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2014年8月の5件の記事

2014年8月31日 (日)

「今回の芥川賞受賞作は、これが直木賞だと言われても、誰も不思議に思わない。」…『アサヒグラフ』平成2年/1990年2月9日号「芥川賞」〈糸+圭〉秀実

■今週の文献

『アサヒグラフ』平成2年/1990年2月9日号

「芥川賞」

「巧みに平易に「時代」を描くが
「芥川賞」の持つ新鮮さが……

〈糸+圭〉秀実

 文学賞に対する批判、といったとき、直木賞に関するものよりも芥川賞のそれのほうが、断然に楽しい。ってことには、多くの人がうなずくかと思います。

 芥川賞に向けられた文句・悪口・揶揄・罵倒。80年の歴史の、どの時代を切ってみても、ほぼかならず目に止まります。現にいまも(いまだに)、目にできていますよね。すごいことです。

 我々のじいちゃんばあちゃんや、その上の世代から絶え間なく脈々と受け継がれてきた、芥川賞批判。ひとつの文化と見なしてもいいでしょう。これがないと芥川賞とは言えない、というぐらい、賞そのものと一心同体です。しかも、批判の声を挙げているうちの大部分が、自分は伝統を継承しているっつう意識がなさそう(要は、昔っから同じようなことが、さんざん言われ続けている事実を知らなそう)なのも、その楽しさをぐっと高めている原因かと思います。

 伝えようとか、教わろうとかしていないのに、おのずと次の世代に、似たような感想が生まれていってしまう。それが、芥川賞批判の特徴なのかもしれません。

 文学賞っていったい何が面白いのか。それは、候補者と選考委員たちが織りなす人間ドラマ、なのだからじゃなくて、それに対して、外部の人間があれこれ意見を言ったり、囃し立てたりする(観客たちを含めた)人間ドラマ、だから楽しいんです。

 その意味では(でも)、直木賞ははなはだ分が悪い。なにしろ、批判者は、芥川賞分野に比べて熱意に乏しく(そう見える)、真剣さに欠けており(そう見える)、そもそも直木賞に興味がありません(そう見える)。直木賞批判が、芥川賞批判ほどは文化として根づかず、育ってこなかったのは、ワタクシとしては寂しいかぎりです。

 今週の文献の、〈糸+圭〉(←じっさいは漢字一字)秀実さんも、注目しているのはやはり芥川賞オンリーです。24年前の文章です。

「文学賞の性格はその時代で変化するものだが、芥川賞が今の時代にそぐわなくなってきているという感想を、最近あちこちで耳にする。筆者自身、当日までその日が芥川賞の発表の日だと知らず、その日たまたま会った関係者に聞いて、「あっ、そうなの」と知った次第である。自分の怠惰な感性を普遍化するつもりもないが、やっぱり「時代は変わった」と思わざるをえない。」(『アサヒグラフ』平成2年/1990年2月9日号「芥川賞」より)

 ご安心ください、〈糸+圭〉さん。たぶん、〈糸+圭〉さんの怠惰な感性のせいじゃありません。直木賞・芥川賞なんて、ひとりの人間が長い年月、関心を持ち続けられるような、そんなシロモノじゃなくて、子供だましの目くらまし、というか、何度か気にしているうちすぐ飽きてしまうのが、普通の感性だと思います。

 むろん、「時代が変わった」せいでもないと思います。一般人は当然のこと、文芸に携わる人たちだって、「昔はみな、直木賞・芥川賞の発表日は、きちんと毎回、気にかけていた」なんて聞いたことがありません。こんなものを、欠かさず毎回(←ココ重要)、注視しているのは、文春に勤務している人か、直接商売・仕事に関係する人、それと狂人ぐらいなもので、それはいつの時代も変わらないでしょう。

 それで、〈糸+圭〉さんの記事です。決まったばかりの第102回(平成1年/1989年・下半期)芥川賞の、瀧澤美恵子「ネコババのいる町で」、大岡玲「表層生活」について、思うところを述べていまして、直木賞の話題など出る幕があるとは思えません。

「われわれが芥川賞に期待していたのは、強度な抵抗感のある新人だったのではないだろうか。」(同)

 と指摘し、えっ、そんな「われわれ」とかくくれるほど、芥川賞への期待って、世間全般(あるいは文壇関係者全般)に共有されていたの? と驚かせてくれるんですが、まあ、どんな立場の人がどれほど突飛な攻撃をしても許される芥川賞のおハナシだしね、直木賞のほうには関係ないよね、と余裕をぶっこいていました。

 しかし、出てくるのです、直木賞の話題が。〈糸+圭〉さんの口から。こういうふうに。

「別段、今回の受賞二作品に難クセをつけるのではない。両方とも達者なものだとは思う。(引用者中略)しかし、それだけなのだ。これら二作が直木賞だと言われても、誰もが不思議に思わないだろう。実際、瀧澤氏の作品を前回の直木賞受賞作であるねじめ正一氏の「高円寺純情商店街」と比べて、両者を芥川賞と直木賞にふりわける根拠はほとんど見当たらない。大岡氏についても、つまり「文学」というのは大衆社会やテクノロジーに対する抒情的なニヒリズムのことではないだろう、という疑問がわく。」(同)

 ほんとに、やめてほしいですよね。芥川賞の受賞作が(自分が勝手に空想する)「芥川賞」なるものにふさわしくない、と言いたいときに、軽がるしく直木賞を持ってくるの。

 そりゃあ直木賞は、「ネコババのいる町で」だろうが「表層生活」だろうが、大歓迎でしょうよ(でも、第102回の直木賞の候補に入ってきて、そうたやすく受賞にたどりつけるほど、甘くはないです。他の候補のメンツを見ても)。直木賞はフトコロの深い賞ですから。

 でも、芥川賞の側が、「高円寺純情商店街」を採ることはまずないでしょ。それは、だって「強度な抵抗感のある新人」を、無条件で選ぼうという賞じゃないんですから。歴史的に、ずーっと、そういう賞じゃなかったんですから。『小説新潮』連載作ってだけで即アウト(いや、単行本なので即アウト)、みたいな、ボケっぷり全開のこだわりを、何か大切なもののように抱えつづけてきた文学賞と、直木賞をいっしょにしてほしくありませんわ。

 何といいますか。「純文学」とは言えない(どちらかというと、大衆文芸の作品だ)みたいな感想を持つのはいいです。だから芥川賞にはふさわしくない、って言うのも許せます。でも、そこで、そもそも「芥川賞が見ている純文学」と、同じ尺度・同じ目線で大衆文芸を見てきたわけじゃない直木賞を、あたかも芥川賞と並べることのできる比較対象、みたいに持ってこないでほしいです。

 ……持ってこないでほしい、といくら頼んだって、持ってくる人は後を絶たないんでしょうけけども。日本人のDNAのなかに埋め込まれた、芥川賞批判を連綿と繰り返しつづける文化伝承力は、ほんと、強固ですからね。ほとほと参ります。参りますし、直木賞(批判)ファンとしては、うらやましくもあります。

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2014年8月24日 (日)

「純文学の中堅作家に授賞するのは、直木賞としては筋ちがいだ。」…『随筆 筆一本』昭和31年/1956年1月・鱒書房刊所収「文学賞を斬る」十返肇

■今週の文献

『随筆 筆一本』昭和31年/1956年1月・鱒書房刊

「文学賞を斬る」

十返肇

 あれこれの文学賞を斬ってみせたのは、何も大森望さんや豊崎由美さんが初めてではない、なんてことは、言うまでもありませんが、その先達として名前を挙げなければいけないとしたら、ひとりは断然、十返肇さんでしょう。

 昭和31年/1956年に出した『随筆 筆一本』で「文学賞を斬る」のタイトルのもとに、芥川賞、直木賞、女流文学者賞、新潮賞、野間文学賞、読売文学賞(表記と順序は掲載ママ)について、選考や文壇事情のウラばなしっぽいことをまじえながら論評し、当時の文学賞好きたちの喝采を浴びました(たぶん)。初出は昭和29年/1954年3月『東京タイムス』他、だそうです。

 たとえば、全然うちのブログのテーマとは外れるんですが、なにぶんゴシップ大好き人間なもので、こういうエピソードを散りばめられると、ワタクシはつい引用したくなってしまうのです。文芸評論家の名をかたる単なるゴシップライター、と揶揄されただけのことはある、さすがの十返さんです。

「読売文学賞には正宗(引用者注:正宗白鳥)、宇野(引用者注:宇野浩二)、広津和郎、佐藤春夫、小林秀雄など表向きの選考委員のほかに、下調べ役ともいうべき選者があって丹羽文雄や舟橋聖一など加わっていたのであるが昨年度の同賞に阿川弘之の『春の城』が受賞されたのは、下調べ役を無視するものであった。

 なぜなら『春の城』は最初の選考では候補にものぼっていなかったものであるから、彼等としては面白くなかったのは当然である、そこで次回からは丹羽、舟橋も改めて選考委員に加えることになった。『春の城』が受賞したときは、候補の第一としては、丹羽文雄の『厭がらせの年齢』から『遮断機』にいたる作品群があげられていたが、これは小林秀雄が『遮断機』を否定したので失格したともいわれ、また広津和郎も同作品を認めなかったとも伝えられている。」(『随筆 筆一本』所収「文学賞を斬る」より)

 ちなみに読売文学賞というのは、いまと違って昔は(十返さんが指摘している回当時は)、選考経緯のなかで他の候補作も公表されていたんですが、いまと同じく、選考委員ひとりひとりの選評は発表されていません。そのため、選考過程に関して、かように外部からの臆測などが飛び交い、おかげで多少の活気をもたらしていた面がありました。

 ここで、無責任な流言を封じるために、「じゃあ全委員の選評を公開しよう」という開放路線へ歩む道もあったとは思うんですが、そういう意見が通りづらいのが、組織ってもんかもしれません。残念ながら逆に、「他の候補作を非公開にしてしまおう」と、消極的で後ろ向きな方向に後退していった結果、現在のような、関係者以外ほとんど盛り上がりも面白みもない賞へとなり果てたわけですね。

 直木賞の話題にいく前にもうひとつ、十返さんの芥川賞斬りにも触れておきます。

 「芥川賞に対する批判」こそ、たいていその種類は最初の20年ぐらいで出尽くしてしまい、あとは同じような批判を違う人が言っているだけ、の繰り返しだったりします。たとえば、昭和29年の十返さんのこんな言葉など、まさにそうです。

「もともと一年に二回も、実力ある新作家を見つけ出そうというのが無理なところへ、おまけに文春側が「該当者ナシ」は困るというものだから、多少のみかは相当な異論があっても受賞してしまう。芥川賞が近時小粒になったといわれるのは、候補線上にのぼる新人全体が小粒になったことと相まって、ここに原因があろう。」(同)

 「近時」と言っていますんで、そのころの受賞者を挙げてみます。第29回、安岡章太郎(「悪い仲間」「陰気な愉しみ」)。第28回、五味康祐(「喪神」)、松本清張(「或る「小倉日記」伝」)。第26回、堀田善衛(「広場の孤独」「漢奸」その他)。第25回、石川利光(「春の草」その他)、安部公房(「壁――S・カルマ氏の犯罪」)。

 ……当時、これらの受賞者を「小粒だ」と言い立てた人たちがいたわけですが、その後、彼らの活躍を見ざるをえなくなったときに、どういうふうに言い訳をして言いつくろったんでしょう。そっちを調べるのも面白いかもしれません。

 と誰か、いもしない熱心な芥川賞フリークに下駄をあずけたところで本題です。直木賞です。

 今回の十返さんの直木賞斬りは、第30回(昭和28年/1953年・下半期)の結果をもとに駄弁っていますので、中心テーマは「純文学作家に直木賞が与えられること」となっています。この回、田宮虎彦さんが最終選考に残り、しかしもはやジャーナリズムに受け入れられている、いまさら直木賞でもない、過去にもっといい作品がある、などの理由で落とされたからです。

 十返さんは首をひねっています。

「しかしそうすると、井伏鱒二、今日出海、小山いと子、立野信之、檀一雄などにも受賞作以上の作品があり、どうも筋が通らぬようだ。」(同)

 はい。そうです。筋など通っていません。通っているわけないじゃないですか。半年に一回だけ、文春の編集者が勝手に決めてきた候補のなかから諾否を決める傀儡委員たちに、筋が通っている、という前提で物事を考えるほうがおかしいでしょ。みなさん、自分の仕事で忙しいのです。前はどうだったか、その前はどうだったか、などときっちりと自分の直木賞観を検証しながらその筋を通すような面倒っちいこと、やるわけがありません。

 直木賞の授賞姿勢には筋などありません。十返さんがおっしゃるとおり。それで終わりです。

 ……終わりなんですが、直木賞を外から見て物を言いたがる人間は、それで満足しないのが世の習い。ワタクシもそうですから、わかります。いろいろと直木賞のことやその周辺の小説状況のことを考え(考えすぎて)、じっさいの直木賞がやろうとしていることとは焦点のズレた指摘をしてしまったりします。自分の想像する(期待する)直木賞像をこしらえ、そこから直木賞が外れている! などと問題視してしまう。十返さんといえども、その弊から逃れることはできませんでした。

「それにしても「大衆文学の有力な新人」発見の機関であるはずの直木賞が、井伏鱒二や今日出海などばかりに授賞されるのは、やはり筋違いというべきではないのか。委員の中には、彼らをなんの機会にでもよいから表彰したいというような、是が非でも直木賞でなければならぬというほどの切迫した感情からでなしに選んでいるものもあるのではないかと疑われる。

 多少前途が不安でも大衆文芸の新人に授賞し、それを育ててゆくという本筋に立ちもどらなければ意味のない話だ。」(同)

 いやいや、全然いいじゃないですか。大衆文芸の新人に授賞しなくったって。直木賞を「「大衆文学の有力な新人」発見の機関」だと、そう考えてしまうのが間違いのもとだと思いますよ。そもそも始まった当初から、直木賞の委員たちは、新人発掘機関としての役割を放棄ぎみでしたし、直木賞なんかが頑張らなくても、大衆文芸の新人たちは、本でカネを稼ぎたい雑誌や出版社がどんどん見つけてくれて、それで育ってゆくものでしたし。

 表彰したい作家がいるけど、なかなか機会がなかった、っていう状況のなか、おっと便利な賞があったぞ、と直木賞を贈る。そういう授賞があったって、何の問題もないと思いますよ。

 何か直木賞には筋がある、と(漠然とでも)考えて直木賞に期待したり、あるいは失望したりしても、ほぼ無益です。ええ、ワタクシもそうですから、よくわかります。

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2014年8月17日 (日)

「直木賞受賞者は芥川賞受賞者とちがって、ただ読者のために書いてきた。」…『朝日ジャーナル』昭和44年/1969年8月3日号「芥川賞・直木賞の虚実――選考委員の狂った目――」(斬)

■今週の文献

『朝日ジャーナル』昭和44年/1969年8月3日号

「文化ジャーナル 文学

芥川賞・直木賞の虚実
――選考委員の狂った目――」

(斬)

 第61回(昭和44年/1969年・上半期)の直木賞には、佐藤愛子さんが選ばれました。すでに何冊も著作があり、純文学方面から飛び出してジュニア向け小説、中間小説でせっせとお金を稼いでいる最中の、堂々たる「実績あり」作家の受賞でした。

 それで、今回の文献「芥川賞・直木賞の虚実」なんですけど、第61回の結果を総括して、両賞について、匿名の(たぶん文学史にくわしいと自負する)人が、テキトーに追いついたことを書く。っつう、よくある体裁の記事になっています。「よくある」が堂に入りすぎていて、直木賞受賞者、佐藤愛子さんや、受賞作『戦いすんで日が暮れて』のことには、ほとんど触れられていなくて、芥川賞側から見た両賞の姿ばかりが、得々と語られています。非常に気持ち悪い記事です。ええ、よくある類いのものです。

 こういうとき文芸コラムの書き手は、芥川賞偏重になる、っていうのが当時の潮流でしたから、およそ直木賞のことは無視されます。代わりに(?)、佐藤愛子さんが語る当時の様子を拝聴して、怒りの矛をおさめましょう。『オール讀物』平成23年/2011年11月号に載った、聞き手大村彦次郎さんによるインタビュー「佐藤愛子、九十歳を語る。」の一部が、文春のホームページで読めます

(引用者注:新橋第一ホテルでの)記者会見が終わったら、ありがとうございました、でさよなら。最近では候補になった人のところに各社の編集者がへばりついて、今や遅しと待っているわけでしょう。そんなお祭りさわぎなかったんですよ。誰も顔を出さないし、静かなもんです。「文學界」の私の担当者と二人で、新橋の駅に向かってヒョコヒョコ歩いて帰りました。ちょうどアポロが月へ向かって行ってる夜でね。お月さんがビルの上に出ていて、「ああ、今あすこへ向かってアポロが飛んでるのねえ」と言いながら、二人で新橋駅へ行ってさよならって別れました。」(「佐藤愛子、九十歳を語る。」より)

 ほお、当時は「待ち会」などなかったのか、時代は変わったな、……などと短絡的に思わないほうがいいのでしょうね。だって、すでに直木賞・芥川賞通じて3度、候補者としての夜を経験し、その喧騒ぶりに嫌気がさしていた、と他のエッセイでは書いていた佐藤さんですもん。賞の動向とかに右往左往するのは馬鹿らしいと、それで騒ぎから身を置いていた、つう感のほうが強いわけです。いまだって、編集者たちと待つのがいやで、「待ち会」などしない候補者もいるわけですし。人によりけりです。

 さて、『朝日ジャーナル』の匿名ライター(斬)さんですが、冒頭に、

「第六一回芥川賞は、田久保英夫氏の『深い河』および庄司薫氏の『赤頭巾ちゃん気をつけて』の二編に、また、直木賞は佐藤愛子氏の『戦いすんで日が暮れて』に与えられることになった。」(『朝日ジャーナル』昭和44年/1969年8月3日号「芥川賞・直木賞の虚実――選考委員の狂った目――」より)

 と綴ってから以降、田久保作品、庄司作品、それから第1回の芥川賞が「蒼氓」に与えられて太宰治「逆行」と高見順「故旧忘れ得べき」の2つが落ちた、っつう手あかまみれのエピソードを持ってきて、芥川賞について(あるいは、これまでの芥川賞受賞者が、その後活躍できなかったことについて)書き連ねていきます。

 こういう文脈のなかで、強引に「芥川賞の比較対象」として駆り出されてしまう直木賞の、なんとまあ可哀想すぎる姿。直木賞も可哀想なんですが、芥川賞を透かしてしか直木賞を見ることができず、珍妙な直木賞観を展開せざるをえなかった(斬)さんまでもが、なんだか可哀想に見えてきます。

「これにたいして直木賞では、第一回の川口松太郎氏はいかにも直木賞にふさわしい。しかし直木賞はその半面、井伏鱒二、橘外男、檀一雄、久生十蘭、梅崎春生、野坂昭如氏らをも世に送り出しているのである。芥川賞作家の盲点が、文壇または文学青年のために書いたところにあるなら、直木賞作家はただ読者のために、あるいは文壇を無視して勝手なことを書くことができた。」(同)

 ね。スゴいでしょ。自説を強調したいがための、都合のいい取捨選択。ヒドいことになっていますね。

 たしかに、芥川賞の側から直木賞を語るときに、よくある手法ではあります。井伏・檀・梅崎の、いわゆる「直木賞をとった純文学作家御三家」の名をもちだし、自分には興味のない他に何十人もいる受賞者のことを勝手に無視して、直木賞とはうんぬん、と語ってしまう、という。こういう語り手たちの跋扈が、長年にわたって、直木賞の実像をゆがめてきました。おお、せつない。

 せつないついでに、このあとにつづく(斬)さんの、直木賞・芥川賞のそれぞれの受賞者比較論が、またまた、異様なんです。たわごとや曲解を通り越して、一種のおかしみさえ漂わせてしまっています。

「井伏鱒二、梅崎春生の両氏にはすでに全集があり、橘外男、久生十蘭の二人については、旧著の復刊や全集の企画が進んでいる。これは、「新人」という役割を終れば、あとはたちまち色あせてゆく近ごろの芥川賞作家に比べて、良質の直木賞作家が「読者」という絶対的な存在によって、たえず自己検証をしいられてきた結果と思われる。」(同)

 んなことないでしょ。当時の「近ごろの芥川賞作家」……大庭みな子さんも丸谷才一さんも丸山健二さんも高井有一さんも津村節子さんも田辺聖子さんも河野多恵子さんも宇能鴻一郎さんも三浦哲郎さんも北杜夫さんも、新人の役割を終えたあとたちまち色あせ……たりしなかったじゃないですか。おいおい、「最近の芥川賞」に難癖をつければメシが食える、っつうお決まりのパターンかよ、どういうことだ、責任者出てこい!

 ……そして、こうやって、「近ごろの芥川賞」をおとしめる道具として(のみ)都合よく言及される直木賞が、ほんと不憫でなりません。何が「「読者」という絶対的な存在」ですか。そうやってたくさんの読者を得たら得たで、あとになって「死後は急速に忘れられ、読む人もいなくなった」とか、言い立てるくせに。まったくもう。

 (斬)さんのハマったのと同じような陥穽から避けるためにも、最後に、「全集になった」受賞者の一覧を挙げておきます(「全集」の定義って、けっこう難しくて、とりあえず全集と銘打ったもの・それに近いものだけにしました。「全作品」とか「自薦全集」は除いてあります)。まあ、こんなものだけで、直木賞はどうだ・芥川賞はこうだ、と両者の特徴を語ろうとするのは、よほどの勇者もしくは愚者です。ワタクシは凡庸な人間ですので、ここから何の結論も導き出せません。

直木賞受賞者

●第1回(昭和10年/1935年・上半期)

川口松太郎

〔生前〕『川口松太郎全集』全16巻(昭和42年/1967年11月~昭和44年/1969年3月・講談社刊)

●第3回(昭和11年/1936年・上半期)

海音寺潮五郎

〔生前〕『海音寺潮五郎全集』全21巻(昭和44年/1969年10月~昭和46年/1971年6月・朝日新聞社刊)

●第4回(昭和11年/1936年・下半期)

木々高太郎

【没後】『木々高太郎全集』全6巻(昭和45年/1970年10月~昭和46年/1971年3月・朝日新聞社刊)

●第6回(昭和12年/1937年・下半期)

井伏鱒二

〔生前〕『井伏鱒二全集』全12巻(昭和39年/1964年9月~昭和40年/1965年8月・筑摩書房刊)

〔生前〕『井伏鱒二全集』全14巻(昭和49年/1974年3月~昭和50年/1975年7月・筑摩書房刊 増補版)

【没後】『井伏鱒二全集』全28巻・別巻2巻(平成8年/1996年11月~平成12年/2000年3月・筑摩書房刊)

●第24回(昭和25年/1950年・下半期)

檀一雄

【没後】『檀一雄全集』全8巻(昭和52年/1977年6月~昭和53年/1978年1月・新潮社刊)

【没後】『檀一雄全集』全8巻・別巻(平成3年/1991年9月~平成4年/1992年10月・沖積舎刊)

●第26回(昭和26年/1951年・下半期)

久生十蘭

【没後】『久生十蘭全集』全7巻(昭和44年/1969年11月~昭和45年/1970年6月・三一書房刊)

【没後】『定本久生十蘭全集』全11巻・別巻(平成20年/2008年10月~平成25年/2013年2月・国書刊行会刊)

●第32回(昭和29年/1954年・下半期)

梅崎春生

【没後】『梅崎春生全集』全7巻(昭和41年/1966年10月~昭和42年/1967年11月・新潮社刊)

【没後】『梅崎春生全集』全7巻・別巻(昭和59年/1984年5月~昭和63年/1988年11月・沖積舎刊)

●第34回(昭和30年/1955年・下半期)

新田次郎

〔生前〕『新田次郎全集』全22巻(昭和49年/1974年6月~昭和51年/1976年3月・新潮社刊)

【没後】『完結版新田次郎全集』全11巻(昭和57年/1982年6月~昭和58年/1983年4月・新潮社刊)

●第39回(昭和33年/1958年・上半期)

山崎豊子

〔生前〕『山崎豊子全集』全23巻(平成11年/1999年12月~平成17年/2005年11月・新潮社刊)

●第40回(昭和33年/1958年・下半期)

城山三郎

〔生前〕『城山三郎全集』全14巻(昭和55年/1980年1月~昭和56年/1981年3月・新潮社刊)

●第42回(昭和34年/1959年・下半期)

司馬遼太郎

〔生前〕~【没後】『司馬遼太郎全集』全68巻(昭和56年/1981年12月~平成12年/2000年3月・文藝春秋刊)

●第43回(昭和35年/1960年・上半期)

池波正太郎

【没後】『完本池波正太郎大成』全30巻・別巻(平成10年/1998年7月~平成13年/2001年3月・講談社刊)

●第44回(昭和35年/1960年・下半期)

黒岩重吾

〔生前〕『黒岩重吾全集』全30巻(昭和57年/1982年11月~昭和60年/1985年3月・中央公論社刊)

●第45回(昭和36年/1961年・上半期)

水上勉

〔生前〕『水上勉全集』全26巻(昭和51年/1976年6月~昭和53年/1978年11月・中央公論社刊)

〔生前〕『新編水上勉全集』全16巻(平成7年/1995年10月~平成9年/1997年1月・中央公論社刊)

●第48回(昭和37年/1962年・下半期)

杉本苑子

〔生前〕『杉本苑子全集』全22巻(平成9年/1997年2月~平成10年/1998年10月・中央公論社刊)

●第50回(昭和38年/1963年・下半期)

和田芳恵

【没後】『和田芳恵全集』全5巻(昭和53年/1978年10月~昭和54年/1979年5月・河出書房新社刊)

●第54回(昭和40年/1965年・下半期)

立原正秋

【没後】『立原正秋全集』全24巻(昭和57年/1982年8月~昭和59年/1984年8月・角川書店刊)

【没後】『立原正秋全集』全24巻・別巻(平成9年/1997年4月~平成10年/1998年5月・角川書店刊 新訂版)

●第60回(昭和43年/1968年・下半期)

陳舜臣

〔生前〕『陳舜臣全集』全27巻(昭和61年/1986年5月~昭和63年/1988年9月・講談社刊)

●第63回(昭和45年/1970年・上半期)

渡辺淳一

〔生前〕『渡辺淳一全集』全24巻(平成7年/1995年10月~平成9年/1997年7月・角川書店刊)

●第69回(昭和48年/1973年・上半期)

藤沢周平

〔生前〕~【没後】『藤沢周平全集』全26巻・別巻(平成4年/1992年6月~平成24年/2012年1月・文藝春秋刊)

●第79回(昭和53年/1978年・上半期)

色川武大

【没後】『色川武大阿佐田哲也全集』全16巻(平成3年/1991年11月~平成5年/1993年2月・福武書店刊)

●第80回(昭和53年/1978年・下半期)

宮尾登美子

〔生前〕『宮尾登美子全集』全15巻(平成4年/1992年11月~平成6年/1994年1月・朝日新聞社刊)

●第83回(昭和55年/1980年・上半期)

向田邦子

【没後】『向田邦子全集』全3巻(昭和62年/1987年6月~8月・文藝春秋刊)

【没後】『向田邦子全集』全11巻・別巻2巻(平成21年/2009年4月~平成22年/2010年4月・文藝春秋刊 新版)

●第105回(平成3年/1991年・上半期)

宮城谷昌光

〔生前〕『宮城谷昌光全集』全21巻(平成14年/2002年11月~平成16年/2004年7月・文藝春秋刊)

●第119回(平成10年/1998年・上半期)

車谷長吉

〔生前〕『車谷長吉全集』全3巻(平成22年/2010年6月~8月・新書館刊)

芥川賞受賞者

●第3回(昭和11年/1936年・上半期)

石川淳

〔生前〕『石川淳全集』全10巻(昭和36年/1961年2月~昭和37年/1962年12月・筑摩書房刊)

〔生前〕『石川淳全集』全13巻・別巻(昭和43年/1968年4月~昭和44年/1969年4月・筑摩書房刊)

〔生前〕『石川淳全集』全14巻(昭和49年/1974年1月~昭和50年/1975年3月・筑摩書房刊 増補版)

【没後】『石川淳全集』全19巻(平成1年/1989年5月~平成4年/1992年12月・筑摩書房刊)

●第5回(昭和12年/1937年・上半期)

尾崎一雄

〔生前〕~【没後】『尾崎一雄全集』全15巻(昭和57年/1982年2月~昭和61年/1986年1月・筑摩書房刊)

●第7回(昭和13年/1938年・上半期)

中山義秀

【没後】『中山義秀全集』全9巻(昭和46年/1971年7月~昭和47年/1972年9月・新潮社刊)

●第8回(昭和13年/1938年・下半期)

中里恒子

〔生前〕『中里恒子全集』全18巻(昭和54年/1979年10月~昭和56年/1981年3月・中央公論社刊)

●第19回(昭和19年/1944年・上半期)

八木義徳

〔生前〕『八木義徳全集』全8巻(平成2年/1990年2月~10月・福武書店刊)

●第22回(昭和24年/1949年・下半期)

井上靖

【没後】『井上靖全集』全28巻・別巻(平成7年/1995年4月~平成12年/2000年4月・新潮社刊)

●第25回(昭和26年/1951年・上半期)

安部公房

【没後】『安部公房全集』全30巻(平成9年/1997年7月~平成21年/2009年3月・新潮社刊)

●第26回(昭和26年/1951年・下半期)

堀田善衛

〔生前〕『堀田善衛全集』全16巻(昭和49年/1974年6月~昭和50年/1975年9月・筑摩書房刊)

〔生前〕『堀田善衛全集』全16巻(平成5年/1993年5月~平成6年/1994年8月・筑摩書房刊)

●第28回(昭和27年/1952年・下半期)

松本清張

〔生前〕~【没後】『松本清張全集』全3期・66巻(昭和53年/1978年4月~平成8年/1996年3月・文藝春秋刊)

●第29回(昭和28年/1953年・上半期)

安岡章太郎

〔生前〕『安岡章太郎全集』全7巻(昭和46年/1971年1月~7月・講談社刊)

●第31回(昭和29年/1954年・上半期)

吉行淳之介

〔生前〕『吉行淳之介全集』全8巻(昭和46年/1971年7月~昭和47年/1972年2月・講談社刊)

〔生前〕『吉行淳之介全集』全17巻・別巻3巻(昭和58年/1983年4月~昭和60年/1985年1月・講談社刊)

【没後】『吉行淳之介全集』全15巻(平成9年/1997年7月~平成10年/1998年12月・新潮社刊)

●第32回(昭和29年/1954年・下半期)

小島信夫

〔生前〕『小島信夫全集』全6巻(昭和46年/1971年1月~7月・講談社刊)

●第32回(昭和29年/1954年・下半期)

庄野潤三

〔生前〕『庄野潤三全集』全10巻(昭和48年/1973年6月~昭和49年/1974年4月・講談社刊)

●第33回(昭和30年/1955年・上半期)

遠藤周作

〔生前〕『遠藤周作文学全集』全11巻(昭和50年/1975年2月~12月・新潮社刊)

【没後】『遠藤周作文学全集』全15巻(平成11年/1999年4月~平成12年/2000年7月・新潮社刊)

●第38回(昭和32年/1957年・下半期)

開高健

【没後】『開高健全集』全22巻(平成3年/1991年11月~平成5年/1993年9月・新潮社刊)

●第43回(昭和35年/1960年・上半期)

北杜夫

〔生前〕『北杜夫全集』全15巻(昭和51年/1976年9月~昭和52年/1977年11月・新潮社刊)

●第49回(昭和38年/1963年・上半期)

河野多恵子

〔生前〕『河野多恵子全集』全10巻(平成6年/1994年11月~平成7年/1995年9月・新潮社刊)

●第50回(昭和38年/1963年・下半期)

田辺聖子

〔生前〕『田辺聖子全集』全24巻・別巻(平成16年/2004年5月~平成18年/2006年8月・集英社刊)

●第57回(昭和42年/1967年・上半期)

大城立裕

〔生前〕『大城立裕全集』全13巻(平成14年/2002年6月・勉誠出版刊)

●第59回(昭和43年/1968年・上半期)

大庭みな子

〔生前〕『大庭みな子全集』全10巻(平成2年/1990年11月~平成3年/1991年9月・講談社刊)

【没後】『大庭みな子全集』全25巻(平成21年/2009年5月~平成23年/2011年4月・日本経済新聞出版社刊)

●第59回(昭和43年/1968年・上半期)

丸谷才一

【没後】『丸谷才一全集』全12巻(平成25年/2013年10月~平成26年/2014年9月・文藝春秋刊)

●第70回(昭和48年/1973年・下半期)

森敦

【没後】『森敦全集』全8巻・別巻(平成5年/1993年1月~平成7年/1995年12月・筑摩書房刊)

●第73回(昭和50年/1975年・上半期)

林京子

〔生前〕『林京子全集』全8巻(平成17年/2005年6月・日本図書センター刊)

●第74回(昭和50年/1975年・下半期)

中上健次

【没後】『中上健次全集』全15巻(平成7年/1995年5月~平成8年/1996年8月・集英社刊)

●第78回(昭和52年/1977年・下半期)

宮本輝

〔生前〕『宮本輝全集』全14巻(平成4年/1992年4月~平成5年/1993年5月・新潮社刊)

●第100回(昭和63年/1988年・下半期)

李良枝

【没後】『李良枝全集』全1巻(平成5年/1993年5月・講談社刊)

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2014年8月10日 (日)

「いっそ〈文春賞〉にしたほうがいい。」…『噂』昭和47年/1972年3月号「大陥没期を迎えた直木賞」匿名編集者たち

■今週の文献

『噂』昭和47年/1972年3月号

「編集者匿名座談会
大陥没期を迎えた直木賞」

A・B・C・D・E

 梶山季之責任編集、月刊『噂』。いったい、こんな(文芸)業界ネタ満載の雑誌を、その界隈で生計を立てている人間以外、誰が好んで購読するのだ、といまから読んでもハラハラする、つまりは直木賞ファンにとってはたまらない好雑誌です。

 1970年代の直木賞周辺を見つめるうえで、まず外すことのできない企画を、定期的に掲載したことでも、よく知られています。中間小説誌の編集者たちが匿名で、直木賞の選考事情について語り合う「編集者匿名座談会」です。

 だいたい、戦後以降の直木賞は、作家たち以上に、編集者たちのハートをつかんだことが、成功の鍵でした。自分の目をつけた若手作家が、陽の目を浴びることができるかどうか、の興奮をもたらし、えらい先生方のゴシップ、悪口、噂バナシで盛り上がり、その賞の動向が自分の仕事にも直結するので、作家たちをはるかに超えた情熱をもって、賞一回ごとの当落を真剣に考える。……ええ、ほとんど直木賞は、この人たちのために存在し、いまも営々と続けられている、と言っても過言じゃありません。

 寿命わずか2年半の『噂』誌史上に燦然と輝く名物企画(……と、勝手にワタクシが思っているだけの)、匿名編集者たちによる直木賞に関するだべりと検証座談会は、以下5回行われました。

  • 昭和46年/1971年9月号「直木賞、受賞作なしの内幕」(第65回 昭和46年/1971年上半期について)
  • 昭和47年/1972年3月号「大陥没期を迎えた直木賞」(第66回 昭和46年/1971年下半期について)
  • 昭和47年/1972年9月号「三度目の正直で生まれた受賞作」(第67回 昭和47年/1972年上半期について)
  • 昭和48年/1973年3月号「いまや直木賞は遠くにありて」(第68回 昭和47年/1972年下半期について)
  • 昭和48年/1973年9月号「直木賞は運・不運で決まる?」(第69回 昭和48年/1973年上半期について)

 このうち、2回目にあたる昭和47年/1972年3月号分に、今回注目します。第66回(昭和46年/1971年・下半期)の直木賞、前期につづいて該当者なし、の回でした。2期連続で受賞者が出ない、っていう事態は、いまでもそうでしょうけど、直木賞を取り上げたい人たちにとっては恰好のごちそうです。『噂』誌上の匿名編集者たちも、当然、ヨダレをたらし、鼻息荒く、頭から湯気ふきながら、せっせと直木賞論議に明け暮れるのでした。いいぞ、やれやれ。

 まずは座談会の冒頭で、結果をおさらいしています。記者会見に出てきた選考委員は、広瀬正ラブでおなじみの、司馬遼太郎さんだったそうです。会見でも「個人的には(広瀬正『エロス』のような)ああいう作品に与えたい」と言いつつ、一回目の投票では田中小実昌『自動巻時計の一日』に、司馬さん以外の9委員全員(!)の票が集まったものの、最終決選では、田中4票、木野工「襤褸」4票、岡本好古「空母プロメテウス」2票、と割れて、該当者なしに決着したのだとか何とか。

 二回連続なしということになった最大の問題点を考えてみると、やはり、候補作が全般的に地味というか小粒なところは、たしかだと思いますね。しかし、それだけなのかどうか。中間小説全体が低調だとはいえませんか?」

 それ以前に、選考委員のところに何篇か残る以前のプロセスの問題があるんじゃないですかね。つまり、候補作に選ばれていない作品のなかで、めぼしいものはあるわけですよ。」

 毎号どの雑誌にも登場している人気作家で、直木賞をとっていない人はたくさんいますね。梶山季之、戸川昌子、佐野洋、川上宗薫、笹沢左保、藤本義一、山田風太郎。これだけ並べたら、雑誌は売れますよ。直木賞作家がいなくてもね(笑い)。」(『噂』昭和47年/1972年3月号「大陥没期を迎えた直木賞」より)

 中間小説誌のパワーが減退している、いや、そもそも文藝春秋のやり方がマズいんじゃないか、っていう指摘です。

 当たり前のことですが、候補作が全般的に地味・小粒、というのは候補作品そのもののせいじゃなくて、責任の100%は、そういうのばっかり並べる文藝春秋にあるわけですからね。(でもしかし、広瀬正の『エロス』を含めて地味だ小粒だと言ってしまうこの感覚が、おそろしい)

 ということで、21世紀になってもなお言われ続けている、伝統の直木賞批判、やっぱり40年前のこの頃にも、ご登場です。それではDさん、お願いします。

 あれだけの権威をもった賞なんだから、もう少し選考の方法は考えるべきですね。それができないのなら、いっそ、他の賞と並列した形で、文春賞かなんかにすればいい。そのほうが、すっきりするような気もする。だいたい編集者にしても、作家にしても、直木賞なんかに一喜一憂することないじゃないかという人もいるわけですよ。」(同)

 出ました。いかにも賢そうなことを言っているようで、ボケっぷり炸裂の直木賞批判。

 Dさんは、あたかもヒトゴトのように「文春賞かなにかにすればいい」とかご意見されているんですけど、直木賞は何十年もまえから実態として、単なる文春賞ですよ。繰り返します。単なる文春賞ですよ。それを、何か権威があるかのように別枠だととらえて、わざわざ一喜一憂の座談会に出席しちゃう人がいるから、いつまで経っても変わらないのです。

 そして、何十年たっても、いまだに、直木賞なんて文春一社の賞にすぎないんだから大騒ぎするな、と同じようなことを言う人が後を絶たない状況を目の当たりにして、ああ、直木賞をとりまくおもしろさ、安泰だな、とワタクシは胸をなでおろしているところです。

 さて、ここにご出席の編集者のみなさんですが、そうとう、中間小説(誌)の将来を憂いています。直木賞2期連続なしで、暗ーいムードになってしまう、という直木賞中毒に見舞われたカワユい方々です。

 いまは中間小説が好調だなんだと浮かれているが、若い書き手も、若い読者も取り込めておらず、今後生き残っていけるか、このままじゃ、年くった読者だけが残り、先細りしていくだけじゃないか、と心配されています。おお、まさに将来を見抜いた慧眼だ、と思わされるんですが、けっきょくその凋落をとどめることができず中間小説誌を減退させた編集者とは、他の誰でもない、当時その中間小説誌をつくっていた彼ら自身のことだった、とも言えるわけで、いま読むと非常にものがなしい座談会となっています。

 いちばん困るのは、若い読者の参加がないまま、読者がどんどん年とっていって、作家もいっしょに年とっていく。中間小説というせっかくの新しい意味を持ったジャンルが、昔の倶楽部雑誌みたいになってしまうのが、いちばん困るわけでしょう。」(同)

 「中間小説」のラベルが古くさくなっていき、各誌ともこぞって、その看板を出さないように苦慮しながらやり続けましたが、読者数は減るいっぽうで、いよいよ部数では、純文芸誌のラインまであと少し、っつうところまで落ちてきました。ものがなしいです。直木賞のことを、あれこれ話し合っている場合じゃありません。

 これからの時代というのは、多様化してくるし、直木賞とったから、当たるかどうか判定はむずかしくなってくると思いますよ。そのへんの迷いというのは、選考委員にもあると思う。

 だから、そこを思い切って出していかないと、直木賞の存在意義が薄れてくるような気がする。」(同)

 ええと、何と声をかけたらいいのでしょうか。直木賞なる幻影に、「当たるかどうかの判定基準」やら「存在意義」やらが存在する、と錯覚させられた小説誌編集者たちの、ものがなしさ、と言いましょうか。

 そんなものを直木賞に求めて、どうするんですか。基本、直木賞は、運営しているほうも選考に当たる人たちも、いったい何のためにやっているのか、はっきりしたことの言えない賞ですし、要するにテキトーな立ち位置にあるまま、存続してきました。万が一、各社の(むかし中間小説誌と名乗ってブイブイいわせていた)読み物誌がこれから軒並み廃刊したとしても、直木賞は続けられていくでしょう。

 中間小説誌の編集者たちは、直木賞を心から愛してくれました。でも直木賞は彼らに、さして光のある未来を授けられませんでした。それでも直木賞は、いまだに涼しい顔をしています。まったく、ニクいヤツです。

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2014年8月 3日 (日)

「大衆文芸の賞なんだから、売れている本にあげるのが道理。」…『週刊ポスト』昭和60年/1985年9月6日号「ビートたけしの続毒針巷談52」ビートたけし

■今週の文献

『週刊ポスト』昭和60年/1985年9月6日号

「ビートたけしの続毒針巷談52
『オイラが直木賞をとったら、文壇の権威も崩れるだろうな』」

ビートたけし

 ことさら説明する必要もないほどの天下の人気者、ビートたけしさんが、「小説に初挑戦」と銘打たれた『あのひと』を刊行したのは、昭和60年/1985年9月のことでした。

 版元は飛鳥新社、っていうこともあって、直木賞が手を出す範疇ではありません。なにせ直木賞本体は文壇内のせせこましい行事にすぎませんから、何の波風も立たなかったんですが、直木賞は、文壇に巣食う人たちだけ(がハシャぐため)のものではない、ってことは、ネットの住人たるみなさんならご存じのとおりです。

 『あのひと』は、たけしさんと交流のあった中上健次さんが褒め、あるいは、「この作品集は直木賞候補に値する」、などと言う人もいたらしいです。その表現がすでに、小説を褒めるときにはつい直木賞を引き合いに出してしまう、っつう直木賞病に特有の症例ですので、キモくて仕方ないわけですが、そういうことがあったおかげで、直木賞単独では絶対に生み出すことのできない、「直木賞の話題を世間一般に広くばらまく」役割を、ビートたけしさんという、マスに対する発言機会が膨大にある人物が担うことになってくれました。昭和60年/1985年ごろから、30年近くたった現在でもなお、たけしさんは、チラチラと直木賞のことをネタにしてくれています。ありがたいことです。

 たけしさんの言う直木賞像は、基本、直木賞に過大な期待を持ちすぎる一般人のそれと、さして変わりません。いや、直木賞をイコール権威と定め、だから攻撃もするし、バカにもする、という類いの、権威に対する反抗、といった路線を堅守していてブレていません。なので、直木賞が持っている他の局面はたいてい省略され、とにかく直木賞は「文学はエラいんだぞとふんぞり返る連中」の姿とひもづけて語られたりします。

 こんな感じです。

「大衆文芸なんてのは考えてみりゃ、講談や人情噺がその出発点なんだからさ、古典落語を書いたりつくったりしたやつはみんな直木賞ぐらいもらえる価値があるんだよ。(引用者中略)それが、なんでか知らないけど“文学”って名前がついただけで、途端に権威がついちゃってね。急に先生ヅラして、エラそうになるんだよな。「作家先生は、文学をやっているタイヘンな先生なんだ。おまえらお笑いなんかといっしょにするな」とかなんとかいって、ふんぞり返ってさ。」(『週刊ポスト』昭和60年/1985年9月6日号「ビートたけしの続毒針巷談52」より)

 これと似たような毒づきは、後年にも表われます。『新潮45』の連載をまとめた『だから私は嫌われる』が刊行されたのは平成3年/1991年6月ですが、そこでも、「エラそうにしている直木賞受賞者」が攻撃されているんです。

「直木賞を取ったぐらいで、すぐに大きな顔して批評家気取りのやつもいるしね。たかが一冊の小説が脚光あびた程度であらゆる文化に一言いったりする。絶対にわからないだろうと思うところまで口をだしているから笑われるんだよ。」(新潮社刊『だから私は嫌われる』「たけしのカルチャーセンター」より)

 直木賞受賞者がいきなり大きな顔をする……という見方は、「直木賞受賞者」って肩書きのついた人が、突如ものを言い始める姿を見た受け手が、「あのひと、大きな顔をしている」と感じる、その心根の問題のほうが大きいと思います。要するに、たけしさんのハナシは、たいてい、「直木賞」そのものではなく、それを取り巻き、崇めようとする周辺の人たちに、違和感を表明しているわけですね。

 だって直木賞は、直木賞それだけでは、しがない文壇行事にすぎません。たけしさんの言うように、文学ズレした大して面白くもない、売れもしない作品を俎上に乗せて、ちょびっと光を当てる、ほんと、それだけの力しかないんですから。それを膨れ上がらせているのは、ほぼすべて、直木賞を見ているまわりの人間たちのしわざです。

 そう考えると、たとえば、たけしさんのこんな指摘も、直木賞に対する注文ではなくて、直木賞のなかにある「権威性」と商売的な利用価値とをゴッチャにしてものを考えている、まわりの人たちへの揶揄、だと取ってもいいかもしれません。

「あの直木賞ってやつにしてもさ、どうも選考の基準や仕方がおかしいんじゃねェかっての。だって、純文学ってのなら、一応は芸術というものを目指してるんだから、本が売れる売れないということは関係ねェんだろうけど、こと直木賞の大衆文学ってのは、多くの大衆に本を読んでもらうための賞なんだろ。だったら、どう考えても、読者に支持されて売れてる本に賞をやるのが道理なんじゃねェか。」(同)

 違います。……と、わざわざここで反論するのは、完全にたけしさんの術中にハマっているんでしょうが、やはり直木賞に対する勘違いを広めるのは気分がよくないので、あえて言います。「直木賞の大衆文学」は、多くの大衆に本を読んでもらうための賞、じゃありませんよ。

 売れる小説とか、大衆の心をつかむ小説など、直木賞ができる前にも、直木賞がずーっと続いてきたあいだにも、ゴマンとありました。だけど、「直木賞の大衆文学」が要求してきたのは、純文学にほど近い文学性というか芸術性です。「すでに売れている」という人気度合いは二の次です。もちろん、単に作家として活躍してきたという実績のみを重視した授賞も、たびたびありましたが、それは直木賞の至らなさゆえです。「多くの大衆に本を読んでもらう」ことを、賞の目的の第一義に掲げた時代など、なかったはずです。

 もし、直木賞とは売れる本にあげる賞(のはず)だ、そうでなければならない、と考えるのだとしたら、それは直木賞の問題ではありません。直木賞は、芥川賞への高い注目度のおかげで後天的に「世間へのインパクト」を持ってしまいましたが、別に世間一般の「大衆文学」観どおりに授賞しなきゃならない道理などありません。

 昔のことを言うなよ、直木賞はもはや社会的な影響力があるのだから、それに応じて変わるべきだ、……とか思いますか?

 でもね。こと受賞作や受賞者(の系譜)を見てごらんなさいよ。これが、売るために書かれた日本の小説界の本流を築いてきた、と言えますか。全然そんなことないじゃないですか。たしかに、ニュースネタとしての単発的なマスコミへの影響力は(文学賞のなかでは)あるかもしれませんし、「直木賞」と付けば、パッと見、ひとの目を引くぐらいの力はあるんでしょうけど、直木賞以上に社会的な影響力のある事柄など、いくらでもあるでしょ。直木賞なんて、ぜーんぜん、ですよ。あれで「社会的な影響」などといったら、社会的な影響が悲しみます。

 対して、たけしさんです。どう考えたって、直木賞ファン(小説ファン、と言い換えてもいい)よりも、ビートたけし=北野武ファンのほうが絶対的に多かったこの約30年。

 処女小説を出して少し「直木賞の可能性が」という声を聞いただけで、パパッとそれをネタにする。本気で直木賞を狙っている、と言って出した『漫才病棟』(平成5年/1993年5月・文藝春秋)が、賞の力など借りなくてもババーッと10万部超えの売上。今度は小説で直木賞をとって、それを原作に映画をとるんだ、と言っていたのが、つい先ごろの平成23年/2011年『Discover Japan』4月号。

 シャレでも本気でも、そんなことはどっちでもいいことです。こうしてチョクチョク、たけしさんにハナシのなかに出してもらって、直木賞のほうがお礼を言わなければなりません。だって、「権威性」なんて、しょせんまわりがつくり上げた幻想のハリボテにすぎないわけで、売れっ子がじっさいに発する言葉の訴求力には、かないませんもん。

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