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2014年12月の4件の記事

2014年12月28日 (日)

「とりたければ、文壇の有力者のところへ部屋入りするのがいいよ。」…『別冊新日本文学』2号[昭和36年/1961年11月]「文学賞入門――受賞うけあいの秘ケツを語る毒舌篇」杉浦明平

■今週の文献

『別冊新日本文学』2号[昭和36年/1961年11月]

「文学賞入門
――受賞うけあいの秘ケツを語る毒舌篇」

杉浦明平

 直木賞と芥川賞は、拝金主義の卑しいイベント、などといわれます。戦前、一般の人たちがよく両賞のことを知らなかった時代でも、そうやって(とくに芥川賞を)批判する文学者は、けっこういました。80年たって文学賞を批判する側も、少しは工夫したり成長・発展したりしてはいますが、変わらずに「あんな賞は文藝春秋の宣伝=会社を儲けさせるためにやっていることで、それ以外の価値はない」と、いかにも「愚かなキミたちは知らないだろうが、賢いオレは見通せているんだぜ」風を吹かせて口にする人は後を絶ちません。大変おもしろい現象だと思います。

 杉浦明平さんは筋金入りの文学者ですけど、また筋金入りの文学賞批判マンでもありました。『暗い夜の記念に』という名著(なんですよね?)に収められた昭和15年/1940年(当時、杉浦さん27歳)の文章「「暢気眼鏡」を観る」では、映画化された尾崎一雄原作『暢気眼鏡』を観て、堕落してしまった文学について怒っています。

「文学とは貧しいにしろ豊かであるにしろ、もつと生々した生命の活動の上に築かれるもの以外ではありえないと私は信じてゐる。苦節十年青年の時代を原稿用紙の中に埋まつてくらすことは一人の手工業者細工師を養成し得るかもしれぬが、文学者又は芸術家を作り上げる所以ではない。さういふ根本的な箇所にこの男(引用者注:『暢気眼鏡』の主人公である文学青年)は間違を犯してゐる。その結果、この男は何のために文学をするのか、それについて全然無自覚であるか、さもなければ文学賞をうるためであるといふことになる。ただ何だか分らんが矢鱈に小説を書くといふのは私には理解しがたいところである。それから文学賞をうるために書くといふのであれば余りに卑しく支那人の富くじ熱と何らえらぶところないではないか。

(引用者中略)

 この男は苦節何年かが報いられてめでたく五百円の文学賞を手に入れる。やがて赤い屋根の家を丘の上に建てることになるであらう。しかし私一人はいよいよ気がめいつて、雪の止んだ街へ出ても、胸くそ悪さを追へども散らすことが出来なかつた。」(杉浦明平・著『暗い夜の記念に』 ―初出『帝国大学新聞』昭和15年/1940年3月1日)

 杉浦さんのような(あるいは、おそらく現代にもいる)身を削ったり、いろんなことを犠牲にしたりすること前提で、文学を追求しようという、真面目なんだか狂っているんだかよくわからない人びとにとっては、あの芥川賞の、カネの匂いがチラチラする、そして受賞=生活の安定&虚栄心の充実、みたいな世界は、胸くそが悪いものなわけですね。芥川賞が、創設からずっと、批判されつづけてきたゆえんでもあります。

 杉浦さんは、当然そんな胸くそ悪いものには近づかないよう生きた人ですので、たとえば、芥川賞に関心をもったり、あまつさえ憧れを抱いてしまうような、ごく平均的な「文学志望者」に対しては、ぴしっと言ってやるのです。

「『ノリソダ騒動記』と『基地六〇五号』でその名を知っていた明平さんにぼくがはじめて会ったのは、明平さんを中心とする文学志望者の集りに呼ばれたときであった。(引用者中略)

「十年くらいは、認められないのを覚悟で勉強することだね」

 明日にでも世間をうならせるような華ばなしい小説を書いてやろう、と意気ごんできたぼくの出端を、明平さんはそういってくじいた。(引用者中略)

「芥川賞をねらうなら、わたしのとこへきていても駄目だ」

 という明平さんの言葉を幾度か聞いたけれど、その頃のぼくはやはり、文壇のはなやかさに何となくひかれていたようだ。作品の内実にではなく、作品が引きおこす社会現象のきらびやかさにたいして。」(『明平さんのいる風景――杉浦明平生前追想集』所収 はらてつし「人間模様と文学と」より)

 幾度となく言っていた、ってことは、はらさんみたいな「芥川賞に憧れる、ステレオタイプな志望者」が、もう杉浦さんには何度も目に入って仕方なかったのでしょう。せっかくの文学の集まりで、胸くそ悪い世界がチラチラしたのでは、杉浦さんもずいぶんイヤだったんじゃないのかな、と想像します。

 で、その杉浦さんが、徹頭徹尾、皮肉を効かせて(文壇のために存在する)文学賞や、それに憧れて文学やっている卑しい連中を料理してみせたのが、「文学賞入門――受賞うけあいの秘ケツを語る毒舌篇」の一篇です。昭和36年/1961年、杉浦さん48歳のときの文章になります。

 たぶん皮肉を効かせているんだと思います。だけど、ちょっと「そうかもしれないな」と思わせるところが、毒ある文学賞批判には必要だ、っていうことぐらい杉浦さんもわきまえていて、この『新日本文学』読者が、いかにすれば文学賞(とくに直木賞・芥川賞)をもらうことができるかを、アドバイスしていきます。

 まずは、自分・杉浦明平は、まったく文学賞とぶち当たらないが、いったいなぜか、ということを説明します。運がわるいだけなのか、いや――

「ぼくはある日A賞の選考委員のリストをふとのぞいてみた。吉川英治――「宮本武蔵」など書き出しの一節をのぞけば、愚劣なすれちがいものだ。吉川の小説を国民文学だなどという進歩的歴史家のつらが見たい。吉川英治は税務署にほめられたそうじゃないか、とぼくは弥次りつづけたことを思いだす。吉川委員はぼくにぜったいに一票を投じてくれないだろう。」(「文学賞入門――受賞うけあいの秘ケツを語る毒舌篇」より)

 そこから、各賞の選考委員たちの名前を次々に挙げていくんですが、丹羽文雄さんは「まるでヘラヘラの紙芝居用の人物ばかり出てくる」、佐藤春夫さんは「皺くちゃ婆の厚化粧」、井上靖さんは「毒にも薬にもならぬ茶の間向き読物」……などなど、杉浦さんは以前から彼らに対して、批判的な文章を書いてきた、ああ、これじゃあ賞なんかくれるはずないよね、というわけです。

「何とか賞発表のさい、当代一流の文学者たちが、屁のような作品に、どんな讃辞を呈しているか、を見ると、ジャーナリズムの紐がいかにきつくかれらをしめつけているか、察せられよう。文学は自由業だが、文学者として生きていくためには、心にもないお世辞もいわなくてはならんようだ。むかしぼくはそういうことを一切否定したが、いまでは肩をすくめるだけで目をつむることにしている。」(同)

 文壇にはいろいろと派閥があるらしく、文学賞の選考委員は、そういった派閥に属していたり、交流のある作家が就く。彼らも当然人間なので、自分に敵対する奴や歯向かってくる奴より、褒めてくれる人、慕ってくる人の作品を、取り上げたくなるでしょう、自分(杉浦さん)のような、文壇とはあまり縁のない人間の耳にも、そういう噂はよく入ってくるよ、と紹介。文学賞は、いわゆる人間どうしの社会機構が生み出して運営されているものなのですよ、と読者に教えています。まあ、このあたりは「批判」というより、あるがままを解説している、と言ったほうがいいかもしれません。

 そりゃ文学賞は人間たちの生ぐさい思惑の産物ですから、こんなことも起こったらしい、と杉浦さんは一発、下世話な噂バナシも放り込んできます。

「ついでに余談にわたるが、何とか賞がどんな大きい力をもつか、話しておきたい。その賞の選考委員A氏に師事するある地方在住の作家の話だ。その作家に縁談がもちあがって、本人がのり気になったとしよう。ところが、あいにくかれは同じ文学サークルで小説を書いている女と恋愛関係になった。子までなした仲だったというのも、伝聞であるが、女は金にこまっていなかったので、その田舎作家はまったくオリジナリティに富んだ方法を見出した。というのはかれはこの女と切れるために、師匠のA先生に懇願して、X賞だったかY賞だったかの候補に女の作品を入れてもらったのである。もちろん候補作品の一つに並んだだけだ。が、田舎にいけば、候補になるだけでもたいしたことである。(引用者中略)このX賞もしくはY賞候補になることによって、かれは女流作家とつつがなく手を切ることができたそうだ。X賞(ではなくその候補になること)は手切れ金となりうることが証明されたのである。」(同)

 地方の作家が候補になって、地元で名士扱いされたりする文学賞なんて、直木賞か芥川賞しか、ワタクシには思い浮かびません。文学サークル所属の(まだ世に出ていなかった)女性、となれば、とくに芥川賞。……ありえそうな逸話です。

 そしていよいよ杉浦さん、若き(?)文学志望者たちへの、霊験あらたかな具体的アドバイスへと突入です。――いや、アドバイスというと語弊がありますね。先に引用した「芥川賞をねらうなら、わたしのとこへきていても駄目だ」にも似たお言葉、と言ったほうが近いでしょう。何つったって『別冊新日本文学』に、以下のような感じで書いているわけですから。

「ぼくが田舎に住み、また二三の地方へ旅行してつくづく感じることは、新日本文学会などほとんどだれも知っていないということだ。(引用者中略)さいきん、ある全金属所属の労働組合教宣部とその下にある文学サークル――一年に四回タイプ印刷の雑誌を出し、二十余名が小説を書いている――に出たところ、新日本文学について知っていたのは十五名中たった一人だけであった。

 ところが、その労働者の書き手たちはみんな「新潮」「文学界」「群像」「オール読物」「小説新潮」をじつによく読んでいた。そして十五人共通して小説を書く最高の目標は、芥川賞もしくは直木賞に入選することであった。(引用者中略)この二つの文学賞の性質のちがいなど、どうでもかまわなかった。つまり、どちらかはっきりしないけれど、労働者文学者たちはこの二つの文学賞のために、月々に五冊の雑誌を買って読み、それにならって小説を書きつづけてきたし、今も書きつづけているのである。」(同)

 「この二つの文学賞の性質のちがいなど、どうでもかまわなかった」って点が、よくこの文学志望者たちの思いをとらえていると思います。……逆にいうと、わざわざ文学サークルなどに所属して雑誌を読み文章を書く人びと、一般人より多少は文学に興味のある層からすら、直木賞はその程度の存在としてしか見られていなかった、という、身の毛もよだつ状況だったんですね。

 杉浦さんはつづけます。

「ぼくは、九州でも中国でも、直木賞の候補になった仲間や知人を、誇りやかに労働者が語るのをきいた。一回、候補にあがれば、地方名士になってしまうのである。

(引用者注:東京の文学者ばかりを選考対象としている他の賞にくらべて)直木賞や芥川賞だけは地方の文学青年たちにまでときにはそのふくよかなにおいをただよわせてくれる。当選しなくても候補になることがないではない。それをながめているから、労働者作家もみんな芥川賞直木賞に夢を託する。

 その夢を実現したいものは、ぼくのこの講義をよく学習して、適当な有力者のところへ部屋入りするといい。しかし有力なら有力なほどその一座に集る子分衆も多くて、その中で頭角をあらわすのはやはり容易なことではあるまい。苦節三十年もすれば、芥川賞でなくとも何か一つくらい賞にありつかぬものでもあるまい。」(同)

 そうですか。同人誌文化華やかなりし頃も、直木賞がほとんど「ぼく・わたしのわびしい生活を一変させてくれる一発逆転ジャパニーズ・ドリーム」的な面ばかり注目されて(でもよく考えてみてくださいよ。直木賞受賞で一発逆転したやつ、いったい何人いるんですか?)、で結局、受賞したやつは儲け主義の出版社に魂を売り渡す駄文売りの大衆作家になりさがる、みたいに思われていたわけですね、やっぱり。

 いまも直木賞に対してそんなイメージをもって批判する声、なくはありません。その点は、あんまり変わらないかもしれません。

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2014年12月21日 (日)

「かくべついうべきことをもたない。」…『全文芸時評 上巻 昭和33年~46年』平成1年/1989年11月・新潮社刊 江藤淳

■今週の文献

『全文芸時評 上巻 昭和33年~46年』平成1年/1989年11月・新潮社刊

江藤淳

 いよいよ待ちに待った第152回(平成26年/2014年下半期)直木賞の候補作が発表! ……されましたが、最新の直木賞しか気にならない普通の人は、うちのブログには来ないはずですので、今週も平常どおり、「過去にあった直木賞批判」のテーマで行きます。

 江藤淳さんです。昭和62年/1987年に三島由紀夫賞ができた当時の一件(数件?)でもわかるように、文壇を活性化させる文学賞の役割について、大変理解のある方でした。芥川賞系統への発言は(「赤頭巾ちゃん気をつけて」や「限りなく透明に近いブルー」に対する評言を代表として)相当たくさんあります。

 いっぽう直木賞のほうはどうかと言いますと、当然ですが、江藤さんは「文芸」には興味あるけど直木賞には関心が薄いです。薄いどころか「まったくなし」と言ってもいいでしょう。その点では、古今どの時代にも何十人(何百人?)かいた文芸評論家スジと変わりないありふれた感覚の持ち主でしたが、たまたま昭和34年/1959年~昭和38年/1963年という時期に、定期的に文芸時評を発表して、しかもそれが本になっちゃっているのが運のツキ。うちみたいな直木賞専門ブログでも取り上げざるを得なくなってしまったわけです。

 昭和34年/1959年~昭和38年/1963年、とは何の時期か。

 と言えば、直木賞史にとっては重要な時代で(って、そんなのばっかりだけど)、つまり受賞作が『オール讀物』じゃなく『文藝春秋』に、芥川賞受賞作といっしょに載っていた、直木賞史80年のなかでも稀少な4年間だったんですね。前に平野謙さんのエントリーでも触れました。

 選評は『オール讀物』に掲載、だけど受賞作は『文藝春秋』に掲載、という。戦前戦中、直木賞の選評が『文藝春秋』に発表されていた時代だって、直木賞の受賞作が『文藝春秋』に再録されたことなど一度もありません。

 昭和34年/1959年(第40回 昭和33年/1958年下半期)、いったいどうしてそんなムチャクチャなことやろうと思ったのか、よくわからないんですが、ともかく城山三郎「総会屋錦城」&多岐川恭「ある脅迫」(『落ちる』より)を始めに、文春本誌の読者は、選評が出ていないのでどういう理由で選ばれたのかわからないまま、直木賞の受賞作を目にすることになりました。

 直木賞に対して、「芥川賞受賞作と並べて掲載してもらえるんだから、ほらほら、うれしいだろ?」……とは、誰も言っちゃいません。でも、扱われ方の乱暴さがよくわかるエピソードです。しかも、こういう異常事態が、ほとんど無視されたまま語られる直木賞の、物悲しさも同時に感じてしまうんですが、それはそれとして。

 江藤さんです。いまもそうでしょうが、新聞に掲載されるような「文芸時評」の対象は、基本、文芸誌に載った小説、それから総合誌掲載のそれ、が中心です。『小説新潮』『別冊文藝春秋』程度なら、少し取り上げてもらえる機会もありました(文芸誌にもよく書いている作家のものなら)。『オール讀物』あたりの読物小説誌は、およそ対象外でした。

 それで『オール讀物』のための文学賞(といっても過言ではない)直木賞など、江藤さんが取り上げるわけがなかったのですが、急に世界がねじくり回り、『文藝春秋』に直木賞受賞作が載るようになってしまいます。江藤さんがこれらの作品にどう対処したか。江藤vs.直木賞受賞作、大スペクタクル活劇の開幕です。

 まずは初回、第40回(昭和33年/1958年下半期)が発表された『文藝春秋』昭和34年/1959年3月号について。

「今月ほど文芸雑誌が創作欄をなげている月もめずらしい。まともなのは「群像」だけで、「新潮」にいたっては連載以外に菊村到氏の「捕虜をいじめたか」一篇があるにすぎず、「文學界」も低調をきわめている。「文藝春秋」は芥川賞候補作品として吉村昭「鉄橋」、林青梧「ふりむくな奇蹟は」の二篇をのせているが、双方とも読物の域をでていない。不振もいいところである。」(『江藤淳全文芸時評 上巻』より ―初出は『図書新聞』昭和34年/1959年2月21日号)

 「総会屋錦城」と「ある脅迫」はガン無視です。

 つづく第41回(昭和34年/1959年上半期)。とうとう直木賞受賞作ごときに、原稿用紙のマス目を無駄づかいせざるを得ない日がやってきます。

「芥川賞と直木賞が決定して、受賞作が「文藝春秋」に発表された。渡辺喜恵子氏の「末のまつやま」は長編「馬淵川」の一節らしく、製糸工場に女中奉公した東北の貧農の娘が、主人にひそかな愛情をいだき、川のそばで結ばれるまでを重厚な文体できめこまやかに書いている。この抜粋からおしても「馬淵川」はおそらく力感にみちた秀作であろうと思われる。平岩弓枝氏「鏨師」については、もう一人の達者な物語作者が登場したという以外に、かくべついうべきことをもたない。」(同書より ―初出は『山陽新聞』昭和34年/1959年8月24日)

 いうべきことをもたないのに、わざわざ「いうべきことをもたない」と言わなきゃならなかったのは、渡辺さんの受賞作が、取り上げておきたいと思わせる作品だったからでしょう。そう、それで、江藤さんにツレなくあしらわれた「鏨師」のほうは、いまでも現役で文庫が売られているのに、褒めてもらった『馬淵川』は流通していない、という現実。ちょっぴり悲しさを覚えさせてくれます。

 そこから先、第42回(昭和34年/1959年下半期)からは、直木賞受賞作で『文藝春秋』に再掲された戸板康二「團十郎切腹事件」も、池波正太郎「錯乱」も、寺内大吉「はぐれ念仏」もスキップ。……たぶん、マジでいうべきことをもたなかったからではないか、と推測します。

 第45回(昭和36年/1961年上半期)の「雁の寺」はちょっと変化球。受賞後に『文藝春秋』昭和36年/1961年9月号に転載されたんですが、そちらではなく、初出の『別冊文藝春秋』75号[昭和36年/1961年3月]の段階で、江藤さん、これに食いついています。大絶賛です。

「水上勉氏の「雁の寺」(別冊文藝春秋)は、今月逸することのできない秀作である。当節は推理小説ばやりでこの作品にも「長篇推理小説」という肩書がついているが、これは肩書とは無関係にすぐれた作品である。

 たまたま、アカデミックな研究雑誌「文学」の四月号が「日本の推理・探偵小説」という特集を組んでいて、それによると水上氏は松本清張氏に続く「社会派」の推理作家だということになっているが、これも実は何派でもいいので、私が水上氏の作品を読むのは、「雁の寺」がはじめてであるから、単にこの小説を書いたひとりの作家がいるということでよい。こういう分類や予備知識がどうでもいいものだということを思い知らせてくれるのが、秀作というものの力だからである。」(同書より ―初出は『朝日新聞』昭和36年/1961年4月22日)

 ええ、分類とか予備知識なんか、どうでもいいでしょうね。分類の権化みたいな「直木賞だ芥川賞だ」みたいなことだって、じっさいは、どうでもいいことです。……でも、どうでもいいはずの、そういうことを、やはり思ったり、公に向かって書いたりしちゃう人間は絶対にいます。「どうでもいい」と言っている人自身だって、どうでもいいことなら頭にも浮ばなかったはずのところ、分類や予備知識がまわりから攻めてくるのに耐えられず、「どうでもいい」と否定的な言葉を吐かざるを得なくなる。……これは、もはや「どうでもいい」事態じゃないと思います。社会のなかで生きているかぎり、しかたのないことです。

 江藤さんで言いますと、次の第46回(昭和36年/1961年下半期)、伊藤桂一「螢の河」の受賞、ここでこういうふうに取り上げて、例の「直木賞と芥川賞は逆なんじゃないか」論争(←というほどのものはなかったけど)に加担しました。

「伊藤桂一氏の作品は、以前「三田文学」などで読んだ記憶があるが、直木賞受賞作の「蛍の河」は、今度「文藝春秋」に掲載されたのをはじめて読んだ。一昔前なら、(引用者注:この回芥川賞を受賞した宇能鴻一郎の)「鯨神」が直木賞に推され、「蛍の河」が芥川賞に推されるのがむしろ常識だったであろう。こういう感想が浮ぶのは、これがまことに抒情的な私小説だからである。

 この作品では草花や風景の印象が鮮烈で人物はあまり心に残らない。「水の琴」(オール讀物)になると、やはり受賞作と同様な中国の戦地の話で、朝鮮人の娼婦との淡い交流を描いた小説であるが、作者が情感におし流されて筆がうわ滑りをしている気味がある。だが、私には今のところこういう資質の作家が大衆文学の世界でどう変貌していくかちょっと見当がつかない。」(同書より ―初出は『朝日新聞』昭和37年/1962年2月27日)

 わざわざ『オール讀物』の受賞第一作まで取り上げてもらえるなんて、直木賞、やった甲斐があったなあ。と思うんですけど、江藤さん、「昔なら「鯨神」が直木賞向き、「螢の河」が芥川賞向き」とか分類しちゃっている。それって、ほんとうはどうでもいいことです。なのに、(平野謙さんが騒ぐのは、まあわかるとして)江藤さんまで、どうでもいいこと、言っちゃう。

 前に書いたことの繰り返しですが、改めて思います。「鯨神」といっしょに「螢の河」を文芸時評に取り上げてもらえたのは、それは、直木賞受賞作も『文藝春秋』に掲載されていたから、という環境が、大きくモノを言ったんですね、と。言い換えれば、この二つの賞をツールに文壇まわりをわんわん活性化させたいと思う主催者=文春の策略がマンマと功を奏した、と言ってもいいです。

 「どうでもいいこと」を、人の口から、どうでもいいこと前提で言わせる。なかなか大変です。いろいろ企みが必要なところです。『文藝春秋』への直木賞受賞作の再録、これは第48回(昭和37年/1962年下半期)までで終わり、なぜ唐突に終わったのかもわからないんですが、日本文学振興会=文春による直木賞活性化策のひとつとして、もっと注目されていい試みだったと思います。

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2014年12月14日 (日)

「直木賞の受賞者とは、八百長賞(ショー)に踊らされている、かなしき文学商人。」…『潮』昭和58年/1983年11月号「菊池寛賞を改めて拒否しなおす」本多勝一

■今週の文献

『潮』昭和58年/1983年11月号

「貧困なる精神
菊池寛賞を改めて拒否しなおす」

本多勝一

 直木賞批判は、歴史上(芥川賞批判に比べると)さほど多くありません。たぶん直木賞そのものに注目する人が少なかったせいだと思いますが、数少ないなかで、有名な部類に属するのが、本多勝一さんによるものでしょう。

 いや、「直木賞批判」と言いますか、芥川賞・大宅賞・菊池寛賞ひっくるめての「文藝春秋がやってるコドモだましな表彰制度」に対する批判なんですけどね。直木賞は、これ単独では言及するまでもないと思われてきた、っつうチッポケなシロモノですので、本多さんの批判の矛先は、ある意味まともとも言えます。

 文学賞を辞退した人は古今東西、数多くいます。しかし、一度賞をもらっておきながら、しばらく経って、辞退の意とともに返却するという、そうとう珍しい行動をとったこともさることながら、その後えんえんと、(大江健三郎さんを中心として)文学賞のまわりに棲息する人間を攻撃しつづけた粘着性もあり、本多さんの文春賞批判は、いまや日本社会のすみずみにまで行き渡っ……てはいません。残念ながら。でも、直木賞・芥川賞の歴史に名をのこす批判となったことは確実です。

 昭和39年/1964年、本多さんは「カナダ・エスキモーの報道」によって藤本高嶺さんとともに、第12回菊池寛賞を受賞。しかし昭和49年/1974年、第5回大宅壮一ノンフィクション賞で鎌田慧さんの『自動車絶望工場』が落選したことにキレ、大宅賞はじめ文春主催のオママゴト文学賞+それにヘイコラ擦り寄る見苦しい人々のことを批判。菊池寛賞なんてケガラワしいもん、早く返しちまいたいぜ、とウズウズしていたところ、昭和56年/1981年の第29回菊池寛賞が、山本七平なる、かつてイザヤ・ベンダサンとかいうウソッぱちの名前を使って、テキトー極めた文章を書いて売り出し、本多さんとバチバチ論争し合ったニセモン野郎に送られたのを機に、菊池賞を返しました(以上、本多さん側から見た表現です、念のため)。

 本多さんは言います。「ライスにふさわしい賞はカレー(料理)であり、犬の糞にふさわしい賞は馬の小便(肥料)」と。山本七郎=犬の糞には、なるほど菊池寛賞=馬の小便はちょうどいいね、でも自分は犬の糞に甘んじる気はないよ、だから馬の小便、お返しします、ということでした。

 そして「馬の小便」の仲間には、当然、直木賞も含まれています。

「「茶番劇としての大宅壮一賞」(引用者注:『潮』昭和49年/1974年7月号掲載)の最後で、私もまた次のように予告した。

「私も“恥ずかしながら”同じ株式会社から『菊池寛賞』をいただきました。返上を今から予告しておきますが、同じことならより効果的方法で返上したいと思っています」

 この予告から七年すぎた。なぜ七年間も放置したか。それは「効果的方法」とは何かを考えていたからである。最初期待していたのは、この会社が出している類似の他の賞(芥川賞・直木賞・大宅賞等)の受賞者のうち「ライス」(犬の糞の逆)の一部に、馬の小便を突返すレノン(引用者注:勲章を返したジョン・レノン)や稲村(引用者注:勲二等瑞宝章を返した稲村隆一)氏型の人物が現れることであった。(引用者中略)だが、「賞」というものへの人間の執着心は、私などの想像よりもはるかに強いことを知った。かなり「進歩的」かつ反体制的と思われる人でも、体制側の賞にしがみついている。特に小説家などの場合、フリーの著述業として体制側出版社からにらまれたくない(ほされたくない)という心情も痛いほどよくわかった。」(『潮』昭和57年/1982年1月号 本多勝一「貧困なる精神 菊池寛賞を返す」より)

 まあ直木賞の場合は、そもそも反体制的な人(の書く小説)は取り上げられづらいので、受賞者のなかに、そこまでのタマが揃っていない、っていう事情はありましょう。右とか左とか、政治思想を声高に表明する人種も、直木賞のほうにはそんなにおらず、本多さんの期待を満たすとすれば、芥川賞とか大宅賞の受賞者連中だったはずですが、本多さんのような考え方で賞を返す人は、まったく現われませんでした。

 そういう、意識の低い人たち(文春の姿勢に賛成か反対か、はっきりとした意見を言わず、受賞したことを手放さない人たち)に、本多さんはどんどんと矢を放ちます。『潮』昭和58年/1983年11月号では、戦前、戦中、そして最近(1980年代当時)また戦争賛美・戦争協力に、あの手この手で邁進する文藝春秋とか、その「体制」にわれ関せずを決め込みながら知らん顔している既受賞者を、こんなふうに攻撃しました。

「考えてみれば、この戦争推進会社の出している芥川賞・直木賞・菊池寛賞・大宅壮一賞その他の八百長賞が、モノカキという職業の人々を売春夫(引用者注:「夫」に傍点)へと堕落させるのにどれほど大きな役割を果してきたことだろう。(引用者中略)一方では反核や反戦に署名・声明し、他方では「ペン部隊」として文春の意のままに使われる。これが、文春のさまざまな八百長賞(ショー)に踊らされているかなしき文学商人たちの具体的行動学なのであろう。「ペン部隊」の諸君よ。まあ大いに生き恥をさらしつづけることだ。ただし、こんな賞(ショー)を拒否する小さな勇気さえ持てぬ男など、今後絶対に知識人のうちに数えることはしまい。」(『潮』昭和58年/1983年11月号 本多勝一「貧困なる精神 菊池寛賞を改めて拒否しなおす」より)

 ということで、このとき直木賞は第89回(昭和58年/1983年・上半期)が終わったばかり、その後も、「直木賞受賞者」といった看板を背負って生き恥をさらしつづける人々は増えつづけて、もうじき第152回を迎える、という有りさまなわけです。

 直木賞とは、馬の小便であり、また八百長な賞・ショーである。……ワタクシもそう思います。心の底から同意します。

 だけど、それこそが、直木賞の面白さを形づくっている大きな部分であり、これまで直木賞ファンの多くはその面白さに惹かれてきました(はず)。こんなものを真剣に認めているトンチンカンは、戦前は当然のこと、1980年も、そしていまも、ごく少数しかいない、つうのが現実なんじゃないでしょうか。

 じゃあ、こういう八百長賞(そもそも主催する文藝春秋が応援したくない作家の作品は、候補にも挙がらないわけだし)に、なぜワタクシが惹かれるか。……そりゃあ、こんなものを文藝春秋という一企業の姿勢にまで拡大解釈して、人間の勇気・尊厳にまで言及する人がいたり、『諸君!』あたりの姿勢に対して黙して語らず、文春のために(イコール、モノカキとして生計を立てる自分のために)売文にいそしむ人がいたり、といった数々の動きが現われることが面白いからです。

 たとえば、本多さんはのちに、大江健三郎さんとのバトルを始めるわけですが、そこで槍玉に挙げられたひとつは、文学賞のことでした。

 大江さんは第76回に芥川賞選考委員になってから7年半で一度、辞任しますが、このとき『諸君!』編集長だった堤堯さんが『文藝春秋』本誌の編集長になったことが原因だ、と言われていたのを「今回の辞任の理由それとはまったく別」とコメント。しかしいっぽうでは違うことを言ってみせているじゃないか、何と二枚舌と言おうか、場面に応じて言うことを使い分ける巧妙な奴だ! と本多さん、怒ります。

「かねてから大江氏の「小ずるい処世術」を私は問題にしてきた(引用者中略)

『朝日新聞』(一九八六年八月九日)文化面のコラムに(引用者中略)つぎのようにも書いているのである。

「僕は芥川賞の選考委員をやめたが、それは反核運動に反対する言論の『諸君』編集長と、『文芸春秋』本誌で協力しなければならなくなりそうだったからだった」

 この二年前に共同通信に「表情報」として公開した理由「今回の辞任は(それとは)全く別だ」と比べてみられよ。大江氏は読者に対して、かくも公然と大ウソをつき、だましたのである。リクルート疑獄などの政治家どもがハダシで逃げだすほどの“誠実な”処世術ではないか。(『朝日ジャーナル』平成4年/1992年2月21日号「ある“誠実な”小説家の処世術」より ―引用原文は『本多勝一集24 大東亜戦争と50年戦争』)

 ほかにも、三島由紀夫のハラキリに否定的なことを言っていたくせに、三島由紀夫賞の選考委員にシレッと就いちゃう大江健三郎、無節操すぎだぜ! ……と批判するなど、文学賞なんかどうでもいいことのはずなのに、やはりそこにまつわるエピソードは、本多さんにとって恰好の材料なのでした。

 いや、「どうでもいいこと」とは、本多さんも言っていないのかな。「私は「文学」にはしろうとですが、「文学者」自身や自称「作家」自身には関心がある」(『文学時標』昭和63年/1988年2月10日号「大江健三郎氏式の生き方について教えを乞う」)と言っていますもんね。文学賞から見えるのは、断然(当然)「文学」のことなどではない、これに関わったり発言したりする人間のこと、だというのは、ワタクシもまったくそう思うところです。

 ただ、直木賞については、どうも関心範囲からは外れすぎているからか、本多さんはあまり具体的にイジッてこなかった印象がありまして、その点だけが口惜しいです。

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2014年12月 7日 (日)

「直木賞の第一の罪、それは賞をショー化させてきたことだ。」…『現代文学解体新書――売れる作家と作品の秘密』平成1年/1989年12月・オール出版刊所収「芥川賞直木賞の功罪」藤田昌司

■今週の文献

『現代文学解体新書――売れる作家と作品の秘密』平成1年/1989年12月・オール出版刊

「芥川賞直木賞の功罪」

藤田昌司

 直木賞に対して、あまりいい印象を持っていない人は、けっこういるみたいです。昭和10年/1935年から現在まで、直木賞は約80年間つづいてきていますが、最も多く抱かれてきた印象は、おそらく圧倒的に「どうでもいい」とか「興味がない」でしょうけれど(←これはほぼ確実)、オレ直木賞に興味があるんだ、という変わり者たちも、ごく少数ですが、います。彼らの印象が、好悪どちらに寄っているか……、どうでしょうか、半々ぐらいか、若干、悪感情のほうが上回っている感じでしょうか。

 ただ、直木賞にもっている悪感情を、具体的に論じてきた人は、ほんとうに少ないです。筒井康隆作品にカブレた連中が『大いなる助走』を読んでキャッキャうれしがり「直木賞は悪だ!」と批判する程度の、変なものに洗脳されたような人びとが世に跋扈(?)しているぐらいで、それはそれで楽しいんですけど、直木賞ってほんと、注視されることの少ないさみしい存在なんだな、と悲しくなること、しばしばです。

 藤田昌司さんは、時事通信社の文芸記者あがりの文芸ジャーナリストで、その平成1年/1989年の著書に『現代文学解体新書――売れる作家と作品の秘密』があります。むろん、その職歴からして立場からして、単なるイメージだけで直木賞をワルモノ呼ばわりしたりはしない、正常な人間として当然の感覚をお持ちの方なのでした。

「さて、芥川賞直木賞百回の歩みを振り返って、その功罪を考えてみよう。」(『現代文学解体新書――売れる作家と作品の秘密』所収「芥川賞直木賞の功罪」より)

 と、「功」と「罪」なんちゅう、すべてこの世の万物が持っているはずの、基本的な性質をあえて、ワルモノ扱いされることの多い両賞で考えてみよう、というのですから、まともな頭をお持ちであることがわかります。

 ワルモノ扱いされることの多い、と言いました。ええ、藤田さんがその次でさらっと紹介してくれている、こんなエピソードを読むにつけ、直木賞(+芥川賞)の一般的な立ち位置、というか、求められている性格が、よくわかるってもんです。

「罪より功の方が遙かに大きいことは、だれしも認めるところだろう。NHKテレビが百回を迎えた芥川賞直木賞を特集番組として今春とりあげた。私のところにも取材に見えたので、そのことを話すと、担当プロデューサーは少し失望したような顔をした。

「じつは埴谷雄高さんのところへも行ってきたのですが、『罪は何もない、功だけだ』と言われまして……

と当惑している様子であった。企画意図としては芥川賞直木賞批判を徹底的にやってもらいたかったらしいが、多くの文学関係者は、ライバル出版社も含めて、この両賞の意義を高く評価しているといってよい。」(同)

 少し失望したような顔、とか、芥川賞直木賞批判を徹底的にやってもらいたかったらしい、とか。ヒール役としての直木賞(いや、とくに芥川賞)のほうが、番組で取り上げるには面白い、ウケる、と制作サイド側は見抜いていたというわけですね。うん、そこは同感します。

 偉そうなものがブチのめされるカタルシス、あるいは自分の手でブっ叩く爽快感。こういう欲求は多くの人が持ち合わせています。きっと。少なくとも、直木賞のことを詳しく知ろうとするよりも、そっちのほうが手軽で簡単ですしね。なので、大した論拠なく浅ーいイメージだけを頼りに、力いっぱい(もしくは、ニヒルにカッコつけて)直木賞を悪しざまに言う人が、いつの時代もわんさか生まれるのは、自然なことなのかもしれません。

 それで藤田さんの文章に戻りますが、「功罪」というタイトルをつけつつ、前半(どころかおハナシの最終盤まで)藤田さんは、この二つの賞の「功」をめんめんと紹介しつづけます。

 いちばんの功績は、「その歴史を通じて、文学というものに対する一般の関心を高めさせた、という点」だそうで、文学に対する関心が、一般的に高まることがなぜ「功」なのだ、それこそ「罪」じゃないか、という異論もありそうなものだと想像するんですが、藤田さんはそこまで深くは掘り下げません。何かを世間に広く伝えることがご商売の方ですから、「一般的な関心が高まる」=「善」、って思いを貫かれているんでしょうか。

 さらには、一般的に「罪」としてあげつらわれそうな点(と藤田さんが思っている)、選考委員と候補者のコネ、というか情実で決められていて公平じゃないんじゃないか、といったことを取り上げて、いや、そうとう公平と言ってよい、と(架空の敵に対し)反論。ゴシップのみを楯に直木賞・芥川賞を馬鹿にしようとする向きを、軽くいなしています。

 では、藤田さんが考える両賞の「罪」とは何なのか。お待たせしました。見せ場です。いちばん盛り上がるところです。

「第一は、賞がショー化してきたことだ。(引用者中略)芸能関係者の受賞により、文学賞の“芸能化現象”が起こったのである。

 もっとも芸能化現象は、他の文学新人賞から始まり、芥川賞直木賞に波及してきたという経過をたどっている。女優が小説のようなものを書いて受賞する。マスコミが大騒ぎする。掲載誌も売れるし、単行本も売れる。芸能化現象は出版社にとって結構いい商売になったのである。しかしその結果が、文学の衰退を招いたことも、否定できない。」(同)

 す、すいたい、ですって……。芸能関係者が文学賞をとることと、「文学の衰退」(って何なんだ?)に、因果関係があるようにはとうてい思えないんですけど、どうやら藤田さんの挙げている例が、青島幸男、つかこうへい、唐十郎、山口洋子、と3対1で直木賞の受賞のほうなので、だったらワタクシははっきり言いたい。直木賞の受賞結果なんて、「文学」の繁栄とか衰退とかに、全然影響しないっすよ。どうヒイキ目に見ても。

 なので「賞がショー化してきた」ことが、罪だとする藤田さんの考えには、まるで納得できないわけですが、おっとまだ藤田さんのおハナシには続きがあるんでした。途中で腰を折ってすみません。どうぞ続けてください。

「もう少し高い視点に立って見れば、芥川賞直木賞は、日本の文学の流れをつくってきた、と言えるかもしれない。とくに戦後の文学については、そう言える。(引用者中略)それが“功”なのか、“罪”なのかとなると、本来がジャーナリストの私には、手に負えない問題である。」(同)

 待った、待った。直木賞が、日本の文学の流れをつくってきた、ですと? ほんとかよ。まず「日本の文学の流れ」を簡単にでも説明してほしいところですが、「本来がジャーナリストの私」と言ってあきらめちゃっているし。ワタクシも日本の文学の流れなんか、全然わかりませんけど(本当に「流れ」などあるのか、っていう疑いはアリ)、直木賞がその流れに関わったのは、大手中間小説読物誌の歴史ぐらいで、「文学」どころか、商業小説出版界にすら、直木賞が流れをつくった領域などありますか? あるんですか?

 ……すみません、二度も同じ過ちをおかしました。藤田さんのご高説、まだ残りがあります。

「両賞とも、新しい実験的な作品には臆病だということである。その理由の一つとして、選考委員が主として両賞受賞者(そうでない場合もある)の既成の有名作家で構成されていることが挙げられる。もう一つ言えば、芥川賞直木賞が日本文学の主流を形成しているという意識の重みが作用して、実験的な作品や個性的な作品を避け、優等生を選び出す傾向が強まっていることも指摘できよう。だが、これでは文学の刷新は期待できない。」(同)

 そうですね。「実験的な作品や個性的な作品を避け」、ってことはあると思います、直木賞のほうにはとくに。

 そして繰り返しになりますが、全然それが「罪」とは思えないのは、直木賞が既成のものを選ぼうが、新奇なものを選ぼうが、文学の停滞にも刷新にも寄与するところ何もないなかで、半年に一回ワッと盛り上がって、サッと群衆がいなくなる、そういう企画なわけですし、直木賞をとった人がそれを励みに書きつづけることはあるでしょうが、直木賞をとらなかった人(候補にも挙がらない人)だってそれぞれの目的・目標をもって同じくらい書きつづける……というのが、80年間綿々とつづいてきた直木賞界隈の動向です。

 だいたい直木賞に(多少なりとも)「罪」がある、といっている言説は、直木賞に過大な権威性を感じすぎている、過大な期待を寄せすぎているんですよね。藤田さんの文章もまたその弊から逃れるものではありません。ただ、これだけは言えます。基本、直木賞に対してまとまった意見・考え方を書いてくれている同志はごく少数派なのに、直木賞について歴史的経緯も加味しながら書いてくれている、非常に頼もしい存在です。

 直木賞のまわりって、イメージだけで悪だ何だと言い立てる人が、たくさんいるんですもん。そして、イメージだけで「さすが直木賞だ」とか褒めちゃう人はもっと多いですから。

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