「『オール讀物』に書かなきゃ直木賞はもらえない、という非難は根強い。」…『読切読物倶楽部』昭和28年/1953年新春増刊号[1月]「直木賞のこと」北島真
■今週の文献
『読切読物倶楽部』昭和28年/1953年新春増刊号[1月]
「直木賞のこと」
北島真
「直木賞に対する批判」をテーマにして、そろそろ1年。いいかげん、別のテーマに変えたいなあと思うんですが、どうしてもこの文献は取り上げておきたいので、ねじ込みました。北島真さんの「直木賞のこと」です。
北島真、とは何者か。ワタクシは全然知りません。
しかし、はるか昔の60年以上まえ、石原慎太郎さんが芥川賞を受賞する第34回(昭和30年/1955年下半期)を、まだ迎えていない時代――要は「当時の直木賞・芥川賞は文壇内の出来事でしかなく、一般的に話題になることはなかった」などと、のちにえんえんと言われることになる昭和20年代後半。たぶん「文壇」からは外れた存在と見なされるはずの、一般大衆向けの〈倶楽部雑誌〉の一コラムで、ポロッとこんなことを書いてしまっているスーパー・ライターとして、記憶されるべき人物にちがいない……というのは言いすぎでしょうが、まあお聞きください。
もう一回くりかえしますが、昭和28年/1953年1月に刊行された、つまりは直木賞では第27回に藤原審爾が受賞、芥川賞は第26回堀田善衛さんに贈られ第27回該当者なし、と決まったあとぐらいに、文学亡者たちの読む文芸誌ではなく、娯楽をもとめる人たちのための読物雑誌に載った文章です。
「既に誰知らぬ者もないことなのだが、芥川賞と同じく直木賞は故菊池寛氏が亡友の名を冠した文学賞の制定によつて、文運の興隆を計り友の名を長く伝えようとしたものである。また芥川賞は純文学を志す無名の新人に、直木賞は相当の労作を発表して来た大衆文学の作家に受賞されるという説がある。
何れも制定の趣旨をこえて、一箇の社会的事実にすらなつているのだから、これは承認していゝことだろう。」(『読切読物倶楽部』昭和28年/1953年新春増刊号[1月] 北島真「直木賞のこと」より)
ほんとうに、「すでに誰知らぬ者もなかった」のか。真偽は確かめようもありません。ただ、芥川賞と直木賞のそれぞれの受賞傾向を解説するにあたって、わざわざ「という説がある」と言っています。自分の見聞や感覚にすぎないことを、あたかも事実であるかのように断言しちゃう文壇ライターとは違って、相当に信頼感がもてるところです。そして、あえて「説がある」と言いながら、でも「一箇の社会的事実にすらなっている」から、その説は認めていい、と言っています。
この「社会的事実」っつうのは、なかなかキワドい表現です。芥川賞(プラス直木賞)が「社会的ニュース」「社会的な話題」として見られるようになったのは、昭和31年/1956年1月の石原慎太郎さんの第34回芥川賞受賞以後だ、という定説があります。ワタクシもニュースとか話題とかは好きなので、どうしてもそこに引きずられてしまうんですが、しかしそれ以前の両賞はどうだったんでしょう。
北島さんの文章を読むと、やはり「直木賞・芥川賞は一般に知られていなかった」とするのは正しくなさそうです。ニュースや話題とまでは行かないまでも、社会的事実、と言えるほどには一般に流布していたのではないか。そして、パーッと盛り上がったり受賞直後はマスコミに引っ張りダコ、なんて状況がないのにもかかわらず、直木賞と芥川賞が(何となくでも)一般に知られていたのだとしたら、これは文学賞として、すでにかなり異常な存在感です。
そもそも、読み捨ての最たる媒体、といってもいい倶楽部雑誌が、昭和20年代に、直木賞を中心に据えた「大衆文芸受賞作品選集」なんて増刊号を出していることからして、読者に対して文学賞がどれだけ強いアピール性をもっていたのか、わかろうってもんです。
ちなみにこの号の内容を紹介しておきますと、受賞作品ではない作品を寄せている作家が3人。井上友一郎「夫と恋人」、田宮虎彦「流転の剣客」、小山いと子「原罪」、あわせて「新春特選三人集」のくくりです。
そして「特集大衆文芸受賞作品選集」と題されて11作品が掲載されています。
「女流文学賞」から第4回「鬼火」吉屋信子(……これが「大衆文芸受賞作」のひとつに数えられているのはどうかと思うんですけど)。
「サンデー毎日賞」(正確には『サンデー毎日』大衆文芸懸賞)から第17回「泣くなルヴィニア」村雨退二郎、第23回「約束」山岡荘八、第32回「ねずみ娘」宇井無愁。
そして「直木賞」の受賞作から選ばれたのは、第3回「天正女合戦」海音寺潮五郎、第12回「上総風土記」村上元三、第13回「雲南守備兵」木村荘十、第21回「面」富田常雄、第24回「長恨歌」檀一雄、第25回「英語屋さん」源氏鶏太、第27回「罪な女」藤原審爾という布陣です。
さらにこの特集がエラいのは、吉屋、村雨、山岡、海音寺、木村、富田、檀の7名の「受賞作品の思い出」っていう囲みコラムを載せているところ。木村さんの「雲南守備兵」は、現地取材から成り立ったものなのではなく、アメリカの新聞記者の旅行見聞記を参考にして、雲南地方の世相、実話、風俗を調べ、ありそうなこと、起こりそうなことを想像で書き上げたものだとか。海音寺さんの「天正女合戦」は、『オール讀物』編集長の菅忠雄さんの勧めで書き始めたところ、なかなかの好評を獲得。菅さんからは「受ければ(連載を)延ばす」とも言われていたため、長く書こうかと思っていた矢先、編集長が永井龍男さんに変わり、「三回で書き切ってほしい」(実際は4回で完結)と要求されてしまったので、最後はかなり端折ったかたちになった。そのことから後年、同じ材料で長篇小説「茶道太閤記」を書くことにつながったのだとか。
もっとこの特集がエラいことには、北島さんの「直木賞のこと」、村田芳郎さんの「サンデー毎日賞のこと」、と題された文学賞解説記事が載っているところだ、っていうのは、もう言わずもがなですね。これら文学賞てんこもりの様子に惹かれて、昭和28年/1953年に生きていた文学賞マニアたちがどどっと書店に押し寄せた……のかどうかは知りませんが、めぐりめぐって、ワタクシの手もとにやってきてくれたのですから、文学賞への興味は時を超えて生きつづけるのだ! とうれしくなるわけです。
北島さんの記事に戻りますと、これ全篇、直木賞礼讃、と言っていいでしょう。北島さん自身は、直木賞を(それこそ社会的事実に鑑みて)好意的にとらえています。しかし当然、昭和20年代にだって、直木賞にケチをつける人はいたらしく、そのひとつが紹介されているのでした。
「両賞の推進母体は財団法人日本文学振興会であるが、それは文芸春秋社内に置かれてある。このため「オール読物に書かなけりやあ、直木賞は貰えねえじやないか」という文壇人の非難は根強いものがある。」(同)
まだ一般には、直木賞への批判は社会的なものではなかったのか、「文壇人」による非難が挙げられています。しかも「根強い」のだそうで、たしかに直木賞は『オール讀物』のためにある賞、と見ても間違いではないでしょう。
さあ、ここで直木賞擁護派の北島さんが、どう迎え撃つか。直木賞に対する批判、そしてその反論が見られることが、このコラムの最大の見せ場です。ガンバレ北島!
「然し、こうした批判とは別に、直木賞が今日の大衆文壇に与えた影響は激甚なものがある。極めて低俗な講談的大衆文学を、どうにかこうにか今日のものに導いて来た功績は直木賞にあるので、それ以外の何処にもありやしない。講談社の無定見さとは対蹠的なものがある。」(同)
あはは。返す刀で思いっきりの講談社批判ときました。
でも北島さん。無定見さでは直木賞もヒトのこと言えないんじゃないの。と、つい囁いてみたくなるところではあります。私見では、直木賞が大衆文壇に与えた影響、というよりも、「大衆文壇」なんてものがおぼろげながら形づくられていたのは、ほぼ直木賞があったからでしょう。直木賞がなきゃないで、大衆文壇なるものは消えるなりして、別のものになったでしょうが、それで一般向けの小説が「低俗な講談的大衆文学」ばかりになっていた、とは言えないのではないか。
他に北島さんがどんなところで、どんな文章を書いていたのか、まったく知りません。大衆文学、大衆文壇、直木賞についてどのように考えていたのか、もっともっと、読んでみたい書き手です。気取ったふうに直木賞にケチつける人はたーくさんいますけど、そういった批判に真正面から反論しようとする人は、なんつっても稀少ですから。
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