「こんなもの、いくら何でも、永続きするとは思えない。」…『読売新聞』昭和11年/1936年4月28日「文藝賞合併論」貴司山治
■今週の文献
『読売新聞』昭和11年/1936年4月28日
「文藝賞合併論 最近の文壇に寄す【二】」
貴司山治
世の中には、文学賞を嫌っている人たちがいます。文学者(作家、評論家)のなかにだって(なかにこそ?)、過去から現在にいたるまで、けっこういるらしいです。
何ぶん文学賞は、ほら、カネがからんでいるし。党派性・政治性が渦巻いているし。などなど、いわば「俗事」っぽさが特徴のひとつですから、文学の芸術性とは相容れない、だから嫌いだ、となるのかもしれませんね。まあ、個人的に文学賞を嫌いになったことがないので、よくわかりません。
直木賞・芥川賞は、昭和9年/1934年に創設が発表され、翌年の8月、第1回の結果が発表されました。直木賞は(文学界隈ですら)ほとんど話題にならなかったんですが、芥川賞はやんややんやと外野からヤジが飛び交うにぎわい。「成功」の部類に属するくらいに盛り上がりました。
そんな芥川賞の俗っぽさに鼻をつまみ、こいつは悪者だ!と糾弾する意見も、当時なかったわけじゃありません。たとえば、矢崎弾なんちゅう俗物が、石川達三を強引に推薦したりして、受賞工作に動きまわったらしいぞ、オエッ! みたいなゴシップ記事とか。しかしながら、すでにこのとき、芥川賞を上まわる悪のボスキャラみたいなやつがいたもんですから、文学賞を批判したい人たちの矛先は、そちらのほうに流れ、芥川賞、あまり傷つかずに済んだ、って面もありました。
悪役に抜擢されたのは、誰だったか。……ご存じ(?)文藝懇話会賞です。
とにかく文学賞っつうのは、胡散くさいシロモノだぜ、みんな踊らされるなよ。……つう、誰もが自然に感じることは、当然、昭和10年/1935年ごろの方々も感じたみたいです。プロレタリア陣営きっての売れっ子・大衆作家、貴司山治さんなどは、もう文学賞のことをケチョンケチョンにこき下ろしてみせたのでした。
「この間、ある雑誌から往復ハガキで「文藝賞の将来は?」といふ質問を受け、僕は「間もなくおやめになるだらう」と答へておいた。
事実、今はやつてゐるやうな文藝賞が三年つゞいたらおかしい位である。何故といふまでもない。この流行のさきがけをなした文藝懇話会賞は、あの通り最初からインチキをやると相場のきまつた文藝賞である。」(『読売新聞』昭和11年/1936年4月28日 貴司山治「文藝賞合併論 最近の文壇に寄す【二】」より)
急に流行しだした文学賞、そのさきがけをなしたのは文藝懇話会賞だ、と貴司さんはおっしゃいます。そして、さきがけにして、すでに猛烈に胡散くさい。カネ(賞金・運営費用)は右翼バリバリ全開の男、文藝を国策の道具にしようという下心みえみえの松本学さんが出しているは、その松本さんったら、島木健作さんの作風が気に入らないからと横槍を入れて落選させるは、この状況に、選考委員だった佐藤春夫さんは、愛想を尽かして内情を暴露するは。……こんなもん、信頼とか信用ができるわきゃないじゃん、というわけです。
盛り上がる懇話会賞のあとに、魚のフンのように他の賞も続々とつづきます。どれも貴司さんの目から見たら、笑止千万なものばかりでした。
直木賞・芥川賞については、こうです。
「芥川賞や直木賞は「半分は雑誌の宣伝だ」と正直病の菊池寛が告白してゐる。成程、第一回の芥川賞がたつた五百円であれだけ文壇の問題になつたとすれば宣伝費安上り法として最上のものである。」(同)
要するに、雑誌を売るための宣伝なわけだから、文学的価値などゼロに近い、との烙印を捺しちゃいます。
他に、貴司さん自身も審査員に名をつらねる「文学評論賞」に言及。これまた、結局はナウカ社の宣伝半分でできた、カネ勘定の産物にすぎない、と言います。それから『文學界』が始めた「文學界賞」にいたっては、貧乏な同人連中が漫画家の奥さん(岡本かの子さんですね)にご褒美をもらって、仲間で分け合っているだけのものだと。
貴司さんは嘆くのでした。
「何と日本の文藝賞の安直なことよ。
(引用者中略)
今のやうな、お昼の定食みたいなお手軽な文藝賞では、貰ふ奴の意気地なさや、若い作家の文壇根性の培養基にしかならない。」(同)
どの文学賞をとってみても、私利私欲のことしか考えていない、ケチくささ満載のものばかり。いっそのこと、それらみんなが集まって一本化すれば、総額の賞金もうんと高くできるし、それで一年に一つ、傑作に与える賞に統合合併したほうが、いいじゃないか。……っていう貴司さんの主張が、この記事のタイトルにもなっている「文藝賞合併論」です。
いまや、「文藝賞合併論」などといっても、誰にも知られていない(というか、貴司山治さんの存在すら、知られているのかあやしい)んですけど、それでも貴司さんが、直木賞・芥川賞史に重大な足跡を残した人であることは、多くの文学賞史家が指摘しているとおりです。というのも、文学賞に対するこの放言を、菊池寛さんが目にして、「話の屑籠」で、何が「間もなくおやめになるだろう」だ、絶対うちの賞はやめんぞ、と直木賞・芥川賞永続化宣言をさせる契機(?)になったからです。
ノストラダムスもしっぽを巻いて逃げ出すような、大ハズレの予言をデカい口たたいてやらかしたことで、貴司さんの名は、のちに有名になってしまいました(なったのか?)。
「昨今の文藝賞ばやりはあと一二年でうやむやになることうけ合ひである。
(引用者中略)
いくら何でも日本の文壇にこの賞金制度が永続きするとは思はれないではないか。」(同)
大ハズレ、などと言いましたが、すみません、訂正します。たしかに貴司さんの読みどおり、文藝懇話会賞も、文学評論賞も、文學界賞も、間もなく消滅しちゃいました。そこらあたりは、貴司さんの文学賞を見る目、たしかだったと思います。
しかしです。日本の文壇から賞金制度が絶えることはなく、まもなく新潮社が賞をつくり、中河与一まわりがつくり、大日本雄弁会講談社やら、農民文学会やら、団体という団体が(ってそれは言いすぎですけど)どんどんと文学賞を生み出していく有り様に、貴司さんの「うけ合い」は、もろくも粉砕されました。
とりわけ、まさか貴司さんよりもはるかに長生きする文学賞があるとは。まったく直木賞・芥川賞の生命力は、異常といってもいいでしょう。文学賞のなかでもあまりに特異、あまりに特殊すぎます。慧眼の士、貴司さんですら、思いっきり予想を外してしまうほどに、この二つの賞は、文学賞の性格を逸脱したシロモノだった、と言いたいところです。
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