冨士真奈美は言われた、「直木賞の候補作ぐらいにはなるんじゃないの」。(昭和46年/1971年4月)
(←書影は昭和60年/1985年5月・中央公論社刊 冨士真奈美・著『恋よ、恋唄』)
直木賞をついにとれなかった大物作家のひとり、笹沢左保さんは、芸能ゴシップ方面では「女優キラー」として有名なんだそうです。そういう浮ついた私生活を含めて、当時の選考委員たちに(嫉妬まじりに)嫌われたため、賞をとらせてもらえなかった……みたいな、文壇ゴシップ好きならヨダレを垂らしてハァハァ喜びそうなハナシが、校條剛『ザ・流行作家』(平成25年/2013年1月・講談社刊)には書かれています。ハァハァ喜びたい人は、ぜひ読んでみてください。
笹沢さんの「愛人」となった女優のなかで、よく知られているのが冨士真奈美さんです。昭和38年/1963年には、笹沢さんは離婚したあと冨士さんと結婚する(らしい)! との記事が出たため、そんなもの根も葉もないウワサ、と冨士さんは手記を書いて反論しました。じっさい肉体関係のあるお付き合いだったらしいんですが、その付き合いが終わって約4年後。今度は冨士さん、「中間小説誌界きってのエロ雑誌」と名高かった(?)『小説宝石』に小説「密通」を発表します。編集部の付けたくくりが「内幕小説」。ってことで、これが芸能週刊誌をはじめ、いろいろと記事になりました。
「女優の小説、なんていうと「そりゃ名前だけで、誰が書いたもんだかね?」と眉ツバでいわれる。だが富士真奈美はその例外、もともと文学少女で文章の筆が立つことは、一部でよく知られている。先頃その真奈美のところへ、月刊誌『小説宝石』かられっきとした小説原稿の注文がきた。
「そのときの条件は2つ、必ず女優を主人公にすることと、ベッドシーンがあることだったの。
ほんとは10年くらい前から書きたかったんだけど、当時は“清純女優”なんていわれて、書きたいことを書く勇気がなかったのよ。それが今の年齢になって、仕事も『細うで繁盛記』(NTV系放送中の評判ドラマ)の汚れ役なんかできるようになったから、じゃ書きましょうって返事したわけ…」」(『週刊明星』昭和46年/1971年4月4日号「特別取材 女優のショッキング内幕小説を書いた 富士真奈美の赤裸々な告白」より)
「密通」は、『小説宝石』昭和46年/1971年5月号に載ったきりで、単行本には収められていないみたいなので、簡単にあらすじを紹介します。主人公は、女優になって10年ほどの女。妻子ある著名な文芸評論家と付き合っていて、そのセックスシーンなども描かれるのですが、知り合いの女性デザイナーの夫から、夫婦喧嘩の仲裁役を頼まれたり、ドラマで共演した男優から誘いの電話がかかってきたり。しかし女には、心からわかり合える友人もいない。文芸評論家とは、いくら「情事」を重ねたところで、いつ別れがきてもおかしくない不安定な関係。女は、ひとり暮らしのマンションに帰ると、切なさのなかでひとり酒を飲み、涙が止まらずあふれて出てくるのでした。
このハナシにモデルなんかいませんよ、と冨士さんはきっぱり明言。また、モデルだとウワサされた笹沢さんのほうも、断じてこれは俺がモデルではない、と言い張りました。しかし、まわりは真相などどうでもよくキャッキャとあおり立て、テレビでよく見る冨士真奈美が「エロ小説」&「笹沢左保との関係をネタにした小説」を書いたぞ、みんな集まれー、みたいな記事に仕立てあげられてしまいます。んもう、不本意だわ、と冨士さん相当ガッカリしたらしいんですが、この過程のなかで登場するのが、はい、薄汚れた文壇ネタにはぴったりお似合い、われらが直木賞なわけです。
「(引用者中:某文芸評論家による「密通」評は)「文芸評論家に遠慮してか、まだ自分をさらけ出してないところがあるんだ。やはり、男とのことを書くなら、フリ××コ(フリチンの対語)で書かんといかんですよ。瀬戸内(引用者注:瀬戸内晴美)さんを見てごらんなさい」
あげく、「もしかしたら直木賞の候補作品ぐらいにはなるんじゃないの」(日本テレビ某ディレクター)という声まで出てくるにいたっては、いくら文才があるとはいえ、
「ま、芸能界のひとの書いたものはほとんどがゴーストライターの手になるものですよ。わたしも、週刊誌記者時代、芸能人の手記を百五篇代作しました。芸能人のオツムの程度なんて知れたもんですからね」(竹中労氏)
という証言もあるし、もしかしたら、この作品、代作では?」(『週刊文春』昭和46年/1971年4月12日号「女優が書いた芸能界内幕小説「密通」の衝撃度 「直木賞をネラえ」といわれた富士真奈美の官能描写」より)
竹中さん、あいかわらず笑い持っていくよなあ、と感じ入るのは別として、わざわざこの短篇小説一篇だけをもとに、「直木賞候補になって話題の」タレント中山千夏さんにコメントをとったり、直木賞、直木賞、と言っているのは、おそらく『週刊文春』だからなのかもしれません。いや、この小説一作だけじゃ、どう考えても直木賞なんかネラえないっしょ。
と、芸能ゴシップがらみで、女優が女優らしからぬ内容の小説を書いた、と話題にされた冨士さん。『小説宝石』の思うツボにまんまとハメられた、という感しかありません。10年前から書きたかったという小説執筆にしては、あまり幸福な読まれ方をされたとは言えず、冨士さんが恨み節を語るのもわかります。
「当の真奈美をより当惑させたのは、男のモデルはだれかという、作品を離れたせんさくだった。
彼女は憤慨し、いちじはモデル問題をうんぬんして暴露記事を載せた週刊誌を名誉棄損で告訴するとまでいきまいた。」(『週刊平凡』昭和46年/1971年6月3日号「『密通』でモデル問題が大話題になって2か月…冨士真奈美がまたまた大胆な小説を執筆した!」より)
こういう、虚実いりまじりの、ゴシップ全面展開の話題のなかに、ちょこっとでも触れてもらえたのです。直木賞にとっては、幸せで甘酸っぱい思い出の一ページとなりました。
○
ところが、冨士さんの、文章を書くことに賭ける情熱は、まったく衰えることがありませんでした。
前段最後で引用した『週刊平凡』中のインタビューでも、冨士さんの小説執筆への意欲、みなぎっています。
「もちろん本気で“作家”に専念しようなんて大それたことを考えてはいないわ。才能があるわけじゃなし……でも(引用者注:『小説宝石』昭和46年/1971年7月号の二作目「腐れ縁」も)真剣に書きました。ほかになんの趣味もないんですもの。(引用者中略)」
彼女は「まだまだ書きたい」という。」(同)
その後、昭和49年/1974年、36歳で結婚。
「相手の希望で、雑文を書くこと以外、仕事は一切認められなかった。趣味的に連続物を一本くらいなら引き受けてもいい、と言っていたのが、結婚したとたん変った。(引用者中略)私の夫は、第三者、つまりお手伝いさんなど他人が家に共棲することはダメな性格である。そして一家に、二人の男はいらないと言う。
だから、必然的に私は家事専従となり、女優は続けられなくなった。」(昭和54年/1979年11月・集英社刊 冨士真奈美・著『人のいる風景』所収「結婚は苦労の連続 男は苦の種と思し召せ」より ―初出:『MORE』昭和53年/1978年7月号)
じっさいは、休業状態に入ったのは結婚する半年まえから。結婚中も「雑文書き」だけではなく、昭和52年/1977年から静岡放送のラジオで週五日、自作の随筆を朗読しつづけたり、娘が小学校に上がってからはフジテレビ「エプロンおばさん」(昭和58年/1983年)の主演を引き受けたりと、なかなかバイタリティあふれる家庭生活を送ります。
その、休業中のお仕事(?)のなかに含まれていたのが小説執筆でした。
池部良さんのエントリーにも出てきました、いまはなき小説誌『別冊婦人公論』に、初の長篇小説だという「暗射地図」(昭和58年/1983年夏号)を発表します。
この作品はのちに『恋よ、恋唄』と改題され、加筆のうえ昭和60年/1985年5月、中央公論社から刊行されました。宮城県出身の姉妹、真紀と美弥を中心に、大人たちの恋愛を主に女性たちの側から描いたもので、ストーリーそのものはありがちすぎてヒイちゃう人もいるかもしれません。ワタクシも、市井の男女の恋愛モノは、相当苦手な口で、ほとんど好んで手にとることはないんですが、それでも読んでみようと思ったのは、「密通」から10数年たった当時、まだまだ冨士さんは直木賞とれるんじゃないかヒソヒソ、なんちゅうウワサが生き残っていた、と知ったからです。
「冨士真奈美さんは、台所で小説を書く。(引用者中略)
タイトルの「暗射地図」とは、白地図の古語。最初と最後のシーンをつなぐ重要なキーワードだと、タネ明かしもしてくれた。
直木賞の噂もチラホラ。そろそろ、女優と呼ぶよりは小説家と呼んだほうがふさわしいかもしれない。台所に、小説家・冨士真奈美ありである。」(『週刊HEIBON』昭和58年/1983年8月25日号「手際よくラーメンを作り、丹念に文字をつらねる 冨士真奈美」より)
けっきょく、小説を書く以前から始めていた俳句のほうで、その後は文名を轟かせ、「俳句を詠み、エッセイも書ける女優」として輝かしい歩みを残すことになります。「小説家・冨士真奈美」としては、それほど注目を浴びることはありませんでした(これからも、おそらくは望み薄)。
現代に生きる男女の恋愛小説って、他に書く人も多い激戦区ですもん。直木賞とかとっていたら、もちろん別だったでしょうが、なかなかそれ一本で小説を書きつづけ(プラス、本を出しつづけ)るのは、難しいことだったと思います。
| 固定リンク
« 藤本義一は言われた、「テレビに出ているから、直木賞がとれない」。(昭和46年/1971年7月) | トップページ | 大槻ケンヂは言った、「直木賞も見えてきたか!? と舞い上がってしまった」。(平成24年/2012年5月) »
「芸能人と直木賞」カテゴリの記事
- 青島幸男は言った、「中山千夏ちゃんが候補になったことがショックで、小説書きに一生懸命になった」。(昭和56年/1981年7月)(2016.05.29)
- 又吉直樹は言った、「時代時代で事件性のある作品が話題になってきた」。(平成28年/2016年1月)(2016.05.22)
- 柏原芳恵は言われた、「直木賞受賞作家をめざしている!?」。(昭和61年/1986年2月)(2016.05.15)
- 高峰秀子は言われた、「十人の名文家を選べといわれたら、その一人に入れたいくらい」。(昭和51年/1976年7月)(2016.05.08)
- 塩田丸男は言われた、「直木賞候補作に、ふだんの軽やかなエッセイに隠された重いものを見たような気がした」。(昭和58年/1983年10月)(2016.05.01)
コメント