「これが日本の文学のすべて、であるかのような錯覚を世間にもたらしている。」…『週刊時事』平成4年/1992年2月8日号「芥川賞 日本の文学をゆがめた?半世紀」荒野一狼
■今週の文献
『週刊時事』平成4年/1992年2月8日号
「芥川賞 日本の文学をゆがめた?半世紀
いま、問われるその功罪」
荒野一狼
先週は、第106回(平成3年/1991年下半期)直後に『噂の眞相』が載せた100%カンペキ原稿を取り上げました。そして今週。しつこいながらもう一発、第106回関係を続けてみたいと思います。
先週も書きましたとおり、直木賞(と芥川賞)は、「話題にならなかった回」に面白いものがあります。面白い、っつうか、特異、と表現すべきでしょうか。日本に何百とある文学賞のうち、「話題にもならない」ということが記事になるのは、直木賞と芥川賞ぐらいしか思い当たりません。
ね。異常でしょ。わざわざ「話題にもならない」ことを、貴重な誌面を割いてまで載せようという、奇特な編集部があるんですよ。ワタクシも奇特さの面では、負けられんぞ、と闘争心を燃やしたりするんですが、でも、こっちは誰にも迷惑をかけずひとりでやっていることですから気が楽です。あちらは、カネが動いたり、他の人を動かしたり、なかなか大がかりでしょ。なのに、「話題にもならない」と言いながら、大したことのない直木賞(と芥川賞)を、強引にでも話題の舞台に引っ張りあげようとしている。ほんと、かないません。
第106回が発表された直後、『週刊時事』が「芥川賞 日本の文学をゆがめた?半世紀」と題する記事を載せました。
なかを覗いてみますと、
「芥川賞と直木賞とでは性格に多少の違いがあり、ひとまとめに語るわけにはいかないので、ここでは新人賞の性格がより濃い芥川賞について考えてみたい。」(『週刊時事』平成4年/1992年2月8日号「芥川賞 日本の文学をゆがめた?半世紀」より)
などと言い訳して、直木賞をすっ飛ばし、聞き飽きた感もある「芥川賞ってこんなにダメ!」のおハナシを、つらつらと綴っています。
しかしこの記事もまた、模範解答として先週ご紹介した『噂の眞相』とそっくり同じ。ときどき文中で「芥川賞・直木賞」と、二つの賞を同列にして語ってしまい、「ひとまとめに語れない」などという強い意思があるわけではなく、単に直木賞に対して興味がないだけ、っていうことを露見させているのでした。記事タイトルでは「芥川賞」だけを掲げ、あえて直木賞の文字を外すことで、正確性を期しているのに……。その慎重さが、まったくの台無し。悲しいです。
まあ、このくらいで悲しがってちゃ、直木賞ファンは続けていられません。気を取り直して行きますが、この『週刊時事』の記事、じつはそうとうキュートです。何がキュートなのか。あたかも「芥川賞が日本の文学をゆがめた!」と指摘しているかのように見えるんですが、よーく読むと、「報道人、ジャーナリスト、マスコミ人たちが日本の文学をゆがめた」と言っている(あるいは、それしか言っていない)からです。その張本人でもある、時事通信社の発行する『週刊時事』が。
記事の筆者は荒野一狼さん、っていう方です。時事通信の人なのか、雇われライターなのか、ワタクシは知りません。ともかく、原稿の内容はすべて、日本の文学をゆがめた主犯としてマスコミ、を指しているのに、そこから目を逸らそうとあれやこれやと言葉を連ねていきます。
「芥川賞からは第一回受賞の石川達三以来、八木義徳、井上靖、安部公房、松本清張、遠藤周作、石原慎太郎、大江健三郎といった日本文学の巨峰が輩出している。この顔触れを見る限り、芥川賞が果たしてきた役割は大きいと言わなければなるまい。同時に、あるいはそれだけに、とも言わなければならないのだが、芥川賞が日本の文学のすべてだとの錯覚を世間にもたらしているという面もある。」(同)
いや、あのう……。「錯覚を世間にもたらしている」っつうのはいいです。同感です。でも、その主語って「芥川賞」なんですか? 違うでしょ。どう考えても。「誰が」世間に対して錯覚をもたらしてきたか。犯人は、明白です。
「ふふ。そう。犯人は、この雑誌を出している時事通信社(を代表とするマスコミ陣)だ!」と名指ししてくれたらカッコよかったんですけど。腰が引けたものか、荒野さんったら、他のところに責任をなすりつけようとします。日本の文学をゆがめている(って、この認識もどうなのか、とは思いますが)のは、ボクじゃないよ、ほら、あそこにいるアイツだよ! ……と荒野さんが、読者の目を向けさせようとしたのは、文藝春秋を筆頭とする大手出版社、なのでした。
「(引用者中略:昨今ますます顕著になってきているのは、芥川賞の候補作が)すべて大手出版社の雑誌からしか選ばれていない。
これでは菊池(引用者注:菊池寛)が掲げた「広く各新聞雑誌(同人雑誌を含む)に発表された」作品とは言えない。もちろん当事者は「ほかにいい作品がなかった」と言い張るに違いない。しかし、そうして並べられた作品に賞を与え、それに係の意向が六分以上も通るとなると、そこには明らかに“売る”ための工作があると見られても仕方なかろう。」(同)
ええ。そうです。芥川賞の候補選出は、ずばり掛け値なしに、まるまる文藝春秋の工作です。
筆者の荒野さんも知っています。出版業界の人たちは当然のこと、遠くから見ているワタクシたち、無関係な外野の観客たちですら、それを知っています。文藝春秋=日本文学振興会だって、候補の選びかたが一企業である(でしかない)文藝春秋の事業の一環にあることを、隠しちゃいません(認めてもいなければ否定もしていない、といったほうがいいかも)。
しかし、一企業が腹黒い策略をめぐらすだけで、日本の文学がゆがむのなら、そんな簡単なハナシはありません。文春だけじゃなく、新潮社も講談社も集英社も河出もKADOKAWAも筑摩も徳間も光文社も早川も創元も、みんな思い思いに謀略を繰り出して、日本の文学を左右させることでしょう。
荒野さんは、ここからアクロバチックな論理を展開して、犯人を追い詰めようと試みます。
「全国紙が扱うような社会的な行事を少数の大手出版社が左右しているのは見逃せない。しかも、創設のころからずっと、名だたる選考委員を前面に出して、それなりに、名目を与えている罪は大きい。日本の文学をゆがめていると言ってもいい。」(同)
見当ちがい、という言葉はまさしく、この文章のためにあるかのようです。「全国紙が扱うような社会的な行事」であること、その責任は、扱われている行事じゃなくて、扱う全国紙のほうにあるに決まっているじゃないですか。
「今日でも新人賞の頂点にあると見られているのがこの両賞(引用者注:直木賞と芥川賞)で、それだけに新聞も派手に扱うしきたりが続いている。」(同)
と、しれっと書いているんですけど、えーっ、マスコミ陣の「しきたり」のほうは無罪放免なの!? 取り上げることは絶対的な決定事項であって、なんびとたりとも覆せない。だから取り上げられる側のほうが、取り上げる側に合わせ、マスコミを満足させなければならない。って、それって一般的には「傲慢」と表現される考えかたなんじゃないかと思います。「責任転嫁」といってもいいです。
……あ、マスコミ報道の傲慢さなんか、べつにいまさら言うまでもない常識でしたか。すみません。
しかし、やはりあれなのかな。あまりにも芥川賞受賞者(=松村栄子さん)に話題性がなさすぎたのかな。中途半端なこんな時期に、「芥川賞が日本の文学をゆがめた」とか、定番のお約束記事が、埋め草のように載せられたのは。もちろん、いつ載せても大丈夫な、インパクトに欠ける内容だったこともあり、それで何かが(誰かが)反省なり猛省なり方向転換なりをするはずもありませんでした。
今日も今日とてマスコミは(いや、ネットに棲息する個人個人までも)、いったいどうして芥川賞ばかり話題になりつづけているのか、おかしいと思いつつやめられないまま、芥川賞に文句を言いながら、話題にしつづけています。
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