞でした。タレント長者番付の常連が、「文芸メインの出版社」ではないサンケイ出版なるところから出した本など、とうてい直木賞の候補になるような状況ではありません。
でも、直木賞(の予選)は小説の内容や質が優先される、と信じている向きは多い。というか大多数の人にとって、直木賞がどういう賞かなんてどうでもいいことで、タレントと「直木賞」を結びつければハナシは盛り上がります。もとから文芸志向も高く、ものを書くことが苦にならない三枝さんにとっても、取り上げられてナンボの人気商売ですから、別にイヤがる道理はありません。
「直木賞を狙っている」。三枝さんはメディアに向かってそう言いました。そして、まんまとそのように書かれました。
「つぎの小説のアイデアも無尽蔵に湧いてくる。「直木賞をねらっています」の発言もまんざら冗談ではなくなっている。」(『週刊平凡』昭和62年/1987年5月1日号「ナニワの王道 『ゴルフ夜明け前』で“文壇”デビュー 関西お笑い界のリーダーがつぎに狙うのは…」より)
いや、冗談でしょ、ふつうに考えたら。
○
当時、三枝さんが「直木賞狙う落語家“文士”」としてインタビューされた記事を、以前のエントリーでも紹介しました。こちらは媒体が『週刊サンケイ』、ってことで『ゴルフ夜明け前』の版元ですから、宣伝のニュアンスが濃いんですが、小説執筆についていろいろ答えていて、三枝さんの「直木賞を狙っている」発言への思いが、よく出ている記事だと思います。
『ゴルフ夜明け前』の小説は、先に落語があって生まれたものです。いわずもがなです。三枝さんって人は、さまざまなことに挑戦してもすべては、本業としての噺家に帰結させる発想があり、小説もまたそのひとつ(にすぎないチャレンジ)でした。この小説が「プロローグ――口上」と「エピローグ――口上」と、落語の口上に似せた、語り言葉の章で挟まれた構成をもっていることからも、よくわかります。
三枝さんは、こう語っています。
「桂 今までの小説とは確かに違っていますわな。小説家とか、小説の好きな人は「何だこれは?」ということになるのでしょうけど。
この小説も落語のひとつの表現だと思い、活字で残そうと書いたんです。」(『週刊サンケイ』昭和62年/1987年4月16日号「処女小説『ゴルフ夜明け前』で直木賞狙う落語家“文士”」より ―聞き手:上之郷利昭)
個人的には、落語の一環として書かれた小説だって、直木賞の範囲だと考えたほうが、直木賞の幅が広がっていい! と本気で思うんですが、おそらく直木賞の側に、そんなチャレンジ精神はありません。三枝さんも、落語から派生した小説を一冊書いただけで直木賞を、とはさすがに思っちゃいなかったでしょう。常識的な方のようですし。
そりゃ、「直木賞をねらう」と言われたって、宣伝と営業のための、一種の冗談としか受け取れないですよ。三枝さんの本意は、おそらくこれでしょう。
「――これで、直木賞をもらえると胸算用されてますか。
桂 もらえるもんなら、喜んでもらいたい(笑い)。それよりも、今は自分の念願をかなえられたので、満足しています。」(同)
「もらえるもんなら、喜んでもらいたい」。そのくらいのことを思うのは自然です。でも、平凡なことを言っても(芸能ジャーナリズムは)盛り上がってくれない、それがわかっているから「直木賞をねらっています」と、三枝さんは表現したわけですね。……って、わざわざ言うまでもないことでしたか。すみません。
三枝さんがこれで小説執筆に目覚め、一歩一歩と小説家の道を歩みはじめた。なあんてことはなく、
「次は忠臣蔵を書きたいと思うほど、次回作(もちろん歴史小説)への意欲も湧いたくらいですから、きっともともと書くことが好きなたちなんでしょう。
でなければ、そもそも創作落語なんて書かないはずですから。」(平成17年/2005年3月・ぴあ刊 桂三枝・著『桂三枝という生き方』より ―文・構成:浜美雪)
と、落語のフィールドに軸足を置いたままの活動をつづけます。ブレない三枝。で、「直木賞をねらっています」と言って芸能ジャーナリズムを騒がせた風は、どこかへ過ぎ去っていってしまったのでした。
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