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2015年8月 2日 (日)

大槻ケンヂは言った、「直木賞も見えてきたか!? と舞い上がってしまった」。(平成24年/2012年5月)

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(←書影は平成6年/1994年11月・早川書房刊 大槻ケンヂ・著『くるぐる使い』)


 暑い夏なので、今日は個人的な思い出から始めます(夏、関係ない)。

 子どものころ、『SFマガジン』に水玉螢之丞さんのイラストエッセイが連載されていました。ぐるぐるメガネのお姉さんが、毎月まるで訳のわからないおハナシをびっしり書いている、その特異な(異常な)世界に、「SF文化ってのは、何かついてけないな……」と、SFを読み進んでいこうとする気持ちが萎えていった覚えがあります。

 SFマニアは気持ちわるい。……という思いは、いまでもさほど変わっていないんですが、結局、SFに比べて格段に仲間も少なく市場もせまい「文学賞」のほうのマニアになってみたところ、ああ、何かの世界にのめり込むっつうのは、おおむね気持ちわるいことなんだな、と思い知ることになりました。

 近ごろ水玉さんの連載が、『SFまで10000光年』(平成27年/2015年7月・早川書房刊)と本になったというので買い求め、キモさあふれる情熱を再び目の当たりにしてドン引きしながらも、世の何人に伝わっているのか、そんなこと関係なく、とにかく自分の好きなものだけをピックアップしつづける姿勢に、なにがしかの共感を覚えてしまったのは、こちらが年をくってしまったせいなのかもしれません(っつうか、文学賞マニアのキモさは、ひとのこと言えない……)。

 で、「SFまで10000光年」の連載が始まった『SFマガジン』平成5年/1993年1月号に、同誌初登場を果たしたのが、水玉さんとも交流のあった大槻ケンヂさんです。

 ロックバンド〈筋肉少女帯〉のボーカリストだった大槻さんが、なぜ小説を書きはじめたのか(書かせられはじめたのか)は、ご本人がいろんなところで回想しているので割愛、しようと思ったんですが、いちおう割愛しないでかいつまんで言います。昭和の末期から平成初期、とにかく少しでも文章の書けそうな芸能人に、エッセイはもちろん、詩やら小説やらを書かせる、という雑誌活性化策がピーク(?)に達します。俳優小説の玉手箱とも言われた(言われたのか?)『別冊婦人公論』なんてものの他に、ミュージシャンの巣窟だったのが『月刊カドカワ』(『月カド』)。

 『月カド』の杉岡中さんに小説を書くようにすすめられて、出来あがったのが、本人いわく「オタク少年がカルト教団で超能力テロリストに成長するドロドロの惨劇」のおハナシ。これが長篇になって『新興宗教オモイデ教』として出版されたのが、平成4年/1992年2月でした。

「――荒削りではあるが、彼には間違いなく才能があり、書ける人である

 3年前(引用者注:平成4年/1992年)、大槻さん初の長編小説『新興宗教オモイデ教』(角川書店)が上梓されたとき、ある文芸評論家はこう語った。果たして、その後の短期間に、彼は幾つかの賞にもかがやく人気作家となった。」(『ダ・ヴィンチ』平成7年/1995年6月号「STUDIO INTERVIEW 大槻ケンヂ」より)

 いくつかの賞、と言っています。この記事が書かれた段階で、どんな賞を受賞していたのか。よくわかりませんけど、とりあえずよく知られているのは星雲賞です。平成6年/1994年夏の日本SF大会「RYUCON」で、星雲賞の日本短編部門に「くるぐる使い」が選ばれました。

 何だよ。キモSFオタク=ド素人たちの人気投票でもらった賞だけかよ。などと、馬鹿にしたものでもありません(いや、だれも馬鹿にしていないか)。キモい人たちには、キモい人たちなりの投票倫理があり(たぶん)、これはオレのことを書いてくれている、そんな感覚、古くさい爺さんたちが書いた直ナントカ賞あたりの小説にはひとつもなかった(いや、ないだろう)、オーケン最高だぜー、みたいな狂気者どうしシンパシーが通じ合った……のかどうなのか、わからないんですが、同じくミュージシャン兼SF作家である難波弘之さんは、こう語っていました。

難波 だいたいでもそう……SFのマニアというのは女の子の扱い方をあやまって、結果、どんどんコンプレックスが固まっていってですね、大槻さんの小説の主人公のようになっていってしまうんですよ、みんな(笑)

大槻 いまでもそうですよ。だから、SFとはかぎらないんですけど、なんかこう……自分の好きなものを勧めることでしか女の子との付き合いかたっていうのがわかんないですよ。いまだに。

難波 たぶんね、星雲賞を取った源泉はそこにあるのかな、とぼくはいまだんだん思ってきたな。あれはね、やっぱり読んで我が身を見るような……自分の姿を投影して、なんかSFファンがさ、あのへんの共感をひじょうに得たのかもしれないな。」(『SFマガジン』平成7年/1995年2月号 大槻ケンヂ×難波弘之「『くるぐる使い』刊行記念対談 ぼくとロックとSFと」より)

 しかし、大槻作品のなかにある、異様さや不気味さ、はてまた純真さに、ついふらふらと近寄ってってしまう人が(当然)いまして、『くるぐる使い』は強固で高い「SFエリア」の壁を乗り越えて、いよいよ一般文学賞の世界に進出。平成6年/1994年1月~12月発表分の小説を対象にした第16回吉川英治文学新人賞、という、一般文学賞のくせに星雲賞とどっこいどっこいの知名度しかない、講談社系の文学賞で、候補作のひとつに選ばれました。

 当時、大槻さん自身は、バンドとしてもタレントとしても物書きとしても、あまりに急に人気が出て、かなりのノイローゼだったんだそうで、

「90年代半ば、筋肉少女帯の武道館公演、小説『くるぐる使い』が星雲賞受賞と、一見ノリノリに見えたオーケンだが、実は深刻なノイローゼに苦しんでいた。

「「オウム事件(引用者注:地下鉄サリン事件が平成7年/1995年)のちょっと前から3年ぐらい大ノイローゼ時代だったんだよね。ひとかったなあ。(引用者中略)ミュージシャンとか表現者は、結構そういう人多いんだけど、オレもそれに引っ掛かったみたい。パニくると、ドラッグとかさらに陰性のモノを求める人が多いんだけど、オレは健康的になろうと努力したんだ。どんどん仕事入れてね。だから、大ノイローゼ時代にいちばん本書いてるんだよね(笑)」」(『ダ・ヴィンチ』平成14年/2002年6月号「解体全書NEO」より)

 精神的にかなりヤバい状況下で、『くるぐる使い』所収の諸篇は書かれ、そして吉川新人賞候補になった、ということです。

 大槻さんはそこで、ケッ、そんな文学賞知るかよ、などとカッコつけたりしないカッコよさがあります。当時、日記のなかで、

2月3日[金]

 人生苦があれば楽がある。何と吉川英治文学新人賞にこのオレがノミネートされちまった。」(平成8年/1996年3月・ぴあ刊『オーケンののほほん日記』「1995冬」より)

 と報告し、また数年のちのインタビューでは、

「吉川英治文学新人賞の候補にもなったんだ。嬉しかったですね。」(前掲『ダ・ヴィンチ』「解体全書NEO」の『くるぐる使い』へのコメントより)

 と(おそらく)純粋に喜びを表わしてくれました。大槻さん自身がうれしかっただけでなく、いま思えば、町田町蔵がやがて芥川賞受賞まで行ったように、読み物小説界にも文学賞をとるロックミュージシャンが出るのでは!? という文学賞ファンたちの期待も、きっと高まったことでしょう。

           ○

 しかし吉川新人賞では、大惨敗でした。

 このときの吉川新人賞をとったのが、浅田次郎『地下鉄に乗って』と小嵐九八郎『刑務所ものがたり』の二つ。大槻さんの作品に、直接言及した選考委員はおらず、いつもSF系・奇想系に温かい半村良さんが、

「最終選考の場には、ほかにSF系の作品がいくつかあがっており、それぞれに面白く読ませてもらったが、この二作(引用者注:受賞作)には及ばなかった。」(『群像』平成7年/1995年5月号より)

 と辛うじて好意的な評を書くにとどまっています。

 佐野洋さんは、具体的な作品名を上げずに、

「候補作の中には、候補になったこと自体に疑問を感じるような作品が、いくつかあった。」(同)

 と書いて、むむっ、『くるぐる使い』は、その「疑問を感じるような作品」のなかに入っているのかいないのか、と大槻作品の研究者が、後年、佐野さんに詰め寄った、なんてウワサも駆けめぐって不思議じゃない状況に。

 さらに、この顛末を外から見ていたコラムライターには、そもそもこんな作家のこんな作品が、候補に挙げられることがおかしいんじゃないか、とか言われちゃう始末です。

「候補作を知って首を傾げてしまった(引用者中略)。『熱月』の山崎洋子、『赤壁の宴』の藤水名子、『くるぐる使い』の大槻ケンヂ、『桃天記』の井上祐美子と山崎以外は明らかに格下。(引用者中略)昨年の各ミステリー賞で話題をさらった『ミステリーズ』の山口雅也や『笑う山崎』の花村萬月、直木賞候補作『桃色浄土』の坂東眞砂子、今回山本賞にノミネートされた『聖域』の篠田節子など、大槻、井上、藤よりも格上の作家が何人もいる。とりわけ山口と坂東の作品は講談社。世評と実力の差からいっても山崎と藤作品のかわりにノミネートされるべきなのに、講談社は有力候補を避けた。編集者絡みの社内政治の結果なのか、それとも単に浅田と小嵐に賞を与えたかったからなのか。

なんとも釈然としない候補作選びである。」(『産経新聞』平成7年/1995年5月3日「斜断機 文学賞の候補作選び」より ―署名「(丸)」)

 格上だの格下だの、そういうことで文学賞と作家を測ろうとする「斜断機」の(丸)さんも、かなりキモいです。ははあ、格だの何だのの世界に組み込まれているから、吉川新人賞はいつまで経っても冴えないんだな。と、よくわかるコラムではあります。

 ということで、おお、オーケン最高だあ、みたいな熱のこもったノリとは違う、「格」の息づく文学賞の世界では、大槻さんの小説はさらりとかわされました。とくに直木賞などは、「格」に縛られきっているうえに、往年の大槻さん以上に「とじこもり」体質がひどいものですから、からむすきもありませんでした。

 このことについて、大槻さんは優しい人らしいので、こういう表現をしてくれています。

「『オモイデ教』以降、色んな雑誌から「書いてみないか?」という依頼を頂き、そのうちの2作品が「星雲賞」というSFの賞を2年連続で頂きました。さらにその中の「くるぐる使い」という作品が「吉川英治文学賞(引用ママ)」候補になったんです。あの時はちょっと舞い上がりましたね。「こりゃあ、直木賞も見えてきたか……!?」みたいな。もちろん落選しましたけど、アレ取っちゃってたら、自分を勘違いしちゃってヤバかっただろうなと思います。人間、身の丈ってありますものね。」(平成24年/2012年5月・白夜書房刊 大槻ケンヂ・著『サブカルで食う 就職せず好きなことだけやって生きていく方法』「第5章 サブカル仕事四方山話」より)

 当ったりまえですけど、文学賞なんて、穴だらけのザル評価ですからね。大槻さんのように、その後もしっかり活躍できる才能を、とらえることができなかった、その程度のものです。情けないかぎりです。

 残念ながら直木賞は、いまだに出版不況も救えないし、読者からも愛されてないし、選び出す作品の幅もせまいのに、その自覚があるのかないのか、まわりの人たちから「よっ権威!」とかオダテられるものだから、ずーっと勘違いから脱け出せないようで……。今度、こんこんと「身の丈とはどういうものか」教えてやってください。

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