景山民夫は言った、「直木賞をとって半年して、空虚な気持ちになった」。(平成4年/1992年4月)
(←書影は昭和63年/1988年6月・講談社刊 景山民夫・著『ガラスの遊園地』)
1980年代、直木賞はテレビ業界の香りに包まれていました。マスメディアは商売がら、その香りにまんまと釣られてしまい、血まなこになって追いかけて、そのつど騒ぎ立てていましたが、みないい大人ですので何年もやっているうちに飽きていきます。主催する日本文学振興会のほうだってそうです。みずから好んで蒔いた種とはいえ、こういった騒ぎに毎回毎回対処させられて、疲労しないはずがありません。
もうそろそろ、この騒ぎもいいか。と思ったころに登場したのが景山民夫さんです。直木賞がつづけていたテレビ業界人取り込み作戦の、打ち止め役となりました。
80年代前半、景山さんは「デキる放送作家」として知られていたのはもちろんのこと、たびたび番組に出演もしていたのはごぞんじのとおり。『極楽TV』の記述によれば、「ひょうきん族」のひょうきんプロレス出演のころには、自身、こんなふうに書いています。
「「ひょうきん族」の他にも、景山民夫のテレビ出演はここのところ急激に増えまして、例えばTBSの朝の番組「さわやかワイド」なんてなぁ7月と8月、水曜日はベッタリとレギュラー御出演だったりするし、同じ森本毅郎サン司会の「諸君! スペシャルだ」ではレポーターもつとめさせて頂きましたし、つまり文化人からタレントへという道を一歩一歩登りつつあるのだが、」(昭和60年/1985年12月・JICC出版局刊 景山民夫・著『極楽TV』所収「ふたたび“極楽TV”宣言」より ―初出『宝島』昭和59年/1984年9月号)
ブラウン管のなかでもよく(?)見かけるとっちゃん坊や。ということで、いろいろやって目立つもんですから、昭和61年/1986年に講談社エッセイ賞をとったときには、
「彼がそのエッセイで“賞”を取った時、「放送作家という人種はもっとイカガワシイ、と思ってました」という感想をもらした審査員がいた。」(『BRUTUS』昭和63年/1988年2月1日号「ON/OFF THE TRACK」より)
といった有りさまで、イカガワしさでは大先輩にあたる野坂昭如さんからは、君はウソをつくのがうまいから小説を書け、と助言されたりしたらしいです。
景山さんぐらいの有名人になりますと、その足跡・業績・言動・その他にくわしい人が、世の中にはわんさといます。ワタクシのような直木賞厨が、わざわざ書き足すことなど何もないのですよ。直木賞に関わりそうなことだけ、すくっておきたいと思います。ええ、もともとそういう浅いブログです。
テレビで仕事するのは40歳まで。と決めていた景山さんが、『BRUTUS』でエッセイの連載を始めたのが昭和58年/1983年、36歳のときでした。これを単行本化した『普通の生活』が、活字のもの書きたちのあいだにも読まれ、山口瞳さんあたりもその文才に注目した、と伝えられています。ええまあ、何つったって山口さんですからね、シブいものがお好みです。
本来なら(というか、自然にいけば)景山さんは、シブみのみなぎる、血湧き肉おどらない小説で、まずは評価される流れもあったはずですが、景山さんのフトコロの深さ、スマートな姿勢でムチャクチャなことをやる性質が出たものか、いきなり(いや、4年半かかって)冒険小説を書き下ろしてしまいます。『虎口からの脱出』です。
昭和61年/1986年12月に刊行されますと、まずは翌年3月、日本冒険小説協会大賞の(内藤陳さんの独断で)最優秀新人賞を受賞。これはまあ、作品の成立そのものに内藤さんがガッツリ絡んでいましたからいいとして、吉川英治文学新人賞にまで選ばれてしまいます。さすがだよ、吉川新人賞。これに授賞するんだからなあ。だからこの賞は信頼され、尊敬され、みんなから愛されるんだよなあ。と思った4か月後に、しゃしゃり出てきたのが、みんなの嫌われ者こと、直木賞。おまえの出る幕じゃないだろ、と周囲からツッコみを受けるまでもなく、候補にした『虎口からの脱出』を落としてみせました。
暴走した想像力のタマモノ、とも言えるこういう作品に、手を差し伸べるようでいて、けっきょく落とす。というのが、1970年代ごろから生まれた直木賞の得意技で、やはり第97回のこの回も、おおむね選考会では(とくにミステリー擁護派三銃士、藤沢周平・陳舜臣・田辺聖子などは)、注文をつけながら好意的に受け止めたんですが、冒険小説の面白みのわからないダメおやじは健在でした。
たとえば山口瞳さんです。
「こういう小説が候補作の主力になるようなら委員を辞任する他はないと思った。但し、景山さんは大変な才人で、小粋な短篇小説も書ける作家だと思っている。」(『オール讀物』昭和62年/1987年10月号 山口瞳選評「山田詠美さんの潔さ」より)
でもなあ。青島ナニガシとは違って、ぶっ飛んだ「つくりもの小説」をいきなり世に問うあたり、景山さんのカッコよさが光った一作だと思いますよ。
景山さん自身、放送作家から作家に仕事を移していきたいと願い、また景山さんの書くもの面白れー、ということになって、一気に活字媒体での仕事が増えていきます。『虎口からの脱出』で吉川新人賞をとった頃には、小説・エッセイの連載7本、月産250枚のモノ書きをこなすまでになっていたんだとか。
そして1年後、昭和63年/1988年・上半期の第99回直木賞がやってきます。以前、「伝説の老害」の異名をとる選考委員、村上元三さんのエントリーでも引用しましたが、景山さんが直木賞受賞をどう受け止めたのか、再度同じ文献を引用しておきます。
「講談社エッセイ賞、吉川英治文学新人賞、日本冒険小説協会最優秀新人賞に、昨年の直木賞ノミネートとくれば、さぞ自信も……と、思いきや「とんでもない。いただけるとすれば『ガラスの遊園地』の方だと踏んでたもんですから、正直言ってびっくり、です。だってこれまでSFっぽいものはダメだったでしょー、ニオイが出ただけでも。そういう意味では選考委員も変わったのかもね。」」(『週刊現代』昭和63年/1988年8月6日号「第99回直木賞 景山民夫氏」より)
「いただけるとすれば」と表現していますでしょ。受賞はまるで意外な出来事だったのではなく、もはや作家・景山民夫は直木賞に近いところにいる、という自覚があったことがわかるコメントです。
『ガラスの遊園地』は、『遠い海から来たCOO』とは違って、自分が(かつて)属していたテレビ業界について、その見聞を生かして書いた小説で、当時『小説現代』がやたら力を入れていた、おじさんおばさんの郷愁をそそる時代回顧モノの一作、といっていいでしょう。常盤新平さんの『遠いアメリカ』や阿部牧郎さん『それぞれの終楽章』の系譜につらなります。これらが直木賞をとるのなら、これだって通るのじゃないか、と思うのが、ごく自然だったにちがいありません。
ところがです。直木賞は、そちらの路線ではなく、『虎口からの脱出』に通じる、景山さんの奇想・空想系の創作のほうを、候補作にしてしまったわけです。まったく直木賞って、なかなか素直じゃない、スジ金入りの変な賞ですよねえ。
○
さて、直木賞をとりました。景山さん、さらに輪をかけて忙しくなった、っていうことが「年譜」に書かれています。
「この年(引用者注:直木賞受賞の翌年)より猛烈に忙しくなる。『週刊朝日』『BRUTUS』『週刊現代』『バッカス』『VOW』『an・an』など6本の連載のほか、テレビ出演、講演会、雑誌・テレビのインタビューなどが入り、休むヒマがない状態が続きながらも、なんとかやり繰りして海外に出かけているような状況であった。」(平成11年/1999年9月・ブロンズ新社刊 景山民夫・著『ハッピーエンドじゃなけりゃ意味がない』所収「年譜」「1989 昭和63~平元」の項より)
なにしろ景山さんは、コソコソ本だけ書いている小説家とは違うのです。顔も名前も売れている、という意味で客の呼べる作家です。前途は明るいものがありました。
明るいもの、ありましたよね? あったはずなんですけど、受賞直後に景山さん自身、(冗談めかしてなのか)こんな不安を口走りました。
「「今年は『世界まるごとハウマッチ』で世界一周が当たるわ、直木賞はいただいちゃうわで、ツキが良すぎてこれから先がとっても恐い!?」と、不安気な景山民夫氏(41)(引用者後略)」(『オール讀物』昭和63年/1988年10月号 グラビアページより)
当時、景山さんの先々に不安を抱いていた人などだれもいなかった、と思います。しかし景山さんの不安が当たった、と解釈するのは後付けなんですけど、その後いろいろなことが起きて、しまいには受賞後わずか10年足らずで亡くなってしまったことは、ことさら言うまでもありません。
受賞したとき、景山さんは憧れの先輩、青島幸男さんのことを例に出されて、同じような道をたどるのではないか、とも言われたんですが、こう返しています。
「青島幸男という、やはり天才型マルチ人間がいて、やはり放送作家から作家へ、彼の場合はさらに政治家へと転身していったが、景山民夫は、政治はいやだと言う。
「青島先生はとても尊敬しているし、彼がいなかったら、僕も放送作家にはなっていなかったと思う。だけど時代背景が違うし、それに僕の母方のじいさんが参議院の議員だったので、子供の頃から、選挙とか政治とか見ているからいやなんですね」と、きっぱりと言った。」(『スコラ』平成1年/1989年3月9日号「景山民夫 作家にいたるまでのとんとん拍子な転がる石人生」より)
政治ではなく、また違った世界へと大きな一歩を踏み出して世間の話題を提供した、という意味では、これも相当なインパクトがありました。
『AERA』の「現代の肖像」で景山さんに取材した野地秩嘉さんがまとめるところによりますと、景山さんがそちらの世界へぐいっと身を入れるきっかけになったのは、これ、直木賞のせいだった、とか何とか。
「放送作家から作家への転身をめざしていた景山にとって、直木賞は望むべく最高の到達点だった。(引用者中略)
(引用者注:受賞発表の日、旅先の九州から羽田に着き)飛行機から下りてバスで空港ビルに向かうと、顔見知りの編集者が出迎え、やにわにVサインを送ってきた。その時ほど嬉しい瞬間はそれまでになかったという。
それほどの喜びだったにもかかわらず、半年もすると「ハンガーな気持ち」が湧いてきた。そうした説明のつかない空虚な気持ちを自覚したことはなかった。狂おしくなるほど憧れてきたものを手に入れても充実した気持ちはわずか半年しか続かない。(引用者中略)いったい自分の望むものは何なのだろうか。そんな、人にむかって問いかけるには照れ臭い、しかし、根源的な問いを毎日、真剣に考え続けていた。
(引用者中略)
直木賞という彼にとっては最高の勲章を取っても充たされなかった心の飢え、そしてその飢えの正体を見つめ続けていたとき、ちょうど現れたのが「幸福の科学」だった。」(『AERA』平成4年/1992年4月7日号「現代の肖像 景山民夫 「幸福の科学」に入信した直木賞作家」より ―文:野地秩嘉)
ほんとだろうか。いやに出来すぎたハナシじゃないか。なにしろ、ウソつき民夫ちゃんでならした景山さんのことですもの。「望むべく最高の到達点」と、本気で思っていたのだかどうだか。直木賞を憧れの対象として肥大化させていた、なんて、大仰なつくり話なんじゃないか。……と、つい疑いたくなるのですが、景山さん自身のことは知らないし、疑ったってしかたありません。「新興宗教入信」の次に、直木賞受賞者としてどんなことをやってくれるのか。それを見ることができなくなったことが、直木賞ファンとしては、ともかく残念です。
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