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2015年6月の5件の記事

2015年6月28日 (日)

阿木燿子は言われた、「賞を取るような小説を書けばいいのに」。(平成6年/1994年12月)

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(←書影は平成1年/1989年10月・集英社刊 阿木燿子・著『指輪の重さ』)


 歌謡曲の作詞家が小説を書くケースは、過去をさかのぼっても、けっこうあります。そのうち何人かは、継続的に、あるいはまとまった量の小説を生み出し、直木賞の候補に挙げられたり、また受賞したりしました。

 阿木燿子さんも、平成に入ってしばらく、小説を書いていましたので、候補になってもよさそうな立ち位置にいたんですが、新しい分野に次から次へと興味をもつ方らしく、ひとつの場所にとどまっていません。いまとなっては、「作家・阿木燿子」のことを、直木賞と結びつけて見るのは、さすがに不自然です。

 では、阿木さんと直木賞が無縁なのかというと、そうでもありません。何をさしおいても、この側面があるからです。「ご親密な直木賞受賞者との対談相手に、選ばれがちな人」。

 阿木さん自身が著名な人であって、華やかで美貌、しかも交遊の世界もいろいろと広い人なので、対談企画にはうってつけなわけですね。

 たとえば、フラメンコつながりで逢坂剛さんとの因縁(?)があります。『逢坂剛のさすらい交友録 フラメンコに手を出すな!』(平成10年/1998年11月・パセオ刊、初出は『パセオ・フラメンコ』平成5年/1993年2月号から始まった連載対談)から、平成5年/1993年10月、阿木さん初の小説集『指輪の重さ』の文庫化の折りに解説を担当したのが逢坂さんで、ときは流れて平成26年/2014年、阿木さんがホステス役を務める『サンデー毎日』対談企画「阿木燿子の艶もたけなわ」で逢坂さんと顔合わせ。この流れを見るだけで、もはやひとつのストーリーと化しているくらいです(というのは言いすぎでした)。

 ちなみに逢坂さんは、その解説で阿木さん(とその小説)について、こう言っています。

「この作品集を作詞家の余技と思ったら、読者は完全に足元をすくわれる。詩人の資質は小説家のそれと同じではないが、言語に対する感覚は一種独特の鋭さがある。(引用者中略)葉の上を転がる水玉のような、新鮮な描写が随所にちりばめられたこれらの作品は、一般の読者があまり出会ったことのない小説世界を提示する。」(『指輪の重さ』所収 逢坂剛「解説――薔薇の花には刺がある おいしい料理には毒がある」より)

 ええ。全篇これ、男女の愛欲ドラマを修辞と詩的イメージで煮詰めたような小説集なんですが、とりあえず阿木小説のハナシは後にまわします。

 逢坂さんよりもさらに、阿木さんと古いお仲間、ご親密なのが伊集院静さんです。いつも酒場で顔を合わせては、オトナーな社交を繰り広げていた(と思われる)ご両人だったわけですが、伊集院さんがまだ直木賞をとる前、平成1年/1989年に『中央公論』の「縁は異なもの」に二人そろって登場したときには、こんな計画も暴露(?)されていました。

「先頃エッセイ集『あの子のカーネーション』、短編小説集『三年坂』を上梓した伊集院さん。近く小説集『指輪の重さ』を刊行予定の阿木さん。いずれ同人誌をやろうという話も、数年来の酒場での懸案となっている。」(『中央公論』平成1年/1989年10月号「縁は異なもの」より)

 伊集院さんは直木賞をとった直後、さまざまな媒体で対談の仕事が組まれました。そのお相手のひとりが阿木さんだったのも、もはや当然と言っていいでしょう(『婦人公論』平成4年/1992年12月号「飲む・打つ・書く 〈対談・男と女の三拍子〉」)。いったい、同人誌の計画がその後どうなったのかは、わかりません。

 直木賞受賞者との対談相手に選ばれやすい阿木燿子像。その最たる代表例を、まだ紹介していませんでした。妖艶で美しい大人の女性が、女と男のこと、恋愛のあれこれを語る、っていうテーマは女性誌のなかにあふれ返っていますが、そんな対談にぴったりの、しかも阿木さんとは縁もゆかりもガチガチにある直木賞受賞者が、ひとりいるじゃないですか。唯川恵さんです。

 伊集院さんのときと同様、唯川さんが直木賞をとったときも、直後に阿木さんが対談相手としてセッティングされました。

「恋愛の上級者阿木さんと唯川さんのお二人が四〇代からの恋愛を語ります。唯川さんは「肩ごしの恋人」で直木賞受賞後、初の対談。」(『ミセス』平成14年/2002年4月号「唯川恵直木賞受賞記念特別対談「ロマンティックを語る世界へ」より)

 という、もうここを読むだけで胃もたれしそうなぐらいの、テッパンなテーマです。

 他にもお二人は、前年の平成13年/2001年には『クロワッサン』で、平成16年/2004年には『PHPカラット』で、と何度か対談で誌面を飾り、先に逢坂さんのところで紹介した『サンデー毎日』の「艶もたけなわ」では、このひとを呼ばなきゃ阿木さんの対談じゃない!と言わんばかりに(だれもそんなこと言っていない)、唯川さんがゲストに招かれました。

 ここで思い出話のように語られるのが、唯川さんがコバルト・ノベル大賞に入選した昭和59年/1984年のころのこと。唯川さんの作家デビューのころ、でもあるんですが、同時に阿木さんが小説分野に急接近していた時代でもあります。

 実作家じゃないのに作詞家・女優として顔が売れている、っていうこと(だけ)で、阿木さんに新人賞の選考委員をお願いしてしまうという、コバルト・ノベル大賞、かなりチャレンジ精神あふれる(むちゃくちゃな)賞だったときのハナシです。

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2015年6月21日 (日)

景山民夫は言った、「直木賞をとって半年して、空虚な気持ちになった」。(平成4年/1992年4月)

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(←書影は昭和63年/1988年6月・講談社刊 景山民夫・著『ガラスの遊園地』)


 1980年代、直木賞はテレビ業界の香りに包まれていました。マスメディアは商売がら、その香りにまんまと釣られてしまい、血まなこになって追いかけて、そのつど騒ぎ立てていましたが、みないい大人ですので何年もやっているうちに飽きていきます。主催する日本文学振興会のほうだってそうです。みずから好んで蒔いた種とはいえ、こういった騒ぎに毎回毎回対処させられて、疲労しないはずがありません。

 もうそろそろ、この騒ぎもいいか。と思ったころに登場したのが景山民夫さんです。直木賞がつづけていたテレビ業界人取り込み作戦の、打ち止め役となりました。

 80年代前半、景山さんは「デキる放送作家」として知られていたのはもちろんのこと、たびたび番組に出演もしていたのはごぞんじのとおり。『極楽TV』の記述によれば、「ひょうきん族」のひょうきんプロレス出演のころには、自身、こんなふうに書いています。

「「ひょうきん族」の他にも、景山民夫のテレビ出演はここのところ急激に増えまして、例えばTBSの朝の番組「さわやかワイド」なんてなぁ7月と8月、水曜日はベッタリとレギュラー御出演だったりするし、同じ森本毅郎サン司会の「諸君! スペシャルだ」ではレポーターもつとめさせて頂きましたし、つまり文化人からタレントへという道を一歩一歩登りつつあるのだが、」(昭和60年/1985年12月・JICC出版局刊 景山民夫・著『極楽TV』所収「ふたたび“極楽TV”宣言」より ―初出『宝島』昭和59年/1984年9月号)

 ブラウン管のなかでもよく(?)見かけるとっちゃん坊や。ということで、いろいろやって目立つもんですから、昭和61年/1986年に講談社エッセイ賞をとったときには、

「彼がそのエッセイで“賞”を取った時、「放送作家という人種はもっとイカガワシイ、と思ってました」という感想をもらした審査員がいた。」(『BRUTUS』昭和63年/1988年2月1日号「ON/OFF THE TRACK」より)

 といった有りさまで、イカガワしさでは大先輩にあたる野坂昭如さんからは、君はウソをつくのがうまいから小説を書け、と助言されたりしたらしいです。

 景山さんぐらいの有名人になりますと、その足跡・業績・言動・その他にくわしい人が、世の中にはわんさといます。ワタクシのような直木賞厨が、わざわざ書き足すことなど何もないのですよ。直木賞に関わりそうなことだけ、すくっておきたいと思います。ええ、もともとそういう浅いブログです。

 テレビで仕事するのは40歳まで。と決めていた景山さんが、『BRUTUS』でエッセイの連載を始めたのが昭和58年/1983年、36歳のときでした。これを単行本化した『普通の生活』が、活字のもの書きたちのあいだにも読まれ、山口瞳さんあたりもその文才に注目した、と伝えられています。ええまあ、何つったって山口さんですからね、シブいものがお好みです。

 本来なら(というか、自然にいけば)景山さんは、シブみのみなぎる、血湧き肉おどらない小説で、まずは評価される流れもあったはずですが、景山さんのフトコロの深さ、スマートな姿勢でムチャクチャなことをやる性質が出たものか、いきなり(いや、4年半かかって)冒険小説を書き下ろしてしまいます。『虎口からの脱出』です。

 昭和61年/1986年12月に刊行されますと、まずは翌年3月、日本冒険小説協会大賞の(内藤陳さんの独断で)最優秀新人賞を受賞。これはまあ、作品の成立そのものに内藤さんがガッツリ絡んでいましたからいいとして、吉川英治文学新人賞にまで選ばれてしまいます。さすがだよ、吉川新人賞。これに授賞するんだからなあ。だからこの賞は信頼され、尊敬され、みんなから愛されるんだよなあ。と思った4か月後に、しゃしゃり出てきたのが、みんなの嫌われ者こと、直木賞。おまえの出る幕じゃないだろ、と周囲からツッコみを受けるまでもなく、候補にした『虎口からの脱出』を落としてみせました。

 暴走した想像力のタマモノ、とも言えるこういう作品に、手を差し伸べるようでいて、けっきょく落とす。というのが、1970年代ごろから生まれた直木賞の得意技で、やはり第97回のこの回も、おおむね選考会では(とくにミステリー擁護派三銃士、藤沢周平・陳舜臣・田辺聖子などは)、注文をつけながら好意的に受け止めたんですが、冒険小説の面白みのわからないダメおやじは健在でした。

 たとえば山口瞳さんです。

「こういう小説が候補作の主力になるようなら委員を辞任する他はないと思った。但し、景山さんは大変な才人で、小粋な短篇小説も書ける作家だと思っている。」(『オール讀物』昭和62年/1987年10月号 山口瞳選評「山田詠美さんの潔さ」より)

 でもなあ。青島ナニガシとは違って、ぶっ飛んだ「つくりもの小説」をいきなり世に問うあたり、景山さんのカッコよさが光った一作だと思いますよ。

 景山さん自身、放送作家から作家に仕事を移していきたいと願い、また景山さんの書くもの面白れー、ということになって、一気に活字媒体での仕事が増えていきます。『虎口からの脱出』で吉川新人賞をとった頃には、小説・エッセイの連載7本、月産250枚のモノ書きをこなすまでになっていたんだとか。

 そして1年後、昭和63年/1988年・上半期の第99回直木賞がやってきます。以前、「伝説の老害」の異名をとる選考委員、村上元三さんのエントリーでも引用しましたが、景山さんが直木賞受賞をどう受け止めたのか、再度同じ文献を引用しておきます。

「講談社エッセイ賞、吉川英治文学新人賞、日本冒険小説協会最優秀新人賞に、昨年の直木賞ノミネートとくれば、さぞ自信も……と、思いきや「とんでもない。いただけるとすれば『ガラスの遊園地』の方だと踏んでたもんですから、正直言ってびっくり、です。だってこれまでSFっぽいものはダメだったでしょー、ニオイが出ただけでも。そういう意味では選考委員も変わったのかもね。」」(『週刊現代』昭和63年/1988年8月6日号「第99回直木賞 景山民夫氏」より)

 「いただけるとすれば」と表現していますでしょ。受賞はまるで意外な出来事だったのではなく、もはや作家・景山民夫は直木賞に近いところにいる、という自覚があったことがわかるコメントです。

 『ガラスの遊園地』は、『遠い海から来たCOO』とは違って、自分が(かつて)属していたテレビ業界について、その見聞を生かして書いた小説で、当時『小説現代』がやたら力を入れていた、おじさんおばさんの郷愁をそそる時代回顧モノの一作、といっていいでしょう。常盤新平さんの『遠いアメリカ』や阿部牧郎さん『それぞれの終楽章』の系譜につらなります。これらが直木賞をとるのなら、これだって通るのじゃないか、と思うのが、ごく自然だったにちがいありません。

 ところがです。直木賞は、そちらの路線ではなく、『虎口からの脱出』に通じる、景山さんの奇想・空想系の創作のほうを、候補作にしてしまったわけです。まったく直木賞って、なかなか素直じゃない、スジ金入りの変な賞ですよねえ。

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2015年6月14日 (日)

うつみ宮土理は言った、「目標は直木賞をとること」。(平成4年/1992年10月)

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(←書影は昭和63年/1988年9月・文藝春秋刊 うつみ宮土理・著『くねり坂』)


 最近、うつみ宮土理さんのことが、にわかに話題になっています。「『文學界』に小説が載ったのに増版がかからなかった芸能人」として、……では、もちろんありません(そりゃそうだ)。最近の動向はどうでもいいので、今日のエントリーはその辺のところから始めます。

 昭和62年/1987年5月(6月という文献もある)、うつみさんは新宿にある「朝日カルチャーセンター」の名物講座、「小説作法」教室に通いはじめました。名物も名物、芥川賞受賞者・重兼芳子を生んだカルセン、として脚光を浴びた、駒田信二さんの例の教室です。うつみさんは、それ以前から駒田さんと交流があり、すでに小説を書くための指導も個人的に受けていたらしいんですが、あらためて、大勢の受講生にまじって小説を学ぶことになりました。43歳のときです。

 そもそも、なぜ、うつみさんは小説を書いてみたいと考えだしたのか。そりゃあ理由はさまざまあったんでしょうが、公になっているものをまとめますと、だいたい2つに集約されるようです。

 まずは、自分の内面のおハナシ。

「時間に追われる芸能界にいて、空虚を感じる自分に気づいた。

「心が風化してしまう前に、じっくり人の心を見つめて、うれしさや悲しさ、人生を感じる心の襞を深く持ちたいと思って、小説を書き始めました。(引用者後略)」」(『SOPHIA』昭和63年/1988年3月号「自作小説が純文学雑誌『文学界』に掲載されたうつみ宮土理」より)

 そして、もうひとつ、あこがれの先輩からの助言があった、っていうことが挙げられました。

「亡くなった向田邦子さんが、実践女子大の先輩だったこともあって、折あるごとに『文章を書きなさいよ』と勧めてくれました。」(『週刊朝日』昭和63年/1988年1月15日号「うつみ宮土理が「文学界」デビュー 向田邦子さんに勧められた文章道」より ―署名:本誌・鬼頭恒成)

 好きな小説は何ですかと問われたうつみさんは、数多くの場面で向田さんの『思い出トランプ』を紹介しています。ということで、ここら辺が直木賞つながりへの伏線になっていくんですけど、それは後半に回しまして、もう少し『文學界』掲載のハナシを続けます。

 駒田教室の同人誌『まくた』昭和57年/1982年11月号に、うつみさんは「くねり坂」を発表しました。これが『文學界』同人雑誌評の、松本徹さん担当の回で「ベストファイブ」のひとつに選ばれまして(ほかの4作は、『碑』49号の永井孝史「朝闇の道」、『こみゅにてぃ』21号の藍崎道子「気楽な関係」、『江古田文学』13号の今野靖人「感触」、『黒い棒』1号の菊村信「黒い棒」)、同誌の昭和63年/1988年2月号に「同人雑誌推薦作」として転載されるにいたりました。

 松本徹さんによる「くねり坂」評は、こんな感じです。

「耐えるようにして暮らしている孤独な身の上の女の、暮らしぶりを、丁寧に工夫をこらして浮かび上がらせている。この作者は、テレビタレントであるとのこと――テレビをあまり見ない筆者は知らないが――であるが、どのように修行を重ねたものか、着実な筆づかいである。そして、およそ縁がないと思われる世界の女を、破綻なく扱っているのだ。全体に彫りの甘さが感じられるものの、安定した力を持っているように思われる。」(『文學界』昭和63年/1988年2月号 松本徹「同人雑誌評 書くと言う行為ひとつで」より)

 要するに当時のうつみさんは、テレビを見ない人たちには、まるっきり存在も知られていない程度の二流タレントだった、ってことがわかる……わけじゃなくて、かなりの巧者だと褒められているわけですね。

 ええ。じっさい、ワタクシもそう思います。

 他人の目を気にする気弱な小心者、不器用な生き方しかできない人間の、生活がなかなかうまく回っていかない有りようを描かせたら、うつみさん、うまいのだ! 「くねり坂」もそうですし、同題の短篇集『くねり坂』に収められた「Uターン」など、「ヒロインがいかにして追いつめられていくか」の展開が、堂に入っていて、わたしはサスペンス小説作家だ、と名乗ってもいいぐらいです。

 師匠の駒田信二さんに言わせますと、

「はっきり言って、『くねり坂』の文章は荒れてます。『カチンカチン体操』とか『根こんぶ健康法』とか、自分の文章を警戒せずに書くハウツウものを書いているせいでしょう。小説を書くつもりなら、そっちはやめるよう言ってるんですが」(前掲『週刊朝日』記事より)

 てな感じで、おいおい、当時のオビに「駒田信二氏絶賛!」とあったのは、ありゃウソだったんだな文藝春秋め。ということはさておき、うつみさんの作家としてのスタートは、「芸能界のこと、みずからの生い立ちのことなどが、作品背景におかれることで、たくさんの人びとの興味がかき立てられ、本が売れる」という、芸能人小説におなじみのかたちとは違っていました。そこに、うつみさんの気概、と言いますか、意思が感じられるところでもあります。

 けっきょく、うつみ作品は、芸能人の書いた小説と煽られてメガヒットを飛ばす、なんてことはなく、また何かの文学賞によって光を当てられることもないままでしたが、それでも彼女の作家能力は認められ、いくつもの小説を発表。うつみ宮土理、作家としていったいどこへ行くのだ、という感の高まるなか(?)、うつみさんと直木賞の蜜月時代が訪れるのでした。

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2015年6月 7日 (日)

池部良は言われた、「次の直木賞を目ざして精進している」。(昭和33年/1958年10月)

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(←書影は平成7年/1995年8月・中央公論社/中公文庫 池部良・著『オレとボク 戦地にて』)


 「芸能人が小説を書く」ことが注目され、またたく間に世にあふれ、日常化していったのは、昭和50年代後半の1980年代からだ、っていう説があります。

 もちろん、それ以前にも例外は見つかるんでしょうけど、「作家」と肩書きのついた人がテレビで持て囃され、逆に芸能の世界で生きている人たちが、「小説」と銘打たれた文章を書いては小銭を稼ぐ、いわゆる「小説の(もしくは文学の)芸能化」、なあんてことが、その時代に盛んに言われたのは、疑いようがありません。

 このことについて、当時、分析・考察した文章を書いたひとりに、富岡多惠子さんがいました。

「さまざまな「小説家」のなかからは、「小説家」を人気商売にするひともあらわれ、また人気商売にされるひともあらわれ、すると世間も「小説家」を人気商売として扱うようになっていく。「小説家」は「小説」の他に多芸多才を要求され、講演芸、座談芸、テレビ芸はいうに及ばず、歌舞音曲、食道楽、冒険、旅行、恋愛、子育て、スポーツ、のような私的な好みや行動まで芸として売ることを要求され、それにこたえる「小説家」もでてくる。(引用者中略)

「小説家」の芸能人化である。この芸能人化は「小説」を商品として扱う側の経済的正義によって、既成の「小説家」だけでなく意図的につくり出される場合も当然あり、人気商売のひと(世間的著名人、芸能人を含む)に「小説」を書かせるのと、入れ子になっている。この「小説家」の芸能人化、素人衆(その代表的役割を負わされた世間的著名人、芸能人等)の「小説家」化(?)が可能になったのは世間のひとびとにとどく情報のアミ目が昔とは比べものにならぬくらい複雑に多量になったからである。」(平成7年/1995年5月・岩波書店刊 富岡多惠子・著『富岡多惠子の発言5 物語からどこへ』所収「世間のなかの「小説」」より ―初出:昭和57年/1982年・岩波書店刊『叢書文化の現在一三巻 文化の活性化』)

 ですので、この時代よりあと、「直木賞」なるキーワードとゆかりのある芸能人も、一気に増えるわけです。うちのブログの第一週目をだれにするかと考えたとき、富岡さんが考察文を書くに当たって冒頭で紹介した映画スター、池部良さんこそふさわしいのではないかな、と思いまして、取り上げることにしました。

 昭和57年/1982年は、池部さんが小説誌で「初の小説」とキャッチコピーのついた小説を発表した年にあたります。

「小説家以外の職業のひとが「小説」を書く(或いは書かせられる)ことが、このごろハヤリなのか、最近(一九八二年三月)某誌の目次を見ていて、池部良氏の「小説」が出ていたのでびっくりした。池部良といえば、「青い山脈」の高校生姿を思い出してしまうが、今も「映画スター」に変わりない。某誌の目次にも、「スター初の小説」と書いてあった。」(同)

 『別冊婦人公論』昭和57年/1982年春号の「丘に続く森の中で」のことです。富岡さんは、世間で「小説」というものがどういうものだと考えられているか、そっちのほうに興味があるらしく、池部作品について深くは踏み込みません。「池部良氏の「小説」もそうだったが、素人衆の「小説」はたいていきわめて「小説」らしくつくられている」ぐらいの表現にとどめました。

 池部さんに小説を書かせた張本人、中央公論社の名(名物)編集者だった水口義朗さんに言わせますと、こうです。

「脚本家志望だった池部さんの小説は、筋立て、構成がドラマチックであり、人間心理のからみ合いも見事に張りめぐらされている。」(平成22年/2010年12月・文芸社刊 池部良・著『氷河を渡る記憶』所収 水口義朗「作品と池部さんの素顔」より)

 ただ、『別冊婦人公論』に掲載された池部作品は、そこまで面白いものでもないです。やはり池部さんの文章は、自分を含めた対象をどこか突き放して、トボけた味わいさえ見せるエッセイのほうが光っているよなあ、と思います。

 事実、エッセイのほうでは、それまでにさまざまな媒体で書いてきたものをまとめた『風が吹いたら』(昭和62年/1987年11月・文藝春秋刊)を刊行し、昭和63年/1988年9月~平成2年/1990年8月に『毎日新聞』の「日曜くらぶ」に連載した「父と子」をテーマにした随筆が、『そよ風ときにはつむじ風』(平成2年/1990年11月・毎日新聞社刊)として本になり、このあたりから一気に、池部さんの文名が上がりました。

 その後も池部さんは、文藝春秋や『オール讀物』誌とは良好な関係をつづけた(らしい)のですが、どうしても小説家としてよりエッセイストとしての力量のほうが際立ちます。だからかどうなのか、直木賞がうんぬん、といった話題が池部さんのまわりに出てくることはありません。

 じゃあ、なんでうちのブログなぞが取り上げるのか。

 ハナシの中心は「芸能人小説家」花盛りの1980年代、ではなく、さかのぼること30年近く前の、「池部良・第一次作家活動時代」(←勝手に命名しました)にあります。ここに池部さんと直木賞との、断ちがたい(?)縁があったのでした。

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第9期のテーマは「芸能人」。80年の直木賞の歴史を語るうえでは欠かすことのできない、芸能界の面々にご登場ねがいます。

 直木賞ってやつは、どうして掘っても掘っても知らないハナシが沸いて出てくるんだ! と涙ながらに掘りつづけ、うちのブログも9年目に突入しております。

 1年ごとにテーマを変えながら、毎週毎週、懲りずに直木賞のことを書いてきました。さて、9年目はどうしようか。と考えまして、わたし、小説のあれこれを調べています、みたいな真面目な人が直木賞について書こうとするときに、きっと躊躇する(はずの)テーマでいこうと決めました。「芸能人と直木賞」です。

 もちろん、いま現在巻き起こっている又吉フィーバーにあやかって、っていう思いはあります。直木賞(やもうひとつの賞)の周辺が芸能人のおかげで賑わったことは、これまで何十回(?)もありましたが、その当時に生きていた文学賞ファンたちが感じたであろう興奮(やら冷笑)を、思い起こしたり、想像したりするには、ちょうどいいタイミングにちがいないですから。

 しかし、何といいますか、「芸能人と直木賞」なんてテーマ、いい大人がやるようなもんじゃない、っていうフシはあります(たぶん)。直木賞といえば、何かかしこまった小説(もしくは文芸)に関することでしょ。たしかに、ときどき芸能人のからんだニュースや話題は出るけど、何つってもゴシップ臭が強すぎる。文芸の行事である直木賞全体からすれば、とるに足らないイロモノ的なおハナシだし。なんで「小説」のことを語るために、芸能のネタが出てくるの。関係ないじゃないか。……と思う気持ち、よくわかります。

 ただ、直木賞は「文芸の話題」でおさまる存在ではない。というのが、いまのところのワタクシの感想です。だって、現実を見たらそう思わなきゃウソでしょう。そして現実を無視して、ほとんど自分の思い込みだけで直木賞をとらえるような人間は、正直恥ずかしいです。ゴシップなことは嫌いだからと唾棄しながら、それでも直木賞のことが気になるものだからカッコつけて、「直木賞は純粋に小説のことだけで語れ」などと偏った見方をしてしまう、何たる恥ずかしさ。

 「芸能人」という存在は、「みんなにその名が知れ渡っている」直木賞の、けっこう重要な相棒じゃないですか。ないがしろにするわけにはいきません。

 そうは言っても、ワタクシ自身は、べつに芸能界にくわしいわけでもないので、果たしてこれからの1年間を乗り切れるのか。かなり不安です。あと、直木賞に関する話題だけで、50週(+アルファ)分の芸能人がほんとにいるのか、早々にネタ切れするのではないか、っていう心配もあります。まあ、世間一般的には、直木賞も芥川賞も同じようなもの、という常識によりかかって、多少、「芸能人と芥川賞」なエントリーも書いちゃうかもしれません。稀少な直木賞ファンの方々、ごめんなさい。

 このテーマで取り上げるとなれば、現在に近い時代の人ばかりが、自然と多くなってしまいます。一週目からそれだと面白くないので、とりあえずは物故人、そうとうに早い段階で直木賞にまつわる書き手と目された俳優のハナシから始めようと思います。

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