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2015年3月15日 (日)

「娯楽のために書かれた小説は、大衆小説として評価できても、文学じゃない。」…『純文学と大衆文学の間』昭和42年/1967年5月・弘文堂新社刊 日沼倫太郎

■今週の文献

『純文学と大衆文学の間』昭和42年/1967年5月・弘文堂新社刊

「第一章 純文学と大衆文学の間」

日沼倫太郎

 直木賞を他の文学賞と比べてみますと、その異常さにいろいろ気づきます。ここまで異常なら、もうこれは「文学賞」と呼んじゃいけないんじゃないか、とひそかに思うほどです。

 その異常性のひとつが、これでしょう。「大衆文学」との関係です。

 「大衆文学」といえば、「直木賞とは何の賞か」を語るときには、かならず出てきます。「直木賞は大衆文学のなかから選ばれる」とか、「直木賞は優秀な大衆文学を選ぶ賞だ」とか。だけど、大衆文学って何すか。何が大衆文学で何がそうでないか、なんてことは、この用語が生まれて90年余り、さまざまな人がさまざまに論じてきました。時代に応じて、言われることもどんどんと変わり、はっきり言って、まともに線引きできた人などいたの? と思うほかない混沌とした有り様。

 直木賞の選考委員のあいだでも、「大衆文学」観はひとりひとりちがうくらいです。なのに「直木賞は大衆文学を選ぶ」などと、さらっと表現されている。これが「大衆文学」だと規定できるものがないので、選考過程で大衆文学とは何か、なんてことが議論されたり、面倒くさいから無視されていたりする。これを胡散くさいと言わずして何というんでしょう。

 時代に応じて変わる、と言いましたけど、あなた。ここ何十年間かは世間でも、もう「大衆文学」っちゅう単語はほとんど使われなくなりまして、この言葉を目にするのは、直木賞まわりの文章だけと言ってもよくなりました。替わって「エンターテインメント小説(文学)」などという、なかなかセンスのない用語で置き換えられることもありますが、たとえば『昭和の犬』はエンターテインメントなのか? 『ホテルローヤル』は? 『漂砂のうたう』は? 『月と蟹』は?……と考えていくと、どうもエンターテインメントと言っちゃうとしっくり来ない受賞作が、ボロボロあります。

 けっきょく直木賞とは、どんなものを選んでいるのか。まとまりがありません。そこで面白いことが起こります。直木賞を見ている人の意識です。ここが異常なところなんですが、主客転倒といいますか、「直木賞で選ばれた作品なんだから大衆文学なんだろう」って考えかたが生まれるわけですね。

 大衆文学とは何を指すのかよくわからない。でも「直木賞」で選ばれるような作品、と言えば、何となく(ほんとに何となくのイメージで)多くの人がうなずいてしまう。あたかも「直木賞」という、ひとつの文学ジャンルが存在しているかのような(でもじっさいは、そんなものあるわけがない)状況。……まったく異常と言うしかありません。

 昭和30年代末期から昭和40年代に、日沼倫太郎さんという、いまではほとんど読まれなくなった評論家が活躍(?)しました。亡くなったのは昭和43年/1968年、43歳でした。

「日沼倫太郎は、生前、六冊の単行本を成した。そのうち四冊は、死の前年の昭和四十二年にあわただしく刊行された。完成をいそぎ、死をいそぐという感じだった。」(平成4年/1992年3月・日本図書センター/近代文藝評論叢書 日沼倫太郎・著『文学の転換』所収 阿部正路「解説」より)

 というその「四冊」のうちの1冊が、弘文堂新社から刊行した『純文学と大衆文学の間』です。タイトルどおり、純文学と大衆文学との違いは何か、といった視点を中心に、両者に関する評論をまとめたもので、たとえば、水上勉さんが自作「雁の寺」をまるで純文学であるかのように自負して言っているけどバカじゃないの? みたいなことも書かれています。

 いや、それ以外のことも、当然わんさか書かれているんですが、ここでは「雁の寺」と、水上勉の調子に乗った発言に対する日沼さんの言説を取り上げるにとどめます。そりゃそうです。直木賞専門ブログですから。

 日沼さんが攻撃しているのは、『大衆文学研究』3号[昭和37年/1962年4月]に載った座談会「推理小説のゆくえ」での、黒岩重吾、水上勉ふたりの発言に対してです。

「黒岩/雑誌にのっておったんだが純文学の最低と、僕らのが同じだという……僕にとっては、純文学も、大衆文学も、推理小説も、時代小説も、そんな区別はないんです。ただ、人間や社会のどす黒さ、美というものを一人でも多くの人たちによんで貰ったら満足ヤ。

 黒岩氏は、自分の作品が大衆によまれているのは、推理小説としての約束ごと、つまり、通俗性やサスペンスによってではなく、自分がつくり出した作品のなかの「人間や社会のどす黒さ、美」といったものによってだというのである。これは水上氏の「こちらは推理文学をやったり、純文学を書きたいと思っていないんだから、最低でも最高でもどっちでもいい」という発言ともつながっている。それでは、水上氏はいったい何をやろうとしているのか。〈文学〉だというのである。」(日沼倫太郎・著『純文学と大衆文学の間』より)

 冗談じゃないぜ、勉よ。と日沼さんは、いかに「雁の寺」が推理小説であり娯楽小説である(ことを志向して書かれたか)を切々と論じていきます。娯楽小説は、すでに娯楽小説であるがゆえに〈文学〉たりえない、というのが日沼さんの持論らしいので、(日沼さんのなかではあくまでも、純文学=文学であって、それ以外のものは文学の名を騙る真っ赤なニセモノ)、水上さんの発言に食ってかかるのも、当然といえば当然でした。

「正直なはなし、わたしは、『風部落』(引用者注:水上勉が昭和23年/1948年に出版したもの)に収録されている『山上学校』――代用教員時代の体験を素材にした作品――や、慈念の前身を思わせる純吉という少年の寺での生活をかいた『我が旅は暮れたり』(引用者注:水上勉が『文潮』昭和23年/1948年10月に発表したもの)という作品をよんで、『雁の寺』や『霧と影』と同じ態度でかかれたものだとは決して思えなかった。

(引用者中略)

 この二つの作品をよんで私が感じたのは、水上氏自身の内部にある素朴で美しい魂といったものである。ここには、まぎれもない一つの文学的体験がある。それは『雁の寺』といった大衆小説としてはすぐれているかも知れないが、本質的には純文学作品でないものからはとうていうけることができない感動がある。」(同)

 「大衆小説としてはすぐれているかも知れないが」と日沼さんは言います。じっさい日沼さんは、この作品を評価していないわけじゃないんです。あくまで純文学ではないところで、この作品は成功している、と。たしかに成功している、だからといって〈文学〉がどうだとか言い出すからムカッとくるんだ、という日沼さんのイラだち。まだまだ続きます。

「水上氏が、『雁の寺』を〈文学〉だと思いこんでいるとすれば、あきらかにごま化していると私はいうのである。早いはんし、『雁の寺』は何よりもさきに現実に存在する読者を目指し、推理小説としての枠ぐみを設けてかかれている。決して自己の内部を、自我の表現を、精神の未知の領域をきりひらくためにかかれた作品ではない。

(引用者中略)

通俗小説(娯楽小説)はぜったいに〈文学〉たり得ない。あくまでも大衆の消閑に供される消耗品にすぎない。娯楽が目的なのである。(引用者中略)このような目的をもつ通俗文学娯楽小説に〈文学〉を求めるのは、まちがいなのだ。それは、錬金術師が鉛を金にふきかえるように、不可能なのだ。不可能を可能なものとして錯覚するところに、水上氏や黒岩氏の誤算があった。水上小説の確立を志向しているが、それはあくまでも文学としてではなく、娯楽小説としてのみ可能なのだ。」(同)

 娯楽が目的だと、絶対に〈文学〉にならない! というのは急進的すぎて、あるいは単なる言葉遊び、概念遊びにすぎて、そこまで熱くならんでもいいじゃないか、と思うわけですが、そうなると直木賞など、昭和40年代からだんだんと商業誌に発表された作品(商業的に刊行された作品)へとシフトしていくわけですから、日沼さんにとっちゃ子供のお遊びにしか見えなかったかもしれませんね。直木賞って、けっきょく「大衆文学」などという、奇妙な概念・言葉のなかでキャッキャとじゃれ合う〈文学ごっこ〉じゃん、というような。

 上記引用箇所を含めて、日沼さんはこの本のなかで、純文学と大衆文学、もしくは通俗小説・娯楽小説のことは、さんざん語っています。「直木賞」とか「芥川賞」とかの言葉は、それほど多く登場しません。いちいち「大衆文学」を語るときに直木賞のおハナシなどしなくてもいい、っていう時代といえば時代なのかもしれませんけど、「大衆文学」に興味をもち、一家言をもつほどだった日沼さんが、直木賞のことをどう考え、どう見ていたのか。深く知れなくて残念です。だからほんとは、「直木賞に対する批判の系譜」のテーマで取り上げるべきじゃありませんでした。すみません。

 ただ、純文学と大衆文学の違いを、平気で「芥川賞と直木賞の違い」のハナシと混ぜ込みながら論ずるような、異常なキショく悪さがないのはたしかです。いま読むと一種すがすがしささえ覚えるのが、この本のとりえかもしれません。

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