「もはや直木賞と芥川賞は、制定し直すべきではないか。」…『知られざる文豪 直木三十五』平成26年/2014年7月・ミネルヴァ書房刊 山崎國紀
■今週の文献
『知られざる文豪 直木三十五』平成26年/2014年7月・ミネルヴァ書房刊
(とくに)「序章 「知られざる文豪」への架橋」
山崎國紀
つい最近、新刊で直木三十五の評伝が出ました。山崎國紀さんの『知られざる文豪 直木三十五――病魔・借金・女性に苦しんだ「畸人」』です。
本全体の内容そのものは、直木三十五という、名前だけは有名だけどその作品や人となりはほとんどの人が知らない、と常にいろんな人に言われ続け、関連書もぽつりぽつりと刊行されてきたのに(←ひょっとすると、直木三十五に関する本のほうが、直木賞のそれより多いかもよ?)、それなのに、直木三十五は知られていないッ直木三十五は知られていないッ、と得意げに語る人が後を絶たない、ほんとうに稀有な存在である作家の生涯と作品について、いままた登場した読みごたえ十分の評伝となっています。
それで山崎さんは、当然まともな方ですから(たぶん)、この本の導入部には、「直木賞は知られているが直木三十五は知られていない」っつう、大多数のまともな人が容易にたどりつく視点が軸として据えてられてます。何つうんですか、直木三十五→直木賞→ときたら、まずこう来るだろうという、お約束の、定番の、平凡な、標準的導入といいますか。なんだか見慣れた景色で、ホッとします。
「直木賞の場合、多くの人が、その名前の由来を知らない。しかし、メディアで発表されると、その由来を知らないまま、知ったつもりで何の疑問ももたず聞き流している。知らないからといって何も他から責められる筋合のものではないが、なんだか考えてみると奇妙な現象ではある。
そこでまず、直木賞の由来を述べることから始めたいと思う。直木賞の正式な名称は「直木三十五賞」である。つまり、芥川賞の「芥川龍之介」に該当する人名は、「直木三十五」という作家なのである。名前もさることながら、この作家の実態は、現在の日本では、ほとんど知られていないのが実情である。」(山崎國紀・著『知られざる文豪 直木三十五』より)
安定感たっぷりの直木賞観。どうですか。もう何十年も前から耳にしてきた、直木三十五を紹介するときにかならず聞かされるおハナシを、21世紀に入ってもなお、こうやって聞かされるという。
そもそも、大多数の日本人は、「直木賞」の名前は知っていますけど、直木賞が何たるかなど知らないし、そんな些末な、自分の生活に関係のないことには興味ないです。直木賞と芥川賞のことは一緒くただし、直木賞は大衆文芸賞の最高峰だ、みたいな誤りも平然と跋扈しているぐらいですから、基本、多くの人は直木賞に興味ないんだと思います。そこら辺の事実認識を間違え、「直木賞はみんな知っている」と思い込んでしまうと、たいてい、山崎さんのような、直木三十五の紹介のしかたをしちゃうんでしょうね。
ええ、おそらく山崎さんご自身も、直木賞には興味がないのでしょう。なにしろ、まともな感覚をお持ちな方ですから。
ああ、まともな方だなあ、とさらに思わされたのは、この「序章」の最後で、直木賞そのものへの注文、というか提言をするくだりに差しかかったとき、芥川賞のハナシから始めているからでした。
「世の人は、芥川賞を純文学の中で最も優れた者に与えられる最高の賞と認識している人が多いのであるが、果してそうであるのか。
不機嫌記者会見で話題となった芥川賞第一四六回の受賞者である田中慎弥氏は、受賞に際し次のように述べている」(同)
……と、田中さんが、芥川賞はもともと新人の作品に与えられるもの、これは別に最高の賞ではない、と発言したことなどを紹介し、それから(なぜか)西村賢太さんの作品の面白さを紹介。純文学(=芥川賞)、大衆文芸・エンターテインメント(=直木賞)の垣根など昔からなかったようなものだし、もうこの二つのジャンルに線を引くのはやめるべきだ、と吠え立てているのです。
純粋すぎるぞ、山崎さん。二つの文学賞が互いに(曖昧な)ジャンル区分をもっていたからといって、それをここまで問題視できる感覚が、純粋すぎます。
だいたい、山崎さん自身も指摘しているとおり、直木賞どころか芥川賞でさえ、その実態を知ろうとしない多くの人が、これだけたくさんいるんですよ。要するに、「世の人」は文学賞がどうなっているこうなっている、など、そういうクダラないことに関心はないんです。賞のジャンル分けがどうのこうの、とそこを攻撃したって、意味なくないですか。
そして山崎さんの、直木賞(と芥川賞両方)改革案の結論が、これです。
「芥川賞が直木賞より高尚であるとか、文学として優れているとか、といったもはや根拠のない決めつけはやめて、芥川賞と直木賞は「性格の違い」として制定し直すべきではあるまいか。すなわち、芥川賞は優れた若手作家を発掘するという新人賞の性格を賦与する。そして直木賞は、作家としてすでに経験を積み、その力量も認められ、そして、この賞を得ることにより、さらに飛躍が期待できる人に与えるということである。」(同)
制定し直す「べき」? えーっ、なんで。そういうふうに制定し直したとして、何がどう改善するのか、どう変わるのか。し直すことの理由も効果も、全然わかりません。
直木賞と芥川賞は、当初の規定ではうんぬん、それが実際はうんぬん、とそういう指摘ならわかるんですけど。仮に、はじめに賞の担っていた(期待されていた)ことが「実情に合っていない」とか「現状どおりではない」のだとして、どうして、それに合わせて制定し直さなきゃならないのでしょう。文学賞ごときに、いったい何を求めているというんでしょうか。
ただ、山崎さんのようなまともな方まで、つい、何か口を挟みたくなるほど、この二つの賞は目ざわりで、そしてキュートな存在なのですね。直木三十五その人と同じくらい(かそれ以上に)、世の人にその実態が知られていない直木賞のこと、これからも気にかけてやってください。
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