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2015年4月12日 (日)

「菊池寛は「直木賞をやめてしまおう、とときどき思う」と言っていた。」…『別冊文藝春秋』49号[昭和30年/1955年12月]「苦と楽の思ひ出」宇野浩二

■今週の文献

『別冊文藝春秋』49号[昭和30年/1955年12月]

「苦と楽の思ひ出
――芥川賞、直木賞詮衡委員としての思ひ出――

宇野浩二

 宇野浩二じいさんが、芥川賞ファンのみならず直木賞ファンからも慕われているのは、何といっても、選評や回想文で見せるアノ異様な記録癖を、直木賞に対しても発揮してくれているからだと思います。

 あ、「じいさん」とか言ってすみません。宇野さんが直木賞の選考委員を兼任でやらされたのは、昭和14年/1939年下半期からの2年間。宇野さん、まだ50歳になるかならないか、ぐらいでした。いまの直木賞の委員のだれよりも若い、ピッチピチのお年ごろ。そのたった2年のことを、他の戦前期の(直木賞専任も含めた)委員に劣らないぐらいの長文で、克明に、熱く語っちゃっている。日ごろ脇におかれることの多い直木賞資料のファンが、宇野さんのことを神認定するのも当然でしょう。

 昭和20年代後半から昭和30年代にかけて、直木賞・芥川賞が世間の話題になった(と言われる)石原慎太郎さんの登場をまたずして、『別冊文藝春秋』がにわかに、選考委員だの関係者だのの、両賞にまつわる回想録をこつこつと掲載しはじめました。「文学の鬼」にして「芥川賞の鬼」こと宇野さんも、この流行に狩り出されまして、「回想の芥川賞」を同誌29号(昭和27年/1952年8月)と30号(同年10月)に発表します。

 それじゃまだまだ足りないっすよ、宇野先生! と文春の編集者が思ったのかどうかは知りませんが、昭和30年/1955年には、

「芥川賞の詮衡委員として苦しいと思つたことと楽しいと思つたことの思ひ出を述べてほしい、といふのが、編輯者の註文である。」(『別冊文藝春秋』49号[昭和30年/1955年12月]宇野浩二「苦と楽の思ひ出――芥川賞、直木賞詮衡委員としての思ひ出――」より)

 という新たな発注を受けて、宇野さん、また新たに第6回(昭和12年/1937年・下半期)に委員に就任してからの各回の思い出を、じっとりと書き下ろすにいたりました。

 書き下ろすことにはなったんですが、資料として記録されていない(裏話のような)ことを記憶を頼りに書くわけですから、これが全部、じっさいに起こった事実かどうかは疑うべきところではあります。宇野さんも、言い訳しています。

「ここで断つておくが、これまで述べた事は、(これから書く事も、)何分十七八年も前の事を殆んど記憶だけで述べるのであるから、マチガヒがところどころにあるかもしれない事を、お断りしておく。」(同)

 たとえば、第6回の直木賞で、井伏鱒二『ジョン萬次郎漂流記』と橘外男「ナリン殿下への回想」が最後まで争った、と紹介しているところ。

 井伏さんのほうが受賞と決まったが「『ナリン殿下への回想』は、落とし兼ねるから、つぎの回で、当選させよう、といふ事になった」というんですが、えっ、そうなんですか。そういえば、「ナリン~」は『文春』2月号に掲載ですから、選考会のときに委員たちが読んでいたかもしれないし、話題にはなったかもしれません。でも、第6回の対象期間から外れているのはわかり切ったことです。それが、どちらを取ろうか最後まで議論されるもんでしょうか、どうでしょうか。

 あと、こういったとっておきの(?)思い出バナシもあります。直木賞委員たちの欠席率があまりに高かったために、芥川賞委員だった宇野さんたちに、直木賞のほうにも参加してほしいとの話があったころのことです。……ただし、こちらも宇野さんが繰り返して、又聞きの又聞きだから間違いかもしれないよ、と機先を制してから紹介しているので、要注意ではあります。

「私たちが直木賞の詮衡まで頼まれた時分の或る日、大佛次郎が、日本文学振興会の誰かに、芥川賞の詮衡委員の人たちは、詮衡をするのに、議論があまりはげしく喧まし過ぎるから、あの何人かの委員の中から、代表者として、「川端さん(引用者注:川端康成)一人にしてくれないか、」と、顔に例の笑ひをうかべながら、申し出たことがあつたさうである。」(同)

 ほんとうの話なら、むちゃくちゃ面白いんですけどね。直木賞の選考会は、芥川賞に比べて、そんなに激しい議論もなく進行されていた、と小島政二郎さんや永井龍男さんも証言していましたが、そこにいきなり熱湯がそそがれるのを懸念した大佛さん。代表者として川端さんひとりを指名したとか。ほんとかよ、と思っちゃいます。ありそうな場面ではありますけど。

 ともかく、こうして芥川賞委員が、直木賞の選考にも参加することになりました……。第10回(昭和14年/1939年・下半期)から第13回(昭和16年/1941年・上半期)。この2年間の試み、けっきょく何だったんでしょうか。2年で立ち消えになったわけですから、はっきり言って失敗だったんでしょう。たしかに、直木賞専任だけでやっていても同じ授賞結果になっていたんじゃないか、としか思えないですもん。せっかく忙しい芥川賞委員に依頼した意味、どこにあったんでしょうか。まったく見いだせません。

 宇野さんもまた、この時期のことを、「苦しみのほうの思い出」として書いている段落のなかで取り上げています。岩下俊作「富島松五郎伝」の、例の「直木賞へのスライド事件」のことです。

「直木賞といへば、第何回であつたか、芥川賞の候補作品のうちの一つになつた、岩下俊作の『富島松太郎伝』を読んだ瀧井孝作が、例の上の前歯が見えるのが愛敬になる笑ひ方をして、『富島松五郎伝』は、なかなか面白いところがあるが、直木賞の方にまはした方が……と云つた。私は、それに同感であつたから、そのやうに計らつたが、『富島松五郎伝』は、瀧井や私の目がくもつてゐたのか、直木賞を授けられなかつた。」(同)

 この一件など、もし成就していれば、戦前の直木賞を紹介するときの、有名な逸話として語り継がれていたはずで、そうなれば多少なりとも、芥川賞委員の参加も意味があった、とか言われるようになったに違いありません(たぶん)。なんでこのとき、「富島松五郎伝」に授賞しなかったのか。悔やまれます。

 さて、現在うちのブログのテーマは「直木賞に対する批判の系譜」です。何か直木賞を批判しているような文章を、紹介したいところなんです。ただ、宇野さんにとって直木賞は、あくまで一時的にお願いされて同席しただけの、他人の集まり。はっきりと、直木賞の何がダメとかは言及していません。思い出バナシ、それから人から耳にしたことの紹介、などに終始しています。

 そのなかで、直木賞批判、というよりも、直木賞の存続にも関わる発言について触れられているので、今日はここを取り上げたかったのでした。

「直木賞のことでふと思ひ出したことがあるから、書いておく。

 ある時、やはり、詮衡会の席で、菊池(引用者注:菊池寛)が、例のやうに、突然、つぎに述べるやうなことを、云つた。

「大佛(引用者注:大佛次郎)君、……僕は、『大衆』で通すつもりだけど、君は、『純文学』の方にずゐぶん色気がある、……」

 かういふ事を云つた菊池が、別の時、独り言のやうに、どういふわけか、私に、「僕は、ときどき、直木賞を止めてしまはう、と思ふことがあるよ、」といふ意味のことを、はつきり、云つた。」(同)

 菊池さん……。ときどき、ってことはけっこう頻繁に、考えていたんですね。直木賞の中止を。

 社会的な話題にまではなっていなかった、とか言われながら、いやいや戦前からちょくちょく、新聞にも雑誌にも取り上げられていた芥川賞。半年に1回ごと、作家志望者も、文壇作家たちも気にして、注目して、議論のタネになっていた芥川賞。それに比べて、選考委員もろくに出席せず、出席する少数の人間にしてからが、お茶でも飲みながら世間話をしにくる感覚で、選考にあたっていた、ぐだぐだな直木賞。いったい、これやっていて、何の意味があるのか。菊池さんが日々、疑い、不安になり、こんなもの止めちまえ、と思っていたとしても、そりゃ不思議はありません。

 仮に、戦前のどこかで直木賞が中止、消滅、雲散霧消していたとしましょう。それによって日本の文学史に何の影響も与えなかったのは確実、と思えるところが悲しくもあり、情けないおハナシなわけですが、しかし、菊池さんの「直木賞なんて止めちゃいたい」の気持ちを思いとどまらせたものは、果たして何だったのか。……文学賞制度には悪評がつきまとっていたうえ、直木賞には意義がある、続けるべきだ!みたいな強い応援の声も、聞いたことがありません(あります?)。ひとえに、こちらは強く存続の意思の感じられる芥川賞、そのついで、といった惰性感がぷんぷんと匂う、昭和10年代の直木賞なのでした。

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