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2014年9月21日 (日)

「大衆文藝の大家と言われる直木賞委員、じっさいは後進に対して無関心で冷淡。」…『文学建設』昭和14年/1939年11月号「文学建設」無署名

■今週の文献

『文学建設』昭和14年/1939年11月号

「文学建設」

無署名

 戦前の直木賞って、まわりの人たちからどのように見られていたんだろう。……そんなことを考えはじめると、たちまち頭が痛くなります。何つっても、当時、大衆文芸についてならともかく、直木賞について全身全霊で注目し、その感想なり意見なりを書き残してくれているような文献が、まじで少ないからです。

 たとえば純文芸にしか興味のない連中は、湧き腐るほどいましたが、直木賞のことは芥川賞の一部局みたいにとらえ、「はじまったころは話題にもならなかった」とか言って涼しい顔していますでしょ。頼りになるはずの、発表媒体の『オール讀物』は、受賞者や直木賞のことを手放しで持ち上げ、デキレースの雰囲気をぷんぷん醸し出すことに終始していて、とうてい当時の一般の声を反映しているとは思えない。同人誌なんか見ても、彼らが相手にしているのは芥川賞とか新潮社文芸賞第一部ばっかり。視野狭窄はなはだしいことを露呈するだけ露呈して、直木賞のお話なんか、まず出てきません。

 しかし、われら直木賞ファンにとっての希望の光、心強い味方がいなかったわけじゃありません。中野重治さんが「まじめに文芸を志す者で、大衆文芸の道に進もうと思うやつなんか、いるわけない」と(視野狭窄をぞんぶんにかまして)言っていたその昭和10年代に、まじめに大衆文芸の道を歩もうと、模索・研鑽・糾合・離散をしながら自前で雑誌を出していた『文学建設』のお仲間たちです。

 しかも、この人たち、ことあるごとに直木賞にハッパをかける、という、「まじめな」人なら尻込みするほどの文学賞熱をお持ちなのですから、異常です。スゴすぎます。

 『文学建設』が創刊されたのは昭和14年/1939年1月号。そのころ直木賞は、第9回(昭和14年/1939年・上半期)、第10回(昭和14年/1939年・下半期)と、はじめて2期連続の該当者なし、なんちゅう泥沼にズッポリと足をとられ、困ったあげくに、まじめな芥川賞選考委員たちに助けを求めて、「こうなったら直木賞の選考は次から、直木賞委員+芥川賞委員でやろうじゃないか」と、チャレンジ精神あふれる(いや、誰もが唖然とするような)決断をくだしたころでした。

 『文学建設』同人は、創刊2号目からさっそく、口を挟もうとしています。

「新潮賞、直木賞の大衆文学賞を有意義なものにしようと思うなら先ず一度白紙に帰って熟考して貰いたい。新潮賞を「日の出」から出したいとか、直木賞はなるべく「オール讀物」の掲載作に与えたいとか、そういう小さな党派心や商業意識を忘れてしまうことは勿論だが、銓衡の対象を娯楽雑誌の所謂大衆小説にのみ求めないで、もっと広く、純文学や特殊雑誌や新聞小説からも「大衆文学賞」に値するものを拾い上げる必要がある。」(『文学建設』昭和14年/1939年2月号「告知板」より ―署名:(無党生))

 ええ、さすがにこれは文句のひとつも言いたくなるでしょう。外から見たら、『オール讀物』+文藝春秋社偏重の授賞者選びは明らかですからね。直木賞が始まってから現在まで、いつもいつも。

 と、これは「あるある」批評の一例でしたが、当時ならではの直木賞批判に、こういうのもあります。「候補者の名前を明示・明記せよ」、ってやつです。

「芥川賞にはいつも候補者の氏名、作品が列記され、そのために当選しなくとも浮き上った人が可なりある。直木賞も是非候補者の氏名、作品を明記すべきだ。

 それに依って、委員の大体の意向を知ることもできる。敢てそれに追随するわけではないが。」(『文学建設』昭和14年/1939年4月号「文学建設」より ―無署名)

 このあたりの意見が文春や選考委員の耳にも届いた……かどうかはわからないんですが、その次の第9回(昭和14年/1939年・上半期)ごろから、最終候補やその前段階の候補者の名前・作品名も、ちょくちょく選評に書かれるようになり、第11回では『文学建設』掲載作のうち戸川静子「若き日の頁」と戸伏太兵の戯曲「天ノ川辻」「十津川秋雨の譜」「遊撃四番隊」も、選考対象に入っていたことが明らかになります。それで、戸川さんや戸伏さんが浮き上がった、っていうわけでもないので、芥川賞で効果的でも直木賞ではそうとは限らない、っつう両者の(主に注目度の)違いがはっきりしたりしました。

 そして直木賞史上、問題中の問題施策、と言われる例の一件が勃発します。

 芥川賞委員全員にも、直木賞の選考をお願いする、という大ナタふるいの大(?)改革です。いまそんなことやったら、きっとヤンヤヤンヤと「それはないだろ」と、ワタクシのような外野の連中による騒音がやかましく鳴り響き、騒がしい状況が生まれるはずですが、当時はいたって静かなこと、静かなこと。この一件に関して、さほど外野が熱くなったふしは見当りません。

 例外だったのは、『文学建設』同人です。さすがです。まともな文学史ではまず取り上げられることもない(でも直木賞史のなかでは重要な)事象を目の前に、すかさずツッコみを入れてくれたのでした。

「文春九月号で、直木賞銓衡について、佐々木茂索が、次回より、直木賞銓衡にあたって従来の直木賞銓衡委員だけではなく、芥川賞銓衡委員をもこれに加えしめる旨発表している。これは大衆文藝の大家と称せられる直木賞委員が、いかに大衆文藝に対し、且つ後進に対し、無関心で冷淡であるかを暴露したものである。地下の直木、あの鋭い眼をキラリと光らして、「ちえッ、直木賞なんてやめちめえ!」と啖呵を切っていることであろう。直木て存命ならば、むろん直木賞もなかった代り、かりにもかゝる銓衡問題の時、ムザムザと純文藝の陣営に降る醜態はさらさなかった筈だ。」(『文学建設』昭和14年/1939年11月号「文学建設」より ―無署名)

 同意。はげしく同意です。

 だって、従来の直木賞(専任)委員……大佛次郎、白井喬二、吉川英治、三上於菟吉の4人のうち、大佛さんはそれでも大衆文藝の審査員として、あれこれ提言したり提案したり、熱心なところを見せてくれていましたが、他の「怠惰三銃士」たるや。久米正雄さんには「直木賞委員会は(芥川賞に比べて)のんびりとしている」とか「道楽的」とかイヤミを言われ、小島政二郎さんは、そのやる気のなさにあきれる始末。こんな賞に貴重な時間を割くなんて馬鹿バカしいね、と人間としては健全で真っ当な生きかたを選んだ3人でした。

 まあ、真っ当ではあるんですけど、『文学建設』で身銭をきって(?)大衆文藝の向上を目指している同人にとっちゃあ、もう怒りの対象でしかありません。

 怒っています。

「「新人よ出でよ」と彼等は言う。どこに新人の出る余地があるのだ。あらゆる雑誌、新聞のスペースは彼等の粗製濫造品に充満しているではないか。

(引用者中略)

 大池唯雄(引用者注:第8回直木賞受賞者)は期待に反した。芥川賞の半田義之も長谷健もあまり思わしくないという声がある。これは天才主義の幻滅だ。文学賞の目標を天才に置くからだ。

     ×

 こゝらで、作品狙撃ちの天才主義から、各新人を全体的に観察して、将来有望な新人に、激励の意味で授賞するようにしては如何。」(同)

 要するに「恵まれない環境でも努力を惜しまない(ぼくたちみたいな)者に賞を与えろよ」と。そう言いたいのかもしれません。

 それはそれで、戦前から戦後までさまざまな同人誌を彩ってきた六号記事、あるいは時代がくだってブログや掲示板、Twitterあたりで、作家志望者が恥ずかしげもなく吠えている姿と大して変わらない気もしますが、いまも昔も、文学賞に興味ないふりしてじつは文学賞にとらわれる人はたくさんいて、しかも当時から、(芥川賞だけじゃなく)直木賞だってきちんとその対象になり得ていたのだなあ、と知れる貴重な資料です。非常にうれしく、ほっとします。

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