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2015年3月 1日 (日)

「日本では他の文学賞にくらべて芥川賞・直木賞があまりに強すぎる。」…『小説新潮』昭和39年/1964年1月号、2月号「芥川賞――文壇残酷物語――」橋爪健

■今週の文献

『小説新潮』昭和39年/1964年1月号、2月号

「芥川賞――文壇残酷物語――」

橋爪健

 残酷物語とくれば、直木賞よりも芥川賞のほうがよく似合う。……ってことは、すべての日本人が共有できるイメージだと思います。ワタクシもそう思います。

 たとえば芥川賞に落とされて自殺した、と言われる人は数知れません(いや、知れてますか)。芥川賞とったらとったで、最終的に自殺した作家、なんちゅう類も、ずらりと勢ぞろい。まかりまちがえば、「芥川賞ではなく直木賞をとった」ことが残酷バナシ扱いされたりする有りさま。直木賞オタクには寄りつくスキがないほどに、残酷譚なら芥川賞だ、というのが世間の常識となっています。

 で、芥川賞の残酷物、といえば、その代表格がこの人。橋爪健さんです。

 自身、昭和30年/1955年代の「残酷物語」ブームに乗っかって(乗せられて)『小説新潮』に「文壇残酷物語」シリーズを連作。文壇への返り咲きを果たします。いくつかをまとめて「実録短篇集」と銘打ち、『多喜二虐殺』(昭和37年/1962年10月・新潮社刊)を上梓したりもしました。

 今回ご紹介する「芥川賞」は、このシリーズのひとつとして同誌に2か月にわたって分載されたものですが、その前半の末尾に、

「(筆者よりお願い)芥川賞をめぐる、かくれた残酷話を、本誌編集部気付、橋爪宛におしらせ頂ければ幸甚です。」(『小説新潮』昭和39年/1964年1月号 橋爪健「芥川賞――文壇残酷物語――」より)

 とあります。ひょっとして、これって続篇も構想に入っていたのかもしれません。しかしこの年の夏、肝硬変のため66歳で他界。すでに橋爪さんの生きてきた道のりが、残酷物語の題材そのものだ! と言われるゆえんでもあります(言われてない、っつうの)。

 若かりしころの大正末期から昭和初期。菊池寛ひきいる『文藝春秋』一派の、ブルジョアぶり、あるいは排他性に、反発の火を燃やす(要するに、いまでもいそうな)貧乏文学青年だった橋爪さんは、とにかく反・文春の行動に、異常な情熱を燃やしました。

「ぼくが初めて文壇に顔をだしたのは、大正十三年「読売新聞」に発表した「文藝春秋功罪論」という評論だった。

 そのころ文壇は菊池寛氏とその一統のいわゆる文藝春秋派が天下をとったような形で、一方擡頭してきたプロ文学に対し、ブルジョア文学(或は藝術派)の代表選手として、まるで文壇チャンバラといった抗争をやっていた。そして、まだひよわのプロ文学をある程度おさえつけると、いよいよ図にのって文壇の「大御所」となり、牢固として幕府的地歩をかためたのだった。

(引用者中略)

 ぼくは(引用者中略)初めはむしろ好意的中立を保っていたが、やがてあまりにその権勢ぶりが度をすぎてきたため、とうとう堪忍袋の緒を切って、打倒文藝春秋の口火を切ったわけだ。」(『日本文庫』9号[昭和23年/1948年9月] 橋爪健「文壇・起伏興亡」より)

 それで、昭和2年/1927に『文藝公論』を創刊。アンチ文藝春秋、の気持ちをもつ友人たち――尾崎士郎、今東光、高田保、鈴木彦次郎、村松正俊、村山知義などなどが協力してくれたんですが、そう簡単に雑誌がつづくわけもないのは、昔と今とで大して変わりません。橋爪さん、徐々に文壇に居場所をなくしていった、と。

 その橋爪さんが残した文壇残酷物語の一篇「芥川賞」は、没後まもなく、講談社から出された『文壇残酷物語』に収録されています。版元は大手なんですが、昭和39年/1964年12月と古いためか、あまり図書館にも所蔵がなく、古本でないと、けっこう読むことが難しい作品です。ただし、日本ジャーナリスト専門学校出版部が昭和54年/1979年に出した、直木賞を完全無視・芥川賞一辺倒の、天下の悪書(いや、ウソです。良書です)『芥川賞の研究』におさめられているので、読んだ方は多いかもしれません。いまでは、これが橋爪健の代表作、などと言われかねない、はなはだ残酷な状況となっています。

 橋爪さんは、もちろん過去の芥川賞資料に、丹念に当たったと思われます。でも、同時代、「アンチ文春」の鎧を全身にまといながら文壇の傍らで生きていた方ですから、思い出・記憶に頼って、あまり正確でないことも書き残してしまっています。たとえば、

「入賞者の石川達三、鶴田知也、小田嶽夫、その他にも候補者の太宰治、高見順、外村繁など優秀新人を登場させて、芥川賞は早くも文壇、ジャーナリズム、読者層の注目のまととなり、新聞紙などでもようやくその入選を発表するようになった。第一回のときなどは、「芥川賞、直木賞の発表日には、礼を厚うして公表したのであるが、(引用者中略・注:例の菊池寛の文章)」と菊池寛が毎号連載の「話の屑籠」(十年十月号)で、当時のかれでなければいえない無遠慮なフンマンをもらしていたが、毎年二回の芥川賞の実績が加わるにつれて、新聞社でもだまっていられなくなったのである。」(橋爪健「芥川賞」より)

 これが大ウソであることは、いまとなっては明白です。芥川賞は第1回のときから(第1回が決まるまえから)、新聞各紙でも文藝雑誌でも取り上げられていました。文藝担当の新聞記者たちの、芥川賞大好きダマシイ、はだんだんと育っていったものなどではなく、天性のものだった、と言っていいです。

 橋爪さんのお話は、これほとんど芥川賞の選考経過と、受賞者・落選者の(橋爪さんが知るかぎりの)その後が紹介されるもので、厳密に当たれば、似たような勘ちがい系の記述は、ほかにもまだまだあるかもしれません。でも、もちろん、ここでは取り上げません。ハナシは終盤にいたります。直木賞のことが出てくるからです。

「第二十八回には、「或る『小倉日記』伝」の松本清張、「喪神」の五味康祐という、数千万の年収をほこる巨大な流行作家を生みだした。この両作は、むしろ直木賞に価するもので、芥川賞と直木賞との混淆が見られる。」(同)

 はい。これもおなじみの言説ですね。芥川賞側の「純文学」にそぐわない、と論者が思っている作品を、「むしろ直木賞に価する」と言っちゃう病。

 そりゃあ、大衆小説と思えるものが芥川賞をとったり、逆に純文学っぽいものが直木賞をとったり、そんなことはあるでしょう。べつに不思議なことじゃありません。直木賞が大衆小説、芥川賞が純文学、とバサッと区切れるとほんとうに信じているのなら、よっぽどおめでたい夢想家か、文春のつくった規定をまるまる鵜呑みにするお人好しです。

 芥川賞こそ純文学の砦を守るべきだ、みたいな考えには、ワタクシも反対はしません。でも賛成もしません。知ったこっちゃありません。文学賞が、そんな文学の質的な分類を決めたり、つくったりできる、と思うほどに、文学賞を過大に評価してどうするんですか。直木賞ファンを長くつづけていたら、ふつうはそう感じますよね。直木賞は、まともに付き合う人がいないと判断してか、そこら辺、ほんとテキトーですもん。

 橋爪さんが、芥川賞(とオマケの直木賞)に対して言っていること、もうひとつ挙げます。文壇、文藝編集界、出版界、そういった界隈において、文学賞のなかで芥川賞だけが強すぎる、ってことです。

「入賞が何かの運ということになると、入賞作品と候補作品と、はたしてどっちがすぐれているか。また作家として入賞者がはたして候補者よりまさっているか、さらに、候補にもならなかった作家と受賞作家と、はたしてどちらが力量があるか――そういったことは全く決定づけられないことで、まさに「神のみぞ知る」である。

(引用者中略)

 (引用者注:ノーベル文学賞やゴンクール賞は)芥川賞のように一営利会社の宣伝的文学賞とは組織も選考方法もちがうから、一概にはいえないが、しかし、いろいろな意味で「運」がつきまとうのは同じであろう。ただ、日本では芥川賞があまりに強すぎるのが問題である。

(引用者中略)

 (引用者注:芥川賞が決まる前後のマスコミの)バカさわぎは、どこから来るのか。勧進元では商策マンマと図にあたっただけで、べつに責任はないわけだから、一ばん悪いのはマス・コミ側で、次が作家側ということになろう。が、その根底には、スターや有名人にたいして物見高い日本人の事大思想がひそんでいるようだ。

(引用者中略)

 それともう一つは、芥川賞、直木賞が他の文学賞にくらべて余りに強いことだ。他の文学賞の勧進元がまったくあきらめきって、政権を文芸春秋新社だけにまかせている現状を見ると、私は今の自民党と野党のすがたを思わないではいられない。」(同)

 なんか、こういう文章を読んでいると、時代の感覚があやふやになっちゃいませんか。改めて言っておきます。橋爪さんの上の文章は昭和39年/1964年、つまり50年あまり前に書かれたものです。

 雑食的に小説を読む一読者のワタクシの感覚からすると、直木賞だけが強すぎる、と思うことはほとんどありません。だけど、純の文の学のほうでは、芥川賞一強なんでしょうね。橋爪さんの生きていた頃も、いまも、たぶん。

 そうですか。それ問題なんですか。大変そうだなあ。そりゃあ、そんなイビツ感まるだしな世界なら、残酷物語も次から次へと面白いくらい生まれるでしょうよ。ええ。直木賞オタクにしてみれば、知ったこっちゃありません。

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