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2014年11月の5件の記事

2014年11月30日 (日)

「文学賞をあげて本を売る、ベストセラー商法の白眉。」…『創』昭和57年/1982年11月号「ベストセラー商法の道具と化した文学賞」真下俊夫

■今週の文献

『創』昭和57年/1982年11月号

「ベストセラー商法の道具と化した文学賞」

真下俊夫

 まさかいまどき雑誌『創』が時事ネタになるとは思いませんでした。残念ながら(……残念なのか?)もう収束しちゃったんでしょうか。かなり出遅れましたが、今週は『創』掲載の「直木賞批判」記事でいきます。いや別に、原稿料未支払いとは何の関係もないので、あわてて取り上げる必要もないんですけど。

 『創』がどのような経緯をもって創刊され、おカネに事欠く貧乏所帯の出版元として知られるようになったか……みたいなことは篠田博之さんの『生涯編集者 月刊『創』奮戦記』のはじめのほうに書いてありますが、総会屋雑誌だった『創』が、オーナーの休刊宣告によって先を続けられなくなり、篠田さんたち仲間3人がまるっきり別の出版社をつくって仕切り直したのがいまの『創』。その記念すべき再出発第1号が昭和57年/1982年11月号です。特集は「ベストセラーの内幕」、ということで、直木賞・芥川賞もその船出を祝うがごとく(?)批評の対象として駆り出されました。

 真下俊夫さんが「ベストセラー商法の道具と化した文学賞」なる記事を書いています。冒頭、作家のデビューへの道筋を解説していて、おいおいウソでしょ、と思わざるを得ないその解説ぶりに、直木賞がどんな角度から批判されるのか、期待感をふくらませる記事です。

「作家のデビューの仕方には、昔から二つの方法があった。一つは同人雑誌にコツコツと作品を書きつづけ、先輩作家や編集者の目に止まり、商業文芸誌に引きあげられ、デビューしてゆくという方法である。そこには苦節十年、二十年といった文章練磨の研鑽があった。(引用者中略)もう一つは、いわゆる“懸賞作家”という、やや揶揄的な意味を含んだデビューの仕方である。(引用者中略)

 さらに、作家のデビューの仕方にもう一つ新しい方法が生まれた。それは、既に著名なタレントや、企業の中で確固たる地位にいるいわばスペシャリストに小説を書かせるという形である。」(『創』昭和57年/1982年11月号 真下俊夫「ベストセラー商法の道具と化した文学賞」より)

 えーっ、まじかよ。直木三十五とか長谷川伸とか大佛次郎とか獅子文六とか江戸川乱歩とか横溝正史とか川口松太郎とか木々高太郎とか濱本浩とか堤千代とか(もっと他にたくさんいるはずの)原稿持ち込み or 編集者・記者上がり or 知り合いのツテ、みたいなデビューは完全無視かよ。

 こういう、自分の論に都合のわるいハナシはバッサリ落として強引に突き進む文章が、ときに面白さを醸しだす、ってことはよく知られています。その偏りすぎた目で、さあ直木賞が、どのように批判されるのか(……って、記事タイトルからうすうすわかっちゃいますけど)胸がおどるわけです。

「とにかく“賞ほど素敵な商売はない”といわれるほど、賞はいまや本を売るのには必要な“お墨付”というわけだ。中でも芥川、直木両賞はまさに白眉といえよう。」(同)

 と真下さんは言います。「賞ほど素敵な商売はない」などと誰がどの場面で発言していたのか、よく知らないんですが、そんなフシ穴、ほんとに当時の出版業界にいたんでしょうか。

 何が「素敵」なもんですか。文学賞が、マスコミを使って打たれる広告とか、広告費の発生しないパブリシティ活動とか、書店に足を運んで自社棚を整備する営業員たちの工夫とかなどより、ラクチンだし効果も絶大! なあんて事実があるなら、教えてほしいです。

 ちなみに、当記事では真下さんが「文学賞商法」の例を挙げてくれていますが、『なんとなく、クリスタル』『1980アイコ十六歳』『雨が好き』『時代屋の女房』『蒲田行進曲』『思い出トランプ』『人間万事塞翁が丙午』『小さな貴婦人』……と、要するにひと握りの成功例だけですので(ベストセラーを解剖する特集なんで、そりゃそうなんですが)、この時代に特別に文学賞が「売れる」に結びついていた、と見るには無理があります。

 たしかに特例のみに注目するのは、簡単な手法ではあります。とくに直木賞の場合は、そりゃもう、向田邦子さんと青島幸男さんの、あの受賞後の売れ行き。異常すぎました。あれを経てしまったら、成功体験というか、直木賞に対する「とりゃ売れる」感が脳内に沁みついちゃいますよね、だれでも。

 真下さんは青島さんの『人間万事塞翁が丙午』を小説として高く評価しているらしく、これを急激な売れ行きへと導いた直木賞のことを、こういうふうに紹介しています。

「昨年の四月単行本として刊行されたが、今一歩売れ行きが伸びず、直木賞決定時の七月までに再版分合わせて一万七千部だったという。そこで第八十五回直木賞を受賞すると、その翌日からどんどん売れだし、市場在庫がゼロになるほどであった。その後新潮社側の増刷態勢もととのい順調に部数を伸ばし、ことし八月末現在ほぼ百万部に到達としたと見られる。これは直木賞の持つ意味を考えさせられる出来事であった。(引用者中略)要するに、どんなに優れた作品でも、出版社の宣伝や書店の店頭での読者の判断による購買動機だけでは本は売れなくなっているということになる。」(同)

 1万7000部だったものが、直木賞を介すると100万部、ですからね。まあ異例・異常の部類でしょう。これほどの例は、おそらく長い直木賞史のなかでも『人間万事塞翁が丙午』一作だけじゃないか、とも疑えるわけで、そこからは「直木賞の持つ意味」じゃなくて、「全国的な有名人が直木賞をとることの意味」は、たしかにうかがえると思います。

 ちなみに、青島さんの前の回に受賞したズブの新人、無名だった中村正軌『元首の謀叛』は、「十万部以上売れた。」(同)と。平成26年/2014年現在の、直木賞受賞作の売れ行きと、大して変わりません。「この作品では直木賞をとらなきゃ絶対にそんな数字は叩き出せなかったけど、直木賞をとらずにそれ以上売れている小説は他にたくさんある」というレベルの数字です。

 真下さんだって、いい大人です。そんな当然なこと、先刻ご承知です。最後のほうではこう書いています。

「文学賞がベストセラー商法の一環として、実際に有効性を発揮するのは、その受賞者なり、受賞作品なりが、話題性に富んだもののときだけだといってもいいのではないだろうか。そういう時はマスコミがこぞってパブリシティにこれつとめてくれるからであり、その方が読者に訴えかける力にもなっているということであろう。従ってより話題性に富み、より衝撃的な作品のみがベストセラーになってゆくということだろう。」(同)

 まさしく、真下さんの言うとおりだと思います。……わざわざ「文学賞」に限定して語る必要がないくらいです。話題性に富んだものが多く取り上げられる。当たり前のハナシです。そして、文学賞そのものには、購読意欲をそそる話題性など、はじめっから備わってはいません。いつの時代の文学賞も、みなそうです。直木賞だって芥川賞だって、かつては、受賞しただけで(他に話題性がなく)ベストセラーになったものなど一作もありませんでした。

 しかし、です。これが特異なことに、石原慎太郎さんが芥川賞をとって以降、徐々に、徐々に、直木・芥川の二つの賞だけ、受賞したことが、話題性の一つとして効果を発揮するようになっちゃいます。最近は「受賞が売れ行きに反映する」文学賞はこの二つだけ、と盛んに言われるようになりましたが、昭和57年/1982年当時もそうでした。

 文学賞はたくさんあるのに、この二つだけ。直木賞と芥川賞は、おそらく「ベストセラー商法」として他の文学賞といっしょにくくれるような、そういう存在じゃないわけです。変なんです。妙なんです。おかしいんです。

 他に話題性もないのに売れ行きが増しちゃうんですよ。たいして面白くもない小説までもが。10万部前後(しか)売れなかったような、2chで「今回は話題にもならないな」などと発言されるような、サラッとした回……つまり、人が思い出に残る直木賞として挙げないような、よくある通常回にこそ、直木賞の本領が現われているはずなんです。

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2014年11月23日 (日)

「直木賞は性格がアイマイだ、もっと性格をはっきり規定したほうがいい。」…『東京新聞』昭和25年/1950年6月3日付「大波小波」小原壮助

■今週の文献

『東京新聞』昭和25年/1950年6月3日付

「大波小波
アイマイな直木賞の性格」

小原壮助

※こちらのエントリーの本文は、大幅に加筆修正したうえで、『ワタクシ、直木賞のオタクです。』(平成28年/2016年2月・バジリコ刊)に収録しました。

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2014年11月16日 (日)

「候補者を公表して騒ぎ立てることが、文学振興を阻害しているのではないか。」…『来者のこえ―続・ハンセン病療養所からのメッセージ』昭和63年/1988年9月・社会評論社刊所収「文学賞について」島比呂志

■今週の文献

『来者のこえ―続・ハンセン病療養所からのメッセージ』昭和63年/1988年9月・社会評論社刊

「文学賞について」

島比呂志

 直木賞フリークはそうでもないでしょうけど、芥川賞フリークなら、『火山地帯』という誌名、たぶん耳にしたことがあるんじゃないかと思います。昭和33年/1958年、鹿児島県鹿屋市でこの同人誌の立ち上げに加わり、以来、平成10年/1998年の第116号まで編集発行人を務めたのが島比呂志さんです。文学賞への興味でいろいろな文献をあさる身にとっては、思わず自分自身が恥ずかしくなってしまうような、困難な状況に囲まれながら難テーマに挑み、毅然として重厚な生きざまを示した方です。

 その島さんが、文学賞という……いや、芥川賞(+直木賞)という、妙ちくりんで傲慢でイヤーなにおいをまき散らす汚物に対し、はっきりと異論を投げかけるにいたったのは、『火山地帯』23号[昭和39年/1964年9月]の「編集後記」において、でした(すみません、ワタクシはその文章、未見です)。

 このとき島さんが表明した訴えは、『火山地帯』に所属していた一人の同人の姿を、まじかで見ていた経験に由来していて、その後も長く島さんの心のなかにずっと残りつづけたために、こういうかたちで島さんのエッセイに登場します。

「新人を発掘し、文学を奨励しようという主旨は解るが、芥川・直木賞などの選考はいささか騒ぎ過ぎの感がしてならない。わたしはかつて、候補作家の発表を廃止して決定だけを発表するようにしてはどうかと、わたしが主宰する同人雑誌『火山地帯』の後記で提言したことがある。これを引用して、ある中央の雑誌が拡大提言してくれたが、日本文学振興会はいまなお改めようとはしない。

(引用者中略)わが『火山地帯』同人にも二度芥川賞候補になりながら受賞できず、以来創作の筆を折った人がいるのである。受賞も決まらぬうちから、「受賞の御感想は?」などとVTRを撮られたり、新聞記者に追いまわされたり、その揚句の落選では、平常心を失うのも当然である。受賞した一人は奮起させるかも知れないが、他の数人の候補者の傷心を顧みない日本文学振興会のやり方は、果たして真に文学振興を考えているのだろうと疑われてならない。」(昭和60年/1985年9月・社会評論社刊 島比呂志・著『片居からの解放―ハンセン病療養所からのメッセージ』所収「書くということ」より ―初出『南日本新聞』昭和55年/1980年2月20日)

 「ある中央の雑誌」とは『小説現代』のことだそうです。日本文学振興会がこういう正面きった提言に耳を傾けないのは、いつものことです。そして、筆を折った『火山地帯』同人。……小牧永典さんのことですね。小牧さんのことはワタクシもよく知らないんですが、同人に加わったときの『火山地帯』9号には、彼が厚生事務官で、小谷剛さんの『作家』にも関係し、すでに時代小説を数篇書いているうんぬん、といった紹介記事があります。

 「候補」の名をダシにして大々的に見せもの扱いされ、しかも選ばれず、居たたまれない状況に追い込まれる候補者。それが嫌で小説書くのをやめちゃう人までいる、というのだから何が日本「文学振興」会だ、といった憤りを島さんは、少し抑えぎみに表明しているわけです。

 この憤りは、『来者のこえ―続・ハンセン病療養所からのメッセージ』所収の「文学賞について」のほうでは、さらに率直に綴られています。

 こちらのエッセイは、島さんが第14回南日本文学賞(←公募ではない)を受賞する前後の、自分の経験談から書き起こされ、このとき島さんは、かなり頑強に受賞辞退したと言います。というのも島さんが、先に引用した小牧さんの一件に端を発して、芥川賞(+直木賞)の傍若無人な、人をコケにするような数々の悪行を見続けてきたという、長年の「文学と文学賞へのこだわり」(もしくは疑い)を持っているからだ、と。その思いが噴き出しています。

 まずは、小牧さんの一件ですが、先に引用した「書くということ」に比べて、かなり強い調子で文学賞批判に及んでいます。

「文学賞の目的が文学振興にあるというのは、多くの贈賞側の言い分だが、果たして一人の受賞者を出すことで、真に文学の振興になるのであろうか。私は昭和三十九年九月一日発行の『火山地帯』23号の「編集後記」に、日本文学振興会への提言を書いて以来、その疑問を持ちつづけている。そのときは、二度目の芥川賞候補の通知を受け、今度こそ受賞すると意気込んでいた同人の一人が、落選と知って一ヵ月以上も勤めを休んでいたのだ。

(引用者中略)しかし、日本文学振興会は、今なお候補者の事前発表を改めず、背後では出版社の工作がエスカレートしているという。そして一人の受賞者が誕生するたびに、失望し、挫折する人たちのいることは、見落とされている。私には二度の候補以来、筆を折ったままの同人のことが忘れられない。そして、これが文学振興なのか、と叫びたいのである。」(昭和63年/1988年9月・社会評論社刊 島比呂志・著『来者のこえ―続・ハンセン病療養所からのメッセージ』所収「文学賞について」より ―初出『南日本新聞』昭和61年/1986年3月7日~3月12日)

 こういうのを読んで、みんなの憧れ・芥川賞と、まじめに「文学」しようとコツコツ励む無名同人誌作家の、何ともイタい接触事故ですよねー、などと笑って見過ごせないのが、直木賞ファンの苦しいところです。直木賞も「多くの人に読んでもらってワイワイ言われること」前提の職業作家だけ相手にしてやっていればよかったのに、一時期、へたに同人誌に色目を使ってしまったために、似たような印象を持たれてしまい、職業作家までが「勝手に候補にするな、候補発表するな」と甘えたことを言い始め、一気に悪者扱いされた過去があるのですから。ほんと、芥川賞の真似するとロクな展開にはなりません。

 島さんは「南日本文学賞」の例も紹介してくれています。こういった、ごくごく地域限定の賞でさえ、自分の知らないうちに候補に挙げられ、紙面で紹介されたりすると、知り合いに「きみ、文学賞、残念だったね、来年はひとつ頑張って……」などといきなり言われたりする、そういうのがいやで、書くのをやめた人とか、対象になっている県内同人誌から抜けて県外の雑誌を物色する人とかがいるらしい、と。

「これでは、文学を振興するはずの文学賞が、逆に文学活動を衰退させることになりはしないか。

そこで、単刀直入に言うが、爾後、「選考経過」の紙上公表はやめてもらいたい。」(同)

 と言いたくなるのも、わかる気がします。

 その「候補公表」「選考経過公表」の代表格にあたるのが、日本では直木賞と芥川賞のふたつです。公表されると当事者のみならず、まわりに群がる人たち(ワタクシのような連中)が、興味本位であれこれ言い始め、当人にとっては雑音となって文学活動の障害になる、とこういうおハナシです。

「芥川・直木賞のように候補者を公表して騒ぎ立てたり、本人はまったく知らないのに「選考経過」の中に名前を出されたりすると、様々な問題が起こる。作品批評を掲載すると、文学賞を選考する密室での語り合いを公表することとは、そこに金銭や栄誉がからむことによって、その影響するところが大きく変わってくる。作品批評などには無関心な人々も、文学賞の選考経過となると、選挙の当落か競馬のレースでも見るような関心を示し、そこに知人友人の名前でも出ていようものなら、たちまち噂の餌食にしてしまうのだ。」(同)

 そうですか。個人的に考えさせられる指摘ではあります。自分のことを言われているようでビクッとしたりします。

 ……ひとつ言い訳させてください。芥川賞とか「文学振興」とか、そういうことは興味がないので措いておくとして、ワタクシも、直木賞のことを「文学活動」そのものとは遠く離れた、人を不快にさせることもしばしばある、卑しさを兼ね備えた事業だと理解しています。もっと多くの人がそのことを知り、受賞者・受賞作よりも、落選者・落選作のほうに、読んで面白い小説がたくさんある、ってことが広まって、直木賞なんて別に大層なものではないんだよ、もっとイジってその存在(や、文学賞というだけで噂を語ったりする社会の人びとのこと)を笑い合おう、みたいな状況を心地よく思います。その点、島さんが長年奮闘されてきた時代とは、いまはかなり違う状況になってきています(よね?)。よかったなと思っています。

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2014年11月 9日 (日)

「ただ「直木賞受賞者」であることが、多くの人に先入観を与えてしまう。」…『別冊文藝春秋』70号[昭和34年/1959年12月]「小説芥川賞」江崎誠致

■今週の文献

『別冊文藝春秋』70号[昭和34年/1959年12月]

「小説芥川賞」

江崎誠致

 江崎誠致さんは「小説芥川賞」を書くに当たっても、いつもの江崎ブシ炸裂、といった感じで、別に直木賞を批判しているわけではありません。ただ、自分が直木賞の受賞者だったせいで、「ぎくりとする」経験をしたと吐露しています。

 ……と今週の文献は「小説芥川賞」なんですが、題名どおり、お話の主は芥川賞のことなので、直木賞はほんのつけたしにすぎません。しかしそもそも、なんで『別冊文藝春秋』編集部が江崎さんに、こういう原稿を発注したんでしょう。謎です。

 もちろん江崎さんも、その辺に少し触れようとはしています。でも、「小説直木賞」ではなくて「小説芥川賞」を書く理由は、ここからはわかりません。

「私は、かつて、チャタレイ裁判の小山書店に勤務していたことがあるので、いろいろの出版社の内部をのぞく機会をもったが、文藝春秋社ほど、几帳面さと自由さが融合している社はめずらしいように思われる。(引用者中略)文春が稀に見る強心臓のジャーナリズムであることを否定しているわけではない。これはもう大変なものだ。

 早い話が、芥川賞について語る資格のない私に、芥川賞に関する執筆を余儀なくさせるという一事を見ても明瞭であろう。もっとも私がつとめていた小山書店で、第六回芥川賞となった火野葦平の「糞尿譚」をはじめ、第七回中山義秀の「厚物咲」第八回中里恒子の「乗合馬車」第九回半田義之の「鶏騒動」第十回寒川光太郎の「密猟者」と、受賞作品を次々に単行本にして出版していたので、その辺の裏話なら、少しばかり見聞きしたことがある。しかし、文壇消息なるものにはあまり関心がなかった私には、それも朝靄の中の木立みたいなものだった。」(『別冊文藝春秋』70号[昭和34年/1959年12月] 江崎誠致「小説芥川賞」より)

 小山書店時代に体験した江崎さんの芥川賞バナシ、その一例を挙げると、火野葦平さんの受賞作『糞尿譚』は初版3000部、はじめのころは返品もあったけど、まもなく『麦の兵隊』がバカ売れしたおかげで、とりあえず4版までは増えた(程度だった)、ということだったらしいです。

 そういった小ネタを挟みながらも、「小説芥川賞」のストーリーは、自分の才能を世間に知ってほしいのに才能がないからか運に恵まれないからか無名のまま鬱々と暮らす人たちがいて、たった一本の小説でいきなり有名・チヤホヤ・金持ち(?)になると巷間思われている「芥川賞」っつうジャパニーズ・ドリームの匂いに誘われてしまい、狂人ギリギリの(いや、完全アウトな)いわゆる芥川賞亡者になった二、三人の姿を例にとりながら、ふくれ上がった虚像「芥川賞」を描くという、橋爪健さんの「文壇残酷物語」みたいな流れになっています。いやすみません、発表されたのはこちらの江崎さんのほうが先でした。

 かように「芥川賞亡者」という人種はよく知られています。比較して「直木賞亡者」はそうでもありません。ここら辺が「文学賞の残酷さ」をテーマに書くなら断然芥川賞! になってしまう原因でありましょうし、また言葉を換えていうと、原稿(読み物もしくは小説)として成立するのは芥川賞のこと、つまり絵になるのは直木賞よりも芥川賞ですよね、という、直木賞ファンにとっては受け入れたくないけど認めざるを得ない現実がそこにはあるのでした。

 江崎さんは、こう表現しています。

「芥川直木賞は、これまですでに四十一回という回数を重ね、近年になるほど賑やかな感じを添えているが、それとは別に、諸種の事情から社会的反響を呼んだ回がある。直木賞はそれほどでもないが、芥川賞にはそれがある。主なものをひろいあげると、第一回は当然として、第六回の火野葦平、第二十二回の井上靖、第三十四回の石原慎太郎であろう。

 こういうえらび方をすることは、実はあまり気がすすまない。しかし、衆目の見るところ、ここらあたりが、芥川賞の中でひときわ目だつ存在だったことは事実である。」(同)

 41回やって、社会的反響を呼んだのが、芥川賞数回に対して、直木賞(ほぼ)ゼロ。……そんな直木賞に憧れるのは、よほどのツウだけと言っていいでしょう。全体を占める分母も小さく、なので狂人=亡者として表にあらわれることもほとんどないから、傍から見ていても残酷さが足りず、ハナシとしてつまらないと、そういうわけなんでしょう(なんでしょうか)。

 まあ、芥川賞に憧れる(人生を賭ける、そして落ちぶれる)人が増えるのは、残酷というより、芥川賞が運命的に持ってしまった得がたい特徴なので、そのまわりに頭のイカれた人間が(今後も)群がるのは別にそれでいいんですけど、頭がイカれた連中……江崎さんが「小説芥川賞」のなかで紹介している、身元不詳の貝田とか、長谷川千秋(水原吉郎)が芥川賞候補になったことにショックを受け川端康成ほか大物作家を追っかけまわすようになった小山書店勤務の文学少女とか、そういう人ではなく、ごくふつう(なはず)の学生たちと江崎さんとの、なにげない会話のほうに、「直木賞」のもつ憐れさが登場してくるので見逃せません。

 ここに出てくるのは、賞と名のつくものに、たいてい付着してしまうレッテルというか、人々の思い込みです。「芥川賞」の場合は、一部の人が狂信的に恋い焦がれるほどの魅惑が、そこにありましたが、「直木賞」はこれとは少し違っています。

「私は先日同郷の学生たちと逢った折、途方もない質問を受けて面くらった。

「小説書くときどうやって調べるんですか?」

(引用者中略)彼は横の仲間にこんな私語をささやいた。

「兜とか何とかああいう名称を覚えるだけでも大変だよ。」

 私はあまり驚いたり騒いだりしないたちだが、このときはぎくりとした。彼は私を時代物作家と間ちがえているのだ。私の書くものなど、彼は何一つ読んではおらず、ただ、直木賞をもらった男だということを知っているにすぎない(引用者中略)私がぎくりとしたのは、私と彼等の間が、小説家対学生という形で向かいあっていた事実についてである。しかも私と別人の時代物作家としてだ。私はそのあと、同郷の先輩後輩という本来の立場に立って話をしようと努力してみたが、最後まで彼等の先入観を抜きとることは出来なかった

 そこは心臓強く、誰に何と思われようと屁でもないという気持も一方には持っている。だから、どうということもないが、しかし、私が直木賞を受けなければ、その学生は私を時代物作家と思うことはなかった筈だし、あるいは私の名前さえ知らなかったかもしれないわけで、ある他律的な作用が、人の姿を変える例証ではあるだろう。」(同 ―太字下線は引用者による)

 直木賞=時代物……ほんと、この図式は強靭です。

 「小説芥川賞」が書かれた頃も、時代物作家ばっかりが受賞していたわけではありません(現に江崎さんが受賞しているわけですし)。それから何十年、いろいろと直木賞もがんばって「多種多彩」アピールを繰り返してきたのに(きたんですよね?)、いまなお、直木賞では時代小説が有利、とか言っちゃう人がいるくらいです。ワタクシなんかは、そういう決めつけを「レッテル」の一種だと思うんですが、直木賞に関心のある人は歴史的にも少数ですので、それが正しいとか間違っているとか、いちいち発言する人もいないまま、直木賞はただ、そこに存在しつづけてきました。

 そして時代が移り変わっても、「直木賞を受けた人」というだけで間違った質問をしてくるような、「先入観」が抜きとれない類いの人は、いなくなったりしませんでした(時代物作家と間違われる例は減ったでしょうが、でも、「直木賞受賞者」という立場なだけで、世間の人からトンチンカンなことを言われる、というのはおそらくいまも、直木賞受賞者あるある、です)。

 要は、「直木賞」の名称は有名、だけどほとんどの人は直木賞そのものに強い関心がない、という状況。情報化時代がナンチャラと言われたって、インターネットが普及したって、全然その状況に変わりがありません。まだまだ今後も続いていくんでしょう。ほんとに直木賞って、面白いやつだなあと思います。

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2014年11月 2日 (日)

「賞を与える側に嫉視をおぼえさせ、脅威を感じさせる出来映えのものは、受賞できない。」…『作家論』昭和52年/1977年7月・永田書房刊所収「立原正秋」久保田正文

■今週の文献

『作家論』昭和52年/1977年7月・永田書房刊

「立原正秋」

久保田正文

 文壇ゴシップばかり追っていないで、ちょっとはまともな日本現代文学史を勉強しようかなと思って、そういった本を読み進めてはみたものの、まともな本は、だいたい「直木賞・芥川賞混同症」に冒されていることが多く、途中で怒りが抑えきれずに壁に本を投げつけ、勉強が嫌いになる。……というイヤな経験は、もう何十回も味わってきましたが、他の直木賞オタクの人たちはこのムカツきを、どのように乗り越えながら生きているんでしょうか。教えてほしいです。

 まともな文学史家(というか文芸評論家)の代表として、久保田正文さんを引き合いに出すのは、正なのか誤なのか、よくわかりませんけど、たぶん久保田さんは(奇をてらわない、調子に乗ってハシャいだりしない、という意味で)まともな論者なのだと思います。だからこそ、久保田さんのような人が、淡々と(しれっと)芥川賞のことだけ語れば済むのに、そこに直木賞を混ぜ込んで語っている場に遭遇すると、もうこっちとしては、ガッカリ感がハンパないというか、起き上がるのもツラくなるほどの脱力感に見舞われてしまうわけです。

 たとえば、

「昭和十年代文学をかんがえるばあいに、(引用者中略)芥川龍之介賞と直木三十五賞との存在を見おとすわけにはゆかないだろう。

(引用者中略)

 ジャーナリズムが拡大されれば、新人作家の求められるのも当然のいきおいである。しかし 、明治から大正を通じて、新人発掘の機構は、文藝雑誌の投稿欄程度のもので、組織的に整備されることがほとんどなかった。(引用者中略、懸賞募集に対して)新しく設定された芥川賞・直木賞は、選考委員を公表し、同人雑誌を中心にして、こちらから積極的にさがし、えらぶという方法をとったところにも新機軸がみられた。」(久保田正文・著『昭和文学史論』「もうひとつの昭和十年代」より)

 などなどと言いながら、昭和10年代前後の「文藝復興」の動きや、『改造』『中央公論』の懸賞募集を背景に据え、直木賞と芥川賞、「両賞の設定は時宜にかなったものであったとみることができる」とさえ筆を滑らせちゃっているのですよ。

 久保田さん。それって全部「芥川賞」に関する分析じゃないですか。どう見ても。

 そんな解説をされて、「なるほど!直木賞が昭和10年にできたのは時宜にかなっていたんだ」みたいに納得する人が、いったいどこにいるんでしょう。芥川賞が昭和10年に創設されたことの必然性は見出せるかもしれないけれど、直木賞は、直木三十五が死んだからできた、ということ以外、別に深い背景などありゃしない、直木賞なんかなくても大衆文芸も通俗小説も発展・発達しただろうし、川口松太郎とか木々高太郎とか、受賞をカサにエバりくさる連中を生んでしまった点で害のほうが大きかった、……と考えるのがふつうなんじゃないでしょうか。

 ただ、ながらく直木賞の歴史を支えてきたのは、大衆文芸の人たちじゃなくて、純文芸の人たちの手すさび的な関心のおかげだった。っていう面は否定できません(できませんよね)。

 久保田さんのような、文学と対峙して人生を送るまともな人たちが、完全に大衆文芸・大衆文壇の状況を埒外に置いて、なぜか「文学のなかの(主流ではない)ひとつ」として直木賞のことを、たまに気にかけては語る。そのおかげで、とりあえず直木賞も、ジャーナリズムの目が文学賞に届くようになる昭和30年代まで、そして中間小説が未来の文学の中核を担うとまで言われた(言われたのかな)昭和50年代まで、いちおう「権威」と言われて(しかし実態は不明)チヤホヤされつづけたのでした。

 で、今日取り上げる久保田さんの文献です。なにしろ純文学メインの方の語る直木賞バナシですから、当然、田岡典夫とか山田克郎とか、そういう外道読み物作家(……じょ、冗談ですよ)についてではありません。お話の対象は、立原正秋さんです。

 久保田さんは立原作品を高く評価していた人で、著書『作家論』でも「立原正秋」として一項立てられています。ここに立原さんが直木賞をとった直後に書かれた文章もおさめられているんですが、立原作品を高く評価するあまり、……いや、文芸評論家らしく直木賞には手すさび的に(あくまでオマケとして、お遊びとして)関心を抱いているあまり、直木賞に対してちょっかいを出してくれています。

「こんどの直木賞が立原正秋の「白い罌粟」にきまったことは、いろいろな意味で好ましいこと、ふさわしいことである。

(引用者中略)

 過去何回かの直木賞の選考に、私はずいぶん納得できぬ思いをしたことがある。こんどの「白い罌粟」はなによりも文学作品としてまっとうであるから、作者のためによろこばしいだけでなく、むしろより以上に直木賞そのもののために祝福されるに価しよう。こんどから新しい選考委員も加わったのだから、こういう方向を伸ばしてほしい。」(久保田正文・著『作家論』所収「立原正秋 「白い罌粟」I」より)

 「むしろより以上に直木賞そのもののために祝福される」って……。直木賞ファンとしては有難いお言葉として受け取ればいいのでしょうか。

 しかし要するに、これまでの直木賞は「文学作品としてまっとうで」ないものが選ばれてきた、と久保田さんの目には映っているらしいんですね。何といいましょうか、この「余計なお世話だ」感。だって直木賞は、芥川賞とはそもそもが違うのだから、べつに、まっとうな文学作品ばかり選ばれる必要は全然ないと、ワタクシは思います。

 それと「祝福されるに価しよう」などと、もってまわった言い方しかされず、立原作品を選んだ直木賞、見直したぞ、すばらしい! と素直に褒められることがない直木賞の悲しさも、ここからは漂ってきます。

 率直に褒めてもらえない直木賞の姿。……さらに直木賞は、久保田さんからこんな表現でイタぶられているんです。

「「白い罌粟」を直木賞にえらんだ委員たちの選評をみると、前作「漆の花」の方がよかったなどと書いているたよりない意見もある。そんなことはぜったいにない。「白い罌粟」は立原正秋の文学の系列でも新しい転換を予告するものであるのみならず、直木賞の歴史のうえで言っても記念すべき性格を誇っている。」(同書「立原正秋 「白い罌粟」II」より)

 と、「直木賞の歴史のうえで」みたいな、ついついマジかよと思わずにはいられないオーバーな表現を使って、直木賞委員の選評を批判したうえで、

「昭和三十九年春の「薪能」ころから立原は、にわかに小説つくりのコツを体得したようである。「剣ヶ崎」をへて「漆の花」までは一直線である。貴族的有閑性と、プレイ・ボーイ的デカタンスと、ほどよく反時代的な悲劇性と、必要に応じてエキゾチズムや民族的宿命性などをもちりばめて、直木賞委員をよろこばせるどころか、むしろ嫉視をさえも感じさせるほどのあざやかな腕前を示した。

 賞を受けるには、与える側に脅威を感じさせるほどのできばえでもだめなものらしい。委員がすこしケチをつける余裕の残る作品がちょうど良いということになろう。」(同書「立原正秋 「白い罌粟」II」より)

 どういうことでしょうか。「漆の花」は、直木賞委員に脅威を感じさせて(だからこそ)落選し、「白い罌粟」はそうでもなかった(ないと思われた)から受賞した、と言いたいんでしょうか。

 まあ、そんな簡単・単純なハナシなら面白いでしょうけど、いつも立原さんの作品だけを候補にして選考しているわけじゃなし、いちばん大きいのは他の候補作の並びで、それから委員の顔ぶれの変更(小島政二郎・木々高太郎が抜けて、柴田錬三郎・水上勉が就任)、川口松太郎の出欠(「漆の花」のときは欠席、「白い罌粟」は出席)、ということもありました。

 「選考委員の嫉視のせいで、実力作家が落とされる」というのは、文壇ゴシップ好きの常套句、大好物なわけですが、まともな久保田さんがそういうヤカラと肩を並べて論拠不確実なことを言っちゃうわけですから、よほど立原作品が気に入っていた、ということなのかもしれません。

 ところで「白い罌粟」ですが、ワタクシも直木賞歴代受賞作のなかでは、トップクラスに好きな作品です。ただ、「直木賞の歴史のうえで記念すべき性格」をもつ作品かと言われれば、うーん、受賞作はたいてい歴史のうえで記念すべき性格をもっていますし、むしろ落選した候補作のほうに、「賞」を考えるうえでは重要なものがたくさんありますので、久保田さんのようなハッタリには、同調できません。

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