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2014年12月14日 (日)

「直木賞の受賞者とは、八百長賞(ショー)に踊らされている、かなしき文学商人。」…『潮』昭和58年/1983年11月号「菊池寛賞を改めて拒否しなおす」本多勝一

■今週の文献

『潮』昭和58年/1983年11月号

「貧困なる精神
菊池寛賞を改めて拒否しなおす」

本多勝一

 直木賞批判は、歴史上(芥川賞批判に比べると)さほど多くありません。たぶん直木賞そのものに注目する人が少なかったせいだと思いますが、数少ないなかで、有名な部類に属するのが、本多勝一さんによるものでしょう。

 いや、「直木賞批判」と言いますか、芥川賞・大宅賞・菊池寛賞ひっくるめての「文藝春秋がやってるコドモだましな表彰制度」に対する批判なんですけどね。直木賞は、これ単独では言及するまでもないと思われてきた、っつうチッポケなシロモノですので、本多さんの批判の矛先は、ある意味まともとも言えます。

 文学賞を辞退した人は古今東西、数多くいます。しかし、一度賞をもらっておきながら、しばらく経って、辞退の意とともに返却するという、そうとう珍しい行動をとったこともさることながら、その後えんえんと、(大江健三郎さんを中心として)文学賞のまわりに棲息する人間を攻撃しつづけた粘着性もあり、本多さんの文春賞批判は、いまや日本社会のすみずみにまで行き渡っ……てはいません。残念ながら。でも、直木賞・芥川賞の歴史に名をのこす批判となったことは確実です。

 昭和39年/1964年、本多さんは「カナダ・エスキモーの報道」によって藤本高嶺さんとともに、第12回菊池寛賞を受賞。しかし昭和49年/1974年、第5回大宅壮一ノンフィクション賞で鎌田慧さんの『自動車絶望工場』が落選したことにキレ、大宅賞はじめ文春主催のオママゴト文学賞+それにヘイコラ擦り寄る見苦しい人々のことを批判。菊池寛賞なんてケガラワしいもん、早く返しちまいたいぜ、とウズウズしていたところ、昭和56年/1981年の第29回菊池寛賞が、山本七平なる、かつてイザヤ・ベンダサンとかいうウソッぱちの名前を使って、テキトー極めた文章を書いて売り出し、本多さんとバチバチ論争し合ったニセモン野郎に送られたのを機に、菊池賞を返しました(以上、本多さん側から見た表現です、念のため)。

 本多さんは言います。「ライスにふさわしい賞はカレー(料理)であり、犬の糞にふさわしい賞は馬の小便(肥料)」と。山本七郎=犬の糞には、なるほど菊池寛賞=馬の小便はちょうどいいね、でも自分は犬の糞に甘んじる気はないよ、だから馬の小便、お返しします、ということでした。

 そして「馬の小便」の仲間には、当然、直木賞も含まれています。

「「茶番劇としての大宅壮一賞」(引用者注:『潮』昭和49年/1974年7月号掲載)の最後で、私もまた次のように予告した。

「私も“恥ずかしながら”同じ株式会社から『菊池寛賞』をいただきました。返上を今から予告しておきますが、同じことならより効果的方法で返上したいと思っています」

 この予告から七年すぎた。なぜ七年間も放置したか。それは「効果的方法」とは何かを考えていたからである。最初期待していたのは、この会社が出している類似の他の賞(芥川賞・直木賞・大宅賞等)の受賞者のうち「ライス」(犬の糞の逆)の一部に、馬の小便を突返すレノン(引用者注:勲章を返したジョン・レノン)や稲村(引用者注:勲二等瑞宝章を返した稲村隆一)氏型の人物が現れることであった。(引用者中略)だが、「賞」というものへの人間の執着心は、私などの想像よりもはるかに強いことを知った。かなり「進歩的」かつ反体制的と思われる人でも、体制側の賞にしがみついている。特に小説家などの場合、フリーの著述業として体制側出版社からにらまれたくない(ほされたくない)という心情も痛いほどよくわかった。」(『潮』昭和57年/1982年1月号 本多勝一「貧困なる精神 菊池寛賞を返す」より)

 まあ直木賞の場合は、そもそも反体制的な人(の書く小説)は取り上げられづらいので、受賞者のなかに、そこまでのタマが揃っていない、っていう事情はありましょう。右とか左とか、政治思想を声高に表明する人種も、直木賞のほうにはそんなにおらず、本多さんの期待を満たすとすれば、芥川賞とか大宅賞の受賞者連中だったはずですが、本多さんのような考え方で賞を返す人は、まったく現われませんでした。

 そういう、意識の低い人たち(文春の姿勢に賛成か反対か、はっきりとした意見を言わず、受賞したことを手放さない人たち)に、本多さんはどんどんと矢を放ちます。『潮』昭和58年/1983年11月号では、戦前、戦中、そして最近(1980年代当時)また戦争賛美・戦争協力に、あの手この手で邁進する文藝春秋とか、その「体制」にわれ関せずを決め込みながら知らん顔している既受賞者を、こんなふうに攻撃しました。

「考えてみれば、この戦争推進会社の出している芥川賞・直木賞・菊池寛賞・大宅壮一賞その他の八百長賞が、モノカキという職業の人々を売春夫(引用者注:「夫」に傍点)へと堕落させるのにどれほど大きな役割を果してきたことだろう。(引用者中略)一方では反核や反戦に署名・声明し、他方では「ペン部隊」として文春の意のままに使われる。これが、文春のさまざまな八百長賞(ショー)に踊らされているかなしき文学商人たちの具体的行動学なのであろう。「ペン部隊」の諸君よ。まあ大いに生き恥をさらしつづけることだ。ただし、こんな賞(ショー)を拒否する小さな勇気さえ持てぬ男など、今後絶対に知識人のうちに数えることはしまい。」(『潮』昭和58年/1983年11月号 本多勝一「貧困なる精神 菊池寛賞を改めて拒否しなおす」より)

 ということで、このとき直木賞は第89回(昭和58年/1983年・上半期)が終わったばかり、その後も、「直木賞受賞者」といった看板を背負って生き恥をさらしつづける人々は増えつづけて、もうじき第152回を迎える、という有りさまなわけです。

 直木賞とは、馬の小便であり、また八百長な賞・ショーである。……ワタクシもそう思います。心の底から同意します。

 だけど、それこそが、直木賞の面白さを形づくっている大きな部分であり、これまで直木賞ファンの多くはその面白さに惹かれてきました(はず)。こんなものを真剣に認めているトンチンカンは、戦前は当然のこと、1980年も、そしていまも、ごく少数しかいない、つうのが現実なんじゃないでしょうか。

 じゃあ、こういう八百長賞(そもそも主催する文藝春秋が応援したくない作家の作品は、候補にも挙がらないわけだし)に、なぜワタクシが惹かれるか。……そりゃあ、こんなものを文藝春秋という一企業の姿勢にまで拡大解釈して、人間の勇気・尊厳にまで言及する人がいたり、『諸君!』あたりの姿勢に対して黙して語らず、文春のために(イコール、モノカキとして生計を立てる自分のために)売文にいそしむ人がいたり、といった数々の動きが現われることが面白いからです。

 たとえば、本多さんはのちに、大江健三郎さんとのバトルを始めるわけですが、そこで槍玉に挙げられたひとつは、文学賞のことでした。

 大江さんは第76回に芥川賞選考委員になってから7年半で一度、辞任しますが、このとき『諸君!』編集長だった堤堯さんが『文藝春秋』本誌の編集長になったことが原因だ、と言われていたのを「今回の辞任の理由それとはまったく別」とコメント。しかしいっぽうでは違うことを言ってみせているじゃないか、何と二枚舌と言おうか、場面に応じて言うことを使い分ける巧妙な奴だ! と本多さん、怒ります。

「かねてから大江氏の「小ずるい処世術」を私は問題にしてきた(引用者中略)

『朝日新聞』(一九八六年八月九日)文化面のコラムに(引用者中略)つぎのようにも書いているのである。

「僕は芥川賞の選考委員をやめたが、それは反核運動に反対する言論の『諸君』編集長と、『文芸春秋』本誌で協力しなければならなくなりそうだったからだった」

 この二年前に共同通信に「表情報」として公開した理由「今回の辞任は(それとは)全く別だ」と比べてみられよ。大江氏は読者に対して、かくも公然と大ウソをつき、だましたのである。リクルート疑獄などの政治家どもがハダシで逃げだすほどの“誠実な”処世術ではないか。(『朝日ジャーナル』平成4年/1992年2月21日号「ある“誠実な”小説家の処世術」より ―引用原文は『本多勝一集24 大東亜戦争と50年戦争』)

 ほかにも、三島由紀夫のハラキリに否定的なことを言っていたくせに、三島由紀夫賞の選考委員にシレッと就いちゃう大江健三郎、無節操すぎだぜ! ……と批判するなど、文学賞なんかどうでもいいことのはずなのに、やはりそこにまつわるエピソードは、本多さんにとって恰好の材料なのでした。

 いや、「どうでもいいこと」とは、本多さんも言っていないのかな。「私は「文学」にはしろうとですが、「文学者」自身や自称「作家」自身には関心がある」(『文学時標』昭和63年/1988年2月10日号「大江健三郎氏式の生き方について教えを乞う」)と言っていますもんね。文学賞から見えるのは、断然(当然)「文学」のことなどではない、これに関わったり発言したりする人間のこと、だというのは、ワタクシもまったくそう思うところです。

 ただ、直木賞については、どうも関心範囲からは外れすぎているからか、本多さんはあまり具体的にイジッてこなかった印象がありまして、その点だけが口惜しいです。

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