「とりたければ、文壇の有力者のところへ部屋入りするのがいいよ。」…『別冊新日本文学』2号[昭和36年/1961年11月]「文学賞入門――受賞うけあいの秘ケツを語る毒舌篇」杉浦明平
■今週の文献
『別冊新日本文学』2号[昭和36年/1961年11月]
「文学賞入門
――受賞うけあいの秘ケツを語る毒舌篇」
杉浦明平
直木賞と芥川賞は、拝金主義の卑しいイベント、などといわれます。戦前、一般の人たちがよく両賞のことを知らなかった時代でも、そうやって(とくに芥川賞を)批判する文学者は、けっこういました。80年たって文学賞を批判する側も、少しは工夫したり成長・発展したりしてはいますが、変わらずに「あんな賞は文藝春秋の宣伝=会社を儲けさせるためにやっていることで、それ以外の価値はない」と、いかにも「愚かなキミたちは知らないだろうが、賢いオレは見通せているんだぜ」風を吹かせて口にする人は後を絶ちません。大変おもしろい現象だと思います。
杉浦明平さんは筋金入りの文学者ですけど、また筋金入りの文学賞批判マンでもありました。『暗い夜の記念に』という名著(なんですよね?)に収められた昭和15年/1940年(当時、杉浦さん27歳)の文章「「暢気眼鏡」を観る」では、映画化された尾崎一雄原作『暢気眼鏡』を観て、堕落してしまった文学について怒っています。
「文学とは貧しいにしろ豊かであるにしろ、もつと生々した生命の活動の上に築かれるもの以外ではありえないと私は信じてゐる。苦節十年青年の時代を原稿用紙の中に埋まつてくらすことは一人の手工業者細工師を養成し得るかもしれぬが、文学者又は芸術家を作り上げる所以ではない。さういふ根本的な箇所にこの男(引用者注:『暢気眼鏡』の主人公である文学青年)は間違を犯してゐる。その結果、この男は何のために文学をするのか、それについて全然無自覚であるか、さもなければ文学賞をうるためであるといふことになる。ただ何だか分らんが矢鱈に小説を書くといふのは私には理解しがたいところである。それから文学賞をうるために書くといふのであれば余りに卑しく支那人の富くじ熱と何らえらぶところないではないか。
(引用者中略)
この男は苦節何年かが報いられてめでたく五百円の文学賞を手に入れる。やがて赤い屋根の家を丘の上に建てることになるであらう。しかし私一人はいよいよ気がめいつて、雪の止んだ街へ出ても、胸くそ悪さを追へども散らすことが出来なかつた。」(杉浦明平・著『暗い夜の記念に』 ―初出『帝国大学新聞』昭和15年/1940年3月1日)
杉浦さんのような(あるいは、おそらく現代にもいる)身を削ったり、いろんなことを犠牲にしたりすること前提で、文学を追求しようという、真面目なんだか狂っているんだかよくわからない人びとにとっては、あの芥川賞の、カネの匂いがチラチラする、そして受賞=生活の安定&虚栄心の充実、みたいな世界は、胸くそが悪いものなわけですね。芥川賞が、創設からずっと、批判されつづけてきたゆえんでもあります。
杉浦さんは、当然そんな胸くそ悪いものには近づかないよう生きた人ですので、たとえば、芥川賞に関心をもったり、あまつさえ憧れを抱いてしまうような、ごく平均的な「文学志望者」に対しては、ぴしっと言ってやるのです。
「『ノリソダ騒動記』と『基地六〇五号』でその名を知っていた明平さんにぼくがはじめて会ったのは、明平さんを中心とする文学志望者の集りに呼ばれたときであった。(引用者中略)
「十年くらいは、認められないのを覚悟で勉強することだね」
明日にでも世間をうならせるような華ばなしい小説を書いてやろう、と意気ごんできたぼくの出端を、明平さんはそういってくじいた。(引用者中略)
「芥川賞をねらうなら、わたしのとこへきていても駄目だ」
という明平さんの言葉を幾度か聞いたけれど、その頃のぼくはやはり、文壇のはなやかさに何となくひかれていたようだ。作品の内実にではなく、作品が引きおこす社会現象のきらびやかさにたいして。」(『明平さんのいる風景――杉浦明平生前追想集』所収 はらてつし「人間模様と文学と」より)
幾度となく言っていた、ってことは、はらさんみたいな「芥川賞に憧れる、ステレオタイプな志望者」が、もう杉浦さんには何度も目に入って仕方なかったのでしょう。せっかくの文学の集まりで、胸くそ悪い世界がチラチラしたのでは、杉浦さんもずいぶんイヤだったんじゃないのかな、と想像します。
で、その杉浦さんが、徹頭徹尾、皮肉を効かせて(文壇のために存在する)文学賞や、それに憧れて文学やっている卑しい連中を料理してみせたのが、「文学賞入門――受賞うけあいの秘ケツを語る毒舌篇」の一篇です。昭和36年/1961年、杉浦さん48歳のときの文章になります。
たぶん皮肉を効かせているんだと思います。だけど、ちょっと「そうかもしれないな」と思わせるところが、毒ある文学賞批判には必要だ、っていうことぐらい杉浦さんもわきまえていて、この『新日本文学』読者が、いかにすれば文学賞(とくに直木賞・芥川賞)をもらうことができるかを、アドバイスしていきます。
まずは、自分・杉浦明平は、まったく文学賞とぶち当たらないが、いったいなぜか、ということを説明します。運がわるいだけなのか、いや――
「ぼくはある日A賞の選考委員のリストをふとのぞいてみた。吉川英治――「宮本武蔵」など書き出しの一節をのぞけば、愚劣なすれちがいものだ。吉川の小説を国民文学だなどという進歩的歴史家のつらが見たい。吉川英治は税務署にほめられたそうじゃないか、とぼくは弥次りつづけたことを思いだす。吉川委員はぼくにぜったいに一票を投じてくれないだろう。」(「文学賞入門――受賞うけあいの秘ケツを語る毒舌篇」より)
そこから、各賞の選考委員たちの名前を次々に挙げていくんですが、丹羽文雄さんは「まるでヘラヘラの紙芝居用の人物ばかり出てくる」、佐藤春夫さんは「皺くちゃ婆の厚化粧」、井上靖さんは「毒にも薬にもならぬ茶の間向き読物」……などなど、杉浦さんは以前から彼らに対して、批判的な文章を書いてきた、ああ、これじゃあ賞なんかくれるはずないよね、というわけです。
「何とか賞発表のさい、当代一流の文学者たちが、屁のような作品に、どんな讃辞を呈しているか、を見ると、ジャーナリズムの紐がいかにきつくかれらをしめつけているか、察せられよう。文学は自由業だが、文学者として生きていくためには、心にもないお世辞もいわなくてはならんようだ。むかしぼくはそういうことを一切否定したが、いまでは肩をすくめるだけで目をつむることにしている。」(同)
文壇にはいろいろと派閥があるらしく、文学賞の選考委員は、そういった派閥に属していたり、交流のある作家が就く。彼らも当然人間なので、自分に敵対する奴や歯向かってくる奴より、褒めてくれる人、慕ってくる人の作品を、取り上げたくなるでしょう、自分(杉浦さん)のような、文壇とはあまり縁のない人間の耳にも、そういう噂はよく入ってくるよ、と紹介。文学賞は、いわゆる人間どうしの社会機構が生み出して運営されているものなのですよ、と読者に教えています。まあ、このあたりは「批判」というより、あるがままを解説している、と言ったほうがいいかもしれません。
そりゃ文学賞は人間たちの生ぐさい思惑の産物ですから、こんなことも起こったらしい、と杉浦さんは一発、下世話な噂バナシも放り込んできます。
「ついでに余談にわたるが、何とか賞がどんな大きい力をもつか、話しておきたい。その賞の選考委員A氏に師事するある地方在住の作家の話だ。その作家に縁談がもちあがって、本人がのり気になったとしよう。ところが、あいにくかれは同じ文学サークルで小説を書いている女と恋愛関係になった。子までなした仲だったというのも、伝聞であるが、女は金にこまっていなかったので、その田舎作家はまったくオリジナリティに富んだ方法を見出した。というのはかれはこの女と切れるために、師匠のA先生に懇願して、X賞だったかY賞だったかの候補に女の作品を入れてもらったのである。もちろん候補作品の一つに並んだだけだ。が、田舎にいけば、候補になるだけでもたいしたことである。(引用者中略)このX賞もしくはY賞候補になることによって、かれは女流作家とつつがなく手を切ることができたそうだ。X賞(ではなくその候補になること)は手切れ金となりうることが証明されたのである。」(同)
地方の作家が候補になって、地元で名士扱いされたりする文学賞なんて、直木賞か芥川賞しか、ワタクシには思い浮かびません。文学サークル所属の(まだ世に出ていなかった)女性、となれば、とくに芥川賞。……ありえそうな逸話です。
そしていよいよ杉浦さん、若き(?)文学志望者たちへの、霊験あらたかな具体的アドバイスへと突入です。――いや、アドバイスというと語弊がありますね。先に引用した「芥川賞をねらうなら、わたしのとこへきていても駄目だ」にも似たお言葉、と言ったほうが近いでしょう。何つったって『別冊新日本文学』に、以下のような感じで書いているわけですから。
「ぼくが田舎に住み、また二三の地方へ旅行してつくづく感じることは、新日本文学会などほとんどだれも知っていないということだ。(引用者中略)さいきん、ある全金属所属の労働組合教宣部とその下にある文学サークル――一年に四回タイプ印刷の雑誌を出し、二十余名が小説を書いている――に出たところ、新日本文学について知っていたのは十五名中たった一人だけであった。
ところが、その労働者の書き手たちはみんな「新潮」「文学界」「群像」「オール読物」「小説新潮」をじつによく読んでいた。そして十五人共通して小説を書く最高の目標は、芥川賞もしくは直木賞に入選することであった。(引用者中略)この二つの文学賞の性質のちがいなど、どうでもかまわなかった。つまり、どちらかはっきりしないけれど、労働者文学者たちはこの二つの文学賞のために、月々に五冊の雑誌を買って読み、それにならって小説を書きつづけてきたし、今も書きつづけているのである。」(同)
「この二つの文学賞の性質のちがいなど、どうでもかまわなかった」って点が、よくこの文学志望者たちの思いをとらえていると思います。……逆にいうと、わざわざ文学サークルなどに所属して雑誌を読み文章を書く人びと、一般人より多少は文学に興味のある層からすら、直木賞はその程度の存在としてしか見られていなかった、という、身の毛もよだつ状況だったんですね。
杉浦さんはつづけます。
「ぼくは、九州でも中国でも、直木賞の候補になった仲間や知人を、誇りやかに労働者が語るのをきいた。一回、候補にあがれば、地方名士になってしまうのである。
(引用者注:東京の文学者ばかりを選考対象としている他の賞にくらべて)直木賞や芥川賞だけは地方の文学青年たちにまでときにはそのふくよかなにおいをただよわせてくれる。当選しなくても候補になることがないではない。それをながめているから、労働者作家もみんな芥川賞直木賞に夢を託する。
その夢を実現したいものは、ぼくのこの講義をよく学習して、適当な有力者のところへ部屋入りするといい。しかし有力なら有力なほどその一座に集る子分衆も多くて、その中で頭角をあらわすのはやはり容易なことではあるまい。苦節三十年もすれば、芥川賞でなくとも何か一つくらい賞にありつかぬものでもあるまい。」(同)
そうですか。同人誌文化華やかなりし頃も、直木賞がほとんど「ぼく・わたしのわびしい生活を一変させてくれる一発逆転ジャパニーズ・ドリーム」的な面ばかり注目されて(でもよく考えてみてくださいよ。直木賞受賞で一発逆転したやつ、いったい何人いるんですか?)、で結局、受賞したやつは儲け主義の出版社に魂を売り渡す駄文売りの大衆作家になりさがる、みたいに思われていたわけですね、やっぱり。
いまも直木賞に対してそんなイメージをもって批判する声、なくはありません。その点は、あんまり変わらないかもしれません。
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