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2015年3月の5件の記事

2015年3月29日 (日)

「選考委員に評論家が加わっておらず、作家ばかり。」…『文學界』昭和25年/1950年11月号「文学主権論」大宅壮一

■今週の文献

『文學界』昭和25年/1950年11月号

「文学主権論」

大宅壮一

 大宅壮一さんには、「文壇ギルドの解体期」っつう、非常によく知られた評論があります。

 書かれたのは大正15年+昭和1年/1926年です。それまでの文壇は職人世界そのものであり、〈親方〉になるためにはまず〈徒弟〉を経験しなければならない、仲間入りを果たすには〈親方〉連に認められる必要があり、それ以外から入ってこようとする〈素人〉に対しては排他性が発揮され、侵入できないようになっている。しかし大正15年の状況を見ると(素人の文壇侵入、プロレタリア文芸運動の勃興、純文芸雑誌・出版の不振、文壇内での企業熱の高まり、などなど)、文壇ギルドが解体しつつあるいくつかの兆候が見られた……と言うわけです。

 ここで「もう完全に解体しきった」などと大言壮語してみせなかったところがミソでして、それから24年たった昭和25年/1950年、大宅さんはこう書きました。

「私が「文壇ギルドの解体期」を書いたのは今から二十五年前であるが、今だにその性格は失われていない。そしてその性格が芥川賞の中にもっともよく現われていることは、前にのべたところによって明らかであろう。」(『文學界』昭和25年/1950年11月号 大宅壮一「文学主権論」より ―引用原文は昭和34年/1959年10月・筑摩書房刊『大宅壮一選集9 文学・文壇』)

 「前にのべたところ」というのは、何のことか。段落をさかのぼって引いてみます。

「芥川賞の目的は、有力な新人を文壇に送りこむことである。折紙をつけることである。その折紙も、ジャーナリズム市場がつける前に、作家自身の手によってつけようというのである。

(引用者中略)

芥川賞の選者というのは、現文壇の長老に、もっともイキのいい新人のスター・プレヤーズを加えた一流メンバーである。かつては日本の文壇も、ワールド・シリーズのアメリカン・リーグとナショナル・リーグみたいに、ブルジョア派とプロレタリア派に二分されていたが、今はその区別がなくなったというよりも、後者は前者によって、少くとも市場面においては、完全に打倒された形である。それだけに、前者を代表する人々の市場支配力は非常に強大である。いや絶対的であるともいえよう。この伝統の上に立つ芥川賞が、すべての文学賞の中でもっともポピュラーであり、権威がある。そればかりでなく、実際的な効果をもっていることはいうまでもない。」(同)

 いま、ワタクシたちがリアルタイムで見聞している芥川賞(大宅さんのここには出てきていませんが直木賞も)は、例の、芥川賞を変えたとまで言われる「太陽の季節」騒動以後のものですが、上記の大宅さんの文章は、その5、6年ほど前のものです。それなのに、現状の芥川賞を指摘していると見なしても、あんまり違和感がなくないですか? まったく何十年たっても変らないんだねえ芥川賞、むふふふ、とついニヤけてしまう場面です。

 それで、文壇ギルドだ何だ、みたいなおハナシがつづくのであれば、直木賞の出る幕はありません。いや、そりゃあ大衆文芸の世界にだって、当然、大衆文壇と呼ばれるものがあって、有力な先輩作家から認められないとその仲間入りができない、といった風習はあります。直木賞受賞者が選考委員をつとめ、直木賞受賞者ばかりたくさん選ばれる、柴田ナントカ賞とか中央ナントカ賞とか吉川ナントカ賞とかがあるのは、その典型なんですが、ご存じのとおり、こういう文学賞はまるっきり読者には相手にされていません。大衆文壇(エンタメ文壇と言い換えてもいい)に生息する作家たちの、箔づけオンリーのためにある、はっきり言ってどうでもいい賞です。

 対して芥川賞の系列は、そのギルドに入れるかどうかが、職業として作家生活を送るときの死活問題に関わっています。いちばんでっかい効果をもたらすのは芥川賞ですけど、その他、三島賞、野間文芸賞あたりすら贈られない人は、長く商業文芸誌界隈でお仕事が続けられません。大変な世界だなあと言いますか、正直、自らこういう世界に関わり合いたいと願うのは狂人ぐらいだと思います。

 芥川賞には、文壇ギルド的性格がある、と大宅さんは言いました。しかし、そのことを問題視しているわけではないのです。では、何が問題だというのでしょう。

 作家だけが選考委員になっていることが異常だ、というのです。

「芥川賞の選者はすべて作家であって、批評家は一人も加わっていない。この点も他の文学賞とちがっている。

(引用者中略)

数多くあるこの国の文学賞の中で、選者が作家だけで構成されているのは、芥川賞とその姉妹関係にある、直木賞くらいのものであろう。これはいずれも物故作家を記念するものであるから、その銓衡を作家が担当するのは当然だといってしまえば、それまでであるが、他の文学賞が必ずしもそうでないところをみると、芥川、直木両賞の特殊な性格がうかがわれる。」(同)

 さすが大宅さんだ。単に「直木賞・芥川賞の選考委員には評論家がいない」ぐらいのことなら、いっぱしの口を叩く小学生でも言えちゃうことですが、そこに他の文学賞とちがう特殊性がある、と目をつけるあたりが素晴らしいです。

 たとえば、芥川賞のライバル賞と目されて(昭和25年/1950年の段階では消滅しちゃっていたものを含めた)文学賞の様子をうかがってみますと、新潮社文藝賞(第一部)には杉山平助、「文藝」推薦作品には青野季吉、横光利一賞には小林秀雄、河上徹太郎、戦後文学賞には佐々木基一、花田清輝、小田切秀雄、公募の新潮社文学賞には河盛好蔵などなど……。戦争中に、選考ができそうな人員が不足したため(たぶん)人数合わせのように2年間だけ河上徹太郎さんに参加してもらった芥川賞は、けっきょく戦後復活のときにオール実作家にしちゃったのだから、特殊だと言われても仕方ないでしょう。

 その特殊性はいったい何に起因しているのか、といえば、大宅さんは、この二つの賞をつくろうと発案したのが菊池寛さんであったことが大きいと見ます。菊池さんは自身が、芥川龍之介、直木三十五ふたりの文学的性格にも通じた作家だったわけですが、それだけじゃなく、企業を主宰する経営者でもありました。文学賞の骨格・根底をつくりあげるのは、選者よりもまず、主催者の権限に属します。菊池さんが音頭をとったからこそ、文壇ギルドへの入門を審査する主権を〈文学作品の生産者=作家〉がにぎることになった……と。

 でも、その文学の主権とやらを、ほんとに〈生産者〉だけが代表していいのか、というのが大宅さんの問題意識らしく、では〈消費者〉の立場としてだれが主権者になり得るかを論じていきます。

 消費者といえばまず〈読者〉だけど、おいおい、文学の主権を読者に委ねられるか? 危険すぎるよね。〈出版社〉はどうだろう。これもまた損得勘定で動くだけだから超絶に危険。となれば、ってことで、読者でもあり、出版社の立場も兼ねることができ、作家の味方にもなれる〈批評家〉が、どうしても求められるのだと、大宅さんは言うのでした。

「今の文壇に一番欠けているのは、この種の批評家が存在しないことである。存在していても、現実にそういった役割を果していないから、存在しないと同然である。

今日の文壇には、主権が行方不明でどこにあるのかわからないというものも、実はそこからきているのである。」(同)

 直木賞の立場からすると、もうほとんど対岸の火事というか、よその国のハナシをされているようで、ポカーンと口をあけるしかありません。

 大衆文藝の場合、生産者である作家に対峙する消費者として、〈読者〉が想定されることが自然です。要するに「読者に支持されるやつがいちばんエラい」みたいな風潮が、ずっとありました。いまもあります。そして読者人気はたいていミズ物ですから、作家が死ねば急激にしぼむのが当たり前、そのほとんどがのちの世に残ったりはしません。御大・直木三十五さんの、生前の人気ぶりと没後の忘れられっぷりなど、直木賞をとりまく世界では、ぎゃあぎゃあ騒ぐようなことでもありません。普通のことです。

 直木賞は、選考委員といえば、ひとり残らず作家だけでやってきました。仮に、選考委員に尾崎秀樹さんのような大衆文壇にくいこんだ評論家が加わっていたら。はたまた、一般読者とか、読者の声を代弁してくれる書店員とかが混ざっていたら、どうなるのか。……〈徒弟〉から〈親分〉に格上げさせてもらった選考委員の面々が、「これは文学性がある」と認める賞になるか、それとも、そのうち衰退していくに決まっている〈読者人気〉とやらで一喜一憂、5年後10年後のことなどシリマセン、っつう賞になるか。

 どう転んだって、けっきょくむなしいものでしかない、という。直木賞というのは、つくづく哀しい存在だよなあと、思わず胸にせまるものがあります。……ありますよね? そして、そのむなしさこそが、直木賞の魅力のひとつなんだと、ワタクシは声を大にして言いたいです。

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2015年3月22日 (日)

「直木賞の受賞作は、秀作とはかぎらない。」…『文藝首都』昭和45年/1970年終刊記念号[2月]「文芸首都のOB」藤井重夫

■今週の文献

『文藝首都』昭和45年/1970年終刊記念号[2月]

「文芸首都のOB」

藤井重夫

※こちらのエントリーの本文は、大幅に加筆修正したうえで、『ワタクシ、直木賞のオタクです。』(平成28年/2016年2月・バジリコ刊)に収録しました。

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2015年3月15日 (日)

「娯楽のために書かれた小説は、大衆小説として評価できても、文学じゃない。」…『純文学と大衆文学の間』昭和42年/1967年5月・弘文堂新社刊 日沼倫太郎

■今週の文献

『純文学と大衆文学の間』昭和42年/1967年5月・弘文堂新社刊

「第一章 純文学と大衆文学の間」

日沼倫太郎

 直木賞を他の文学賞と比べてみますと、その異常さにいろいろ気づきます。ここまで異常なら、もうこれは「文学賞」と呼んじゃいけないんじゃないか、とひそかに思うほどです。

 その異常性のひとつが、これでしょう。「大衆文学」との関係です。

 「大衆文学」といえば、「直木賞とは何の賞か」を語るときには、かならず出てきます。「直木賞は大衆文学のなかから選ばれる」とか、「直木賞は優秀な大衆文学を選ぶ賞だ」とか。だけど、大衆文学って何すか。何が大衆文学で何がそうでないか、なんてことは、この用語が生まれて90年余り、さまざまな人がさまざまに論じてきました。時代に応じて、言われることもどんどんと変わり、はっきり言って、まともに線引きできた人などいたの? と思うほかない混沌とした有り様。

 直木賞の選考委員のあいだでも、「大衆文学」観はひとりひとりちがうくらいです。なのに「直木賞は大衆文学を選ぶ」などと、さらっと表現されている。これが「大衆文学」だと規定できるものがないので、選考過程で大衆文学とは何か、なんてことが議論されたり、面倒くさいから無視されていたりする。これを胡散くさいと言わずして何というんでしょう。

 時代に応じて変わる、と言いましたけど、あなた。ここ何十年間かは世間でも、もう「大衆文学」っちゅう単語はほとんど使われなくなりまして、この言葉を目にするのは、直木賞まわりの文章だけと言ってもよくなりました。替わって「エンターテインメント小説(文学)」などという、なかなかセンスのない用語で置き換えられることもありますが、たとえば『昭和の犬』はエンターテインメントなのか? 『ホテルローヤル』は? 『漂砂のうたう』は? 『月と蟹』は?……と考えていくと、どうもエンターテインメントと言っちゃうとしっくり来ない受賞作が、ボロボロあります。

 けっきょく直木賞とは、どんなものを選んでいるのか。まとまりがありません。そこで面白いことが起こります。直木賞を見ている人の意識です。ここが異常なところなんですが、主客転倒といいますか、「直木賞で選ばれた作品なんだから大衆文学なんだろう」って考えかたが生まれるわけですね。

 大衆文学とは何を指すのかよくわからない。でも「直木賞」で選ばれるような作品、と言えば、何となく(ほんとに何となくのイメージで)多くの人がうなずいてしまう。あたかも「直木賞」という、ひとつの文学ジャンルが存在しているかのような(でもじっさいは、そんなものあるわけがない)状況。……まったく異常と言うしかありません。

 昭和30年代末期から昭和40年代に、日沼倫太郎さんという、いまではほとんど読まれなくなった評論家が活躍(?)しました。亡くなったのは昭和43年/1968年、43歳でした。

「日沼倫太郎は、生前、六冊の単行本を成した。そのうち四冊は、死の前年の昭和四十二年にあわただしく刊行された。完成をいそぎ、死をいそぐという感じだった。」(平成4年/1992年3月・日本図書センター/近代文藝評論叢書 日沼倫太郎・著『文学の転換』所収 阿部正路「解説」より)

 というその「四冊」のうちの1冊が、弘文堂新社から刊行した『純文学と大衆文学の間』です。タイトルどおり、純文学と大衆文学との違いは何か、といった視点を中心に、両者に関する評論をまとめたもので、たとえば、水上勉さんが自作「雁の寺」をまるで純文学であるかのように自負して言っているけどバカじゃないの? みたいなことも書かれています。

 いや、それ以外のことも、当然わんさか書かれているんですが、ここでは「雁の寺」と、水上勉の調子に乗った発言に対する日沼さんの言説を取り上げるにとどめます。そりゃそうです。直木賞専門ブログですから。

 日沼さんが攻撃しているのは、『大衆文学研究』3号[昭和37年/1962年4月]に載った座談会「推理小説のゆくえ」での、黒岩重吾、水上勉ふたりの発言に対してです。

「黒岩/雑誌にのっておったんだが純文学の最低と、僕らのが同じだという……僕にとっては、純文学も、大衆文学も、推理小説も、時代小説も、そんな区別はないんです。ただ、人間や社会のどす黒さ、美というものを一人でも多くの人たちによんで貰ったら満足ヤ。

 黒岩氏は、自分の作品が大衆によまれているのは、推理小説としての約束ごと、つまり、通俗性やサスペンスによってではなく、自分がつくり出した作品のなかの「人間や社会のどす黒さ、美」といったものによってだというのである。これは水上氏の「こちらは推理文学をやったり、純文学を書きたいと思っていないんだから、最低でも最高でもどっちでもいい」という発言ともつながっている。それでは、水上氏はいったい何をやろうとしているのか。〈文学〉だというのである。」(日沼倫太郎・著『純文学と大衆文学の間』より)

 冗談じゃないぜ、勉よ。と日沼さんは、いかに「雁の寺」が推理小説であり娯楽小説である(ことを志向して書かれたか)を切々と論じていきます。娯楽小説は、すでに娯楽小説であるがゆえに〈文学〉たりえない、というのが日沼さんの持論らしいので、(日沼さんのなかではあくまでも、純文学=文学であって、それ以外のものは文学の名を騙る真っ赤なニセモノ)、水上さんの発言に食ってかかるのも、当然といえば当然でした。

「正直なはなし、わたしは、『風部落』(引用者注:水上勉が昭和23年/1948年に出版したもの)に収録されている『山上学校』――代用教員時代の体験を素材にした作品――や、慈念の前身を思わせる純吉という少年の寺での生活をかいた『我が旅は暮れたり』(引用者注:水上勉が『文潮』昭和23年/1948年10月に発表したもの)という作品をよんで、『雁の寺』や『霧と影』と同じ態度でかかれたものだとは決して思えなかった。

(引用者中略)

 この二つの作品をよんで私が感じたのは、水上氏自身の内部にある素朴で美しい魂といったものである。ここには、まぎれもない一つの文学的体験がある。それは『雁の寺』といった大衆小説としてはすぐれているかも知れないが、本質的には純文学作品でないものからはとうていうけることができない感動がある。」(同)

 「大衆小説としてはすぐれているかも知れないが」と日沼さんは言います。じっさい日沼さんは、この作品を評価していないわけじゃないんです。あくまで純文学ではないところで、この作品は成功している、と。たしかに成功している、だからといって〈文学〉がどうだとか言い出すからムカッとくるんだ、という日沼さんのイラだち。まだまだ続きます。

「水上氏が、『雁の寺』を〈文学〉だと思いこんでいるとすれば、あきらかにごま化していると私はいうのである。早いはんし、『雁の寺』は何よりもさきに現実に存在する読者を目指し、推理小説としての枠ぐみを設けてかかれている。決して自己の内部を、自我の表現を、精神の未知の領域をきりひらくためにかかれた作品ではない。

(引用者中略)

通俗小説(娯楽小説)はぜったいに〈文学〉たり得ない。あくまでも大衆の消閑に供される消耗品にすぎない。娯楽が目的なのである。(引用者中略)このような目的をもつ通俗文学娯楽小説に〈文学〉を求めるのは、まちがいなのだ。それは、錬金術師が鉛を金にふきかえるように、不可能なのだ。不可能を可能なものとして錯覚するところに、水上氏や黒岩氏の誤算があった。水上小説の確立を志向しているが、それはあくまでも文学としてではなく、娯楽小説としてのみ可能なのだ。」(同)

 娯楽が目的だと、絶対に〈文学〉にならない! というのは急進的すぎて、あるいは単なる言葉遊び、概念遊びにすぎて、そこまで熱くならんでもいいじゃないか、と思うわけですが、そうなると直木賞など、昭和40年代からだんだんと商業誌に発表された作品(商業的に刊行された作品)へとシフトしていくわけですから、日沼さんにとっちゃ子供のお遊びにしか見えなかったかもしれませんね。直木賞って、けっきょく「大衆文学」などという、奇妙な概念・言葉のなかでキャッキャとじゃれ合う〈文学ごっこ〉じゃん、というような。

 上記引用箇所を含めて、日沼さんはこの本のなかで、純文学と大衆文学、もしくは通俗小説・娯楽小説のことは、さんざん語っています。「直木賞」とか「芥川賞」とかの言葉は、それほど多く登場しません。いちいち「大衆文学」を語るときに直木賞のおハナシなどしなくてもいい、っていう時代といえば時代なのかもしれませんけど、「大衆文学」に興味をもち、一家言をもつほどだった日沼さんが、直木賞のことをどう考え、どう見ていたのか。深く知れなくて残念です。だからほんとは、「直木賞に対する批判の系譜」のテーマで取り上げるべきじゃありませんでした。すみません。

 ただ、純文学と大衆文学の違いを、平気で「芥川賞と直木賞の違い」のハナシと混ぜ込みながら論ずるような、異常なキショく悪さがないのはたしかです。いま読むと一種すがすがしささえ覚えるのが、この本のとりえかもしれません。

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2015年3月 8日 (日)

「こんなもの、いくら何でも、永続きするとは思えない。」…『読売新聞』昭和11年/1936年4月28日「文藝賞合併論」貴司山治

■今週の文献

『読売新聞』昭和11年/1936年4月28日

「文藝賞合併論 最近の文壇に寄す【二】」

貴司山治

 世の中には、文学賞を嫌っている人たちがいます。文学者(作家、評論家)のなかにだって(なかにこそ?)、過去から現在にいたるまで、けっこういるらしいです。

 何ぶん文学賞は、ほら、カネがからんでいるし。党派性・政治性が渦巻いているし。などなど、いわば「俗事」っぽさが特徴のひとつですから、文学の芸術性とは相容れない、だから嫌いだ、となるのかもしれませんね。まあ、個人的に文学賞を嫌いになったことがないので、よくわかりません。

 直木賞・芥川賞は、昭和9年/1934年に創設が発表され、翌年の8月、第1回の結果が発表されました。直木賞は(文学界隈ですら)ほとんど話題にならなかったんですが、芥川賞はやんややんやと外野からヤジが飛び交うにぎわい。「成功」の部類に属するくらいに盛り上がりました。

 そんな芥川賞の俗っぽさに鼻をつまみ、こいつは悪者だ!と糾弾する意見も、当時なかったわけじゃありません。たとえば、矢崎弾なんちゅう俗物が、石川達三を強引に推薦したりして、受賞工作に動きまわったらしいぞ、オエッ! みたいなゴシップ記事とか。しかしながら、すでにこのとき、芥川賞を上まわる悪のボスキャラみたいなやつがいたもんですから、文学賞を批判したい人たちの矛先は、そちらのほうに流れ、芥川賞、あまり傷つかずに済んだ、って面もありました。

 悪役に抜擢されたのは、誰だったか。……ご存じ(?)文藝懇話会賞です。

 とにかく文学賞っつうのは、胡散くさいシロモノだぜ、みんな踊らされるなよ。……つう、誰もが自然に感じることは、当然、昭和10年/1935年ごろの方々も感じたみたいです。プロレタリア陣営きっての売れっ子・大衆作家、貴司山治さんなどは、もう文学賞のことをケチョンケチョンにこき下ろしてみせたのでした。

「この間、ある雑誌から往復ハガキで「文藝賞の将来は?」といふ質問を受け、僕は「間もなくおやめになるだらう」と答へておいた。

 事実、今はやつてゐるやうな文藝賞が三年つゞいたらおかしい位である。何故といふまでもない。この流行のさきがけをなした文藝懇話会賞は、あの通り最初からインチキをやると相場のきまつた文藝賞である。」(『読売新聞』昭和11年/1936年4月28日 貴司山治「文藝賞合併論 最近の文壇に寄す【二】」より)

 急に流行しだした文学賞、そのさきがけをなしたのは文藝懇話会賞だ、と貴司さんはおっしゃいます。そして、さきがけにして、すでに猛烈に胡散くさい。カネ(賞金・運営費用)は右翼バリバリ全開の男、文藝を国策の道具にしようという下心みえみえの松本学さんが出しているは、その松本さんったら、島木健作さんの作風が気に入らないからと横槍を入れて落選させるは、この状況に、選考委員だった佐藤春夫さんは、愛想を尽かして内情を暴露するは。……こんなもん、信頼とか信用ができるわきゃないじゃん、というわけです。

 盛り上がる懇話会賞のあとに、魚のフンのように他の賞も続々とつづきます。どれも貴司さんの目から見たら、笑止千万なものばかりでした。

 直木賞・芥川賞については、こうです。

「芥川賞や直木賞は「半分は雑誌の宣伝だ」と正直病の菊池寛が告白してゐる。成程、第一回の芥川賞がたつた五百円であれだけ文壇の問題になつたとすれば宣伝費安上り法として最上のものである。」(同)

 要するに、雑誌を売るための宣伝なわけだから、文学的価値などゼロに近い、との烙印を捺しちゃいます。

 他に、貴司さん自身も審査員に名をつらねる「文学評論賞」に言及。これまた、結局はナウカ社の宣伝半分でできた、カネ勘定の産物にすぎない、と言います。それから『文學界』が始めた「文學界賞」にいたっては、貧乏な同人連中が漫画家の奥さん(岡本かの子さんですね)にご褒美をもらって、仲間で分け合っているだけのものだと。

 貴司さんは嘆くのでした。

「何と日本の文藝賞の安直なことよ。

(引用者中略)

 今のやうな、お昼の定食みたいなお手軽な文藝賞では、貰ふ奴の意気地なさや、若い作家の文壇根性の培養基にしかならない。」(同)

 どの文学賞をとってみても、私利私欲のことしか考えていない、ケチくささ満載のものばかり。いっそのこと、それらみんなが集まって一本化すれば、総額の賞金もうんと高くできるし、それで一年に一つ、傑作に与える賞に統合合併したほうが、いいじゃないか。……っていう貴司さんの主張が、この記事のタイトルにもなっている「文藝賞合併論」です。

 いまや、「文藝賞合併論」などといっても、誰にも知られていない(というか、貴司山治さんの存在すら、知られているのかあやしい)んですけど、それでも貴司さんが、直木賞・芥川賞史に重大な足跡を残した人であることは、多くの文学賞史家が指摘しているとおりです。というのも、文学賞に対するこの放言を、菊池寛さんが目にして、「話の屑籠」で、何が「間もなくおやめになるだろう」だ、絶対うちの賞はやめんぞ、と直木賞・芥川賞永続化宣言をさせる契機(?)になったからです。

 ノストラダムスもしっぽを巻いて逃げ出すような、大ハズレの予言をデカい口たたいてやらかしたことで、貴司さんの名は、のちに有名になってしまいました(なったのか?)。

「昨今の文藝賞ばやりはあと一二年でうやむやになることうけ合ひである。

(引用者中略)

 いくら何でも日本の文壇にこの賞金制度が永続きするとは思はれないではないか。」(同)

 大ハズレ、などと言いましたが、すみません、訂正します。たしかに貴司さんの読みどおり、文藝懇話会賞も、文学評論賞も、文學界賞も、間もなく消滅しちゃいました。そこらあたりは、貴司さんの文学賞を見る目、たしかだったと思います。

 しかしです。日本の文壇から賞金制度が絶えることはなく、まもなく新潮社が賞をつくり、中河与一まわりがつくり、大日本雄弁会講談社やら、農民文学会やら、団体という団体が(ってそれは言いすぎですけど)どんどんと文学賞を生み出していく有り様に、貴司さんの「うけ合い」は、もろくも粉砕されました。

 とりわけ、まさか貴司さんよりもはるかに長生きする文学賞があるとは。まったく直木賞・芥川賞の生命力は、異常といってもいいでしょう。文学賞のなかでもあまりに特異、あまりに特殊すぎます。慧眼の士、貴司さんですら、思いっきり予想を外してしまうほどに、この二つの賞は、文学賞の性格を逸脱したシロモノだった、と言いたいところです。

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2015年3月 1日 (日)

「日本では他の文学賞にくらべて芥川賞・直木賞があまりに強すぎる。」…『小説新潮』昭和39年/1964年1月号、2月号「芥川賞――文壇残酷物語――」橋爪健

■今週の文献

『小説新潮』昭和39年/1964年1月号、2月号

「芥川賞――文壇残酷物語――」

橋爪健

 残酷物語とくれば、直木賞よりも芥川賞のほうがよく似合う。……ってことは、すべての日本人が共有できるイメージだと思います。ワタクシもそう思います。

 たとえば芥川賞に落とされて自殺した、と言われる人は数知れません(いや、知れてますか)。芥川賞とったらとったで、最終的に自殺した作家、なんちゅう類も、ずらりと勢ぞろい。まかりまちがえば、「芥川賞ではなく直木賞をとった」ことが残酷バナシ扱いされたりする有りさま。直木賞オタクには寄りつくスキがないほどに、残酷譚なら芥川賞だ、というのが世間の常識となっています。

 で、芥川賞の残酷物、といえば、その代表格がこの人。橋爪健さんです。

 自身、昭和30年/1955年代の「残酷物語」ブームに乗っかって(乗せられて)『小説新潮』に「文壇残酷物語」シリーズを連作。文壇への返り咲きを果たします。いくつかをまとめて「実録短篇集」と銘打ち、『多喜二虐殺』(昭和37年/1962年10月・新潮社刊)を上梓したりもしました。

 今回ご紹介する「芥川賞」は、このシリーズのひとつとして同誌に2か月にわたって分載されたものですが、その前半の末尾に、

「(筆者よりお願い)芥川賞をめぐる、かくれた残酷話を、本誌編集部気付、橋爪宛におしらせ頂ければ幸甚です。」(『小説新潮』昭和39年/1964年1月号 橋爪健「芥川賞――文壇残酷物語――」より)

 とあります。ひょっとして、これって続篇も構想に入っていたのかもしれません。しかしこの年の夏、肝硬変のため66歳で他界。すでに橋爪さんの生きてきた道のりが、残酷物語の題材そのものだ! と言われるゆえんでもあります(言われてない、っつうの)。

 若かりしころの大正末期から昭和初期。菊池寛ひきいる『文藝春秋』一派の、ブルジョアぶり、あるいは排他性に、反発の火を燃やす(要するに、いまでもいそうな)貧乏文学青年だった橋爪さんは、とにかく反・文春の行動に、異常な情熱を燃やしました。

「ぼくが初めて文壇に顔をだしたのは、大正十三年「読売新聞」に発表した「文藝春秋功罪論」という評論だった。

 そのころ文壇は菊池寛氏とその一統のいわゆる文藝春秋派が天下をとったような形で、一方擡頭してきたプロ文学に対し、ブルジョア文学(或は藝術派)の代表選手として、まるで文壇チャンバラといった抗争をやっていた。そして、まだひよわのプロ文学をある程度おさえつけると、いよいよ図にのって文壇の「大御所」となり、牢固として幕府的地歩をかためたのだった。

(引用者中略)

 ぼくは(引用者中略)初めはむしろ好意的中立を保っていたが、やがてあまりにその権勢ぶりが度をすぎてきたため、とうとう堪忍袋の緒を切って、打倒文藝春秋の口火を切ったわけだ。」(『日本文庫』9号[昭和23年/1948年9月] 橋爪健「文壇・起伏興亡」より)

 それで、昭和2年/1927に『文藝公論』を創刊。アンチ文藝春秋、の気持ちをもつ友人たち――尾崎士郎、今東光、高田保、鈴木彦次郎、村松正俊、村山知義などなどが協力してくれたんですが、そう簡単に雑誌がつづくわけもないのは、昔と今とで大して変わりません。橋爪さん、徐々に文壇に居場所をなくしていった、と。

 その橋爪さんが残した文壇残酷物語の一篇「芥川賞」は、没後まもなく、講談社から出された『文壇残酷物語』に収録されています。版元は大手なんですが、昭和39年/1964年12月と古いためか、あまり図書館にも所蔵がなく、古本でないと、けっこう読むことが難しい作品です。ただし、日本ジャーナリスト専門学校出版部が昭和54年/1979年に出した、直木賞を完全無視・芥川賞一辺倒の、天下の悪書(いや、ウソです。良書です)『芥川賞の研究』におさめられているので、読んだ方は多いかもしれません。いまでは、これが橋爪健の代表作、などと言われかねない、はなはだ残酷な状況となっています。

 橋爪さんは、もちろん過去の芥川賞資料に、丹念に当たったと思われます。でも、同時代、「アンチ文春」の鎧を全身にまといながら文壇の傍らで生きていた方ですから、思い出・記憶に頼って、あまり正確でないことも書き残してしまっています。たとえば、

「入賞者の石川達三、鶴田知也、小田嶽夫、その他にも候補者の太宰治、高見順、外村繁など優秀新人を登場させて、芥川賞は早くも文壇、ジャーナリズム、読者層の注目のまととなり、新聞紙などでもようやくその入選を発表するようになった。第一回のときなどは、「芥川賞、直木賞の発表日には、礼を厚うして公表したのであるが、(引用者中略・注:例の菊池寛の文章)」と菊池寛が毎号連載の「話の屑籠」(十年十月号)で、当時のかれでなければいえない無遠慮なフンマンをもらしていたが、毎年二回の芥川賞の実績が加わるにつれて、新聞社でもだまっていられなくなったのである。」(橋爪健「芥川賞」より)

 これが大ウソであることは、いまとなっては明白です。芥川賞は第1回のときから(第1回が決まるまえから)、新聞各紙でも文藝雑誌でも取り上げられていました。文藝担当の新聞記者たちの、芥川賞大好きダマシイ、はだんだんと育っていったものなどではなく、天性のものだった、と言っていいです。

 橋爪さんのお話は、これほとんど芥川賞の選考経過と、受賞者・落選者の(橋爪さんが知るかぎりの)その後が紹介されるもので、厳密に当たれば、似たような勘ちがい系の記述は、ほかにもまだまだあるかもしれません。でも、もちろん、ここでは取り上げません。ハナシは終盤にいたります。直木賞のことが出てくるからです。

「第二十八回には、「或る『小倉日記』伝」の松本清張、「喪神」の五味康祐という、数千万の年収をほこる巨大な流行作家を生みだした。この両作は、むしろ直木賞に価するもので、芥川賞と直木賞との混淆が見られる。」(同)

 はい。これもおなじみの言説ですね。芥川賞側の「純文学」にそぐわない、と論者が思っている作品を、「むしろ直木賞に価する」と言っちゃう病。

 そりゃあ、大衆小説と思えるものが芥川賞をとったり、逆に純文学っぽいものが直木賞をとったり、そんなことはあるでしょう。べつに不思議なことじゃありません。直木賞が大衆小説、芥川賞が純文学、とバサッと区切れるとほんとうに信じているのなら、よっぽどおめでたい夢想家か、文春のつくった規定をまるまる鵜呑みにするお人好しです。

 芥川賞こそ純文学の砦を守るべきだ、みたいな考えには、ワタクシも反対はしません。でも賛成もしません。知ったこっちゃありません。文学賞が、そんな文学の質的な分類を決めたり、つくったりできる、と思うほどに、文学賞を過大に評価してどうするんですか。直木賞ファンを長くつづけていたら、ふつうはそう感じますよね。直木賞は、まともに付き合う人がいないと判断してか、そこら辺、ほんとテキトーですもん。

 橋爪さんが、芥川賞(とオマケの直木賞)に対して言っていること、もうひとつ挙げます。文壇、文藝編集界、出版界、そういった界隈において、文学賞のなかで芥川賞だけが強すぎる、ってことです。

「入賞が何かの運ということになると、入賞作品と候補作品と、はたしてどっちがすぐれているか。また作家として入賞者がはたして候補者よりまさっているか、さらに、候補にもならなかった作家と受賞作家と、はたしてどちらが力量があるか――そういったことは全く決定づけられないことで、まさに「神のみぞ知る」である。

(引用者中略)

 (引用者注:ノーベル文学賞やゴンクール賞は)芥川賞のように一営利会社の宣伝的文学賞とは組織も選考方法もちがうから、一概にはいえないが、しかし、いろいろな意味で「運」がつきまとうのは同じであろう。ただ、日本では芥川賞があまりに強すぎるのが問題である。

(引用者中略)

 (引用者注:芥川賞が決まる前後のマスコミの)バカさわぎは、どこから来るのか。勧進元では商策マンマと図にあたっただけで、べつに責任はないわけだから、一ばん悪いのはマス・コミ側で、次が作家側ということになろう。が、その根底には、スターや有名人にたいして物見高い日本人の事大思想がひそんでいるようだ。

(引用者中略)

 それともう一つは、芥川賞、直木賞が他の文学賞にくらべて余りに強いことだ。他の文学賞の勧進元がまったくあきらめきって、政権を文芸春秋新社だけにまかせている現状を見ると、私は今の自民党と野党のすがたを思わないではいられない。」(同)

 なんか、こういう文章を読んでいると、時代の感覚があやふやになっちゃいませんか。改めて言っておきます。橋爪さんの上の文章は昭和39年/1964年、つまり50年あまり前に書かれたものです。

 雑食的に小説を読む一読者のワタクシの感覚からすると、直木賞だけが強すぎる、と思うことはほとんどありません。だけど、純の文の学のほうでは、芥川賞一強なんでしょうね。橋爪さんの生きていた頃も、いまも、たぶん。

 そうですか。それ問題なんですか。大変そうだなあ。そりゃあ、そんなイビツ感まるだしな世界なら、残酷物語も次から次へと面白いくらい生まれるでしょうよ。ええ。直木賞オタクにしてみれば、知ったこっちゃありません。

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