「小説の意図が伝わらず、選評が期待はずれ」…『歴史と旅』昭和63年/1988年5月号~平成3年/1991年4月号「直木賞残念記」他 堀和久
■今週の文献
『歴史と旅』昭和63年/1988年5月号、10月号、平成1年/1989年4月号、平成3年/1991年4月号
「直木賞残念記」「再び直木賞残念記」「三たび直木賞残念記」「四たび直木賞残念記」
堀和久
堀和久……とその名を聞いて、心おどらせる方もいるでしょう。お友だちになれそうです。そして、いままでのところ、堀和久さん(の作品)をきっかけに友だちができたことは、ワタクシ、ただの一度もありません。
20数年前、昭和63年/1988年~平成3年/1991年ごろ。堀さんは何度か直木賞の候補に推されたことがあります。当時、堀さんはもう50歳をこえたいいオジさんで、書くものといえばシブい歴史小説ばかり。直木賞は、とにかく歴史モノにはツラく当たることで有名なほどですから、やっぱり堀さんもその攻撃を受けまくり、候補になった4度とも、低い評点ばかり突きつけられました。
歴史小説クラスタは、血の気(ばかり)の多いミスオタ・SFオタ連中とはちがって、直木賞をいつも寛大な目で見てくれる、というのは、このブログで何度か書いたとおりです。「どうして堀和久に直木賞とらせないんだっ!」などと、熱烈な声が上がることも(たぶん)なかったでしょう。たいへん静寂ななか、そのまま直木賞をご卒業していきました。
しかし、ワタクシの心はおさまりません。おさまるわけがないのです。
堀さんは、自分の作品が直木賞で落ちるたびに、それをネタにエッセイを一本書いてしまうという、読者(直木賞ファン)サービスの精神にあふれる方でした。候補になった人が、直木賞をどのように受け止め、その選評を読んでどう思うのか。そういうことにも興味をもってしまう、異常心理の持ち主=直木賞オタクにとっては、絶対素通りすることのできない注目候補者のひとりなわけです。
最初に候補になった第98回当時、堀さんはまだまだ小説家としてはほとんど知られていませんでした。あとでご自身が語っていることから想像するに、このときは「直木賞(のようなレッテル)が欲しい」と思っていたはずですが、1度目の落選直後、そういうことは直接的に述べず、こう書いています。
「筆者は当初から、(引用者注:自分の)受賞はないと予想していた。いわゆる文壇とのつきあいが全くない身であり、直木賞など別世界のことのように思えていたからである。内幕などを耳に入れると、真偽は別にして、興ざめの感がなくはない。
選考発表日も、他人事のような気分であった。「残念でした……」という電話連絡にも残念な気持はなく、選考委員の人たちの評価に興味があった。」(『歴史と旅』昭和63年/1988年5月号「直木賞残念記」より)
ともかく、選考委員の人たちが自分の作品をどう評するのかに興味があった、と。そして『オール讀物』昭和63年/1988年10月号に、待望の選評が掲載。それを読んだ堀さん、どう感じたでしょうか。
かなりイラッときたみたいです。
「「オール讀物」に掲載された選評は、期待はずれであった。無視されるよりはましであったにせよ、多すぎる資料の使い方に批判が集まったようで、そのほかのことにはあまり言及されていなかった。むろん、主題が浮かび上がらなかったこと、長安という主人公に魅力が感じられなかった等々は、未熟のいたすところで恥じるのみである。筆者は、主人公にはかなり入れ込んだつもりであるが。」(同)
せっかく自分が精力をそそぎ込んで書いた小説、まるで読み手(=選考委員ですね)に伝わらなかったんだな、こいつらの読解力だいじょうぶか?(とまでは言ってませんが)と、ちらっと反論する挙に出ました。
たとえば、「大久保長安の何を書きたかったのか判然としない。」(『オール讀物』昭和63年/1988年10月号選評、以下同)と、おのれの読みの浅さを臆面もなく開陳する山口瞳さん。「作者は長安を好きなのか嫌いなのか、嫌いでも無論かまわない。作者が食指を動かしたくなる興味と情熱の、よってくるところが解明されればよいのだが、それが事蹟の解明にとどまったような所が残念であった。」と、作者から発せられる情熱を受け取る器の小ささを露呈してしまった田辺聖子さん。何より、「資料は多いほどよいが、いざ書く時には、その中のどれだけを捨てられるかが勝負だと、かつて、大先輩から教えられたことがあります。」と、資料の扱いかたを批判させたら直木賞委員随一と言われた平岩弓枝さん。
堀さんにしてみれば、テキトーな資料だけ使って、いかにもこれが歴史でござい、と傲慢な顔をしている歴史小説よりは、全然ましで、しかも『大久保長安』では、長安の人物像に新たな光を当てた、っつう自負もある。
「徳川初期は、天下は回りもちの思想が生きており、謀叛は正当な野心であった。また、技術開発の時代であり、長安は乱世から安定時代へ移る過渡期に出現した不世出の技術者であり、テクノクラートでもあった。
そのような大久保長安の全貌を描きたかったのであるが、やはり浅才、直木賞選考には意図は伝わらなかったようである。(同)
と恨みぶしのように、選評に反撃したくなるのも自然でしたでしょう。
その後、堀さんは期待の新進歴史作家!として、第99回、第100回と3期連続で候補に挙げられます。
毎回、堀さんは『歴史と旅』誌上で「残念記」シリーズを書くこととなるわけですが、基本、自分が受賞できるだなんて全然期待していませんよー、の姿勢を崩しません。たとえば、第99回『春日局』のときは、こんな感じです。
「総合的にいって、今回の『春日局』は、前作の『大久保長安』より小説の出来は上ではないかと、これは他人も言い、本人にもひそかな矜恃はあった。
(引用者中略)
しかしながら『春日局』は衆知のごとく、来年のNHK大河ドラマのヒロインである。本の帯にも大きくそのことを謳っている。
もし受賞すれば、大衆に迎合し、NHKを利する、等々の悪評を巻きおこしかねない種類のものであれば、選考会で歯止めがかかるであろう、と筆者は想像し、発表の日は気楽な夜をすごしたのであった。」(『歴史と旅』昭和63年/1988年10月号「再び直木賞残念記」より)
要するに、作品の内容や出来以外のことが当落に影響するらしい、見世物・出し物・直木賞。真剣にこっちの書いた作品を読み込んでくれやしないのだから、そんなものに一喜一憂するなど馬鹿バカしい。ぐらいの感じでしょうか。
三度めの第100回のときには、もうずいぶんと、直木賞とのお付き合いに飽き飽きしてきたらしく、
「ひところは、肩書きやレッテルを欲した。何を書いても売れなかった時期である。オール読物新人賞くらいでは注文はこないし、持ちこみ原稿も大抵は返される。そのような貧乏時代、名前に商品価値がつく有名な賞を得たいと思ったものである。
だが、『大久保長安』が世に出て以後、書き下ろしに専念できる境遇にあり、手抜きのないきちんとしたものを書けば編集者は見落さず、本は出版されて、最低生活は確保できる予測はついたので、この上、賞がらみの騒動にまきこまれたくない気持が強い。
目立ちたがり屋がもてはやされる現今、テレビぎらい、サイン会ぎらい、講演会ぎらい、書き流しができない、という物書きがいてもいいのではないかと思う。」(『歴史と旅』平成1年/1989年4月号「三たび直木賞残念記」より)
と、直木賞周辺のケバケバしさから、距離をおきたい宣言。賞がひとつ与えられた程度で、じっさいの小説執筆とは関係のない雑事ばかりの仕事が舞い込むクダらなさ。……直木賞がひとから嫌われる理由は、だいたいいつの時代も同じみたいです。
そして、少し間をおいて2年後の第104回。堀さんにとって最後となった「残念記」は、『歴史と旅』平成3年/1991年4月号に載りました。このときはまだ、選評が発表される前に原稿を仕上げたらしく、その一事をもってしても、堀さんが直木賞選考委員のくだす評価やそれを文章化したという触れ込みの選評に、そうとう失望してしまったことがわかります(単に『歴史と旅』編集部にせっつかれて、早めに原稿締切がきただけかもしれません)。
しかし、さらっと終わらすことのできない堀さん。資料を詰め込みすぎだ、人物が浮き上がってこないだ、と中学生の読書感想文レベルの選評しか書いてきてくれなかった選者たちに対して、ひと言、皮肉を言っておかなければ気のすまないご様子なのでした。資料、資料と老人たちの繰り言ばかり聞いてきたけど、あれってほとんどおれの想像、フィクションなんですよ、と。
「筆者は、政治上の敗者であるためとか本人の信念等から、その業績が抹殺、あるいは風化されている人物を、意識的にとりあげている。これらの人には、直接的な資料は、ほとんどない。したがって、九割がたはフィクションとなる。これまで直木賞候補になった、大久保長安、春日局、『夢空幻』の後藤三右衛門、そして今回の仙ガイ和尚もそうである。
選評では、史料に頼りすぎ、題材が面白くない、という指摘が毎回なされているようだが、今回はどうであろうか。」(『歴史と旅』平成3年/1991年4月号「四たび直木賞残念記」より)
……ちなみに最後に選考委員の方たちを弁護しておきますと、さすがに「題材が面白くない」などと毎回指摘されていた、ってことはありません。テーマはいい、珍しい素材、と着眼点を褒めるようなことは、けっこう言われていました。
何だかんだと温かく(?)厳しく堀作品に接してアドバイスめいたことを書く選考委員も、少なからずいたんですけどね……。それを、「頑固なまでに無理解な選者たち」ふうにエッセイで紹介しちゃう、という。この辺りに、堀さんの、直木賞委員たちへの不快感を、ワタクシは感じてしまうのでした。
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