「芥川賞・直木賞というと、何かとてつもなく偉いものと考えるのはどうかと思う。」…『週刊サンケイ』昭和39年/1964年2月3日号「芥川賞・直木賞発表前一週間の候補者たち」無署名
■今週の文献
『週刊サンケイ』昭和39年/1964年2月3日号
「芥川賞・直木賞発表前一週間の候補者たち
『命を賭けるほどのものではない』というけれど…」
無署名
候補作が発表されて、選考会を迎えるまでの時間。せっかくなので、ドキドキワクワクするこの短い期間ならではの話で、しかも、いまの拙ブログのテーマ「直木賞に対する批判」にまつわる内容を合わせもった、そんな文献はないかと考えました。今日はこれで行きます。
いまから51年前です。第50回(昭和38年/1963年・下半期)の直木賞(と芥川賞)が発表された直後に『週刊サンケイ』2月3日号が発売されましたが、そこに、当時の候補者たち全19名のうち、なぜか不参加の芥川賞候補者・森泰三さんを除く18名の面々が、騒がしいなかで取材を受けてコメントを寄せた記事が載りました。有名人・無名人問わず、候補となった人たちが、選考会のまえに答えた直木賞観(および芥川賞観)がてんこもり。まるで豪華な福袋のように、さまざまな内容がギュッと凝縮されていて、お正月にもぴったりな記事じゃないですか(←スゲーこじつけ)。
さて、この記事ですが、いきなり両賞への批判をぶちかます、なんて品のないことは、当然しません。「候補と決まってどう思ったか」「最近の芥川賞・直木賞をどう思うか」といった質問に対する候補者たちの反応を4つのタイプに分類し、まずは「初候補、ありがたいことです 感激型」から紹介する、という定石を踏みます。それから「“処女を破られた”気持ちよ 不安型」「“落選には自信があるネ” 諦め型」と進みまして、「“賞なんて甘っちょろい感じ” 抵抗型」と、二つの賞に対する批判的な声へとなだれ込んでいくのです。オイシイものは最後にとっておこう、の作戦ですね。
ほんとうは全員の全コメントを紹介すると面白いんですが、かいつまみます。まずは、直木賞の候補者たちの声から参りましょう。
直木賞候補者のコメントの場合、おおむね2つに分かれます。候補になったことにガッツリ食いつく「反応型」と、そんなに嬉しがったり(あるいは反発も)しない「無反応型」です。
●江夏美子:「(引用者注:候補と聞いて)飛びあがるほど嬉しかった」「(引用者注:今回は)期待してませんが、二回、三回と回を重ねていくうち、いつかはとりたい」
●戸川昌子:「なにかというとセックスに結びつけ、変な目で見られているようでクサっていたの。だから候補になったと聞いて、認めてくれる人があったのだと、涙がでるほど嬉しかった。ものすごく嬉しいわ、受賞しなくても、候補になっただけで満足よ」「発表の前日あたりからソワソワするんじゃないかと思うわ。もらいたいのが人情ですものね。直木賞は私の目標ですし、一度はこの手で握りたいと思うの」
●津村節子:「候補にあげられるのがうちでは年中行事みたいでしょう。年に二度のうち、どちらもこないとガッカリします。忘れられたようでさびしいのね。こんどのは候補になっただけで儲けものと思ってるの。」「芥川、直木賞といわず、賞はもっとふやしたほうがいいわ。励みになるし、賞を得たことでいい舞台が与えられるからです。」
●和田芳恵:「とにかくこれまでいろんな文学賞の候補にあげられること七回。もらったのは日本芸術院賞(昭和三十二年『一葉の日記』で)だけ。こんども期待してないけど、しかし落ちつかんね。ソワソワしているのが自分でもわかる」「(引用者注:「賞などとれなくてもよい」という候補者について)単なるツヨガリでなければ賛成だが、もらえない人にかぎってそんなことよくいいますね。私も芸術院賞を受けて、やはり嬉しいもの。理クツなしで喜ぶのが人間味があると思う」
●野村尚吾:「賞がいらないという口ぶりの人は、芥川賞なんかもらうのこわいのじゃないですか。もらったものの、何か新しさを背負わされ何かと批評の対象にされ、それでつぶれる人もいますからね。それで警戒した発言しているんじゃないですか」「私が候補で発表を待った夜はいつも七時、八時となると落ちつかなくなります。酒でものんでまぎらわせないことには耐えられませんよ」(『週刊サンケイ』昭和39年/1964年2月3日号「芥川賞・直木賞発表前一週間の候補者たち」より)
といったところが「反応型」。だいたい直木賞に対して肯定的なとらえ方をしているし、江夏さんのように「いつかはとりたい」、戸川さんのように「私の目標」とまで言ってくれる人もいました。その反応、じゅうぶん想像できるものです。
ただ、そんな人ばかりじゃなかったことには注意が必要なんですよね。「近ごろは直木賞も権威がなくなり、誰もかれもが欲しがらなくなった」などという、21世紀の珍説をあざ笑うかのように、50年前だってクールに直木賞を受け止めていた人もずいぶんといた、ってことを知らしめてくれるのが、残りの5人です。
●安藤鶴夫:「まだ決まってもいないのに、とやかくいうのはどうかと思う。何もしゃべりたくない」
●川野彰子:「ほかの方、ベテランばかりで、とても期待していません。でも、候補に推された以上はもらえたらエエのになあ、と思うんです。といって、ソワソワしてはいませんよ」
●樹下太郎:「こんどのは軽い気持ちで書いただけに、候補になるのは意外」
●山川方夫:「前も自信なかったけど、こんどはそのなかでもいちばん自信がない。それだけに気が楽です。自信があるとソワソワするんですよ」「どうしてもとらなければならないといったものでなく、ひとつの目標になる種類のものだ。生命を賭けてというほどのおおげさなものではないでしょうがまあもらったほうが便宜上、トクだ、ということですね」
●小松左京:「仲間のだれもが、受賞したらお祝いの会を開いてやろうとはいわないね。それどころか気の早い連中が、どうせ落ちるんだからと慰めの会をやってくれたよ。オレ自身もまだまだと思ってるからね」(同)
ええと、安藤さんの場合は、その後受賞してからの喜びようからして、「反応型」だったんじゃないか、と疑わせはしますが、決定前のバカ騒ぎに加担しようとはしなかったことは事実なので、こちらに入れました。
どっちにせよ、欲しいと公言する人、そうでもない反応をする人、いろんな受け止め方をしているんだな、という当たり前で凡庸すぎる感想しか浮かびようがありません。……平成27年/2015年の候補者たちのコメントとして使用しても、何の違和感もなく通用するものばかりです。
ひるがえって芥川賞はどうでしょうか。じつはこの記事のいちばんの見どころは確実に、上の直木賞候補者たちのタイプ分布と、これから挙げる芥川賞候補者たちとの違い、ギャップ、熱量なんです。
こちらは「反応型」のなかに、賞を肯定するタイプと、否定するタイプの二派があるうえに、「無反応型」も最近の芥川賞について何らか懐疑的なコメントが付け加わる、という何とも豊潤な構図。賞としての盛り上がりは常に芥川賞のほうが上だよね、ってことを如実に感じさせる仕上がりになっています。
最初に「反応型―肯定派」から。
●木原象夫:「嬉しいというよりアッケにとられました。とにかく私の初めての小説ですからね」「これを機に勤め(丸福証券総括課長)の余暇をみつけ、一度は芥川賞を手にしたい」
●清水寥人:「当選が決まる前に、もう八十枚の注文でしょう。驚きましたね。(引用者中略)おじいちゃん、おばあちゃん、それに三人の子供、みんなが、私の書くことに協力してくれるようになりまして、ありがたいことです。だって芥川賞といえば日本のノーベル文学賞でりっぱなものですからね」「今年はダメにしても、数年後にはやっつけてやろうと、正月に決意しましてね。好きな酒もセーブしてます」(同)
対しますは「反応型―否定派」。のちに「芥川賞候補を辞退した!」と噂になる阿部昭さんと、この段階ですでに著名作家だった井上光晴さんのお二人です。
●阿部昭:「芥川賞をナメてるわけじゃないですが、八百長といっちゃ悪いけど、甘っちょろいのを感じるんです」「運、不運で決まるなんて宝くじみたいな印象じゃ、文学とかけ離れ過ぎてないかな。賞をなくせとはいいませんが、候補作なんて発表せずに、一気に受賞作を発表すれば、みんなも心理的な動揺うけずにすむんじゃないでしょうか」
●井上光晴:「万万が一、私にくれるとなればどうするか。受けるか辞退するか考慮中」「芥川賞、直木賞というと、何かとてつもなく偉いものと考えるのはどうかと思います。世間の目に、作家まで犯されているのではないかしらね。ボクなんか、芥川賞にまつわるすべてもろもろに攻撃をすべき立場にあるべきだと思ってます。」「職業作家はとかく安易に考えて、賞を受けるとお墨付き、免許証をもらったつもりになるようですね。それはむしろ危険な状態におかれることなんですのにね。」(同)
芥川賞を「八百長」と言う阿部さん、攻撃すべき立場にあると自負する井上さん。まっとうですね。
「無反応型」といっていいのが以下の4人でしょう。懐疑派、と言い換えてもいいです。これも極めて自然で当然な意見が開陳されています。
●佐藤愛子:「前回の『ソクラテスの妻』が評判よくて、もしやと思っていたんですが落ちたでしょう。こうなれば、これで処女が破られているみたいものだから、こんどは期待も動揺もありません。賞にならない予感が強いですよ」
●田辺聖子:「お友だちや、まわりの人たちが、私より二十一日(受賞作発表日)を待ち遠しがってるんですが、私は落選祝いをしましょうといまから決めています」「私ぐらいのもの書きは大阪にもゴマンといやはりますから」「励ましの意味と、偉い先生に読んでいただける有難さはあるが、どうもこうお祭り騒ぎになりすぎてはね。勲章で飾りたてる感じで、うなずけないわ」
●鴻みのる:「興味なしといえばウソですが、ヒトごとのように、関心あまりないんです。作品としては四番目のものですが、どれも五十枚以内の短編ですからとてもムリですよ」「最近の受賞作家は最低のデキでした。その後の作品ロクなのありませんよ。ボクが候補にでるなんて、日本の文学もよほど新人不足なんでしょう」
●平田敬:「友人なんか、初めから“なぐさめてやろう”という申し出ばかりで落選を認めてます」「ボクは馬券買わないで競馬みているみたいなもんです。選考経過でどんなこといわれるか、それだけの興味ですよ」「本当に芥川賞に値するかどうか疑問のものもあるんじゃないですか。その点、権威も薄れてきてますね」(同)
「お祭り騒ぎになりすぎ」、「権威も薄れてきている」……こういった芥川賞批判をweb記事、ブログ、twitterなどで見かけたら、まず50年前の芥川賞候補者のマネをしていると思って間違いありません(……間違いないのかな)。
どれもこれも、あるある、というか、時代性を感じさせない永遠の直木賞観・芥川賞観というか。こういう両賞へのコメントはいつ何度、目にしても見飽きることがなく(って飽きてないのはワタクシだけか)古びません。
そして注目したいのは、直木賞と芥川賞の、扱われ方の違いです。パッと見れば両賞平等、まんべんなく取材されているように見えて、その実はどうでしょう。この記事をまとめた無署名子は、芥川賞に対しては、批判する意見、擁護する意見も採り上げています(直木賞候補者の野村さんも、「賞がいらないという人」=「芥川賞がいらないという人」の文脈で語っているのにお気づきでしょうか)。しかし直木賞についてはほとんどそういう言及がありません。
そもそも、いくら同じ日に決まるとはいえ、この二つの賞に対する候補者のコメントを、ひとつの記事のなかに混在・ごっちゃにしてまとめようとしたのが、無理の原因でした。その点も、平成27年/2015年の両賞(をとりまく報道)に通じていて、まったく時代性を感じさせない良記事だと思います。
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「批判の系譜」カテゴリの記事
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